第5話

 屈みこんでいたヴァレリーの髪の先が顎に触れる。カエンは咄嗟にヴァレリーの手首を引き、身体の下に巻き込むようにして押し倒した。振動が頭に響き、治まりきらない頭痛の芯が鎌首をもたげたが、歯を食いしばって何とか堪えた。

 広い館のことだからヴァレリーにはまだ聞こえないのかもしれないが、階下から微かに足音が響いて来る。カルグーン人は夜目がきくし、耳もいい。

 足音は男と女、それぞれ一人ずつ。女と客の組み合わせと思えば当然だが、度々立ち止まっているのが不自然だった。同時に、開閉するドアの音も聞こえてくる。恐らくひとつひとつの部屋を覗いているのだろう。男の重たい足音を追うように聞こえてくる女声はロザリーヌの抗議の声だ。

 カエンは両腿でヴァレリーを抑えつけたまま、手早くシャツを脱いで床に放った。

「何やって……」

 状況を飲み込めないらしくヴァレリーは声を上げたが、手を伸ばして口を塞いだ。力を込めてもがく身体を抑えつけたら、突如として息を吹き返した頭痛のせいで冷や汗が噴き出した。

 カエンの腕にかかるヴァレリーの指から力が抜けた。いきなり汗ばんだ身体に異様さを感じ取ったのだろうか。動きを止めたヴァレリーを素早く組み敷き、自分の身体の上に掛布を広げて半分覆う。

 栗色の髪に手を差し込み、頭を抑えつけて何か言葉を紡ぎかけた唇をしっかり塞いだ。驚愕に開いたらしいヴァレリーの口腔に舌を差し入れ、生温くぬめる舌を絡ませた。

 ここまでする必要はないような気もするが、幾らなんでも、ただ寝そべっていれば誤魔化されてくれるということもないだろう。ジョセフィンのヒモとやらはすぐにこの部屋のドアを開けるだろうし、ランプを持って寝台の間近に立たれたらそれで終わりだ。だとしたら、カエンの背中しか見えない戸口で引き返して貰うより他ないではないか。

 男と口づけを交わすのは初めてだったが、唇と舌の感触は、男も女も変わらなかった。それが例え相棒の唇でも。

 間近で見開かれた灰色の瞳が、口づけが深まる毎に、次第に潤む。舌を絡ませ、擦り合わせる度、長い睫毛と舌が微かに震えた。ヴァレリーの抵抗が弱まっていくのを痛みに朦朧とする意識の端で感じたが、どうでもよかった。

 これは単なる振りであって、身体の下にいるのが誰だろうと、男だろうと気にはならない。ヒモもヴァレリーもさっさと追い出し、苦痛から逃れたいとそればかりを考えた。

 割れるように頭が痛む。水が飲みたい。苦痛に乾き始めた口が、今そこにある、湿った何かを渇望した。無心で求め、貪りながら、さてこれは一体誰の口だったか、そもそも口なのかと一瞬思う。口づけではなく、まるで実際に交わっているかのような濃厚さに、答えはどうでもよくなった。

 お互いの唾液で濡れた唇に痛みが走り、噛まれたのか、とぼんやり考える。カエンは頭の痛みにほとんど朦朧としながらも、本能に従い征服した身体を覆う布地をはだけて掌で撫でまわした。

 膨らみのない胸と乳首に指が触れ、ようやくそれが何で誰だか分かったが、酔いがもたらした悪乗りか、迷惑をかけられている仕返しをしてやろうと不意に思った。

「カ……」

「声を出すな」

 言いざま首筋にきつく噛みつくと、ヴァレリーが息を飲んで飛び跳ねた。噛んだ痕に舌を這わせ、指の先で胸の突起を弄る。悪ふざけにしては行きすぎか、と思った瞬間、ドアが開いて淡い光が背後から射した。

「ここか!?」

「あ、あぁ……っ!」

 その瞬間、まるで野太い声の主に聞かせるかのように、ヴァレリーが啜り泣くような、甘く掠れた悲鳴を上げた。

 暗かった部屋の中に射し込んだ光。ヴァレリーの白い頬が光の中に浮かび上がる。声を上げたことに驚いたように瞠った目が、カエンの目を見据えていた。

 カエンはゆっくりと身体を起こし、肩越しに振り返った。汗ばんでいるのは、体調不良の冷や汗のせいだ。

 だが、そんなことは見ている者には分からない。それに、濡れた唇は明らかに激しい口づけを交わした後のもので、これは実際、目に見えるそのままが事実だった。

男は一瞬目を眇め、カエンの裸の上半身──冷や汗で光っている──を見て取った。

「何だ」

「──いや、すまん。続けてくれ」

 それだけ言って男は静かに扉を閉めた。隣の部屋の扉が開き、また閉まる。ロザリーヌの苛立った声と一緒に、男の足音が遠ざかる。

 カエンはほっと息を吐き、湿っぽくなった額を拭った。馬鹿馬鹿しい。半分寝ぼけていた上に咄嗟のこととはいえこんなことで誤魔化そうと思った自分も自分なら、騙された向こうも向こう。そもそもブーレーズに戻るなり騒動を起こすヴァレリーもヴァレリーだ。

「まったく、何だって」

 額を押さえながらヴァレリーを見下ろして、カエンは束の間言葉を失った。

 薄闇の中に滲んだように見える白い肌。その顔を縁取る栗色の髪は、仄かに発光して見える。口を開けば下品な言葉を吐き散らし、残忍な剣技で敵兵を討ち斃す男のものにしては、その顔貌はやはり人ならぬものであるかのように美しかった。

 半開きになった唇から形のいい歯と濡れた舌が微かに見える。ヴァレリーの灰色の目は、意外なことに、明らかな欲の色を浮かべて濡れていた。

「ヴァレリー……?」

 身じろぎしたら、カエンの脚がヴァレリーの硬くなったものに触れた。眉を寄せて掠れた吐息を漏らした相棒を、カエンは何とも言えない気持ちで見下ろした。

 衝動的に伸ばした指で、ヴァレリーの額にかかる前髪をかき上げる。一切の表情を失ったヴァレリーが、無言でカエンの視線を捕えた。

 ヴァレリーの瞳を覗き込んだまま、指先で昂ぶりに触れる。未だ体内に残る酒精のせいか、頭蓋の中で鐘を鳴らしているかのような頭痛のせいか、それとも、唆すような色を一瞬見せたヴァレリーの灰の瞳か。

「お前は──手のかかる」

 何が背中を押したのかは分からぬまま、カエンは気が遠くなるほどゆっくりと、ヴァレリーに圧し掛かった。

 どこをどうすればいいのかは、ヴァレリーが知っていた。

 長く戦地に赴いているときに兵士同士が慰め合うことがあるのは、周知の事実だ。だが、誰も彼もそうするわけではないし、少なくとも、カエン自身は経験がなかった。

 個人的な性癖の問題もあるが、カルグーンでは同性同士好き合っているという話を聞いたことがなかったから、興味を持ったこともなかった。

 元来カルグーン人は恋愛に鷹揚だから、特別禁忌とされているわけでもない。どういうわけかは知らないが、そういう性質を持って産まれる者が少ないのかもしれない。

 共に戦った二年間については、ヴァレリーも、女以外と関係していた様子はなかった。行動を見張っていたわけではないが、そういうことは案外と分かるものだ。だから、ヴァレリーがいつそれを経験したのか──そもそも、本当に経験があったのかどうか、カエンには分からない。だが、例えどちらであっても、カエンが口を出すことではなかった。

 白い背中が、闇の中で魚の腹のように光って見える。獣のように這わされ尻の奥までカエンを飲み込まされて、ヴァレリーは苦痛どころか歓喜の声を上げてよがった。

 低く掠れた相棒の喘ぎ声は戦闘で傷を負ったときのことを思い出させたが、同時に激しい劣情をも呼び起こした。単なる征服欲なのか、一個の人間に対する情欲なのか、痛む頭ではそこまで思いが至ることはなく、カエンは苦痛の狭間に感じる快感をひたすら求めた。

 髪を振り乱して乱れる身体に深々と己を突き立てる。ヴァレリーは何度も爆ぜ、甘えた声で繰り返しもっと欲しいと懇願した。

 切り裂き、奪う喜びに我を忘れる。まだ抜けきらない戦場の感覚を両手に握り締め、カエンは本能のままに突き進んだ。

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