第10話 執着心。

 執務室の窓の外には、すでに月がふっくらと輝いている。もうじき満月だろうと考えながら、ふと思う。確か学園の舞踏会は満月の日に行われているはずだ。もっとも、自分は行く気などないが。

 ただ、彼女がまた一人であのバルコニーにいるかもしれないと思えば、心が揺れた。


 ……まあ、この仕事が片付くまでは無理に決まってるがな。


 思い、休憩と称して椅子に深く腰掛けていたザイルは、深く溜息を吐いた。

 交渉事には慣れているとはいえ、さすがに国家間の事業計画に首を突っ込むのは些か疲れる。何か一つでも間違えば、一気に国同士の関係が悪化する。第二皇子という肩書を持つ自分が関わっていれば、尚の事。そんなことになれば、兄や義母が悲しむだろうから、面倒臭いことこの上ないが、真面目に取り組むしかなかった。

 執務机に向き直り、ぱらぱらと、机に並んだ何冊もの資料に目を通していく。昔から大量の資料を読み込んでいたため、こうして文字列を視線で撫でるだけで内容を把握できるようになった。気になった個所はもちろん、しっかりと読み込むけれど。

 この三週間で、関係のある三つの領地についてはおおよそ把握できた。他国のことのためにここまで深く掘り下げるのは初めてだったが、それもまた面白かった。多少、寝不足気味ではあったが。


 カーリネイト辺境伯がごねた理由も分かったからな。


 思い、ザイルが独自にまとめた手元の資料へと目を移す。

 カーリネイトは元々、その立地からフィフラルとの争いごとの最前線に位置する場所だった。今でこそフィフラルとラティティリスの間では争い事も少ないが、ザイルの祖父の時代には頻繁に諍いが起きていたという。つまり、カーリネイトの中でも、フィフラルに近い場所に住み着いた者たちは、農民ではなく騎士や傭兵などが多かったのだ。

 もちろん、彼らも少しずつ農民と同化し、現在は立派に働いているわけだが、近年、決して狭くない地域で長雨で不作が続いているという。他の地域の者たちは元々の農民だったため、伝え聞いた話を大事にし、長雨を何とか凌いでいるらしいが、歴史のない民はそう上手くもいかず、状況も改善していないということだ。


 辺境伯は領民思いらしく、税も従来より随分と軽くしているらしいが……、それだけでは足りねえ。


 おそらく、カーリネイト辺境伯は、国から与えられた金銭や、通行料として取った金銭を税収の代わりにするつもりだろう。民への補償にも使われるだろうし、道を作る際はそれに伴って人の手も必要になり、農民たちに仕事を与えることも出来る。だが、しかし。

 不作はすでに、何年も続いている。金銭よりももっと根本的な解決を行わなければカーリネイトに未来はないだろう。


「……あれを使ってみるか」


 ふと、思い出してザイルは呟き、手紙を書き始める。最後にすらすらとサインをし、封筒に入れると、顔を上げてジェイルを呼んだ。

 名を呼ばれたジェイルはすぐさま姿を現し、「お呼びですか?」とザイルの前に立った。


「これを送れ。なるべく早い方が良いだろうな」


「これを、どこに……。ああ、ノイレスさんの所にですか。……え、でも何で今?」


 不思議そうに首を傾げるジェイルを、ザイルは面倒臭そうに手で追い払う。「いいから、さっさと行け」と言えば、彼は渋々部屋から出て行った。

 本当に、他者に気を遣うというのは面倒臭い。なぜ他所の国の領地の未来まで、自分が考えてやらねばならないのか。エリルがそれを望まなかったら、放っておいたのだが。


「……まあ、今回の件は、俺にも利点があるからな」


 丁度良かったと思うことにしようと、ザイルは次の資料に向き直った。

 切実な思いのあるカーリネイトとは対照的に、ティフォールはそれほど真剣に今回の権利を求めないだろう。鉱山資源のあるこの領地は、採掘の量をしっかりと管理しているらしく、国内でも有数の潤った場所だからだ。領民のほとんどは鉱山へと働きに出ており、道を作る際に手を取られることをティフォール伯爵がよしとしないはず。金銭面でもそれほど困っていないようなので、あくまでも交渉の対象である、という程度の認識で問題ないだろう。

 そして最後が、ザイルが最も今回の件に相応しいと考えている、ネイリスである。ラテルティアの親族であるということもあるが、それ以前に丁度良いというのが本音だった。


 カーリネイトの領民と俺が直接交渉できるならば、道路用地を買い叩くことも出来たから、一番良かったんだがな。


 交渉相手は辺境伯で、彼は領民思いときている。なるべく高く土地を売り、領民に還元しようとしているのが見て取れた。反対に、ネイリスはそのほとんどが農耕地であり、ここ近年は大きな不作の年もなく、税収も安定している。それほど安く土地は仕入れられないだろうが、相場よりも高く買う必要もない。向こうとしても同じ考えだろう。

 加えて、あのレンナイト公爵とも仲が良いと言われている伯爵だ。土地で金銭を得るよりも、道を作ることによって得られる利益を優先するのではないだろうか。少なくとも、ザイルならばそう考えるので、考えに相違がありそうならばそちらに誘導していくだけである。

 全てが上手くいくとは思っていないが、もう少し資料を揃えれば話をこちらの都合の良いように持って行くことも出来るだろう。思い、ザイルはそれぞれの領主たちに手紙を書くことにした。ザイル自らが会い、交渉を進めるために。

 自分がここへ来てから、すでに三ヶ月半。父である皇帝に頼み、こちらにいることが許された学園の卒業までは、あとたったの二カ月半である。なるべく早い内に、問題は解決しておきたかった。


 ……と言っても、今日からしばらくは、もう少し休めるな。


 三通の手紙に封をして、ザイルはくわりとあくびを漏らした。ザイル自身はまだ大丈夫だと思っているが、彼の身体はゆったりとした休養を求めていた。


「殿下、こちらを見ないでくださいとお願いしているのですが」


 いつもの昼休憩の時間。いつも通り膝を枕に借り、ぼんやりとラテルティアを眺めていたら、彼女がそう言って顔を背けた。白い肌が僅かに赤く染まり、困ったような表情を浮かべている。

 近頃、ザイルが彼女の顔を眺めていると、毎回こうして逃げるような素振りを見せた。何故かと訊いたら恥ずかしいからだと言われた。今更である。


「そんなに下から見上げられるのって嫌か? 今まで何も言わなかっただろうが」


 素直にそう言えば、彼女は口を噤むが、最終的に「でも、嫌なんですもの」と、しょんぼりと落ち込んだ様子で言われたから、駄目だった。なぜか本当に駄目なのだ。彼女が落ち込んだり、泣いたりするのが。

 本当に厄介な感情に捕まったものだと内心で歯噛みしながら、ザイルは「分かった分かった」と返事をした。


「こっち向いてれば良いんだろ。面倒くせぇ」


 言いながら、ザイルはラテルティアの太腿の上で僅かに寝返りを打つ。その様子に、ラテルティア自身はほっとしたように、「ありがとうございます」なんて言っているのだけれど。

 正直、こちらとしては気が気ではない。

 そもそも、仰向けに寝転んでいた状態でも、太腿は柔らかいし顔を上げればどうしても胸が目に入るし、想いを自覚した段階ですでに生殺しみたいなものだったというのに。


 視界に胸が入らなくなってちょっとはマシかと思えば、太腿が顔に当たって余計に柔らかいし温かいし、どっちもあんまり変わらねぇ……。


 ならば膝枕をやめろとジェイルに言われそうだが、それはそれで嫌だと思う自分が浅ましくて嫌だった。自分でも驚くほど、自分が情けない気がした。


「傲慢とか傍若無人とか、聞いて呆れる……」


「……? 殿下、何か仰いましたか?」


 ぼそりと呟いた言葉を拾ったラテルティアが訊ねてくるのに、「いや、何でもねぇ」とだけ答えておいた。

 交渉の仕事が舞い込んで来たために、しばらくは昼休憩の時間も短くなっていた。だが、あとはそれぞれの領主たちからの返事を待ってから、本格的な交渉という段階であるため、ここ数日はまたこの部屋に来ると同時に、彼女に膝を借りて眠っている。雑念を必死に追い払う作業が増えたが、それはもう仕方がないのだと諦めていた。

 ラテルティアの纏う香りは甘く、眠る寸前はいつも、何かの花に添い寝しているような感覚になる。不思議なほどに、彼女の傍ではよく眠れた。自分で思うよりも余程、自分は彼女に気を許しているのだろう。

 彼女の方も、外を見ることがかなり少なくなった気がする。そして、それと反比例するように、こちらを眺めている気配が増えたように思う。稀に、髪や頬に触れられていることには気付いていたが、目を覚ませばやめてしまいそうなので気付かないふりをした。

 ただ、自分を起こしたくないのは分かるが、産毛を撫でるように触れるのは真剣にやめてもらえないかと心の中だけで思う。いっそのこと、触るなら触るでがっつり触って欲しい。ぞわぞわして色々と困るのだ。誘ってるのかと問いたくなる。まあ、言えもしないし、ラテルティアに限ってそんなわけもないだろうから、耐えるしかなかったが。

 まだ、彼女はランドルの婚約者のままなのだ。滅多なことを口にするべきではないのである。


 それこそ、国同士で諍いになるかもしれねぇからな。……レンナイト公爵でさえ解消できない婚約、か。そんな婚約者を無理矢理連れ帰ってみろ。下手すれば戦争だな。


 自分の行動一つでそのようなことになるのは、さすがにザイルとしても本意ではなかった。


「ラテルティア、聞いても良いか。お前の婚約について」


 ふと、そういえば彼女自身は何か聞いていないだろうかと思い、そう訊ねてみる。こちらからは顔が見えなかったが、彼女はいつも通り淑女然とした口調で、「わたくしで分かることであれば」と答えた。


「お前の婚約は、レンナイト公爵の意志でも解消されないと聞いた。お前と王太子が婚約することに、公爵の後ろ盾以外にも何か意味があるのか?」


 今の所、国王がこの婚約にこだわっている理由は分からないまま。未来の正妃とはいえ、相手が解消を望んでいるのにそれに応じないというのはいかがなものかと思う。それも、自分の息子が原因だというのに。

 ラテルティアが、少し驚いたように息を呑むのが聞こえた。「知ってらっしゃったのですね」と言われたから、「何がだ」と問い返す。分からないから訊いているのだが。そう思ったが、ラテルティアが「婚約の解消が出来ないということを、ですわ」と言うので、なるほどと思った。そういえば、彼女に何も話していなかった。レンナイト公爵と話したことについて。


「以前、公爵と話した時に聞いた。王太子の、お前に対する扱いを知っているかと訊いたら、知っていると答えた。だが、自分では婚約を解消出来ないと言っていた。それ以上は何も聞けなかったが、お前なら何か知っているかと思ってな」


 言いながら、顔をそちらに向けようと身動ぎしそうになり、慌てて動きを止める。顔を見られるのが嫌だと言っているのに、見ようとするわけにはいかないだろう。表情の変化を目にしたいが、仕方がない。

 ラテルティアは「そうでしたか……」と呟くと、少し間をおいて、「わたくしも、同じようにお父様に言われました」と口を開いた。


「なぜなのかは教えてくれませんでしたが、どうしても気になって、ずっとお父様に仕えている執事に話を聞いてみたのです。……どうやら、お父様と国王陛下は、お母様を巡って色々あったようですわ」


「公爵夫人を巡って? ……ああ、そういや公爵夫人は、元々国王の婚約者候補だったとか書いてあったな」


 つい先日呼んだ、ネイリス伯爵についての資料を思い出す。伯爵の妹である公爵夫人は、その華やかさと才覚、祖母が時代の王の妹だったという血筋から、当時の王太子だった国王の婚約者候補だったとか。もちろん、周りにはもっと位の高い令嬢も多くいて、最終的には侯爵家の令嬢であった現正妃が選ばれたとされているが。

 ラテルティアは「そうなのです」と、ザイルの声に応えた。


「お母様はあくまで候補で終わりましたが、どうやら陛下のお心はお母様にあったようで……。お母様は当時からお父様を愛しており、自ら候補を外れることを志願したのだと聞きました。陛下は泣く泣くお母様を諦めたという話ですわ」


 そこまでは、よくある話ともいえるかもしれない。だが、問題はそこからである。

 公爵夫人のことをどうしても忘れられなかった当時の国王が、公爵夫人を諦める代わりに、公爵夫妻と誓約を交わしたのだという。その内容と言うのが。

 公爵夫人と同じ色を持つ娘が生まれた時は、必ず次代の正妃にする、というものだったそうだ。


「わたくしは今まで、わたくしの婚約は、わたくしが一番、王族と血が遠い容貌をしているからなのだと思っておりましたが、どうやら本当の理由はそちらのようです。色は違えど、華やかな母に似た姉の方が良かったのではないかと思うのですが、陛下が、むしろわたくしが母に似ていなくて良かったと言っていたと、お父様が話していたらしいですわ。……余程お母様を好いていらっしゃったのでしょうね」


 自分が欲した者を得られなかったから、せめて自分の子に相手の子を娶らせよう、ということだそうだ。

 あまりの執着心に、知らず頬が引き攣った。厄介な感情だとは自分も思っているが、拗らせるとそこまで酷くなるのか。恐ろしい。

 美談にするにはあまりにも独り善がりな話に、ザイルは「そういうことか」と深く息を吐くが、何がそういうことなのかは上手く理解できなかった。


 まあ、つまり、国王の側で婚約を解消するということは有り得ねぇということだな……。そこまで愛した女の娘が相手だから、王太子が余程のことをすれば、また話は違うかもしれねぇが。


 余程の事ねぇ、と考えながら、ザイルはラテルティアの膝の上で目を閉じ、ひとまず眠りに落ちることにした。

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