番外話 秘密の話。
「殿下。殿下、大丈夫ですか? 寝てても良いんすよ」
レンナイト公爵邸から、本日泊まる予定の宿泊先への帰り道。込み上げてくる吐き気を抑えるために窓枠に肘をつき、頭を抱えていたザイルに、ジェイルが呆れたように声をかけてくる。一度目を開いてそんなジェイルを睨みつけ、ザイルはまた目を閉じた。声を出すのも、手を動かすのも億劫である。
元々、酒は強い方ではない。付き合いで呑まされている内にそこそこ呑めるようにはなって来たが、それでもそこそこである。皇族の意地として、人前で弱っている所は見せないし、吐いたりもしなければ、前後不覚になったり記憶を飛ばしたりもしない。だが帰りの馬車では大抵死にかけていた。
見た目が派手なために、酒好きだろうと勘違いをされるのが一番問題なのである。よく似た見た目の父も、実はそんなに酒が呑める方じゃないと知っているのはごく一部だろう。ちなみに兄は母方の血を引いているのか、水のように呑むが。
揺れの少ない馬車の中、大人しく頭痛と吐き気を堪えている内に、少しずつではあるが内臓も落ち着きを取り戻してくる。
「まだ着かないか?」と短く訊ねられるくらいにはなったので、今日はまだ良い方だった。
「まだ少しかかりますね。……意地を張らずに、レンナイト公爵の誘いを断れば良かったのに」
ぼそりとジェイルが言うのに、再度目だけで不機嫌を伝える。にこやかに晩餐に誘ってくる未来の義理の父親からの誘いを断ることなど、出来るはずがないだろうに。
そんな心の声が伝わったのか、ジェイルはまた呆れた顔で「じゃあせめて、泊めてもらえば良かったんすよ」とぼやいていた。
「公爵も言ってくれてたんでしょう? 泊まって行けって」
「……お前、それで泊まるって言ったが最後、解放してもらえねぇだろうが。朝から馬車で走り通しで、ゆっくり寝たいからって言ってやっと解放してもらえたんだ。明日からまた付き合えって言われんの分かってんだから、今日ぐらい休ませろ……」
いつもの覇気などかけらも見当たらない調子で零せば、ジェイルがさすがに哀れに思ったのか、「殿下、公爵にめちゃくちゃ気に入られてますもんね……」と呟いていた。小さく「ご愁傷さまです」と聞こえた気がしたが、言い返す気力もなかった。
「まあ、一番気がかりだったラテルティア嬢のパーティにも間に合ったし、何事もなく終わったし、良かったっすね」
気を遣ったのか、明るく声を上げたジェイルの声が頭に響く。「うるせぇ」と短く言えば、ジェイルは焦ったように声を潜め、「すんません」と呟いた。
「そういや、パーティと言えば、ランドル殿下、いつも通りな感じでしたね。結婚式の話とかしてたし。ラテルティア嬢の話も。……あれ、まさかと思うけど気付いてないとかないですよね?」
ふと思い出したようにジェイルが言うのに、僅かに溜息を吐く。「さあ、どうだろうな」と、ザイルは窓に頭を預けて、僅かに口の端を持ち上げるだけの笑みを浮かべた。
「去年のラティティリス国王が俺を『立役者』と呼んだのは、俺に対する恭順と予防線だった。まあ、予防線の意味は薄いがな。王太子は……根が素直そうだからな。俺が善意であの件を丸め込んだと思っていても不思議はねぇ。国王も周りも、あいつに教えなさすぎるんだよ。……あいつらの、ラティティリスの王族の未来も、国の未来も、全て俺の手のひらの上だってな」
くつり、と小さく笑う。どのような事情があったにしろ、ラテルティアにあのような扱いをした上に、まだ彼女と婚約している最中に余所の女を妊娠させるような男を、ザイルがそう簡単に放っておくわけもないのだ。
それは、ザイルがラティティリス国王に謁見した時の事。ランドルが仕出かしたことを聞かされたラティティリス国王、レディオルは、開口一番にランドルを廃嫡すると言った。相手が国内で最も力のあるレンナイト公爵である以上、過剰な処分ではあるが、仕方がない判断だったともいえよう。
しかし、ザイルがそれをさせなかった。すでにランドルの相手が、自分の叔母であるクレアの娘ということにする計画をレンナイト公爵に話したと告げたのだ。そうしてラテルティアとの婚約を解消すれば、レナリアの、しいてはランドルの後見に、レンナイト公爵がついてくれると確約した、とも。
まあ他に、すでに新聞に記事を載せる準備があるとか、フィフラルの皇帝もすでにそのつもりだとか、色々言いはしたがな。
ランドルを廃嫡し、レンナイト公爵の怒りを治めるか、レナリアの妊娠に気付かれぬように振る舞い、後見を得るか。もし前者だった場合、ランドルの兄たちが新たな王太子となったところで、レンナイト公爵が後見になることはまずないと言って良い。そもそも一度、王家の側の失態で婚約を解消するのだから、次などあるはずがないのだ。その場合、貴族たちの心は王家から離れるか、完全な傀儡としようとするか、どちらかだろう。だが後者の場合は、ランドルの相手こそ代わるが、元々王家が欲しかったであろうレンナイト公爵の後ろ盾が手に入る。実の娘ではないとしても、公爵が後見となると一度口にした以上、それを違えるようなことはないだろうから。
けれど、問題はレンナイト公爵だけではないと、レディオルももちろん気付いていた。
「隣国の皇子である俺が誰にどんな話をするかで、この国の未来は一瞬で変化する。ラテルティアを愛するレンナイト公爵や、次期公爵、レナリア嬢が死ぬまで、ずっと」
ザイルが公爵に全てを話せば、王家は公爵を筆頭に貴族からの信用を失う。
ザイルが国民にレナリアの本当の血筋と、フィフラル帝国はラティティリスの王家に騙されていたとでも言えば、国民からの信用もなくなる。
ザイルがフィフラル内でクレア叔母上の名を騙る者が現れ、なおかつその娘が王家に嫁いだとでも言えば、フィフラルの国民も黙ってはいない。
そうして彼らを煽っていけば、どうなるかなんて火を見るよりも明らかである。
「……果ては革命か、戦争か。ランドルだけじゃない、国そのものが、俺の言動一つでなくなるだろうな」
気に入らないのは、ランドルだけじゃない。ランドルをそのような状況に陥らせたこの王家の在り方そのものも、同じ。だからランドルを廃嫡するという、安直な処分を行わせなかった。一瞬で終わるような罰など、つまらないではないか。王太子ともあろうものが、何をしても簡単に許されるなどと思ってもらっては困るのだ。だから、誰にも大した影響を与えずに婚約を解消するという、ラテルティアとの約束はもちろんあったけれど。
常に彼らは自分の手のひらの上であるという状況を作り上げるために。
「レンナイト公爵がレナリア嬢の後見になったのも、先を見越してのことでしょうしね。今のところ国に敵対する気はないから、円満にラテルティア嬢の婚約を解消させようとして。……ですが、レンナイト公爵が、ザイル殿下の意図に気付かないはずもない、と」
ジェイルが言うのに「ああ」と応える。頷くよりは、そちらの方が楽だった。
「レナリア嬢が相手なら、いつでも王家から離れられるからな。公爵が王家に反旗を翻したり、国を出たりする場合、俺はラテルティアの夫として精一杯手伝うさ。そのために、カーリネイト辺境伯に貸しを作ったんだ。あそこはうちの国との諍いが多かったせいか、今でも良い騎士が揃ってるらしいからな。せいぜい、役に立ってもらう」
ザイルは何も、慈善事業を行っていたわけではない。自分の起こした事業と、先を見据えた投資をしていただけのこと。今後何かの役に立つことがあることかもしれないと、損にはならない貸しを作っていたつもりだった。
もしラティティリスに異変があれば、余所者の自分だけのためにというのは無理だろうが、王家よりも力のある公爵に助力するため、という形にすれば、動かしようもあるだろう。
その辺りはさすがに、レンナイト公爵も知らないとは思うが、どうだろうか。かの公爵の情報網は、侮れないものがあるから。
「そうして、父上や兄上には良い手土産が出来たわけだ。二人とも争い事は好きじゃねぇから、今すぐに攻め入る様なことはねぇってさ。いざという時のきょうは……じゃねぇや、取引材料にはなるだろうからな」
くつくつと笑いながら言えば、ジェイルはひくりと頬を引き攣らせて、「脅迫材料って言おうとしましたよね」と呟いていた。
「まあこれで、ランドル殿下だけじゃなく、ラティティリスの国王陛下も、これからはザイル殿下とフィフラル帝国の顔色を窺って生きていくしかないわけですか。ただでさえフィフラルは、大陸に敵なし状態なのに。何ともまあ、お気の毒ですね」
僅かに息を吐き、大して気の毒そうもない調子でジェイルが呟く。そんな彼に小さく笑って、「確かにな」とザイルもまた呟いた。
「八方塞がりの状況を作りはしたがな。……もともとが強国であり、歯向かうつもりもない他国の皇子に弱みを握られるよりも、自国内での立場を取るしかない程に後がないってわけだ。この国の王族は」
楽しそうな声音で言いながら、ザイルは暗い窓の外を眺めた。目的のためとしては、彼が仕出かしたことは都合が良かった。だが、ラテルティアを侮辱するようなことを仕出かした者たちに甘い顔を向けることが出来るほど、自分は優しくはないのである。たとえそれを、ラテルティア自身は知らないとしても。
自分は決して、忘れないだろう。
せいぜい、上手に綱渡りをすると良い。フィフラル帝国や貴族の連中に、その綱を切られないように。
「今更ですけど、殿下、性格悪いですよね」と、乾いた笑みを浮かべて言うジェイルに、「真っ正直にんなこと言うのはお前ぐらいだ」と呆れたように告げながら、ザイルは到着までの短い間、眠りにつくのだった。
やはりレンナイト公爵邸に泊めてもらって、ラテルティアに膝枕をしてもらいたかったなと、そんなことを思いながら。
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