第15話
お茶と椅子をすすめられたが断り、カエンは壁に背を預けてナットを見下ろした。
別に威嚇するつもりはない。単に、落ち着かないだけだ。もっともナットを威嚇しようとしたところで無駄な話だが。
ナットは遥か高いところにあるカエンの顔を一瞥し、何かの草花のお茶を一口啜って溜息を吐いた。
「あれは、いつだったかな」
ナットは空咳をし、手の中のカップを回した。薄い緑色の茶の水面に陽射しが反射し、きらきらと光る。ナットの青い瞳にも光は映り、川面が陽光にきらめくように細かく揺れた。
「あの坊主──ヴァレリーの肩に矢が刺さったことがあったろ」
「ああ、覚えている」
確か半年かそこら前のことだ。戦闘中に矢傷を受けることくらいは何も珍しいことではない。だが、その時は矢尻に何か塗ってあったために傷が腫れたらしく、ヴァレリーは暫く後方に下がっていた。
「傷のせいで二晩ほど熱を出してな。お前らは前線にいたから知らんだろうが」
確かに傷が腫れたというのは後で聞いたが、寝込んだというのは聞いていない。そう言うと、ナットは茶を啜りながら首を振った。
「寝込んだどころか、もう一晩あの状態だったら危なかった。元々白い顔がアレシア山の雪みたいに白くなって、本当に駄目かと思った」
ヴァレリーの話とは随分違う。腫れは一晩で引いたが、ナットが安静にしろとうるさかったので戻れなかったのだと聞いていた。けろりとした顔で言われて何を疑うこともなかったが、死にそうだったとは初耳だ。
「酷くうなされてな。それでも寝かせといてやればいいのか話しかけてやりゃいいのかも分からん。暫く放っておいたがあんまり苦しそうだから、頑張れ、死ぬなって言ったらな、あいつ何て言ったと思う」
「──死にたい、か」
ナットは無表情のまま瞬きし、長い溜息を吐いた後に頷いた。
「聞いたのか」
「……ああ」
「ってことは、何だ、その」
ナットは何か言いかけ、暫し視線を宙に彷徨わせた後突然大きくぶるりと身震いした。
「年寄りに変なものを想像させるな!」
「何も言っとらんぞ、俺は」
顔をしかめるカエンを一瞥し、ナットはわざとらしく咳払いした。
「まあ、いい。あー、出て行ったというならそうなんだろう。そうだ、お前さんより先に死にたい、とさ」
ナットはお茶の入ったカップをテーブルに置き、額から頭の天辺までを撫で上げた。ナットの指は節くれ立ち、荒れていた。ヴァレリーの長くほっそりとした指を思い出す。命を救うナットの手と命を奪うヴァレリーの手。見てくれからはその手が何を成すかは分からない。それは、人の本質や意志についても同じなのだろう。
「あんなことを言うなんてなあ」
ナットはカエンを見て呟いた。
「何も、男同士思いを寄せあうのがけしからんとかそういうことを言いたいわけじゃない」
「ああ」
「この年まで軍属として同行してるんだ、兵士が野営地で慰め合うのに出くわしたことくらい何度もあるわな。だが、それはあくまでも必要に迫られてのことに過ぎんだろう。もしそうではなくて好き合っていたとしたら尚更、死にたいなんて言いはせん。一体どう考えたらいいのか──よく分からなかったが、少なくともカエンも今日は生きているから、お前も何とか生き延びろと、苦し紛れにそう言ったら苦笑しやがった。死にそうなくせにな。それでもなんとか持ち直して、何事もなかったように出てったが」
「……そうか」
「死にたがりの傭兵など聞いたこともない。それ以来、気になってな。嫌がるのを無理矢理呼びつけて何度か話を聞いてみたが、結局本人もよく分からんのだろ。要領を得なかったが、まあ、坊主がお前さんを見る目が普通じゃないってことは分かった」
そう言われても、まったく心当たりがなかった。カエンにとってヴァレリーは概ねいい相棒、愉快で頼れる仲間だったから、ヴァレリーにしても同じだと思い込んでいた。
「俺は鈍いのかね」
「さあな。それは知らんが」
「否定してくれないのか」
ナットは鼻を鳴らしてまたお茶を啜った。
「でかい男を慰めるのは俺の趣味じゃないからな。坊主は、お前さんと最初に会った場所に行くと思うよ」
「最初に会った場所?」
「何度かそんなことを言っていた。お前と一緒に戦えなくなったら、一度そこに戻りたいってな。そこから再出発して、違う場所に向かいたいんだとさ。坊主にしては感傷的なことを言うと思ったからよく覚えてる」
「……そうか」
「どこだか、その、最初に会った場所とかいうところに行ったらどうだ」
急に脚から力が抜け、カエンは壁伝いに身体を滑らせ床に座り込んだ。頭を抱え、髪の束を握り締める。普段は短くしている黒髪は遠征の間に伸びてかなり長くなっていた。
ヴァレリーの柔らかな髪とは違う手触りに、何となく手を引っ込める。顔を上げて掌で手を擦り、カエンは思わず低く呻いた。
「まったく──」
「どうした」
おかしな顔でこちらを眺めるナットに目を向け、カエンは思わず笑ってしまった。ちっとも楽しくはないが、笑うしかないという心境だったのだ。
「ここだ」
「はあ?」
「カーダン、王都ブーレーズ。初めて会ったのはここだ」
「じゃあ……」
「ってことは、ここからどこに向かったかその先は見当もつかんということだ」
何か言いかけ、ナットは結局口を噤んだ。黙ってゆっくり腰を上げたナットは薬の瓶がずらりと並ぶ棚の前へと移動した。山ほどある瓶や甕の中からひとつを選び出し、テーブルに運ぶ。今度は別の棚からカップを取り出すと甕を傾け液体を注いだ。
「薬は要らんぞ」
「何でお前に薬をやらにゃならん」
顔の前に差し出されたカップを受け取り、匂いを嗅ぐ。琥珀色のとろりとした液体は酒だった。濃く甘い香りは果実のそれだから、何かを漬け込んだものなのだろう。
「とりあえず、気つけに飲んでおけ」
「俺が失神しそうに見えるか」
「貴族のご婦人方のようにそこで倒れるなよ。俺は動かせんからな」
ナットは唸り声を上げ、カエンは泣きたい気持ちで苦笑しながら、甘く、僅かに苦い液体を飲み干した。
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