第11話 助けの手。

 いつの間に、忘れていたのだろう。そう、ふと思う。もしくは、思い出さないようにしていたのだろうか。あまりに穏やかな時間が、嬉しくて、心地良くて。

 世界が変わるのは一瞬の出来事なのだと、自分は確かに、知っていたはずなのに。


「ザイル殿下! ザイル殿下ー! ザイル殿下! ザイル殿下、いらっしゃいますか!」


「うるせぇ! 騒いでんじゃねぇ!」


 執務室で仕事をしていたザイルは、廊下を大声をあげながら徐々に近付いてきて、ついにはノックもなしに扉を開けたジェイルを思い切り怒鳴り付けた。おそらく、ザイルでなくても怒鳴りたくなったと思う。休日の、まだ朝もそこそこ早い時間から、騒がしいにも程があるというもの。

 しかしそんなザイルの対応を気にも留めず、ジェイルはザイルの姿を視界にとらえると、慌てた様子で駆け寄って来た。


「エリル殿下がいらっしゃいました」


「…………は?」


 息が、止まるかと思った。


「ああ、来たか。ザイル。久しぶりだな」


 読んでいた書類を机の上に広げて、いつもよりも随分と早い足取りで応接間の扉を開いたザイルは、ジェイルが冗談を言ったわけではないと気付き、目を瞠った。本当に、いるとは思っていなかったから。

 応接室のソファに腰掛け、「驚いたか?」と言って笑うエリルに、ザイルはその表情を一気に緩め、「はい」と頷いた。

 黒く長い髪を頭の後ろで束ね、側妃である母譲りの緑色の瞳を持つ、鋭い刃物を思わせる怜悧な美貌の青年。二つ年上の兄、フィフラル帝国の第一皇子であるエリルは、家族以外にはまず見せることのない柔らかい笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「顔を見たくて、来てしまった。驚かせてすまなかったな。元気にしていたか? ほら、座れ」


 エリルはそう言って自分の向かいの席を指し示す。ザイルは「ありがとうございます、兄上」と応え、示された席に着いた。


「俺はこの通り、元気です。兄上こそお疲れでしょう。道中、何も有りませんでしたか? 義母上はお元気ですか?」


 普段とは全く違う丁寧な言葉で訊ねれば、エリルはそれを当たり前のように受け取り、「ああ、何もなかったし、母上も元気だ」と言って笑った。その言葉に、ほっと息を吐く。少なくとも、彼がこうして国を離れることが出来るくらいには、フィフラル帝国は平和であるということだから。

 使用人が二人分の紅茶を用意して去って行く。部屋の中には二人の他に、エリルの護衛兵と従者、そしてジェイルだけが残った。


「兄上、俺に何かご用でしょうか? 兄上がわざわざ顔を出すくらいです。あの道路計画に、大幅な変更などがありましたか?」


 現在、目をつけていた三つの候補地の領主たちと、それぞれ交渉を行っている。もし変更のためにその交渉が不要になったり、むしろ邪魔になったりするのであれば、すぐに対応しなくてはならない。思って訊ねれば、エリルは笑って「いや、そうじゃない」と呟いた。


「計画に変更はないし、交渉についてはお前に任せている。私が今日、ここに来たのは別件だ」


 言うと、エリルは控えていた従者に視線を投げる。従者は一通の書状を取り出し、エリルに渡した。「ここに来る前に、城に届けられた」と、エリルはそれをザイルの方へと差し出した。

 一体何なのだろうと、ザイルはそれを受け取り、視線だけで文字列を追う。行が進むにつれて、ザイルの眉間には深い皺が刻まれていった。

 「なるほどな」と、ザイルはエリルの前では決して口にしない、粗野な口調で呟いた。


「俺がラテルティアに構っていることが、余程気に食わないと見える。俺ではなく、父上にこんな書状を送るとは」


 その書状は、フィフラル帝国の皇帝に宛てたものだった。そしてそれを書いたのは、ラティティリス王国の国王。内容は、要約すれば、『フィフラルの第二皇子が、王太子の婚約者に必要以上に構っている。これは国家間の争いの種となることも考えられるだろう』というようなものだった。邪魔者を排除するのには、有効な手だといえよう。


 情報元は社交界か? ランドルが直接話したことも考えられるが……。ラテルティアの王冠としての価値を、そうやすやすと奪われたいはずがねぇ。……国王も同じだろう。


 一週間ほど前にラテルティアから聞いた、彼女の婚約にまつわる話。その時はただ、国王の執着心に表情を引きつらせていたのだが。

 よくよく考えれば、それはかなり理にかなっているのだ。

 国王が公爵夫人に懸想していたのは本当かもしれないし、嘘かもしれない。問題は、当時婚約者候補であり、次期正妃だったかもしれない彼女との婚約を取りやめて欲しいと公爵が願い出たことにある。当時、公爵と公爵夫人はすでに恋仲ではないかと噂されており、それを知ってか知らずか、公爵夫人は婚約者候補の筆頭とされていたそうだ。だからこそ、だろう。その時はおそらく次期公爵という立場であっただろうが、レンナイト公爵の嫡男が直々に願い出たのだ。

 少し頭を働かせれば、それはとても都合が良かったのだろうと分かる。ザイルが調べさせた情報によると、レンナイト公爵家は、現在の公爵がまだ嫡男であった頃から、すでに筆頭公爵家としての力を持っていたのだから。


 王族に力のないこの国だ。恋い慕う相手を泣く泣く手放すがゆえの誓約、という形を取って、婚約者候補から外すことを条件に、王太子に確実な後ろ盾を作ったと考えれば、頷けるからな。そしてそれは、現在の国王もまた、レンナイト公爵と懇意にしていると見せつけるにも都合が良い。


 公爵夫人と同じ色を持つ娘、という条件だったようだが、あれも公爵夫人を思っていたという偽装とも考えられた。おそらく同じ色を持つ娘が生まれずとも、結局は公爵夫人の娘を王太子の婚約者に据えるつもりだっただろう。それこそ、今度は面影を追うようなことを言って。どんなことをしてでも、レンナイト公爵家という後ろ盾を得る機会を、逃すとは思えなかった。

 だからこそ、国王は絶対にラテルティアを手放すわけにはいかないのだ。こうして、自分への忠告という形ではなく、国家間の関係悪化をちらつかせて、父である皇帝に直接書状を送るくらいには。


 国王は、ランドルの、ラテルティアへの扱いをどのくらい知っている? 全てを知っていながら、こうして彼女の身柄だけを確保しようとしてんのか?


 そうだとしたら、これ以上なく性質が悪い。彼女への扱いもそうだが、あのくらいでは婚約解消は有り得ないと言っているも同然だから。

 どちらにしろ、これ以上、自分は彼女の傍にいるべきではないのかもしれない。自分のせいで国同士の関係が悪化したと思えば、きっと彼女は傷つくだろうから。

 そう、黙り込んで考えていたザイルは、そんな自分の様子を見ていたエリルが、どこか楽しそうに微笑んでいることに気付かないでいた。


「お前がそこまで女を気に掛けるとは珍しいな。娼館通いの噂を作るためだけに娼館を全部屋借り上げて、女を抱くこともなく仕事をしていたお前だ。余程気に入ったと見える」


 ふふ、と笑うエリルに、はっとザイルは顔を上げる。「それは」と口を開き、何と応えようかと珍しく戸惑う。

 エリルはその様子を笑い、「それで?」と言った。


「確か、銀髪に青い目だったか? 一度、王太子の婚約者として挨拶したことがある。とても珍しい色合いだったが、……まあ、探せばいないこともないだろう。それとも、容貌の方を気に入ったのか? それほど特徴があるわけではなかったから、逆に捜すのが難しいな」


 すらりとした長い足を組みながら、エリルはそう言葉を続ける。しかしその言葉の内容に、ザイルは僅かに目を細めた。「兄上、何を仰っているのです?」と問えば、エリルは軽く首を傾げて「お前に、分からないはずがない」と呟く。

 うっそりと、彼は笑った。


「何、どうせ王太子の婚約者なのだから、お前のものにはならんだろう。わざわざ国王から抗議文が送られてくるくらいだからな。代わりのものを捜してやろうと思っただけだ。思い入れのある相手と似た姿なら、どうでも良い相手よりは受け入れ易かろう」


 どうだ、とでも言うように、彼は冷たい笑みを浮かべる。支配する者ゆえの傲慢さを存分に孕んだ、艶やかな笑み。

 いつものザイルならば、兄の言葉に素直に頷いただろう。どんな嫌事も、彼の示したことだと思えばそれに従うのが自分であると、ザイル自身がそう思ってきたから。けれど。

 奥歯を強く噛み合わせた後、ザイルは深く呼吸をし、笑った。「有難いお話ですが」と、言いながら。


「俺は、ラテルティアが欲しいのです。似た誰かではない。彼女は彼女しかいない」


 彼女は一人しかいないのだ。色が似ていようが、容貌が似ていようが、性格が似ていようが、彼女でなければ意味がない。そう、初めて思ったのだ。だからどうにかして、彼女に自由を与えたかった。彼女の心が自分にないとしても、それでも。

 エリルはしばらく、何の表情も浮かんでいない顔でザイルを眺めていた。まるで、何かを窺うように。

 そして次の瞬間には、彼の顔にはとても楽しそうな、そして嬉しそうな笑みが浮かんでいた。


「本気なのだな。隣国の王を敵に回そうと、それを父や母、私が拒もうと、その少女を選ぶと言うのだな?」


「……はい。少なくとも、彼女のために俺が出来ることは叶えたい。彼女の想いは俺にはないので、無駄なことのように思いますが」


 父や義母、兄の意志に反してでも。そう思ったのは、初めてのこと。

 自分の想いが彼女にあることだけは、本当だから。たとえ彼女の想いが自分にはなくとも、その願いを叶えてやりたい。

 真っ直ぐにエリルを見ながらそう言えば、彼はやはり笑みを浮かべたまま、「そうかそうか」と相槌を打った。


「それならば、仕方がない。可愛い弟が、やっとその気になったんだ。私も、この国との関係が悪化しないために、穏便に王太子と件の令嬢の婚約をどうにかする手伝いをしなくてはな」


 先程までの冷たい笑みとは一転して、にこにこと嬉しそうに笑う兄の一言に、思わず苦笑を漏らす。エリルという人は、こういう人だ。弟である自分を愛し、国を愛する人。その見た目に反し、その心はザイルよりもずっと優しく、温かい。

 だがおそらく、先程彼が言ったのも、本気の言葉だった。加えて、今回の件自体も、もし婚約解消を目論むことにより、国に取り返しのつかない損害が出ると彼が判断していたならば。

 自分は今ここで、彼に切り捨てられただろう。

 それが、自分と彼との、決定的な差である。

 優しさと厳しさを同時に持ち、身内さえも切り捨てることが出来る。フィフラル帝国の第一皇子、エリルとはそんな人物だった。


「ほら、ザイル。お前のことだ。何かしらの計画はあるのだろう。話せ」


 本気でザイルの手伝いをしようというのか、それともおかしな計画であればそれを阻むためか、エリルはそう言って優雅な動作で紅茶を口にする。その目がやはり面白そうな色に染まっているのを見て、ザイルは苦笑交じりに口を開いた。


「大した計画ではありませんが……。現在、王太子は婚約者であるラテルティアを蔑ろにした挙句、別の庶民の少女に熱を上げている様子。舞踏会では同じ控室に入っていくのを見かけたとの情報もあり、もしかしなくてもすでに手を出しているでしょうね」


 加えて、その情報元は一人や二人ではない。その情報自体が疑われることはないと言って良い。


「まあそれでも、相手がただの庶民ならば、最低ではありますが王族の意向として全てをなかったことにすることも容易いでしょう。……ですがこの庶民の少女の出自を調べたところ、面白いことが分かりまして」


 確かに、彼女の父はラティティリスの商人だった。しかし、彼女のフィフラル人の母というのが。


「彼女の母親、……先代のセンディンズ辺境伯の娘なのです」


 フィフラルの南西にある領地、センディンズを治める領主。現在、唯一ラティティリスと繋がる確固とした道があるため、交易により人が集まり、かなり豊かな土地柄である。

 エリルはその口許に笑みを浮かべていた。「ああ、そういえば聞いたことがある」と言いながら。


「先代のセンディンズ辺境伯の娘は、ラティティリス人と駆け落ちしたんだったか。しかも辺境伯には娘しかおらず、婿を迎えるつもりだったから、必死に捜していた。今は養子を迎えて位を譲っているがな」


 「なるほど、そういうことか」と言って、彼はまた冷たい笑みを浮かべる。やはり、彼は気付いたようだと思いながら、ザイルは頷いた。


「センディンズ辺境伯家には、三代前の皇女が降嫁しております。フィフラルにおいてもかなり位の高い家と言って良い。庶民の育ちとはいえ、他にはない気品がある少女です。舞踏会で話したことがあるのですが、横顔に先代の辺境伯の面影がありました」


 いくら庶民であるとはいえ、その血筋は確かに貴族のもの。しかも、ラティティリスよりも遥かに強国とされる、フィフラルの皇家の血を引いている。そんな少女に手を出したのだ。責任を取るべきではないかと、そう詰め寄る計画だった。最初は。


「ですが、それでは弱いのではないかと考えていたところでした。先代の辺境伯の娘だと母親に認めさせることは出来ますが、わざわざ正妃に添えずとも良いとされる可能性が高い。婚約を解消するには、もっと決定的な切り札が必要かと」


 国王からすれば、レンナイト公爵家の後ろ盾は絶対に譲れないだろうから。それに代わる、もしくはそれ以上の何かを提示しなければならないはず。

 考えながら表情を暗くするザイルを、エリルは少しの間眺めていて。「ふむ」と、小さく呟いた。


「弱い札でしかないと思うならば、それを強く作り変えるだけの話だろう。お前はしばらく、国王の要求通り彼女には近付くな。私がここにいることを、国王は知っている。むしろ彼女と共にいたせいで兄に小言を言われたと、そういう素振りを見せておけ。警戒されると、こちらも身動きが取りにくくなる。……なに、可愛い弟のためだ。使えるものは、全て使うべきだと思わないか?」


 それが自分の、家族でも。

 そう言うエリルは、本当に楽しそうな顔をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る