第9.5話 不思議な感覚
かりかりと、ラテルティアは教科書にメモを書き込んでいく。講義の内容を一度で覚えられるような優秀な頭を持っているわけでもなく、昔からこうして一つ一つ重要な項目を書き込み、覚えて来た。王太子の婚約者として、未来の王妃として、少しでも相応しくあるように、と。
そんな未来を望まなくなった今でも、習慣というのはそう簡単には消えない物である。
「ラテルティア様。お呼びですわ」
「あら? もうそんな時間でしたの。教えて下さり、ありがとうございます」
声をかけて来た令嬢に笑顔を返し、ラテルティアは机に広がった教科書や資料などを片付ける。講義用の持ち物をまとめた所で、講義室の出入り口を見れば、思った通り不機嫌そうな顔をした青年がそこに立っていた。くわりとあくびを漏らし、髪を掻き上げる様に周囲の令嬢たちがちらちらと視線を投げる。かと思えば、彼の視線を感じると、ぱっと逃げるように目を背け去って行くのだ。その見た目で令嬢たちを魅了する彼は、その性格でかなりの損をしているらしかった。
「ザイル殿下、遅くなりまして申し訳ありません」
少しだけ慌てながら、黒髪の青年と、彼の背後に控える茶髪の青年の方へと歩み寄る。ザイルはラテルティアの姿を目に留めると、「行くぞ」と言い、その身を翻した。
少し長めの黒髪は、彼がいつも掻き乱すためにまとまっている所を滅多に見ることがない。制服も、シャツのボタンをいくつか外していたりと、見た感じはかなり粗野な印象を受けるのが、このザイルという青年なのだが。生まれゆえの気品か、ポケットに手を突っ込んでいようが、あくびを漏らしていようが、歩く姿はやはり貴公子そのもので、周囲の少女たちは彼と目が合わぬように気を付けつつも、彼の姿を目で追っているようだった。
ランドルから傍にいることの許可を得て、ザイルがわざわざ屋敷から送り迎えをしてくれるようになり、すでに一週間が経っている。周囲はラテルティアがザイルの傍にいることを当然のことと認識するようになっており、おかしな噂が立つこともなく、平穏な日々を過ごしていた。
「……甘いもん好きだよな。お前」
デザートのチョコレートケーキを頬張っていたラテルティアに、ザイルはそう声をかけてきた。いつの間にか、頬杖をついた彼はラテルティアがケーキを口にするのを眺めていたようで。慌てて口からフォークを抜いて、口許を隠す。どこか気だるげな笑みを浮かべる彼の目の前で、大口を開けてケーキを食べていたのかと思うと、少し恥ずかしかった。
ここは、ザイルのような皇族や王族などのために完全に個室で用意されている、食堂の貴賓席である。丸いテーブルについているのはザイルとラテルティアのみ。ジェイルも共にと思ったのだが、彼は他の学生と共に食事をするらしかった。もちろん、いくら食事だけだとは言え、年頃の男女が密室にいるというのは良い噂になりようもないので、扉は少し空いており、部屋の外には侍従が立っている。
ザイルは手元にあった自分のチョコレートケーキをフォークで半分にすると、小さい方をぱくりと口にする。もくもくと口を動かす彼の表情は、珍しく僅かに綻んでいた。
「そういう殿下も、お好きですわよね。甘い物」
チョコレートケーキを呑み込み、紅茶に手を伸ばす彼に言えば、彼は特に反論することもなく「まあ、そうだな」と頷いた。彼とここで食事をするようになって、一週間経つのだ。分からないはずもない。しかし、だ。
「……やっぱり、全部はお食べになりませんのね?」
半分だけ残ったケーキは皿の上に置かれたままで、ザイルはラテルティアの言葉に素直に頷いた。「好きだが、得意じゃねぇ」と、彼は困ったように笑った。
「甘いのは好きなんだが、量を食えねぇ。喉にくるからな。体質なのか何なのか、こういう残し方はあんまり好きじゃねぇんだが……」
ぼそりと言う彼は、僅かに悔しそうな顔をしていた。
上流階級の最も上に位置する皇族という立場でありながら、彼はあまり手を付けた料理を残すことが好きではないようだった。最後まで食べることが出来ないならば、手を付けないようにしている。ここ一週間で気付いた、彼の食事の習慣である。
だが、デザートだけはこうして半分だけ口にするのだ。甘い物が好きだというのは本当なのだろう。食べきれないことを悔やみながらも、どうしても口にしてしまうようだった。
反対に、ラテルティアは出て来た料理を全て平らげている。食べ過ぎではない、ザイルが小食なのだ、と言いたい。あと、いつも食べていた食堂の料理よりも、ここに出てくる料理がまた一段と美味しいのが悪いのだ。
「殿下はどうして、料理を残すことを嫌っておられるのですか?」
責任を転嫁しながら、ラテルティアはそうザイルに疑問をぶつける。良い習慣だと思うが、不思議だと思うのもまた事実だったから。
ザイルはくっと口の端を持ち上げながら、笑った。
「……おかしいか?」
「いえ、良いことだと思いますわ。食べ物は有限ですもの。わたくしは知識としてしか知りませんが、ここよりも国力の弱い国や、治安の悪い国では、食べ物がなくて餓死する者も多いとか。それを思えば、いくら後で使用人たちが食べると言っても、少し手を付けて残すなんてあまりに傲慢ですわ」
はむ、と残っていたケーキを口にしながら言えば、ザイルはまたくつくつと笑った。「ああ、俺もそう思う」と言う彼は、普段の俺様然とした雰囲気を潜め、どこか遠くを見ているようだった。赤い瞳が陰り、浮かんでいた表情を消して、彼はこくりと紅茶を呑む。
その様子がどうしてかいたたまれなくて、「殿下」とラテルティアは彼に声をかけた。
「そろそろ行きましょうか。時間がなくなってしまいますよ?」
昼の休憩時間は他の休憩時間よりは長めに取られているとはいえ、昼食の時間がずるずると長くなれば、休む時間が減るのは当然のこと。ザイルはラテルティアの言葉に顔を上げると、「行くか」と言って席を立った。
いつもの講義室でのいつもの休憩時間。しかし最近、少し変わったことがある。
「殿下、こちらが先日仰っていた資料です。こちらに置いておきますね」
「ああ」
以前はすぐに昼寝を始めていたザイルだが、近頃昼寝をする前に、こうして何らかの資料をジェイルに用意させ、それに目を通すようになっていた。ぱらぱらと、ただ捲っているだけのように見えるが、それで頭に入っているのだろう。気になる場所があったら手を止め、置いていた別の紙に何かを書きつける。そしてまた、ぱらぱらと資料を捲るのだ。
資料の表紙が目に入り、それを読んだところによると、どうやらそれはラティティリスの東側、フィフラルに接する場所に位置する地域の気候や、領地の変化、災害や紛争などをまとめた、ここ数十年の記録のようであった。一つの地域につき、何冊もの資料を読み、また次の資料を要求する。その繰り返し。今日の資料は、ラテルティアの母の兄、つまりラテルティアからすれば伯父が治めている、ネイリスの物のようだった。昨日までの数日間はカーリネイトについての物のようだったが。
一体彼は何を調べているのだろうと、首を傾げながら自らの目の前に広げていた本に視線を向ける。この調子ならば、昼寝をするまでにもう少しかかるだろうと思い、並んだ文字に目を滑らせることにした。
どのくらい時間が経ったか、「……ああぁあ」と、地を這うような唸り声が隣から聞こえて、ラテルティアはびくりと肩を揺らした。
「眠い。駄目だ。眠い。ラテルティア、悪い。膝」
単語を並べただけの言葉を重ねて、ザイルは手元の資料を閉じ、あくびをする。余程眠いのか、「ええ、どうぞ」とラテルティアが言うと同時に、彼は横になり、目を閉じた。物の数秒で、規則的な呼吸が聞こえ始める。相変わらず寝つきが良いと思いながら、ラテルティアは眠るザイルの顔を見つめ、くすりと笑った。
ラテルティアの父、レンナイト公爵ガレイルが、ザイルを屋敷に招いた日、てっきり彼は夕食も共にするのだと思っていたのだが、いつの間にか帰ってしまっていた。加えて、父と母もまた何やら話しており、彼らが一体何の話をしたのか、聞くことさえも出来なかった。もしかしたら、と思ったから。もしかしたらザイルは、自分の婚約についての話をしたのではないか、と。
まあ、翌日聞いてみたら全然違っていたわけだが。
でもそのおかげで、……自分で、お父様とお母様に言うことは出来たわ。
ランドルとの婚約を解消してもらうわけにはいかないか、と。学園での彼の言動を告げるわけにもいかず、ただ自分は彼の婚約者には、しいては未来の正妃には向いていないようだと、そう父に告げた。そんなただの我が儘を、聞いてもらえるはずもないと分かっていたけれど、どうしても伝えておきたかったから。自分の気持ちを。
予想に反して、父はただ『そうだろうな』と悔しそうな顔をして呟いていた。
……もしかしなくても、お父様は知っていたのかもしれない。わたくしと、ランドル殿下の現状を。ランドル殿下の素行を。
『だが、すまない、ラティ。国王に私から解消を願い出ることは、出来ないんだ。もっと決定的な何かがあれば、話は違うかもしれないが……』
申し訳なさそうに言う父は本当に悔しそうで、しかしなぜ、婚約の解消を願い出ることが出来ないのかは、教えてくれなかった。国王が父の顔色を窺っているのは、周知の事実だったため、ランドルについての不満を言えば、彼との婚約は簡単に解消されるのではないかと、ラテルティアはずっと思っていたのだが。
一体、自分たちの婚約にどんな意味があるのだろうと考えていたら、太腿の上でザイルが身動ぎ、横を向く。膝の方へと顔を向けるものだから、一瞬、長椅子から転がり落ちるのではないかと、ひやりとしたが、落ちることはなく、規則的な寝息はゆるやかに続いていた。
……お疲れのようですわね、ザイル殿下。
見れば、目元にうっすらと隈が出来ている。あまり眠れていないのかもしれない。休憩をするために訪れているこの場でも何かを調べているくらいだから、屋敷に戻っても忙しくしているのだろう。執務を何もしていないと聞いていたが、彼の現在の様子を見るに、あの噂はやはり、ザイル自身が情報を操作していたのだろうとラテルティアは一人、確信していた。
そもそも、普段から机仕事に慣れていない方だったら、資料に向き合うことすら難しいと思いますもの。なのに、殿下は手馴れた様子で資料を読んで、まとめてを繰り返してらっしゃる。……一体、どこからどこまでが彼が造り出した彼なのでしょうか。
分からないな、と思いながら、頬にかかった黒い髪を指先で払ってやる。そういえば、以前に比べて肌もかさかさと荒れているような、と思いながら、気付けばその頬に触れていて。
ふいに、扉が開く音がした。
「ザイル殿下、ラテルティア嬢。時間ですよ。……あれ? 殿下、まだ寝てんすか?」
ザイルの乳兄弟だという茶髪の青年、ジェイルは、起き出さないザイルの様子に驚いたように言い、こちらを見てくる。ラテルティアが頷けば、驚愕を絵に描いたような顔になり、足音を立てないようにこちらに歩み寄って来た。
「うわ、まじですね」と、ジェイルがやはり驚いたように言った。
「殿下、完璧に寝ちゃってんじゃん。珍しー」
面白そうに言うジェイルに、ラテルティアは首を傾げる。彼はいつも、こうして眠っていると思うのだが。
そんなラテルティアの疑問に気付いたのか、ジェイルはこちらを見て「確かに、いつも寝てるは寝てるんですけどね」と、続けた。
「殿下、ご家族や俺みたいな昔から知ってるヤツ以外の前じゃ、浅くしか寝ないんですよ。ほら、いつも俺が来たら、扉を開ける前とかに目を覚ますでしょう? 講義中も、寝てるふりして考え事してる場合が多いみたいだし。よっぽどラテルティア嬢を信頼してらっしゃるんですね」
にやにや、と効果音が付きそうな笑みは、普段のザイルによく似ていて。確かに彼らは乳兄弟なのだな、なんてどうでも良いことを少し思った。それにしても。
……信頼、してくださっているの? わたくしを?
ここ一週間程度は確かに共にいることも多いが、それ以前は昼休憩の間に話したり、それこそ枕になっているだけだったというのに。そんな自分を、信頼してくれているなんてこと有り得るのだろうか。
彼には迷惑をかけてばかりだというのに。
そもそも殿下に声をかけて頂いた時も、わたくし泣いていたのじゃなかったかしら……。ということは、殿下は見るに見かねてわたくしに声をかけてくださったということで……。それに、泣いて、殿下の服を汚してしまったこともあるし……。
酷い泣き顔を、見られたことだろう。二度も。
この、誰が見ても格好良いと声を揃えて言うであろう、青年に。
「……今更、恥ずかしくなってきましたわ……」
というか、よく考えたら、彼はいつも自分の膝枕で眠っていて、彼は下からラテルティアの顔を見上げているわけで。
どうしようと、思った。
考えたら、全てが恥ずかしいですわ。ただでさえ容姿に自信なんてこれっぽっちもないのに……! 変な顔ばっかり見られてるなんて……!
思えば顔に熱が集中すると同時に、泣きたくなってきた。今更全てが遅いわけだが。
「けど、そろそろ本気で起きて頂かないとですね。ラテルティア嬢が講義に遅れてしまったら、俺が殿下に怒られるし。……殿下ー。起きてください、ザイル殿下!」
ジェイルが声を張り上げながら、ザイルの肩を揺する。ゆさゆさと、何度も何度もそれを繰り返して。
「んん……」と、声を漏らしながら、ザイルが眉根を思いきり寄せた。うっすらと目を開け、数度瞬きを繰り返す。
そんな彼を見ていたら、ほっとしたようなジェイルがこちらを向いて、「ラテルティア嬢」と声をかけてきた。
「あとは任せてもよろしいですか? 俺が起こすと、不機嫌になるんで」
にっこり、と笑って言う彼に首を傾げる。彼が起こすと不機嫌になるというのに、なぜ自分に任せようとするのか。乳兄弟として、幼い頃から共にいる彼で不機嫌になるというなら、自分なんて怒鳴られるくらいでは済まないのではないか。
先程まで顔に集まった熱はどこへやら、そんな不安を込めてジェイルを見れば、彼は楽しそうな笑みを浮かべたまま、「ラテルティア嬢なら、大丈夫ですって。じゃ」と言って身を翻してしまった。
「じ、ジェイル様!」と思わず声を上げ、彼の背中に縋るような視線を送る。
「……ジェイル?」と、僅かに不機嫌そうな声が聞こえたのは、その直後だった。
「何だ、もう来たのかあいつ……。もうそんな時間か……」
呟く彼は、いつもよりも随分とぼんやりとしているようだった。ゆっくりと身を起こしたあとも、しばらく片手で顔を覆って、静かに座っていて。
本当に、余程眠かったのだろうと思った。座っている今でさえ、僅かに身体が傾きそうになっては、再び起こすというのを繰り返しているから。
「あの、殿下」と、ラテルティアがそんな彼に声をかけたのは、見るに見かねて、というのが本音である。骨ばった指の間から、彼の赤い瞳がこちらを向いた。
「わたくしの次の講義は、前回の講義の復習だと聞いておりますの。ですから、わたくしは必ず出席する必要はないと言われております。一応、いつも真面目に講義を受け、講師の先生の覚えも良いので」
視線から、だから何だ、と言いたげな色が見て取れる。ラテルティア自身も、なぜ自分がこんなことを言い出したのか分からず、「ですから、その」と視線を周囲に彷徨わせて。
意を決して、「次の講義、お休みしませんか?」と問い掛けた。
「殿下、とても眠たそうですし、わたくしで良ければ枕になりますので。……あ、もちろん殿下が講義に出席すると言われるのでしたら、気になさらないで結構なのですが……」
しどろもどろに言い募るラテルティアを、ザイルはしばらくじっと見つめていたけれど。
急に、ふっと息が抜けるような笑みを零した。
「お前がそこまで言うなら、言葉に甘えさせてもらう。……一限だけで良い。……もう少し、寝かせろ……」
言うが早いか、いつもの膝枕ではなく、彼はこてんとそのまま、ラテルティアの肩に頭を載せて。
すー、すーと、またゆったりとした寝息が聞こえ始めた。体重を預けられ、なかなかに重い。けれど。
さらさらと頬に触れる少し硬い黒髪に、いつもよりもずっと近くで聞こえる寝息。触れる面積は、おそらくいつもよりも狭いというのに。
なんか、すごく、照れるというか、恥ずかしいというか。……何なんでしょう、この感覚。
どきどきと鳴る心臓に、内心で首を傾げた。そのまま、ラテルティアはザイルが目覚めるのを、自らもうつらうつらしてその頬を彼の頭に預けながら、大人しく待っていた。
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