第6.5話 意識の差

 王冠なのだそうだ。自分は。

 煌びやかな大広間を抜け、バルコニーに出ていたラテルティアは、ぼんやりと夜空に浮かぶ月を眺めながら、思う。

 王冠。王を王たらしめる時にのみ用いられ、後は宝物庫に収められて月日が過ぎ、次の機会を待つ王の宝。大小さまざまな美しい宝石が王を飾る中、特別だからと大事に大事に保管されるだけの装飾品。それが、自分なのだと。

 なんと、分かりやすい例えだろう。


 正統なる妃として、公式の場にのみ傍にいて。ランドルという名の青年を慰めるのは別の人。……例えというよりも、そのまま、という感じですわね。


 苦い笑みを浮かべながら、そんなことを思った。

 これまでは、どんな少女たちが彼の傍にいたとしても、自分が婚約者だからと心を鎮めることが出来た。婚約者の自分を、同志である自分を、彼は決して蔑ろにはしないはずだからと、そう信じていた。

 信じようと、していた、のに。


「……何を甘いことを言っていたのかしら。わたくし」


 政略結婚が決まっていようが、婚約者がいようが、彼もまた一人の人間であり青年である。誰かを想う気持ちがないとは言えないのだ。自分が彼を想うように。いや。

 想っていたように。

 深く、ラテルティアは溜息を吐く。

 あの日からまだ、数日しか経っていない。だからこそ、だろうか。ランドルのことを思い出すたびに、自分に向けられる青い目を思い浮かべる度に、『王冠』と言った彼の声が聞こえる気がするのだ。そこに嘲りの色があったわけでもなく、ただ淡々と、彼は言い放っていただけだというのに。


 おかしなものね。この国で最も大切にされている宝よ。王を王たらしめる物。それなのに……。


 その言葉を思い浮かべる度に、少しずつ何かが消えていく気がする。彼への愛情も、自分の感情も。必要とされないならば、いらないから、良いけれど。


 丁度良かったのかもしれないわ。先に聞けて。結婚した後にそういう扱いを受けるって知ったら、とても耐えられなかったでしょうから。


 今からならばまだ、大丈夫だと思った。期待をしなければ、これ以上傷つくことはないから。自分は王冠。彼を、ただ王たらしめるための王冠なのだから。

 月明りの下で、ひたすらにそう思い込む。自分はただの、政治の駒の一つでしかないのだと。

 それなのに。


「レンナイト公爵令嬢。私に、貴女とダンスを踊る栄誉を、どうか」


 真っ直ぐにこちらを見る真っ赤な瞳。月明りを受けて光る様は、上質な宝石のよう。シャツ以外は地味な真っ黒の正装のように見えて、銀色の刺繍が所々に輝く最上級の仕立て。鈍くさらさらと輝く黒髪と合わせて、夜闇を切り取ったようなその姿。

 怖いと、思った。皇族特有の存在感も、傲慢と名高い彼らしい威圧感も。けれど。その目の奥に、どこか楽しげな感情が見えた気がした。同時に頭を過ったのは、ラテルティアの良く知るいつもの彼の姿。自分の太腿を枕にして、子供のようにあどけなく眠る彼の顔。

 「喜んで」と言って、ラテルティアはその手を差し出す。彼は、ザイルは、少しだけ嬉しそうにその口許を緩めた。


「鈍臭そうに見えたが、案外上手いんだな。ダンス」


 『自由にしてやるから』。そう堂々と宣言した彼は、その言葉の意味をはぐらかすようにそう言って踊り続けた。自分が何を聞きたいのか、分からないはずもないくせに。彼の腕の中で踊るのは思ったよりも心地が良く、まあ良いかなんて思い始めてはいるが。


 先ほどの話の流れを考えるならば、わたくしとランドル殿下の婚約のこと、でしょうけれど。……双方に不利益を与えないままの婚約解消なんて、無理だもの。


 いくらフィフラル帝国の皇族といえど、ここはラティティリス王国である。介入できるはずもないと、ラテルティアもまた分かっていた。分かっていた、けれど。

 『本当?』と、問い返したいのもまた、事実だった。『本当に、自由にしてくれるの?』と。

 ただの政治の駒から、感情のある人間へと戻してくれるの、と。

 今までの努力が無駄になるかもしれない。そう思って、縋り付いていた王太子の婚約者の座。それも、求められるのはラテルティア自身ではなく、王冠としての価値だけなのだと思うと、ただただ虚しかったから。

 口に、出来るはずもないが。


「おい。どうした。何、変な顔してる」


 初めて言葉を交わした日から変わらず、あけすけな言葉でザイルは問いかけてくる。年頃の令嬢に変な顔とはいかがなものかと思ったが、目の前の彼の顔をもってすれば、周りは皆、変な顔ばかりだろうなと何故か納得してしまった。自分も含めて。

 「いつも通りですわ」と返せば、彼は思い切り顔を顰めた。「んなわけあるか」と言う彼はしかし、何かを考える素振りを見せる。「いや、そうでもねぇか」と、彼は言い直した。


「俺はお前のいつもを知らねぇが、……あの講義室にいる時も、そんな顔してる時があるからな」


 端正な顔に、苦い笑みが浮かぶ。困ったような、少しだけ申し訳なさそうな表情。そんな彼を見上げて、ラテルティアは自分の勘違いに気付いた。おそらく、彼の言う変な顔というのは、容貌のことではなく、表情のことなのだろう。

 考えてみれば当たり前の話に、しかし目の前の青年の容姿があまりに整っていたものだから、読み違ってしまった自分が少し恥ずかしかった。


「……わたくし、あの講義室にいる時も、……貴方様の傍にいる時も、変な顔をしておりますか?」


 ふと気になって、おそるおそる訊ねてみる。変な顔というのがどのような顔なのかは知らないが、彼が言うのならばやはり変な顔なのだろう。公爵家の令嬢として、そのように顔におかしな表情を載せるのはいかがなものかと思いながらザイルの言葉を待っていると、彼はこくりと頷き、「まあな」と答えた。


「だがまぁ、表向きは取り繕えてるんじゃねぇか。王太子も、この前話した感じじゃ気付いてねぇだろ。……むしろもう少し、顔に出してもいいんじゃねぇか。お前は」


 くるり、くるりとステップを踏み、流れていた音楽が余韻と共に止まる。会場の拍手を聞きながら、ラテルティアは軽く首を傾げた。彼は一体、何を言っているのだろう。


「確かにこういった場では表情を取り繕っていますが、普段はそれほど気を遣っておりませんよ? 隠しているつもりはないのですが」


 きょとんと、彼を見上げながら呟く。将来の正妃として教育されている自分は、公的な場で表情を出すことも、声を荒げることも許されない。もちろん、元々声を荒げるような性格ではないからそれは問題ないのだが、学園内では、あまりに悪い感情を伝える以外の表情の変化を抑制しているつもりはない。そう、自分では思うのだけれど。

 頭一つ分高い位置にある彼の顔は、少しだけ哀しそうに歪んでいた。


「……声をかけたあの日、俺が見たお前の顔を、お前自身に見せてやりてぇよ」


 そう言うと、ザイルはラテルティアの手と腰から自らの手を引き、ダンスの終わりの礼儀として、ゆっくりと頭を下げた。

 「飲み物を持って来る」と言って、彼はその場を立ち去った。隣国の第二皇子にそのようなことをさせられないと言ったのだが、ザイルはただ「待ってろ」と応えた。気を遣う時でさえも、彼は彼なのだなと少し笑ってしまった。

 先ほどと同じく、バルコニーの手摺に寄りかかるようにして、月を見上げる。学園の舞踏会は満月の日に開かれるため、今日も綺麗なまん丸の月だ。

 この月を、学園に入学して、定期舞踏会に参加するようになってから、何度見上げたことか。誰に寄り添うでもなく、一人で。深い闇夜を照らすその輝きは美しく、ラテルティアは一人でここにいる時間が嫌いではなかった。静かで一人きりという状況のため、色々と考え込んではしまうのだが。大体この場を訪れるのは、傍にいるはずの彼が他の誰かと姿を消した後だったから。


「綺麗な月だな。お前の髪色によく似てる」


 ふと声が聞こえて、しかしラテルティアは「そうでしょうか」と答えるも、そちらを振り返らなかった。見ずとも誰か分かるから。こつこつと足音をたてて歩み寄って来た彼は、ラテルティアの隣に並ぶと、持って来てくれたらしいグラスを差し出してくる。

 「ありがとうございます」と言って受け取れば、ザイルは素っ気なく「気にすんな」と応えた。


「お前らの結婚式はいつだ? いくらなんでも在学中じゃねぇよな」


 ラテルティアと同じようにバルコニーの手摺りに寄り掛かりながら、ザイルはそう訊ねてくる。先程は自由をくれると言ったくせに、何故そんな質問をと思ってしまい、一瞬の後にそんな自分を恥じる。無理だと分かっていてなお、期待してしまう自分が情けなかった。期待をすればするほど、傷つくのは自分だと、いやというほど知っているというのに。


「ランドル殿下とわたくしが卒業してからですわ。一年と三か月半程後、になりますわね」


 社交シーズンが終わるころに、学園の一年は終わる。来年は学園や正妃としての教育だけでなく、結婚式に向けての準備もあるため、忙しくなるだろう。

 王冠として、彼の横に立つための準備である。

 近い未来のことに思いを馳せ、僅かに溜息を吐くラテルティアに、ザイルは「そうか」と静かに呟いた。


「俺はあと三か月と少しで国に帰るがな。……だから、それまでが勝負だ」


 ぼそりと続けた彼に、そういえばとラテルティアは思う。彼がこちらに来て、二か月と少し。もうじき三か月となる。そして三か月と少し後には、彼は学園を卒業する。一年ならともかく、たった六か月間の留学。


「殿下はなぜ、留学されたのですか?」


 疑問をそのまま口に乗せれば、ザイルはこちらに顔を向ける。俯き、考える素振りを見せた後、「まあ、俺が国に戻れば、嫌でも知れるか」と、ぼそりと呟いた。


「単純な話だ。俺が、がいなければ、好き放題するだと証明するためだな」


 淡々と彼はそう続けた。けれど、ラテルティアにはその言葉の意味が分からない。役に立たない人間であると証明したいというのは、どういうことだろう。

 そう考えて、ふと、思う。それは。


「『フィフラル帝国の神童』と呼ばれていた貴方が、『傲慢な第二皇子』と呼ばれるようになったことと、何か関係が?」


 問いかければ、ザイルはその端正な顔に、少しだけ疲れたような笑みを載せた。


「この国と違って、俺の国では先に生まれた方に皇位継承権が与えられる。順当にいけば、エリル兄上が次の皇帝になるはずだ。だが、最終的な決定権は、現皇帝に委ねられててな。妙に頭の回る俺が、正妃だった母上の子でもあるせいで、俺を皇太子にと望む奴が少なからずいやがるんだ。だが問題は、……その筆頭が、現皇帝だってことだな」


 そう言って笑う彼は、少しも嬉しそうではなかった。


「父上が俺を選べば、次期皇帝は俺になる。エリル兄上は、その時は俺を支えると言って笑っていたが、……俺は、皇帝になった兄上を助けるために、神童なんて馬鹿げた二つ名をつけられるぐらい、学んだんだ。兄上が良いと言っても、義母上が喜んでくれても、俺だけは絶対に、それを受け入れられねぇんだよ」


 暗闇を睨みつけて、悔しそうにザイルは奥歯を噛み締める。

 神童と呼ばれていた頃の彼は、まだ成人前だというのに様々な政策に助言していたという。旱魃対策や治水事業、他国との交渉にいたるまで。その功績はもちろんラティティリスにも伝わっていた。だが。

 徐々に徐々に、神童の名は忘れ去られ、彼は傲慢な第二皇子と呼ばれるようになっていった。彼の功績を思えば、傲慢になるのも仕方がないと、誰もがそれを疑わなかった。ラテルティア自身も、そう思ったから。

 けれど、彼の話を聞いていて思う。もしかしたらそれは、彼自身が仕組んだことかもしれない、と。印象を操作することくらい、彼にはわけないことだろうから。


「なぜ、そこまで皇帝の座を忌避するのです?」


 どうしてそれほどまでに、彼は皇帝の座を避けるのだろうか。ただ兄に遠慮しているだけなのだろうか。兄を敬愛しているからだろうか。

 不思議に思いながら訊ねれば、ザイルは笑って、「器じゃねぇから」と答えた。


「国のためにやって来たことも色々あるが、根本的には国のためじゃなく、父上や兄上、義母上が悩んでいたから口を出しただけだ。国そのもののためじゃない。国民と、近しい者たちを天秤にかける事態になった時、俺は迷うことなく、近しい者たちを選ぶ。政策に口出しすることは皇帝じゃなくても出来るが、最終的な決定権は皇帝にしかねぇだろ。……だから、俺が皇帝になるわけにはいかねぇんだよ」


 「国のためにも、な」と言って、彼は手にしていたグラスを口につけ、僅かに傾けた。


「今回この国に来たのは、最後の悪あがきだな。今年の社交シーズンの終わりに、父上は皇太子を発表するらしいから、その前にもうひと押ししとこうかと思っただけだ。……答えになったか?」


「……はい」


 こくりと、ラテルティアは頷いた。彼は国のためにならないからと、皇帝の座から離れようとしている。それこそが、国のためになると、そう思って。


「きっと、皇帝陛下も分かってくださいますわ」


 何と声をかけるべきか迷い、口にしたのはそんな無責任な台詞だったけれど。

 ザイルはそれでも少しだけ嬉しそうに、「そうだと良いんだがな」と笑った。

 多くを考えた上で、国のためにと身を引く彼に比べて、個人的な感情で自由を求める自分は、なんて情けないのか。そんなことを、思った。

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