第15話 婚約の解消。 後

 ラテルティアが怪我を負い、控室に運び込まれたと聞いたザイルは、反射的に身を翻し、廊下を走り出していた。反響する足音から、おそらくジェイルやランドル、そしてランドルの護衛騎士も後を追って来ている気がしたが、後ろを振り返る余裕がなかった。

 いくつもの扉を通り過ぎた先にあった、広間に最も近い場所にある控室。ばたんっと大きな音を立てて、扉を開いた。


「ラテルティア……っ」


 怪我の程度は。命に別状はないのだろうか。恐怖と焦りが混ざり合って、ばくばくと鳴る心臓が煩かった。

 部屋の内装は、先程ザイルたちが使っていた控室と同じもの。ベッドの傍には、医務官と思われる初老の男性が立っており、近くの椅子にはレンナイト公爵夫人であるレティシアが腰掛けていた。

 二人はザイルの方を見ると、医務官はすぐに礼の形を取り、レティシアもまた立ち上がろうとする。そんな二人の前を素通りして、「ラテルティアは?」と訊ねれば、二人はその顔をベッドの方へと向けた。

 銀色の髪を枕の上に散らして横になったラテルティアは、その青い瞳を瞼の奥に隠してしまっていた。


「刃物で切り付けられたのですが、毒が塗られている様子もなく、幸いドレスとコルセットのおかげで浅い傷で済んでおりました。命に別状はなく、傷跡も残らないでしょう。ただ、倒れた時に頭を強く打ったようで、意識を失われたようです。目覚められましたら、後遺症などがないか確認させて頂きます」


 こつこつと足音を立てて、眠るラテルティアの元に歩み寄るザイルに、医務官がそう教えてくれる。命に別状はないと言われほっとするも、しかし後遺症が残ったならばとまた次の不安が湧いてきて、落ち着かなくて。

 目を閉じたままのラテルティアの頬に手を伸ばそうとしたところで、「ラティ」と、小さく呟く声が聞こえてそちらを振り返る。そういえば、彼も共に来ていたのだったか。

 扉を入ってすぐの位置から、青い顔でラテルティアを凝視するランドルは、婚約が解消された手前、近寄って良いものかと躊躇っているようだった。

 そんな彼の様子を無視し、背後でザイルと同じようにランドルの方を見ていたレティシアに、「レンナイト公爵夫人」と声をかける。彼女はランドルの方から視線をこちらに移し、「何でしょう」と、やはり蒼褪めた表情で応えた。


「ラテルティアはレナリア嬢を庇って怪我を負ったとしか聞いてないんだが、一体どういう状況だったか教えてもらえるだろうか」


 概要だけを聞いても何故ラテルティアが怪我をするような事態になったのかが分からず、ザイルはその場にいたであろうレティシアに訊ねる。レティシアはちらりとランドルの方へと視線を向けた後、再びザイルへと向き直った。

 「……何でも、『あなただけずるい』と、そう仰っておられましたわ」と、彼女は口を開いた。


「自分もランドル殿下に声をかけられたのに、身分まで用意されて、ランドル殿下の婚約者となられたのがずるい、と。あなたが皇女殿下の娘なはずがない、と。襲ったのは、庶民の少女でしたから。周囲のご令嬢たちの話を聞いたところ、ランドル殿下が伴っていたことがある方だったとか。同じように過ごしていた方が急に身分を与えられて、それどころか王太子殿下の婚約者になったのです。逆恨み、ですわね……」


 苦笑交じりに告げられた言葉は、僅かに皮肉が混ざっていた。ラテルティアの怪我が浅かったから、相手が王太子であったから、その程度の皮肉で済んだのだろう。済ませるしか、なかったのだろう。彼女はあくまでも貴族で、その地位は王族よりも下なのだから。

 だが、自分は違う。


「……ランドル殿。聞いていたか」


 眠るラテルティアの白い頬に、今度こそ指先で触れながら口を開く。「……はい」と、ランドルが応えるのが聞こえた。


「これが、あんたが行って来たことの結果だ。あんたが王族として、王太子として、周囲を、自分を、律しなかった結果だ。あんたが変わらなければ、傷つく者は増えるばかりだろうな。……これからも犠牲を増やすつもりか」


 振り返り、ランドルの目を真っ直ぐに見つめながら、「良く考えろよ」と告げる。ランドルは青白い顔のまま、僅かに悔しそうにその表情を歪めていた。「……分かって、います」と応えた彼が、どこまで理解しているのかは知らないけれど、ザイルはその目を伏せると、再びラテルティアの方へと顔を向けた。


「分かったなら、レナリア嬢の様子でも見に行って、会場の空気を落ち着けてくると良いんじゃねぇか。レンナイト公爵がいないところを見ると、公爵が対処してるんだろ。襲われたレナリア嬢の後見人だからな。……よく覚えておけ。王太子はあんただ。あんたが率先して動いて、あんたの存在を貴族たちに認めさせろ。実権がどうだ、王として認められるにはどうだと言う以前に、話はそれからだろうが」


 ラティティリス王国は確かに、貴族が実権を持つ国である。だからと言って、王族を蔑ろにしているわけではない。少なくとも、今のところは。

 だがそれは、この先のランドル自身の行動で、どちらにでも転ぶということでもある。味方につけることが出来るか、それとも完全に突き放されてしまうか。

 今のままいけば、彼はザイルの予想する通り、貴族たちの都合の良い人形と化す未来も有り得るだろうから。


 少なくとも、レンナイト公爵は王家から実権を取り上げようとしているわけじゃねぇ。公爵に認められる働きを見せれば、国王として立つ時も力を貸してくれるだろうからな。


 全てはランドル自身の働きにかかっているのだ。

 ザイルの言葉に、ランドルは「……失礼します」と呟いて、踵を返したようだった。足音がいくつか、部屋から出て遠ざかって行く。おそらくは彼と彼の護衛騎士の物だろう。

 整えたまま乱すことのなかった髪を、ここにきてがしがしと掻き乱し、ザイルは深く息を吐いた。別に、ラティティリスのことも、ランドル自身もどうでも良かったのだが。


 ラテルティアが変に気にするかもしれねぇし、レンナイト公爵の機嫌を損ねないように、わざわざ手を回してきたんだ。無に還されるのも癪に障るからな。


 おそらくはもっと早く誰かが持たせるべきだった、王太子としての心得の、最も根本的なもの。意図的に伝えなかったのかもしれないが、一言ぐらい物申しても良いはずだ。色々と、この国のために手を回してやったのだから。


「ラティの言っていた通り、ザイル殿下は、噂とは随分と違う方なのですね」


 ふと、そんな言葉が背後から聞こえて来た。


「今まで、ランドル殿下にそうやって言い聞かせてくださる方はいませんでした。彼は賢く、それゆえにこの国の現状を理解していて、卑屈になっている節が有ると、夫が常々言っておりました。ラティがいながら、他の女性たちと戯れるのも、そういった感情もあるのではないか、と。だから、誰も何も言わなかった。……放っておいた、と言う方が正しいのかもしれませんね」


 かつ、かつと、足音が近づき、レティシアはザイルの隣に並ぶ。そちらを向けば、僅かに哀しそうな表情をして、彼女はラテルティアを見ていた。


「国がこうであるから仕方がない。どうしようもないのだと、そう思わせておいた方が良い者たちが多いのがこの国の現状です。反対に、夫のように力のあり過ぎる貴族が殿下に物申せば、鬱屈とした感情は増したでしょう。他国の皇族であり、年もそう変わらない貴方様の言葉だからこそ、ランドル殿下は素直に頷いてくださった。……この国の様々な面倒事を押し付けてしまい、申し訳ありません。そして、ありがとうございます」


 こちらを見上げたレティシアは、そう言ってその頭を下げた。くつりと、そんな彼女に笑いかける。「まだまだ、これからだ」と、呟きながら。


「俺が何と言おうと、あいつがああして頷こうと、あいつ自身が行動に移さなければ意味がない。……が、今回の婚約の解消は、あいつにもかなりの衝撃を与えたようだった。今後は色々と考え直すだろう。ラテルティアの手前、あいつが王太子の座を追われるようになるまで追い詰められるというのも面白かったんだがな。……彼女はそれを、望まないだろうから」


 優しい彼女は、自分を蔑ろにした元婚約者に対しても、酷い目に合わせようなどとは思わないだろうから。少しずつ、ランドルも自信を持てるようになれば良いと思う。一国の王太子として。そうなることが、この国のためにもなるだろうから。それに。

 彼がただ王太子の座を奪われるよりも、今の状況を継続してくれた方が、自分やフィフラル帝国にとって都合が良いというのもまた事実。それを、誰に伝えるつもりもないけれど。

 ザイルの言葉を聞いたレティシアは小さく微笑んで、「そうですわね」と応えていた。


「……ところでザイル殿下。は、ラティにはいつ頃訊ねられるつもりですの?」


 ふと、思い出したようにレティシアが言うのに、ザイルは小さく笑った。「少しでも長く、彼女が自由を味わった後で、だな」と応える。すでにレンナイト公爵やレティシアには話を通しているから、いつでも良いのだけれど。

 彼女が自由を味わい、尚且つ自分がこの国にいる間には、訊ねようと思っていた。それが、彼女の短い自由の、終止符となることを祈って。


「良いお返事が聞けることをお祈りしていますわ」


 ふんわりと笑うその笑みがラテルティアにそっくりで、ザイルもまたつられたように笑いながら、「ああ」と頷いた。

 ラテルティアが目を覚ましたのは、それから間もなくのことだった。最初に気付いたのは、じっとその場を動かずに彼女の様子を覗っていたザイルである。ぱち、ぱちと瞬きを繰り返す彼女は、ここがどこだか分かっていない様子だった。

 ほっとした様子で「ラティ」と声を上げるレティシアを横目に、顔を寄せ、驚かせないように声を抑えながら、「ラテルティア」と呼びかける。焦点の合わない目を彷徨わせていたラテルティアは、ザイルの方を見ると、また数度瞬きをして。ザイルの存在に気付いたように、ふにゃりとした笑みを浮かべた。「ザイル殿下」と、呟きながら。


「わたくし、少しは貴方様のお役に立てたかしら」


 ぽつりと、続いた言葉にザイルは動きを止める。自分の役に立つとはどういうことだろうと考えて。

 すとんと、納得した。ああ、そういうことだったのかと、思った。何故ラテルティアが、恋敵でもあったはずのレナリアを庇ったのか。


 から怪我を負わされれば、国際問題になるから、か。


 そうなれば、ザイルが今まで行ってきたことは全て水の泡になりかねない。それどころか、国同士の争いの火種にすらなり得たかもしれない。少なくともラテルティアは、そう思ったのだろう。だから。

 何とも言えない複雑な気持ちが胸を満たす。心配で仕方がなくて、けれどその言葉が、行動が嬉しくて。

 何でそんなことをしたんだと、怒鳴りつけたい気持ちもあった。今回は相手が少女で、力も弱く、軽症で済んだが、運が悪ければ命も危うかったはずなのだから。でも。

 「ああ」と、ザイルは笑った。彼女への説教はまだ、後で良い。


「お前のおかげで、我がフィフラルの皇家の者に傷がつかずに済んだ。礼を言う。……ありがとう、ラテルティア」


 言えば、ラテルティアはまた嬉しそうに笑って、「良かった」と小さく呟いていた。

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