第4話 その視線の先。
「毎日のようにお伝えさせていただいておりますが、ラテルティア嬢はランドル王太子殿下の婚約者です。ラテルティア嬢のためにも、くれぐれも。くれぐれも周囲に誤解されませんよう、お気を付けください」
「くどい」
いつもの空き部屋の入口の前、ラテルティアに膝枕を要求してからすでにひと月は過ぎているのだが。あの日、自分を迎えに来たジェイルは、ザイルに膝枕をするラテルティアを目撃してしまい、それ以来毎日こうして部屋の前まで来ては、念を押していくのである。そんなこと、分かり切っているというのに。
「そもそも他国の王太子の婚約者に膝枕をさせるのが問題なんすよ……。やめろって言っても毎日やってもらってるし……」
「丁度良い高さだからな。香りも良くて寝つきが良い」
「……彼女は枕じゃないっすからね」
何度言っても聞かない主に諦めの心境に至ったらしく、ここ数日はとりあえず周囲に誤解を与えるなという注意だけを口にしていた。
「図書室に行くんなら、さっさと行け」と、ザイルが手で払う仕種をすれば、ジェイルは渋々というように眉を寄せ、「後ほど迎えに参ります」と言って去って行く。その後ろ姿を見送り、ザイルはがらりと音を立てて部屋の扉を開いた。
ここに来始めて、ひと月半以上は経っている。条件反射のようにくわりと漏れるあくびを隠しもせずに入れば、すでに長椅子に座っている彼女の姿があった。姿勢よく腰を降ろし、しかしその横顔はこちらからは見えない。その視線の先には、いつもと同じく仲睦まじい男女の姿があったから。
「……あいつ自身に言っても意味ねぇなら、お前の親父にでも告げ口してみろよ。いくら王太子といえど、レンナイト公爵の言葉はさすがに無視できねぇだろ」
かつん、かつんと足音を立てながら、そちらへと向かって歩み寄る。ザイルが入ってきたことに気付いていたらしいラテルティアは、一度だけこちらに顔を向けると、以前も見せた諦めたような表情で笑った。「それもまた、一つの手ですわね」と言いながら。
「ですがそうなると、お父様は彼から自由を取り上げるよう、陛下に進言することでしょう。殿下もまた、その生まれのために自由の少ないお方です。わたくしさえ我慢していれば良いだけだわ」
「……お前が、それで良いならな」
どかりと彼女の隣に腰を降ろしながら、吐き出すように言う。そう、彼女自身がそれで良いというなら、自分には何も言えない。言う必要もない。
全く、くだらない。
いつも通り、無遠慮に彼女の膝に頭を預けて横になる。「お休みなさいませ」と言うラテルティアの声はいつも通り事務的で、しかしいつもよりもずっと不快に感じた。
かち、こち、と講義室に備え付けられた時計の秒針が音を立てる。彼女と過ごす時間はとてもゆるやかに流れ、他人の気配があるところでは浅い眠りにしか落ちない自分でも、しっかりと熟睡してしまう。彼女の持つ雰囲気がそうさせるのかもしれない。心地よく、安心できる空間。初めて出会ってからまだ、二か月程しか経っていないというのに不思議なものだ。
けれど、今日に限っていつまで経っても眠気がやってこない。鼻孔を擽る甘い香りに、いつもならばうとうととすぐに眠りに落ちるのに。まあ、原因は分かっている。眠りの邪魔をしているのは、胸の奥に燻る、いらいらとしたこの感覚。
……毎回毎回、見なけりゃ良い。
そんなに、苦しそうな顔をするくらいならば、目を背けてしまえば良いのに。
ぼんやりと彼女の顔を見上げながら思う。真っ直ぐに婚約者を見つめるその目は、いつだって切なげなそれで。
ふと、彼女の目が大きく見開かれる。その視線の先で何が起きたか、想像に難くなかった。咄嗟に俯いた彼女と目が合うのは、仕方がないことだろう。ザイルがそちらを見ていると分かった途端、ラテルティアは驚いたような、居心地が悪いような表情になった。
「……まだ起きていらっしゃいましたか。驚いてしまいました」
ふふ、と無理に笑って見せるラテルティアに、思わず顔を顰める。見るに堪えない、という表現が正しいだろうか。ぎり、と奥歯を噛んで視線を逸らす。何かがどうしても、気に食わなかった。何かが。おそらくは。
「……いつもいつも、そんな顔をしておいて、我慢できているつもりっつーのがそもそも気に食わねぇ」
ぼそりと零れた言葉。ラテルティアがまた驚いたような顔でこちらを見る。
気に食わない。最初にこの部屋から彼女を見た時からずっと。彼女自身も、そしてそれ以上に。
彼女に、そんな顔をさせているあの男が。
「一度くらい、思い知らせてやれよ。お前がどれだけあいつにとって重要な人間なのか。お前が一言誰かに泣き言を言うだけで、あいつの立場は一気に悪くなる。この国は今、そういう状態だろ」
遠慮する必要など、どこにあるというのだろう。使えるものは使えば良いのだ。
王族よりも貴族が力を持ちつつあるこのラティティリス王国。彼女はあくまで国王に請われて、政略的に婚約させられているだけなのだから。実の父親の威光を少し借りた所で、誰にも文句は言えないだろう。彼女のこの、苦しそうな顔を見れば。
……大体、王族の人間が好き勝手やってること自体、気に食わねぇ。
フィフラル帝国との差であると言われればそれまで。しかしその差が、皇族が絶対的な地位にあるフィフラル帝国と、貴族にその立場を奪われつつあるラティティリス王国との差なのだ。
ラテルティアは僅かに表情を暗くした後、またいつものように笑みを浮かべた。「ザイル殿下のお気持ちは、嬉しいですわ」と言いながら。
「ですが、それをしてしまえば、お父様は婚約そのものをなかったことにしようとするのではないかと思うのです。お父様はわたくしたち家族に、とても優しい人だから。我がレンナイト公爵家という後ろ盾がなければ、ランドル殿下の立ち位置は危うくなります。……それだけは、避けたいのです」
「ですから、ザイル殿下の仰るようには出来ないのですわ」と、彼女は苦笑交じりに言っていて。再度、ザイルのその端正な顔を顰めた。彼女の言いようでは、まるで。
「……お前が、あの王太子殿下に想いを寄せているようだな」
それは、いつもの傲慢な自分には似合わないだろう、静かで、それでいて真摯な声音の問いかけ。ラテルティアは僅かにその目を伏せると、ゆっくりと頷いた。「そうですわ」と、彼女は言った。
「幼い頃……もう、十年も前になりますわね。初めて婚約者だと言われてお会いしたその日から、ずっと。幼い頃から彼は、今と変わらず優しくて。あの頃はまだ、愛や恋なんて全く分かりませんでしたけれど。……ずっと、傍にいたいと思いましたの」
「もちろん、今でも」と、ラテルティアは続け、また視線を彼女の婚約者の方へと移す。苦しそうな表情に、悲しげな視線。それでも、相手を想っているのならば、仕方がないのだろう。想う相手に、別の想う相手がいるなんてこと、珍しくもない。それどころか、最終的に結ばれることが決まっているのだから、恵まれている方だろう。王侯貴族の子として生まれた以上、誰とも知れぬ相手と結婚させられることも、当たり前のようにあるのだから。
心配して損したと思いながら、深く息を吐く。彼女がそれで良いというならば、良いのだ。自分が気にする必要なんて、何もない。ただこうして毎日、穏やかに眠れる時間を提供してくれればそれで良いのだから。
良い、はずなのに。
……こっち、見ろ。
無意識に伸びた手が、さらりとその絹糸のような美しい銀髪を弄ぶ。指に絡め、くいと僅かにそれを引いて。
「ザイル殿下?」
「どうされました?」と訊ねられ、その動きを止めた。自分は一体、何を。
首を傾げるラテルティアに、一度視線を逸らした後でその手を降ろす。「別に何も」と言えば、彼女はまだ不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに「そうですか」と言って、また視線を窓の向こうに戻した。見たくもない光景を見るために。
別に、俺には関係ない。
そう思い、がしがしと頭を掻いて目を閉じる。いつまでたってもやって来ない眠気に辟易しながら、ジェイルが訪れるまで、ただ静かに横になっていた。
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