第12話 手のひらの上。

 一か月ぶりの空間。静かな空気。長椅子に腰かけたまま俯く彼女を眺めながら、ザイルは珍しく整えていた髪を、いつものごとくぐしゃぐしゃと掻き乱した。

 どうしてこうなった。

 彼女とは会わない方が良いと言ったのは兄であるエリルで、自分もまた納得したからこそそれに応じ、このひと月の間、必死に彼女のことを頭から追いやっていたというのに。

 まあ、冷静沈着そうに見えるエリルの突飛な言動は、今に始まったことではないので諦めているが。


 ……それに、ある程度の目途が立ったってのもあるだろうからな。


 ひと月前、エリルが自分の元に訪れて言った言葉。それは、出来るだけ正攻法で全てを終わらせようとする自分には思いつかなかった計画で、やはり皇帝になるべきはエリルなのだと、そう再確認できるだけの意味を持った言葉だった。

 まあ、エリルのその言葉を理解すると同時に、動いたのは全てザイル自身だったが。


 そういう、清濁併せ持った発想が、俺には足りないからな。


 エリルの助言を有難いものと認識し、このひと月、眠気を押し殺しながら動き回っていた。

 手始めに、ザイルは自らこの計画の中核、皇帝である父とその弟である叔父に、手紙を書いた。彼らの許しがなければ、とてもじゃないがこの計画を実行することは出来なかったから。

 ある意味では重要機密となるその手紙を信頼できるものに託さねばとジェイルと話していた所、エリルが自ら志願してくれた。自分が言い出したのだから、協力したいと言って。エリルが手紙を運ぶのであれば、誰に内容を知られることもなく、また余程の不注意をおかさなければ紛失の恐れもほとんどないと言って良い。これ以上ない有り難い申し出に、ザイルは素直に喜んで彼にそれを依頼した。結果、エリルのラティティリス滞在時間は一日にも満たなかった。

 そんな、フィフラル帝国の第一皇子を伝達係のようにして進んだこの計画に、ある程度目途がたったのが今日の朝のことだった。


「ザイル殿下! ザイル殿下、ザイル殿下、ザイル殿下ー!」


「…………はぁ」


 朝早くから騒ぎ立てるジェイルを怒鳴りつける元気もそろそろ尽きていたザイルは、勢いよく扉を開けて入って来た彼に深く溜息を吐いて、「何だ」とだけ答える。ジェイルはそんなザイルの様子を気にする様子もなかったが。


「またエリル殿下がいらっしゃいました。この間の返事のお手紙をお持ちだそうですよ!」


 ジェイルの言葉は、ザイルの頭にぼんやりと纏わりつく眠気を消すには十分の衝撃があった。

 エリルがザイルの手紙を持ってフィフラルに帰国してからすでに一カ月が経っている。しかし手紙の内容を思えば、もっと時間がかかることも覚悟していたので、エリルは最速で仕事を熟してくれたのだとすぐに理解した。フィフラル帝国の第一皇子である彼の多忙さはザイルもよく知っていたため、少し申し訳ない気持ちになった。

 一月前と同じ応接間に入れば、やはりエリルが前回と同じ席に座ってザイルを待っていた。「お前、ちゃんと寝ているか?」と開口一番に心配そうに声をかけてくるエリルに、自分は余程酷い顔をしているのだろうと思った。だからと言ってどうしようもないが。


「一応は寝ておりますので、ご心配なく。このぐらいはまだマシですから」


 言えば、エリルはそれでもまだ心配そうな顔をしていたけれど、ザイルがそれ以上何も言わなかったので、渋々というように「そうか」と頷いていた。


「それよりも、手紙を持って来てくださったとか。……申し訳ありません、兄上に伝達係のような真似をさせてしまって」


 間違いなく、一国の第一皇子にさせるべき仕事ではない。自分が彼の弟でなければ、すぐにでも処罰の対象となっていただろう。もっとも、自分が彼の弟でなければ、そもそもエリルはこのような計画に助言も協力もしてくれはしなかっただろうが。昨今の当主一族には珍しく、エリルもまたかなりの家族想いなのである。

 申し訳なく思いながら言うザイルに、エリルはふっと笑って「気にするな」と告げる。「私が言い出したことだ。協力ぐらいはする」と。


「そもそも私は、言い出すことくらいしか出来ないからな。今回の件に関しては、特に。……ほら、これが手紙だ。父上と叔父上、それから……」


 差し出された手紙を受け取って、ザイルは手早くその中身を確認する。ほっと、息をついた。どうやら、彼らは自分がこれから引き起こす事態を、見守ってくれることにしたらしかった。

 安堵の息を吐くザイルに、エリルが嬉しそうに笑う。「その分だと、問題ないようだな」と言う彼に、ザイルは頷いた。


「はい。これで、切り札を作り替えることが出来ました。後は細部を調整するだけです。父上から、ラティティリス国王に対する書状も用意するとのこと。おそらく叔父上が進言したのでしょう。有り難い話です」


「ダリス叔父上は気が利くからな。……お前にもっと甘えて欲しいのだろう。直接私が手紙を届けにいったんだが、お前のことを心配していた。帰国したら、ちゃんと会いに行ってやれ」


 微笑ましいものを見るような表情で言われ、ザイルは苦笑交じりに頷く。もとより、そのつもりだった。叔父であるダリスには、世話になりっ放しなのだから。

 預かった手紙類を執務室へと持って行き、ひとまず学園に向かう準備をする。手紙の返事や、計画の次の段階のための手紙や書類などの作成は、また帰って来てから行わなければならない。講義を受けながら、考えをまとめておこう。

 エリルの前でだらしない格好をするわけにもいかず、夜会の正装なみに外見を整えた。堅苦しいことこの上ないが、向こうについてから元に戻せば良い。


「俺は学園に行きますが、兄上はどうしますか? 今回はしばらく滞在されるのでしょう?」


 さすがに今回は、前回と同じようにすぐに帰国したりはしないだろうと思いながら訊ねる。フィフラルとラティティリスの首都を安全に行き来するためには、かなり遠回りをしなければならない。連日、馬車の中で揺られてきたはずだから、疲労もあるだろう。

 案の定、エリルはこくりと頷いて、「ああ、そのつもりだ」と答えた。


「お前が良ければ、ここに泊まらせてくれると有り難い。お前ほどではないが、少し疲れた。明後日には帰国するから、それまでで構わない」


 自分ほどではないと言われ、そんなに自分は酷い顔色なのかと思うも、「分かりました」と頷く。使用人たちに、早速エリルたちが使う客室の準備を命じた。半年間だけ借りている屋敷とはいえ、普段から客室は整えさせてはいるから、それほど問題はないと思うが。

 もしかしたらエリルはこのまま部屋で休むかもしれないと思い、不備があってはいけないと、事細かく指示を飛ばすザイルに、エリルはふと思いついたような顔で「視察をするのも良いな」と言い出した。何のことだか分からなかった。

 そんな思いが顔に浮かんでいたのだろう。エリルはその綺麗な顔に笑みを載せると、「お前が通っている学園だ」と呟いた。


「フィフラルの学園とは様々な点で違っていると聞いているからな。お前も通っていることだし、どうせなら見てみたい」


「それはまあ、構わないと思いますが……」


 学園側としても、自分に引き続き、エリルが訪れたとすれば良い宣伝になるだろうから、おそらく断りはしないだろうが。

 「では、本日連絡を入れて、明日にでも」と言うザイルに、エリルは首を横に振ると、にっこりと笑った。


「今からだ」


 久しぶりに、兄を目の前にして頬が盛大に引きつった気がした。

 そして、今に至るわけである。

 自分たち以外誰もいなくなった講義室。俯いたラテルティアは、こちらを見ようともしない。

 何と声をかけようかと迷ったが、そんなことを考えても無意味だと思いなおす。エリルが言うには、自分は何か彼女に誤解をさせているようだ。それが分からない時点で、何が正解かなんて分かりはしないのだから。

 かつかつと足音を立てて、彼女の元へと歩み寄る。首元が苦しかったから、いつも通りいくつかボタンを外した。エリルはジェイルに案内を頼むと言っていたし、後は大丈夫だろう。


「ひと月ぶりだな。元気だったか」


 彼女の隣に腰を降ろし、頬杖をつきながらそう訊ねる。見たところ、彼女の様子に変化はないようだ。顔色も悪くない。

 だがあまり、機嫌はよろしくないようだ。いつもならば、目上である自分に対して張り付けたような笑みを浮かべて、すぐさま挨拶を返してくるのに。

 「ラテルティア」と声をかければ、彼女はびくりとその肩を揺らして、やっとのことでこちらに顔を向ける。その顔にはどこか、捨てられた子犬のような、そんな頼りなさが滲み出ていた。

 珍しい彼女の姿にどきりとするも、彼女はザイルの顔を見ると、ぎょっとしたように一気にその目を見開いていって。「ザイル殿下!」と突然大きな声を出すので、今度はザイルの方がびくりと肩を竦める番だった。


「なんて顔をしてらっしゃいますの……! 寝てくださいませ!」


 言うが早いか、ラテルティアはザイルの腕を掴むと、ぐいぐいと自分の方へと引き寄せる。驚いて少し体勢を崩せば、今度は肩を掴まれて強引に膝枕をされた。何なんだ急に。

 目を白黒させて彼女の方を見ようとするザイルに、ラテルティアは無理やり自分の手のひらをザイルの目元にあてて、「寝てくださいませ!」ともう一度繰り返してきた。どうやら、余程顔色が悪いらしかった。


「ひと月もこちらにいらっしゃらないと思ったら、そんな顔で……。心配させないでくださいませ……!」


 怯えたように震える声。ザイルはラテルティアの手のひらの内で数度瞬きをした後、彼女の手を取ってゆっくりとそれを降ろす。「ザイル殿下!」と、窘めるように彼女が言うのを聞きながら、ふっとその口許に笑みを浮かべた。


 俺への想いなんて、全くねぇと思ってたんだが。


「……心配したのか?」


 真っ直ぐに彼女の顔を見上げて、問いかける。驚く彼女の青い目が、ぱちぱちと数度瞬いて。ふいと、彼女は顔を逸らした。「ええ、心配しましたわ」と、少し硬い声で彼女は答える。その頬が僅かに赤くて、可愛くて。ひと月ぶりに鼻孔を擽った彼女の甘い香りに酔いながら、くつくつとザイルは笑った。

 本当に久しぶりだと、そんなことを思いながら。


 なあ、寂しかったか? 会いたかったか? ……自分のことを忘れないでくれと、願っていたか?


 思わないように、気にしないように、忘れてしまったように。そうして振る舞いながらも、頭を過った存在が目の前にある。どれほど自分が会いたいと願ったのか、きっと彼女は気付きもしないのだろうけれど。

 少なくとも、今は眠りたくないと思った。少しの間だけでも。エリルの言う通り、まだ全ての物事が片付いたわけではなく、彼女と過ごすことが出来るのも、まだ先の話だろうから。

 手の中にあったラテルティアの手のひらに軽く口付ければ、彼女はまたも驚いたように目を瞠り、みるみる間にその顔を真っ赤に染める。

 可愛いなぁと、思う言葉が声に出ないように、ザイルはそんな彼女の様子を目を細めて眺めていた。


「仕事やら何やらで忙しくてな。心配かけたなら、悪かった。俺がお前に会うと、都合が悪い奴がいるみたいでな。……それも、もうしばらくしたら片付くから、そうしたらまた、ここに来る」


 ザイルがラティティリスに滞在する期間も、あとひと月程度。ここに来るのはほんの僅かな時間だろうけれど。

 ラテルティアは真っ赤な顔のまま、その目を落ち着かなそうに彷徨わせていたけれど、おずおずとした視線をこちらに向け、ザイルが握っていた自らの手をザイルの目元へと運ぶ。おそらく隈でも出来ているのだろう。なぜか彼女の方が落ち込んだようにその肩を落としていた。


「殿下の仰る仕事やら何やら、というのは、以前ここでご覧になっていたあの資料の……?」


「ああ。まあ、それもあるな。それだけじゃねぇけど」


 以前ここで見ていた資料というのは、道路事業についてのものだろう。それもまた、ここひと月の間の忙しさの一端を担っていたから間違いじゃない。


 まあそっちも、あと少しでまとまりそうだがな。


 ティフォール伯爵は三つの候補地の中で、最も現在確立している道に近い位置に領地があるため、ザイルの予想通り最初からあまり乗り気ではなかった。案の定、土地の価格も落とさず、保証金もぎりぎりまで持っていこうという心境が垣間見えていたため、早々に交渉は打ち切っておいた。もっとも、向こうも気にした様子はなかったが。

 それとは逆に、ネイリス伯爵はこの計画に最初から乗り気だった。土地の価格はかなり安く見積もってくれていたが、保証金に関しては少々交渉させてもらった。彼はレンナイト公爵と共同で、ネイリス伯爵領で作られる穀物を使った、蒸留酒の工場を作る計画をしていたため、販売ルートを確保しようとしていたのをザイルは知っていたから。そのことを指摘すれば、ネイリス伯爵はかなり驚いていたようだったが、フィフラルの諜報機関を舐めてもらっては困る。最終的には当初の三分の二程度の補償金を払うことで、道路の建設を行うことが決まった。成果は上々といったところだろう。

 あとは、カーリネイト辺境伯と少々個人的な話をすれば、今回自分に振られた仕事は終わりと言って良い。


 ……ネイリス伯と話してる時に、レンナイト公が来てくれてたのも助かった。


 レンナイト公爵に先に話を持って行っていたため、話し合いの場には彼もまた同席してくれた。その際に、もう一つの計画についても話したのだ。彼にも少し、協力して欲しいことがあったものだから。しかし彼の屋敷にザイルが出向けば、またラティティリス国王が何か言ってくる可能性があったため、あくまでもネイリス伯爵との交渉の場ということで、ネイリス伯爵邸に彼を呼び出したのである。

 その計画と言うのはもちろん、ラテルティアを自由にするためのものだったので、レンナイト公爵はすぐさま引き受けてくれたのも有難かった。もちろん、彼にも利のある提案である。彼の協力がなければ、計画の成功は難しくなっただろう。

 不安そうにこちらを見つめるラテルティアに、ザイルはくつりと笑った。


「大丈夫だ。お前へのについても、忘れてねぇから。もう少し待ってろ」


 言えば、彼女はやはり驚いた顔をする。もしかしたら、本当に忘れているとでも思われていたのだろうか。そうだとしたら心外なのだが。

 思うも、彼女がはにかむように笑って、「……待ってますわ」と言うものだから、それだけで嬉しくなってしまった。いつの間に、こんなに扱いやすい人間になったのだろうか、自分は。


 まあそれでも、踊るのがラテルティアの手のひらの上なら、それはそれで心地良いかもな。


 それが、彼女のためになるのならば。

 もっと話したいことがあったはずなんだがと思いながら、ザイルはゆっくりと目を閉じる。細い指がするすると自分の髪の間を滑るのを感じながら、久しぶりにぐっすりと、眠りについた。

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