第17話

 カエンが南門を飛び出した時には、残照が城壁を照らしていた。

 追剥、盗賊というと暗がりから飛び出してきそうな気がするが、彼らとて暗い中では何もできない。襲い、奪い、逃走するには、松明を掲げての襲撃は何かと不都合が多いはずだ。襲撃の後、荷や女を奪い逃げ去るなら、カエンも薄暮の頃を選ぶだろう。

 何故わざわざこんな時間に城壁から出ようとしたものか。単に先を急いでいたのだろうが、それにしても愚かな決断だ。まあ、理由が何であれ、盗賊とやらにとっては幸運なことに違いない。だが、そう思ったのも嗅ぎ慣れた血臭が鼻先に届くまでだった。

 前方に人や馬、荷馬車の塊が見える。薄暗くなった中では遠目に個々の動きの区別はつかず、カエンは全速力でカスケルを走らせた。

 うつ伏せに倒れた誰とも知れない死体を避け、カエンは一瞬煌めいた白刃目がけて突っ込んだ。舞い上がった塵芥が顔に当たり、口の中がざらついた。

 何の考えも、証拠も、直感すらない。耳の中で轟々と風の音がする。ただ動物的な本能に駆られるまま、いつの間にか握っていた剣を振るいながら駆け抜けた。

 無音だった世界が突然音を取り戻し、耳元で唸る風の音に混じって声が聞こえた。雄叫び、悲鳴、泣き声、馬のいななき、鍔迫り合いの甲高い音。

「ヴァレリー!」

 馬首を返して相棒を呼ぶ。返事はどこからもなかったが、気配で彼がいると分かった。戦いのさなかにヴァレリーが発する狂気じみた殺気がすぐそこに在る。

 騎馬の者は多くない。辺りを見回すと、ヴァレリーもまた、地面に立っていた。湾曲した剣を両手に持ち、屈強そうな男と切り結んでいる。カエンに気が付いたかどうかは分からない。歯を剥き、唸り声を上げるヴァレリーの腕に太い血管が浮く。刺青の下でうねるそれは、まるで小さく細い蛇のようだ。

 後ろから迫って来た騎馬の男を斬り捨て、カエンはヴァレリーに目を戻した。ヴァレリーの膂力が勝り、男の剣が弾け飛んだ。すかさず男の脚を斬りつけ、もう片方の剣で男の胸を刺す。両膝を突いた男の身体から素早く剣を抜き躊躇なく両刀を交差させたヴァレリーは、男の首を一瞬で刎ねた。

 飛び散った鮮血が、薄暗くなり始めたせいで黒く見える。男はこの一団の首領か、そうでなくても中心人物だったのかもしれない。その身体がゆっくりと後ろに倒れたのを合図にしたかのように、残っていた男たちがこぞって南東の森に向かい逃げ出し始めた。右往左往しているのは隊商の人間たちのようだ。

 鋭い口笛が鳴った。ヴァレリーがアレクサンドラを呼んでいるのだ。カーダンでは滅多に聞かない特殊な音の鳴らし方は、カエンがヴァレリーに教えたものに間違いない。アレクサンドラがカエンの後方から駆け足でやってくる。

 カエンはアレクサンドラの手綱に手を伸ばしたが、まるでそれが見えていたかのように、ヴァレリーがもう一度口笛を吹いた。空気を切り裂くような甲高い音に、アレクサンドラが速度を上げる。ほんの僅かの差でカエンの傍を擦り抜けたアレクサンドラが、ヴァレリーに突っ込む勢いで駆け寄った。

 長身なのに驚くような身軽さで、ヴァレリーはアレクサンドラに跨った。

 馬の扱いではカルグーン人の右に出るものはいないが、軽業や舞踊では、北方の人間が群を抜いて優れている。ヴァレリーの細身の身体が重さを感じさせずにしなり躍動する様には、よくできた舞を鑑賞している気分にさせられた。

 ヴァレリーが鐙に足をかけたかかけないか、アレクサンドラはまるで火の神に尻を蹴飛ばされたかのように駆け出した。

 残照に、ヴァレリーの髪の先が照らされる。馬を取り戻せなかった盗賊の一人が、通り過ぎざまヴァレリーの剣に薙ぎ払われてどうと倒れた。殆ど刎ねられ傾いた首が身体を追うように地面に落ち、吹き出した血飛沫が黒い霧のように散るのが見えた。

 カエンはカスケルの腹を蹴り、ヴァレリーの後を追った。


 森と平地の境目は見事なまでにはっきりしていた。

 普通、森というのは徐々に深くなるもので、突然始まったりはしない。しかし、ここはかつてある国と国の境であって、そのために森が断ち切られているのだという話だった。他にも所説あるにはあるが、カエンの聞く限り国境説がもっともそれらしい。

 だが、足を踏み入れた森のとば口には、いくつか耳にしたお伽話めいた説を信じたくもなるような臭いが立ち込めていた。

 死の臭い。正にそう呼んでいいだろう。血と排泄物と、恐怖の臭い。

 殆ど陽が沈み、森の中は暗い。それでも、足元にわだかまる影がついさっきまで動いていた人間なのだということは分かった。戦場慣れしているカスケルでさえ若干動揺した様子を見せたが、しかし怯えることはなく、カエンの指示に従って森の中へ歩を進めた。

 下生えを荒々しく踏みつぶした跡があちらこちらにあるが、馬の蹄によるものはひとつしかない。アレクサンドラの蹄の跡を追って森に分け入る。まるで目印のように次々と死体が現れ、ついに前方から絶叫が聞こえた。

 断末魔の獣の咆哮によく似たそれに、カスケルが一瞬立ち止まる。首筋を撫でて声をかけ、渋るカスケルを何とか宥めて進ませると、少し開けた草地に出た。

 アレクサンドラが興奮した様子でうろうろしている。その背に乗っているべき男は、それこそ舞台の真ん中で演じる芸人のように、草地の中央に立っていた。

 足元に転がっている男はまだ息があるらしく、今や啜り泣きになった悲鳴の主はその男だった。

 裂けた腹から臓物が溢れているから、長くは持たないだろう。ヴァレリーの顔は暗くて見えない。男の声が徐々にか細くなってついに消え、痙攣していた身体が動かなくなった。

ヴァレリーは微かに首を傾げ、男の顔を覗き込むように上体を屈めた。

 その姿を目にして、カエンのうなじの毛がわっと逆立つ。獲物の息が絶えたか確かめる獣のような、感情のない仕草。カエンのよく知る朗らかな相棒も、カエンの下でよがっていた艶めかしい男も、そこにはいないように見えた。

「──ヴァレリー」

 気付いていないはずはないと思っていたが、やはりヴァレリーは驚かなかった。

 馬から降り立ち、ヴァレリーの顎を掴んで無理矢理こちらを向けさせた。返り血を浴びた顔は陽の落ちた空の色を映してなのか、青白い。

「そういえば、砂漠には行ったことがなかったな」

「……」

 睨み上げてくるヴァレリーの表情は険しかった。青ざめた頬、ぎらつく灰色の瞳は戦闘中のヴァレリーそのものだ。ついさっき見た、表情の抜け落ちたそれとは違う。あれは錯覚だったのか、それともヴァレリーの一部なのか。分からないが、今は目の前の見慣れた顔に、心の底から安堵した。

「砂まみれになるぞ。綺麗好きのお前には向かん」

 ヴァレリーは顎を掴むカエンの手を乱暴に叩き落した。何も答えず無言でアレクサンドラに跨り、ヴァレリーはカエンに背を向けた。アレクサンドラの尻とゆらゆら揺れる優雅な尻尾を暫し眺め、カエンはカスケルに声をかけた。

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