第4.5話 習慣と日課
自分だけを見て欲しいなんて、最初から思ってもいなかった。あくまでも政略的な婚約。そこに特別な感情などなくて良い。
なければ、良かったのにと、ラテルティアは思った。
筆頭公爵家の娘として、幼い頃から叩き込まれた礼儀作法に知識に心得。姉と自分、同じように学びながら、ある時を境に圧倒的に自分の勉強時間の方が、姉のそれよりも多くなったことを理解した。そのある時というのは言うまでもなく、王太子であるランドルとの婚約が決まった時である。
ランドルと初めて会ったのは、今から十年前、九歳の頃。その頃から、今と同じように柔らかい物腰に穏やかな雰囲気で、彼が婚約者となると聞かされた時、とても驚いたのを覚えている。自分は容姿に優れた姉とは違い、家族の中でも不思議なほどに平凡な顔立ちで、それほど優秀と言うわけでもなかった。それなのになぜ自分がと、幼いながらに思ったのだ。まあそれも、自分とランドルとの婚約を妬んだ令嬢たちから聞かされた話のおかげで、納得できた。
王族の血筋の方々は皆、見目麗しい方々ばかりで。筆頭公爵家の娘であり、縁戚であるわたくしたち姉妹の内、わたくしの方が王族の血が受け継がれていなさそうだから、僅かな望みをかけて選ばれたのよね。
国王と、血の近い正妃の間に生まれた王子こそが、次代の国王に相応しい。この国では、そう考えられているから。
だからと言って、その事実に傷つくということはなかった。これもまた運命なのだろうと受け入れ、自分なりに精一杯学んだ。礼儀作法も社交についても、正妃直々に教えられ、今なお学園が休みの日には王宮に上がって指導を受けている。どこに出しても問題ないと言われているため、正式に王太子妃となった時の人脈作りも兼ねて、正妃が主催するお茶会や夜会に参加しているだけだが。
今はともかく、幼い頃の自分は、期待に応えようとするあまりになかなかに無理をしてしまっていて。元々責任感が強かったせいか、周りがそこまでしなくても良いと言えば言う程、頑なに首を振ってさらに無理を重ねていた。
そうして無理に無理を重ねて、自分でも加減が分からなくなった頃、ラテルティアは倒れてしまった。医師からはもちろん、過労が原因だと言われ、十分な休息をとるようにと言われたのだけれど。その頃には、休むということが怖くなってしまっていた。
このくらいのことで倒れ、休まなければならないならば、未来の正妃には向いていないから、今の内に別の令嬢にって言われるのが怖かったのよね……。
身体が弱く、王太子妃としての務めを果たせないとなれば、その可能性も捨てきれない、と。王太子妃、未来の正妃になりたかったわけではないが、期待に応えようと頑張って来た時間を無にしたくはなかった。
そうしてまたも無理を重ねようとするラテルティアの元に、やって来たのだ。婚約者であり、未来の国王でもある同い年の少年が。
『そんなに無理しないで、ラティ。大丈夫だよ。君が頑張っているのはみんな知ってる。だから、今は休んで。……僕の婚約者は、君だけなんだから。代わりなんていないんだから』
優しい声で労わるように言われ、ほっとすると同時に驚いたのを覚えている。なぜ、分かったのだろうか。自分が気にしていることを。彼の婚約者という立場を、他の誰かに変えられてしまうかもしれないと悩んでいることを。
訊ねれば、彼はきょとんとした顔になって、すぐにその愛らしい顔に笑みを浮かべた。『僕も、一緒だからだよ』と言って。
『僕もね、怖いんだ。お母様が僕を生んでくれて、王太子になって、頑張ろうって思った。だけど、僕にはお兄様たちがいる。僕が生まれなければ、上のお兄様が王太子になっていたから、お兄様は僕のことがあまり好きじゃないんだと思う。……だから、知らない内にお兄様がお父様に認められて、王太子が変わるんじゃないかと思うと、怖い。今まで一生懸命頑張って来たけれど、それが全部、消えちゃうんじゃないかって思うから』
ぽつぽつと彼が語った言葉は、あまりにラテルティアの心の中の声と酷似していた。『ね、一緒でしょう?』と笑いかけてくるランドルに、ラテルティアほ大きく頷いて。気付いたら、泣き出していた。ほっとしたのかもしれない。自分の心の内を、本当の意味で理解してくれる彼の存在に。
彼はそのまま泣きじゃくるラテルティアの頭を撫で続けてくれた。ラテルティアが泣き止むまで。
その時から、ランドルとラテルティアは同志だった。お互い励まし合い、認め合って、将来を誓い合った同志。政略結婚の婚約者としては、理想的な関係だった。
あの日、自分の、彼への想いに気付くまでは。
……また、違う子と一緒にいる。
学園に入って少し経った頃から、ランドルはよく見知らぬ少女たちと共にいるようになった。貴族の子女から庶民の少女まで、相手の身分は様々。
王太子であり、自分という婚約者のいる彼がそのようなことをすれば、どうしても周りは良くない噂をする。そして、それだけじゃなくて。
わたくし自身が、嫌だった。
自分以外の誰かが、彼の傍にいることが、どうしても許せなくて。自分はいつの間にか、彼に想いを寄せていたのだと、気付いた。ただの同志だと、口では言いながら。
だから彼に直接聞きに行ったのだ。なぜ、そのようなことをするのか、と。
『なぜ? もちろん、私たちの将来をより盤石なものにするためだよ。私の母は、今でこそ正妃として堂々と振舞っているが、側妃が迎えられるまでの五年間、子を為せない妃として肩身の狭い思いをしていたようだ。私は貴女に、そのような思いをさせたくない。だから正妃を迎えてすぐに側妃を迎えられるようにしたいんだ。そうすれば少なくとも、私が君の元に向かわないから、子が出来ないと思わせることが出来る』
淡々と、前もって考えていたように説明するランドルの言葉。その時は、それで納得していた。納得したと、自分に思い込ませていた。自分のためならば、仕方がないと、そう。
それなのに。
「俺からすれば、王太子が言い訳作って女と遊んでるだけに見えるがな」
ランドルと少女たちが語らう様を見守っていた自分を呼びつけた、噂通り傲慢な隣国の第二皇子は、事もなげにそう言い放った。あろうことか、ラティティリス王国の王太子の婚約者である自分の太腿を枕にして横になった体勢で。
婉曲的な表現ではあるが、似たようなことを言われたことはある。王太子の婚約者である自分を妬む者も多いから。しかし、彼は、ザイルはあまりにもあけすけな物言いで、普通ならば、怒りを覚えてもおかしくないことを言われたというのに。
すとんと、納得してしまったのだ。ああ、そうだ、と。
その通りだ、と。
彼は間違っていないと、必死に自分に思い込ませていても、初めて個人的に話したザイル殿下の言葉にあっさり納得してしまった。……わたくし自身も、心の底ではそう思っていたのね。きっと。
彼は、ランドルはきっと、自分よりも相応しい妃を見繕っているのだと。
国王とレンナイト公爵の手前、正妃が自分であるということは変わりないから、せめて側妃は、自分の好みの女性にしたかったのだろう。そう、素直に理解できた。
彼と自分は確かに同志だけれど、自分とは違い、彼はラテルティアに特別な感情など持っていないのだから。
……仕方ないわ。分かっていたことだもの。
そう思いながら、黒髪の少女と談笑するランドルの横顔を見つめていた。すー、という、健やかな寝息が聞こえるまでは。
本当に眠ってしまったわ。……傍若無人とは聞いていたけれど、本当に勝手な方なのね。
驚き、思わず顔を向けた先には、日に焼けた、整った顔の青年が穏やかな表情で眠っていた。さらさらとした黒髪に、同じく長く黒い睫毛。通った鼻梁に薄い唇。ランドルを中性的な美貌とするならば、ザイルはとても男性的な、端正な面持ちだった。
フィフラル帝国の正妃から生まれた第二皇子。幼い頃から好奇心が強く、貪欲に知識を身に着け、神童とさえ言われていたという。それも、彼が傍若無人な振舞いを始めた数年前までの話だが。
ランドルと共に出迎える際に失礼のないよう、ザイルのことは少々調べさせてもらった。正妃である母は彼が五歳の頃に亡くなり、側妃を実の母のように、そして側妃の息子である第一皇子を特に慕っているという。しかし第二皇子としての執務には一切手を出さず、昼間から娼館に出入りしているという話もある。気に入らない者は容赦なく切り捨て、誰の言うこともまともに聞くことはない、手の付けられない青年なのだとか。
それが本当ならば、確かにどうしようもない皇子だと思ったし、先日、彼に話しかけようとした令嬢に酷い態度を取ったという噂もあったものだから、彼に呼ばれた時は一体何をさせられるのかと恐々としていたけれど。
蓋を開けてみたら、膝枕。しかも、あどけない表情で、本格的に眠りについてしまうものだから。彼についての情報や噂は、本当なのだろうかとラテルティアは疑問を持ってしまった。
「律儀だな。相手が俺だろうと、色々誤魔化しは効くだろうに」
初めて彼に呼ばれた日の翌日。ラテルティアはまたしてもあの空き部屋にいた。前日、目を覚ました彼に言われたから。自分は毎日ここで昼寝をするから、来い、と。
にやにやと品のない笑みを浮かべるザイルに、「フィフラル帝国の第二皇子殿下の仰ることに逆らうなんて、わたくしには出来ませんわ」と、挑むようににこやか笑って言えば、彼は少し面食らったような顔になって、ついで、くつくつと笑い出した。それはそれは、面白そうな表情で。
「逆らうことの出来ねぇ相手に、向ける顔じゃねぇな。……それじゃあ、遠慮なく」
言うが早いか、彼はすぐに横になって、ラテルティアの太腿を枕にする。喉元を晒す無防備な状態だというのに、彼はすぐに目を閉じ、そのまま眠りについた。規則的な寝息に、思わず笑ってしまう。
視線の先には、別の女性と逢瀬を重ねる婚約者。けれどそんな状況でも、ザイルの穏やかな寝息を聞いていると、少しだけ気が抜けるのだった。
そして、そんな日々が続いていたものだから。
唐突にザイルが姿を見せなくなった途端、落ち着かないような心地になるのも無理はないと思う。
……もうすぐ、ザイル殿下がこの部屋にいらっしゃらなくなって、一週間になるかしら。
何か用事でも出来たのだろうかと首を傾げながら、ラテルティアは彼とこの部屋で過ごす前の、暗く沈んだ心地で、いつもの方角に視線を向けるのだった。
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