第11.5話 これまでの日常

 今日も、来なかった。

 何もない自分の膝の上をぼんやりと見つめながら、ラテルティアは小さく息を吐いた。二週間が過ぎた。彼に、ザイルに、会わなくなってから。

 二週間ほど前の休日の夜。レンナイト公爵邸に訪れたのは、ザイルの乳兄弟であり、側近でもある青年、ジェイルだった。突然の訪問だったこともあってか、彼は公爵家の誰にも会うことはなく、ただ使用人と言葉を交わして去って行ったという。『今後、ザイル殿下がラテルティア様を迎えに来ることはありません』と。

 自分の元にその言葉が伝えられた時、ジェイルの姿はすでに跡形もなく。どうして急にそのような話になったのか、教えてくれる者は誰もいなかった。

 そしてその日の翌日から、ジェイルの言葉通り、ザイルが自分を迎えにレンナイト公爵邸を訪れることは、なくなったのだ。

 それだけではない。

 ランドルの許しが出てからの一か月間、毎日のように共にしていた食事も、それ以前から共に過ごしていた空き部屋での時間も、彼が現れることはなかった。

 一切、彼に会うことは、なくなったのだった。


 学年が違えば、会うこともないという話でしたけれど……。本当ですわね。


 廊下で擦れ違うことぐらいはあるだろう。その時にでも、話を聞けば良い。そう思って、講義室を出る度に周囲をきょろきょろと見渡して。珍しい黒い髪が目に入る度にそちらに視線を向けているのに。

 一度として、彼の姿を見ることはなかった。


 講義は受けてらっしゃるみたいですのに……。


 彼の見た目の端正さは、どうしても年頃の令嬢たちの目に留まるらしく、黙っていてもどこかで彼の噂は聞こえてくる。どの講義でも眠っていて、それなのに講師に何かを訊ねられたら完璧に答えて周囲を驚かせているらしい。教科書や資料どころか、関連書籍まで全て読んでしまったとぼやいていたから、当然だろうけれど。


 ……せめて、同じ学年だったら……。


 膝の上から、机の上に広げた本へと視線を移して思う。講義の合間にでも、彼の元へと歩み寄って、急にどうしたのかと問い掛けることが出来るのに。

 彼がここに来るかもしれないからと、毎日訪れている自分の身にもなって欲しいものだと、ラテルティアはまた小さく息を吐いた。


 そういえば、前にも一度、ありましたわね。


 一週間ほど、突然来なくなったことが。あの時も同じことを思っていた。来ないならば来ないで、先に言っておいてくれれば自分も身動きが取れるのに、と。けれど。

 今は、何も言わないでくれて良かったと思う自分がいる。お前にはもう用がないからと、あの時そう言われていたならば、そうなのかと、ただ頷いていただろうけれど。

 今、そう言われたら。


 なぜでしょう、すごく……。


「すごく、悲しいですわ……」


 本日何度目かの溜息を吐き出して、ラテルティアは次の講義に向かおうと、席を立った。


「聞きました? 今日は……」


「あら本当? まあ、お会いしたいですわぁ!」


 小鳥が囀るように、明るい声が周囲に飛び交っているのを、ラテルティアは聞くともなしに聞いていた。彼女たちが浮足立つような人物が学園に視察に来ているらしいが、興味のないラテルティアの頭には、その内容まではきちんと入って来なかった。

 あれから更に二週間が経っても、ザイルがあの講義室を、ラテルティアの元を訪れることはなかった。彼に会うまでは当たり前に過ごしていた休憩時間も、いったい何をすれば良いのか分からず、気付けばいつもの講義室へと向かっていた。

 夏に入り、随分と暑さを感じるようになった。そんな中、いつもの講義室への道のりは相変わらず誰もいなくて、空気そのものがひんやりとしている。他の令嬢たちと講義室や食堂、中庭などでお喋りをするよりは、ずっと過ごしやすい空間だ。

 いつもの講義室までたどり着き、その扉を開く。誰もいない講義室の中を、視線が彷徨うのはすでに癖になりつつある。もしかしたら、と思ってしまうから。

 もしかしたら、今日は顔を出すかもしれない。またあののんびりとした時間が戻ってくるかもしれない。そう思って、この一か月間、同じことを繰り返していた。


 ……いるわけもないのに、往生際が悪いですわ。わたくし。


 視界に入るものは何もなく、今日もまた誰もいないと思いながら、いつもの席へと歩き出したラテルティアは、数歩足を進めた後に、ぱちりと瞬きをした。まさかと、思ったのだ。

 ずらりと並んだ講義用の机と長いす。その合間に見える、行儀悪く仰向けに寝転んだ、黒い頭。


 まさか……。


 ぱたぱたと、ラテルティアは慌ててそちらに駆け寄る。知らずその顔は、期待に満ちて輝いていて。

 ぴたりと、動きを止めた。

 確かに、黒い髪ではあるが。


 ……この方、誰、かしら。


 黒く長い髪に、制服ではない、灰色のコートとトラウザーズを身に着けている。目を閉じていても分かるほどに整った容貌は冴え冴えとしており、背が高く、すらりとした体格をしていて。

 あれ、と思った。どこかで見たことがあるような。

 そう思いながら、まじまじとその顔を見つめていたら。

 ぱちりと、目が開いた。


「……ん。……来たな」


 青年はぼんやりとした声で言うと、ゆっくりとその場に半身を起こす。眠そうに瞬きを繰り返す目の色は、新緑を思わせるような明るい緑。切れ長の双眸は鋭く、その視線が真っ直ぐにこちらを向く。「ごきげんよう、レンナイト公爵令嬢」と、彼はやはりその表情と同じ、冷たい声音で呟いた。


「私が誰だか、覚えているか?」


 表情と言う表情のない顔で、彼はそう問いかけてきた。ぞくりとするようなその鋭い視線に肩を震わせ、「もちろんですわ」とラテルティアは頷く。

 過去に会ったのは片手の指でも余る程度だが、忘れようもない。この冷たい美貌も、温度のない表情も、威圧的なその態度も。

 皇族特有ともいえる、その存在感も。


「お久しぶりですわ。エリル殿下」


 言って、ラテルティアは目上の者に対する礼の形を取る。エリルはその表情を変えることもなく、こくりと一つ頷いた。


「ああ、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」


 フィフラル帝国の第一皇子であり、ザイルの異母兄。なぜ彼がここにと思うが、そういえば朝方、令嬢たちが騒いでいたのを思い出した。あれはおそらく、彼のことだったのだろう。

 ラテルティアの無難な挨拶に、エリルは当たり障りのない言葉を紡いだ。


「ここにいれば、お前に会えるとジェイルに聞いてな。弟が世話になっていたようだな。……そういえば、朝、視察をさせてもらうという話になった時に歓迎の挨拶を受けたが、ランドル殿と一緒にいなかったな。彼とは仲良くやっているか?」


 問いかけてくる彼の顔にはやはり何の表情もなく、彼がザイルに話を聞いた上でここにいるのかどうか、ラテルティアには判断がつかなかった。

 曖昧に笑って、「ええ、順調ですわ」と言えば、彼は唇の端を持ち上げるだけの、かろうじて笑みに見える表情を浮かべた。「ザイルの言う通り、嘘が下手なようだ」と言いながら。


「順調だと思うなら、もっと嬉しそうに笑うと良い。そんな顔をしていては、上手くいっていないと言っているも同然だ」


 冷たい笑みで、しかしどこか楽しそうな雰囲気で彼は言う。思わず、ラテルティアもまた、苦い笑みを浮かべた。今の言葉や態度から、おそらく彼はザイルから話を聞いているのだろうと理解できたから。

 「本当、そうですわね……」と、知らず口から零れた。


「ランドル殿下からは相手にされず、……ザイル殿下も、いなくなってしまって。何もかも、上手くいきませんわ」


 溜息を吐けば、エリルはやはり面白そうな顔をしていて。とんとんと、隣の席を手で示す。座れと言うことだろうと受け取り、ラテルティアは「失礼いたします」と言って、椅子に座った。エリルから、人がゆっくり二人座れるくらい、間を開けて。

 「ランドル殿は知らないが」と、エリルは机に頬杖をつきながら言う。その気だるげな様子がいつかのザイルの姿と重なって、やはり兄弟なのだな、なんて少し思った。


「ザイルは少なくとも、お前のために動いている。……少々面倒な相手が介入してこようとしたために、お前とは距離を置いているだけだ。興味を失ったふりでもしておかなければ、手の打ちようが難しくなるからな」


「……え?」


 エリルの言葉に、ラテルティアはきょとんと目を見開く。「本当は言うなと言われているんだがな」と、彼はまたにっと唇の端を持ち上げただけの笑みを作った。


「お前は嘘が下手だから、と。だがまあ、この一か月で演技じゃないのは伝わっただろう。監視の目も減っただろうから、このままお互いに会わない状態を継続していれば、それで良いはずだ。……そういえば、先程お前が私の元に駆け寄ってきたのは、私がザイルではないかと思ったからか?」


 ふと思い出したように問うてくるエリルに、ラテルティアは目を見開いた。それと同時に、かっと顔に血が上る。まさか、起きていたとは。

 確かに、彼の言う通りだった。黒い髪を見て、ザイルがまたこの場を訪れてくれたのではないかと期待して、駆け寄った。それはラテルティア自身も自覚していた。なぜ自分から離れてしまったのか、教えてくれるかもしれない。また彼と過ごせるかもしれないと、そう思って。

 しかしそれに素直に頷くのもなぜか気が引けて、赤くなった顔で口を何度も開閉させながら、何と答えるべきかと考えて。

 くっくっと、今度はエリルが本格的に笑いだしてしまい、ラテルティアは固まった。それはそれは、楽しそうな様子。彼がここまで感情を表に出すのを見るのは、初めてのことだった。

 というよりも、正直に言うとラテルティアからすれば、彼に感情があったことそのものが驚きなぐらいである。このエリルという青年は、感情を表に出さない人物として知られていた。

 そして、そんな彼に何でここまで笑われているのかと、ラテルティアは首を傾げるしかなかった。


「ああ、なんだ。あいつの考えすぎだったか。あれだけ自分は想われていないと言っていたから、様子見がてら売り込みに来たつもりだったが……。随分と正直な娘のようだ。わざわざ私が出て来る必要もなかったな」


 ひとしきり笑った後、エリルはそう呟いた。その言葉の意味がよく分からず、またも首を傾げるラテルティアに「こちらの話だ」とだけエリルは告げる。

 かと思えば、笑みを浮かべたまま、彼はじっとこちらを見ていた。頭から爪先まで、観察するようにまじまじと。


「な、何か……?」


 思わず問いかければ、彼はやはり笑みを浮かべたまま、「レンナイト公爵令嬢」と呼び掛けてきた。


「弟は、……ザイルは、お前に何を約束した?」


 静かな問いかけ。冷たい声音に、ラテルティアは僅かに息を呑むも、「自由、ですわ」と素直に答える。

 彼は自由をくれると言った。次の婚約者が出来るまでの間の、束の間の自由を。

 王冠ではない、ただのラテルティアとして生きられる、ほんの少しの時間を。

 エリルはしばらく無言でラテルティアを眺める。真っ直ぐに、何かを見透かそうとでも言うように。

 その時だった。大きな音を立てて、講義室の扉が開いたのは。


「兄上! ここでしたか!」


 聞こえてきたのは、懐かしいとさえ感じるようになった、聞き慣れた声。それでいて、違和感のある言葉遣い。そちらを見遣れば、そこにいた予想通りの人物は、思わずというようにエリルの方からラテルティアの方へと視線を動かして。

 渋いものを口にしたような顔で、彼はその視線を外した。ずきりと、心臓の奥が痛んだ気がした。


「急に姿を消されたので、どこに行かれたのかと……。行きましょう、兄上。まだ視察は終わっていませんよ」


 整えられた髪に、首元まできちんとボタンが詰まった制服。一か月ぶりに見たザイルは、普段の粗野な様子を一切感じさせない貴公子然とした姿で、少し困ったような表情でそうエリルに言い聞かせる。これはいったい誰なのかと言いたくなるようなその真面目な様子に、しかしザイルと視線が交わることはなくて、気付けば肩を落としていた。

 何が理由かは分からない。けれど、少なくとも、彼が自分と目も合わせたくないと思っているのだけは、しっかりと伝わって来た。


 ……この様子ならば、明日からはもう、来なくて良い、ですわね……。


 彼がここを訪れることは、もうないだろう。だから。

 「ああ、そうだな」という、エリルの声が、すぐそこから聞こえた。


「だが私は、もう少し彼女との交流を深めてみたかったんだが」


 少し楽しそうな声音。不思議に思って顔を上げれば、いつの間にかエリルが空いていた席を詰め、隣に腰掛けていた。優雅な仕種でラテルティアの銀色の髪を一房手に取り、それを口元まで持って行って。

 「兄上!」という、怒鳴り声に近い大声が、響いた。


「それ以上は、おやめください」


 低く低い、地を這うような声音。驚いてそちらを見れば、ザイルは先ほどまでの貴公子然とした雰囲気を消し去り、真っ直ぐにエリルを睨み付けていた。「どうか」と呟く声は、懇願にも威嚇にも聞こえる。

 そんなザイルの様子を無表情で眺めていたエリルは、一拍の後に、くすりと笑った。


「そうか。駄目か」


 ザイルの鋭い視線を受け止めながらも、エリルはどこか嬉しそうにそう言った。「そうか、そうか」と言いながら、ラテルティアの髪を放して立ち上がると、ザイルのいる出入り口の方へと向かって行く。こつこつと、講義室の中にゆったりとした足音が満ちて。

 ぴたりと、彼はザイルの傍らで足を止めた。


「案内はジェイルに頼むから、もう良いぞ。私が食堂にでも現れれば、周囲の目を引き付けられるだろう。……話したかったのだろう? 行ってこい」


 柔らかい笑みを浮かべたエリルは、ザイルにそう命じる。僅かに不安そうな表情になったザイルは、「しかし……」と小さく反論しようとするけれど。

 ぽんと、エリルが、彼自身とほとんど高さの変わらない位置にあるザイルの肩に、その手を置いた。


「行け。まだ問題の解決まで少し時間がかかるだろう。会える時に会っておいた方が良いと思わないか? このような機会、もうしばらくないだろうからな。丁度良いから、色々と説明しておくと良い。……誤解されたままでは、自由を与えただけで取り逃がすぞ」


 それだけ言うと、エリルはこちらを向いて、「ではな。レンナイト公爵令嬢」と簡単な挨拶をし、ジェイルを伴って姿を消した。軽い音を立てて、扉が閉まる。

 後に残されたのは、座ったままのラテルティアと、立ち尽くすザイルの二人だけだった。

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