番外話 お出迎え
フィフラル帝国の皇宮内において、皇帝に拝謁するための部屋は二つある。一つは謁見の間と呼ばれる大広間で、各国の貴賓を公的に迎える場合などに使われる部屋。もう一つは謁見室と呼ばれる部屋で、広さは謁見の間の半分程度であり、私的な拝謁の場合などに用いられている。
その謁見室内で、エリルは今、皇帝である父と側妃である母、そして皇帝の弟である叔父と共に、客人の到着を待っていた。客人の名はラテルティア・レンナイト。ラティティリス王国の公爵家の令嬢にして、第二皇子である弟、ザイルの婚約者である。先ほど、二人が皇宮内に入ったという報告が来たので、そろそろこの部屋に姿を見せるだろう。謁見室には、皇帝とその臣下というよりも、ただの家族の団欒のような空気が流れていた。
「ああ、やっと会えますのね! あのザイルが自分で選んだ方。どんな方かしら。わたくしの大切な義息子であり、ルミの大切な一人息子のお相手ですもの。……ちゃんと見てあげなくては」
謁見室の正面、一段高い位置に備えられた二つの椅子の内、誰も座っていない空の椅子を見上げながら、エリルの隣でにこにこと笑う母、ネルティアは、ぼそりと小さく付け加える。亜麻色の髪に緑色の目を持つ、まるで少女のように柔らかな雰囲気の彼女から出たとは思えない低い声に、エリルを挟んで反対側に立つ叔父、ダリスが苦笑いを漏らす。「ネル、大丈夫だよ」と、ダリスは優しい声で呟いた。
「ルミネアに似て、ザイルは頭も良く、人を見る目もある。それに、お墨付きのご令嬢だからね。エリルと、……兄上の、ね」
頭に白いものが混ざり始めた黒髪の、柔和な容貌の叔父は、その青い瞳を柔らかく細めて呟いた。視線の先にいる彼の兄、フィフラル帝国の皇帝であるクィレルは、彼の息子、ザイルとよく似た端正な顔立ちに面白そうな笑みを浮かべて頷く。「ああ、あの娘は悪くない」と、彼は呟いた。
「元々、婚約者であった王太子と不仲だという話を聞いたから、ザイルがラティティリスに行くとダリスに聞いた時に放っておくことにしたんだ。同じ学園内、話すこともあるだろうと思ってな。……俺としては、エリルの相手にどうかと思っていたんだが、まさかザイルが惚れるとはなぁ」
くつくつとクィレルが笑う様は、その白髪交じりの黒髪と赤い瞳も相俟って、本当にザイルとよく似ているといつも思う。ダリスの優しそうな面持ちも同じ皇族の血のはずだが、ザイルは派手で粗野な雰囲気のクィレルに似ており、自分は微笑んでいても何故か冷たく見えるネルティアの父に似ているため、二人して全く彼には似ていない。それぞれが持つ性格もあるのだろうが。共通しているのは、やたら顔が整っているという点だけである。
おそらく叔父上は、ザイルの件を父上に話していると思っていたが。父上がザイルに戻るよう急かさなかったのは、そういうことだったか。
そういえばザイルも、クィレルが彼に戻って来いと言うまでにしばらく時間があったため、何か思惑があるのだろうとぼやいていたことをふと思い出す。まさかラテルティアが関係していたとは思いもしなかったが。
責任者を務めている事業の状況確認と、皇宮に届いたザイルに対する抗議文を本人に伝えるために、ラティティリスに足を運んだエリルは、珍しく思い悩む弟の姿に密かに感動したものだ。しかもその悩みが、女関係ともなれば。
もしかしたら女嫌いかもしれないと思うくらいには、あいつは傍に女を寄せ付けなかったからな。……まあ、私と同様、次期皇帝としてのあいつにしか興味のない女しか周囲にいなかったから、無理もないと思うが。
声をかけてくる者たちは皆、まだ将来の定まらない自分やザイルに、最後まで寄り添うようなことはなかった。あくまでもその存在が視野の範囲内にあると示し、自分やザイルが次期皇帝に決まった場合はいつでも選ばれるようにと、そんな小細工ばかりされていた気がする。おかげで、自分は女に対しやたら用心深くなったし、ザイルは完全に遠ざけるようになってしまったわけだが。
そんな弟が、たった一人の女のために思い悩む素振りを見せたのだ。兄として、興味が湧くのも仕方がないことだろう。
もちろん、その家格や人格に問題があり、我が国に不利益をもたらすような人間だった場合は、可哀想だが切り捨てるつもりだったが。
たった一人の可愛い弟である。嫌われたくはないのだが、国を思うのは皇族としての務め。ザイルもまた、その点は理解してくれるだろうと思うしかなかった。そうして、相手の女についても下調べをして、ラティティリスに向かったのである。
結果としては、エリルの杞憂だったわけだ。弟に嫌われることもなく、自分よりも博識な弟からむしろ尊敬の目を向けられて、嬉しいことこの上なかった。
それに、ラテルティアとも言葉を交わしたが、思った以上に素直そうな娘であった。何しろ、ザイルが次期皇帝でなくなったことを知った上で、喜んで求婚を受けてくれたというのだから。自分たちのような、欲深い者たちに囲まれた人間にとっては、掛け替えのない相手だといえよう。それに、彼女はつまり、次期皇帝という付加価値のない、ザイルという人間を愛してくれた者に他ならないわけである。是非とも義理の妹として、弟が妬かない程度には仲良くしたいものだと、エリルは相変わらずの無表情のままに、心の中で思っていた。
そんなこと考えるエリルを余所に、クィレルは椅子の肘置きに頬杖をついて、「あれは、育て方次第では面白くなる娘だ」と、楽しそうに呟いていた。
「以前、ラティティリスに訪問した時に、王太子共々顔を合わせたが、驕ったところもなく、自分の立場を理解している聡い娘だった。常に周囲に気を配っていたのも視線の動きで分かる。父親の公爵とやらもかなり抜け目のない性格のようだったから、その性格を引き継いでいるようだな。あの国でのかの公爵の立場は王族にも等しい。隣国として、繋がりを持っていて損はない。ザイルからの
にやにや、という効果音が付きそうな笑みもまた、ザイルにそっくりで。思わず苦笑するエリルの横で、ネルティアは「クィレル様がそう言うのでしたら、あまり心配する必要はないのかもしれませんわね」と、少しほっとしたように呟いていた。
ネルティアはザイルの実母である正妃、ルミネアと、生前とても仲が良かった。だからこそ、一人息子であるザイルのことを、普段からとても心配しているし、気にかけている。実の息子である自分と同じように。
クィレルもまた、正妃の椅子にルミネア以外を座らせることはないと公言しているし、ネルティアもそれを当然だとしている。そして、ダリスに至っては。
……ルミネア義母上。ザイルはやはり、貴女の息子ですよ。
隣に立つダリスの横顔を見ながら、エリルは一人思う。ラティティリスに足を運んだ時に見た、ラテルティアという名の少女の雰囲気は、隣に立つ叔父のそれとよく似ている気がした。
「だがこうなると、エリル、お前もそろそろ、相手を見つけねばなぁ」
ふと、考えに耽っていたエリルの耳に届いたのは、クィレルのそんな言葉だった。その一言は、エリルを現実に引き戻すには十分な威力を持っていて。普段から表情が出にくい顔にも関わらず、思いきり頬が引きつった気がする。
まあ確かに、皇太子という身分でありながら、二十三にもなってまだ婚約者すらいないのは不自然なもの。昨年まではザイルと自分、どちらが次期皇帝かが決まっていなかったため、正妃となるに相応しい者をどちらに迎えるべきかと周囲も頭を悩ませており、深く追及されることもなかったのだが。
さすがにもう、逃げようがないだろう。
「それに関しては陛下、私に少し考えがございます」
何と返事をすべきかと考えていたエリルより先に、ダリスがそう声を上げる。兄という呼び名を陛下と正した彼のにこやかな笑みは、すでに帝国の宰相として相応しい、何を考えているのか分からないもので。正直な所、エリルには嫌な予感しかしなかった。
「リドルス侯爵のご令嬢や、シアンヌ伯爵のご令嬢、デリトルト伯爵のご令嬢など、目ぼしい方々を、近々お茶会にお呼びしては? 責任者はネルティア妃殿下にお願いし、どなたが良いかお決めになるのが良いかと。もちろん、彼女たちだけではなく、時期を見て他国の王女方や、他のご令嬢方も順にお呼びして。……ああ、もちろん、キルナリス公爵のご令嬢も」
名を呼ばれた令嬢たちは、今まで自分とザイルの婚約者として名が挙がっていた、高位貴族の令嬢たちばかり。だが、キルナリス公爵の名が出た途端、エリルも、そしてクィレルもぴくりと反応を示す。エリルはその令嬢の姿を思い出したためだが、クィレルはおそらく、もっと別の。
と、にっと、クィレルが何かを思いついたような意地の悪い笑みを浮かべた。
「いや、茶会の主催はネルティアではなく、レンナイト公爵令嬢に頼もう。第二皇子妃として、どのくらいの力量か測るのに丁度良い。ザイルを巻き込んで構わんから、皇太子妃に相応しくない者を弾いてもらう。同じくらいの年齢で、同じような立場の者たちだ。言葉を交わせば、気付くことも多いだろう」
「嫌だと言うのは聞かんぞ」と、こちらを見てくるクィレルに僅かに息を吐き、「分かっております」と応えた。どのみち、皇帝の正妃は国の利益を考えて決められる。反対する意味もないと、エリルにも重々分かっていた。今までも、クィレルやダリスに言われたのならば、違和感を持つこともなくその相手と婚約していたと思うから。
……だが、キルナリス公爵令嬢、か。
頭に浮かぶ一人の令嬢の姿に、エリルは僅かに頭を抱える。彼女の相手を、ザイルの婚約者であるラテルティアにさせる。それがどういうことか、おそらく自分を含め、この場にいる皆が知っているだろう。知っていて、クィレルはラテルティアにその仕事を任せようと言っているのだ。ザイルがどのような反応をするのか、今から想像が出来るというものである。それに。
確か、かの令嬢の姉は、東の隣国、テグニスの貴族に嫁いでいたな。隣国との辺境に領地を持つ侯爵家だったような。テグニスは今、確か……。ああ、父上と叔父上が画策しているのは……。
考えている時に、扉の方からザイルとラテルティアの到着を告げる声が聞こえた。黙っているエリル越しに言葉を交わしていた三人もまた、口を閉じて扉の方を見守る。この場に集まる、皇族と呼ばれるこの国で最も高位の者たちに愛される青年の婚約者の姿を、心待ちにしながら。
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