第13話 予想外。

 手元の資料を、向かいに座る男の前に差し出す。元の色は茶色だったのだろう、そのほとんどが白く染まった老齢の男は、それを受け取って素早く目を通すと、まじまじとこちらを見遣った。

 「よろしいのですか?」と訊ねてくる男、カーリネイト辺境伯爵に、ザイルはにっと笑って頷いて見せた。


「もちろん。むしろ俺の方から頼みたい。そこに書かれている研究所というのは、俺が個人的に運営しているものでな。この品種は、実験はほとんど成功しているが、実績がない。だから、貴殿の領地のうち、特に不作となっている地域の土地を全て借り上げたい」


 『遊び歩く』と称して様々な地方で様々な知識に触れていた頃、ザイルは何人もの知識人たちと交流を持つことが出来た。その一人が、ノイレスという名の男である。変わり者で植物にしか興味がなく、年齢はザイルの一つ上。当時は十七歳だったが、その時すでにいくつかの花の新しい品種を生み出していた。ザイルが運営する研究所は、そういった知識人たちを集め、彼らが好き勝手に研究が出来るように作られた複合施設である。

 ザイルの言葉に、カーリネイト辺境伯爵は、それでも信じられないというような顔をして書類に目を通していた。

 その書類に書かれているのは、今回の道路事業には一切関わりのない、ザイルの個人的な提案である。もちろん、自分にも、カーリネイト辺境伯爵にも損のない、公平な取引だ。


「そこに書かれた麦は従来の物の二倍以上の実をつける。また、熱に強く、水にも強い。貴殿の領地でも問題なく育つだろうと思う。そのため、一か月ごとに給与という形を取り、その麦を育てて欲しい。勝手ながら調べさせてもらったが、提示した金額は、こちらで通常の麦を育て、出荷して得る一年間の収入の倍にはなるはずだ。もちろん、麦その物はこちらの物だから、買取までは出来ねぇがな」


 すらすらと、ザイルはそう説明した。元々、対外的な販売に向けて試験場所が欲しいと考えていたところだった。それも、より環境が悪い場所が良い。今回の件は、正に渡りに船というもの。加えて、従来の二倍以上と言ってはいるが、実際は三倍近くの収穫を見込める品種である。収穫の最低値を考えても、育てた麦をこちらで売れば、支出よりもその利益の方が確実に上回る計算である。


「貴殿の領地でも問題なく栽培できるとなれば、自信をもって売り出せるからな。契約は今の所、一年。次の年から、もし同じ物の種を買ってくれるなら、少し融通出来るよう話は通しておく。延長は考えていないが、もっと別の品種の開発が進めば頼むかもしれねぇ」


 どうだ、というように笑って見せれば、カーリネイト辺境伯爵は一も二もなく頷き、早々に契約書にサインしてくれた。

 新たな道路用地がネイリスに決まりそうだと言った時は、思いきり機嫌を悪くしていたようだったが、気の抜けたような笑みを浮かべているので問題ないだろう。これで全て片付いたと、ザイルはほっと息を吐いた。


「候補地それぞれの懸念事項も解決して、晴れて終了っすね。お疲れ様です、殿下」


 王都内にあるカーリネイト辺境伯爵のタウンハウスを後にして、馬車に乗ったザイルに、ジェイルは嬉しそうに笑ってそう声をかけてくる。

 だがザイルは硬い表情のまま、それに軽く頷くだけに留めた。問題はまだ、これからなのだ。


 エリル兄上に頼まれた件は、ラティティリス国王と兄上に書類と手紙を送って終了で良い。兄上の名に懸けて、中途半端な仕事はしたくなかったからな。


 エリルを筆頭とした、国同士のこれからの関係にも影響してくるような事業である。様々な意味で、妥協は許されなかった。


 まあ、当初よりもかなり予算を削減できたし、上々か。……だが、ラテルティアの件は、これでやっと話が出来る段階だ。


 先程見ていた物とはまた違う書類を手にして、ザイルは一つ息を吐いた。

 ラテルティアと久々に言葉を交わしてから、すでに一週間ほどが経っている。

 休日のために、午前中から話し合いの場をもっていたザイルは、馬車に揺られること数十分で屋敷に戻り、そのまま執務室に入って手紙の作成を始めた。

 ここからの動きは、なるべく早い方が良い。今回ザイルがカーリネイト辺境伯爵と契約したことにより、候補地がネイリスに決定した。その情報が外部に漏れるまでは、まだ少し時間がかかる。もっとも、今回の件に関わっていた領主たちや、その周辺の貴族はすでに知っているだろうが。

 その情報が庶民に降りてくるまでが、勝負である。


 本当だったら、決定する前に話を持っていきたかったんだが……。話が漏れれば、決まるもんも決まらなくなる。それどころか、相手が逆恨みされる可能性も出てくる。どちらにしろ国家間の問題にはなり得るんだが、危ねぇ橋は渡らねぇに限るからな。


 片や自分が絡んだ以上、一から十まで国同士の取引ともいえる問題であり、片や相手の落ち度を盾にすることが出来る問題である。相手方から事業の確立まで、全ての安全面を考慮した結果、どうしても先に交渉を終えている必要があったのだ。


「ジェイル。これをレナリア嬢の両親の元へ届けろ。場所は分かるな?」


 書き終えたばかりの、封蝋を押した封筒を差し出して、ザイルはそうジェイルに告げた。「なるべく早く」と続ければ、ジェイルは頷いてすぐさま動き出す。「行って参ります」と言う彼はおそらく、自分の足で向かうつもりなのだろう。

 それならばと思い、「良ければ返事も急かしてもらって来い」と言っておいた。ジェイルは、げ、とでも言うように顔を歪めたが放っておくことにする。自分が命じた以上、面倒に思いながらもきちんとそれを遂行する人間だ。

 「行って参ります」と渋々といった調子で言う彼に片手を上げて応え、ザイルは手元の書類に目を移した。報告書に手紙に書類。執務机の上は、まだまだ仕事が山積みだった。


「はい、殿下。貰ってきましたよ。お返事です」


 ジェイルが手紙の返事を携えて屋敷に戻ったのは、その日の夕方のことだった。ラティティリス国王とエリルに対する報告書の作成を行っていたザイルは、手にしていたペンを置いて手紙を受け取る。おそらくレナリアの母親が書いたのだろうその手紙は、元貴族の娘らしく、流麗な筆跡で文字が綴られていた。


「三日後、か。……ぎりぎりだな」


 手紙に目を通したザイルはぼそりと呟く。書かれていたのは、自分が書いた手紙に対する返事。レナリアの両親と交渉するために、余裕のある日を指定してもらったのだ。

 レナリアの父親は商人のため、庶民の中でも情報の伝達が早いと考えた方が良い。仕方がないとはいえ、取引材料が意味をなさなくなる可能性を思い、ザイルはぐしゃぐしゃと髪を乱した。


 相手がただ名誉のみを求めるのならば、もっと楽なんだが……。辺境伯家から逃げ出した者たちだと思えば、まずそれは考えられない。取引できるのは、今回の新しい道の候補地にティフォールが入っているというその一点が一番大きい。次点で取引先、か。


 面倒事に巻き込まれたくないと固辞された場合がどうしようもないが、説得するしかないだろう。特に表舞台に立ちたくないと思っている者たちだから。


「別の仮面を用意してやるというのは、彼らにとって有意義か、それとも……」


 何にしても、彼らと言葉を交わす三日後までは動きようがない。思い、ザイルは深く息を吐き出した。

 どちらにしろ、彼らがこちらの提案に応じてくれなければ、ラテルティアに自由を与えることも難しくなる。あとは成功を祈るばかりだった。


 あー……。早く全てを丸く収めて、ラテルティアと過ごしたい。


 彼女と共に過ごす時間を一度でも得たからか、彼女と言葉を交わすことさえ出来ない今の状況が、ザイルにとっては苦痛でしかなかった。

 ランドルとの婚約を上手く解消できたとしても、決して彼女が自分を想ってくれるわけではない。自由を得た彼女は、公爵家の令嬢として、次の婚約に向き合うだけだろう。

 だからラテルティアが自由な間に、彼女の目を、そして彼女の周囲の目を、自分に向けさせなければ。


「……さすがに婚約者がいる状態で、口説くわけにはいかねぇからな」


 ぼそりと呟いたザイルに、ジェイルがおかしなものでも食べたような顔で、「それを分かっているのになぜ膝枕を……」と言うのが聞こえたが、聞こえないふりをしておく。膝枕で妥協しているのだから良い方だと思って欲しいものだと、ザイルは胸の内で呟いた。

 何かを待ち望んでいる状態であれば、時間というのは恐ろしくゆっくりと過ぎていくもの。三日という短い期間がうんざりする程長く感じていたザイルは、指定された三日目の夕方、学園から直接、レナリアの家へと向かった。

 学園内では、まだ道路事業についての話は聞こえてこない。もっとも、この学園の貴族の子息たちは思った以上に政治に関心がないようなので、何とも言えなかったが。


 候補地の話はさすがに伝わってるみてぇだからな。……微妙なところだな。


 思いながら、ザイルは馬車の中から過ぎていく景色を眺めていた。

 紋などは入っていない、簡素な馬車とはいえ、その大きさがそもそもこういった場に不釣り合いであるために、ザイルは街外れで馬車を降りて、ジェイルと護衛の者を連れて目的地へと歩いて向かった。人々が多く行き交う街は活気に溢れ、食事時ということもあり、良い匂いがそこら中から漂ってくる。

 ここ数日、書類ばかりを目にしていたためにいつ食事をしたのかもよく覚えていないザイルは、今日の話し合いが上手くいったら、久々にちゃんとした食事を摂ろうと思った。普通に腹が減っていた。

 周囲の様子を眺めながら、ジェイルの後について通りを進んでいく。ラティティリスでは初めてだが、フィフラルを始め、他の国ではよくこうして街を歩いていたため、こういう場所での慣れたもの。こういった場所で売っている物の値段や品質からでも、分かることは多いのだから。


 と言っても、今日はそういう目的じゃねぇからな。


 思い、すたすたと足を進めて。

 「こちらです」と言ってジェイルが足を止めたのは、一階が店舗になっている、この辺りでは平均的な大きさの、二階建ての建物だった。


「主に絨毯や衣類などの取引を行っているのだとか。ここに置いてあるのは庶民向けの一部であり、貴族向けの高級商品は別に保管してあるようです。二階が居住空間になっております」


 ジェイルはそう説明し、店舗の方へと入って行く。板張りの床の上をこつこつと音を立てて進めば、ジェイルの言う通り店舗の中には色とりどりの絨毯が飾られていた。衣類や靴、アクセサリーなども置いてあるようだ。それほど大きな規模ではないが、客の姿も数人見えた。

 商品の間を素通りして、ジェイルは奥にいた店員に声をかける。すでに話は通っていたのだろう、店員はすぐに、更に奥へとザイルたちを通した。

 通されたのは、それほど広くはない応接間。奥が書斎のようになっているそこは、応接用の二人掛けのソファが対面で置かれただけの簡素な部屋だった。

 部屋にはすでに、一組の男女が姿勢を正して待っていた。ラティティリス人らしい茶髪に青い目を持つ少し頼りなさそうな見た目の男と、フィフラル人に多く見られる黒い髪に緑の目を持つ楚々とした儚げな容姿を持つ女。緊張ゆえか、青白くさえ見える顔に浮かんだ表情は硬く、二人は揃って深く頭を下げた。


「ご、ごきげん麗しく。ザイル殿下。この度はこのような場所に……」


「ああ、堅苦しいのはよせ。無理を言ったのはこっちだ。今日は折り入って頼みがあって来た。初対面だというのに、不躾でわりぃな」


 顔をあげるように手だけで示しながら言えば、二人はまた揃ってぶんぶんと頭を横に振った。その様子に思わず笑い、「かけても良いか?」と問えば、二人ははっとしたようにソファを薦めてくれた。

 レナリアの両親は、父親がデリス、母親がティルアと言うらしい。ティルアの過去を知っていることはすでに手紙に記していたので、二人はティルアの実家であるセンディンズに連れ戻されるかもしれないと思い、怯えていたのだという。自分としては、そんなつもりはないと告げれば、ほっとした顔をしていた。


「だが、貴殿らの返答次第ではその可能性もなくはねぇな。……そう思って、話を聞け」


 まるで、というよりは確実に脅しを口にしながら、ザイルはその口許に笑みを浮かべる。デリスとティルアが、ごくりと生唾を呑み込むのが聞こえた。


「貴殿らもおそらくは聞いているんじゃねぇかと思うが……。貴殿らの娘が、どうやらこのラティティリスの王太子の目に留まったみたいでな。上手くいけば、側室に迎えられるかもしれない。……もちろん、貴族連中の意見は微妙だろうし、身分もない。正直なところ、王太子が相当頑張らないと無理だろうな」


 言いながら二人の様子を確認すれば、やはり驚いた様子はない。だろうな、と思いながら、ザイルは話を続けた。


「で、ここからが頼み事なんだが。……実は王太子の婚約者が、王太子との結婚を嫌がってるわけだ」


「……王太子殿下の婚約者……、レンナイト公爵家のご令嬢が、ですか?」


 信じられない、という顔で言うティルアに、ザイルは「そうだ」と頷く。庶民の間でも模範的な淑女として名高い王太子の婚約者が、王太子との婚姻を拒んでいる。顔を見合わせる二人に、やはり意外なのだろうなと、ザイルは心の中だけで思った。


「王太子は貴殿らの娘に執心で、彼女を蔑ろにしていてな。婚約を取り消したいと言ってる。だが、国王や王太子はレンナイト公爵家の後ろ盾が欲しい。貴族連中を黙らせるための後ろ盾がな。そこで、だ。……レナリア嬢に、正妃になってもらいたい。しっかりとした後ろ盾を付けた上で」


 言い、ザイルはここ一カ月以上をかけて用意した、事の次第を説明していった。後ろ盾、正妃としての価値、レナリアが蔑ろにされないための条件。一つ一つ、事細かに。

 二人は真剣な顔で話を聞いた後、お互いに顔を見合わせる。不服そう、というよりは、不安そうな顔で。それはそうだろうとザイル自身も思う。この計画が上手くいったとしても、彼らの娘はこれまでに馴染みのなかった、社交界の、それもいきなり頂点の、王妃の座に君臨することになるのだから。彼らの不安も仕方がないことである。そして案の定というべきか、ザイルの方に向き直り、デリスが口を開いた。


「もし、お受けできないと言ったら……?」


 それはもちろん、想定の範囲内の質問。問題は、ここから。


「貴殿らをセンディンズに連れ戻す気はないと言ったが……。現在進んでいる道路事業で使用する土地を、ティフォールに決定するというのはどうだ?」


 調べたところによると、デリスたちの商売は、食べるのに困ってはいないだろうが、決して裕福ではない。それもこれも、フィフラルへと入るための道が、センディンズを通っていることが全ての原因である。ティルアが駆け落ちしてセンディンズを出たため、センディンズではティルアもデリスもお尋ね者という扱いで、二人は国境を越えることすら出来ないのだ。だからこそ、商売が広がらず、裕福とは言い難い生活を強いられている。

 今回の道路事業により、フィフラル側はセンディンズではなくデズィリアを通るわけだが、ラティティリス側のグンズレル、ティフォールでは今だに二人の人相書きが出回っているという。デリスがラティティリス人だったため、センディンズ伯爵は二人がラティティリスに逃げ込んだと考え、捜索していたようだ。

 そのため、新たな道路に期待しているであろう二人を揺さぶるために、候補地の一つであるティフォールの名が必要だった。だからこそ、まだ決定していないという状況が大事だったのだが。

 「道路はネイリスに作られると決定されたと聞きましたが……」というデリスの不審そうな言葉に、思いきり舌打ちをしたくなった。やはり、一歩遅かったか。


「あくまで、現時点での決定だ。変更のしようはある」


 自信有りげに言うが、やはり簡単には信用されるはずもなく、二人は互いに顔を見合わせている。これは、面倒事を押し付けるわけだが、危険はないのだと、取引先も名のある貴族を融通すると、懇々と説明するしかないかと再び口を開いた時だった。

 唐突に応接室の扉が開き、一人の少女が、怯えながらもその姿を現したのは。


「レナリア?」


「あなた、具合が悪くてお医者様の所に行ったのではなかったの?」


 突然現れた制服姿の娘に、デリスとティルアが驚いたような声を上げる。しかし彼女は両親には顔を向けず、真っ直ぐにザイルの方を見て、優雅に膝を折り、礼の形を取った。


「ザイル殿下。ご機嫌麗しく」


 静かにかけられた挨拶に、ザイルは「ああ」と短く応える。先ほどのデリス達と同じく、青白い肌。小刻みに震える肩。手には何やら、一枚の紙を持っている。両親の声さえも届いていないのではないかという様子を不審に思いながら、ザイルは「どうかしたのか、レナリア嬢」と彼女に声をかける。

 彼女は礼の形を解くと、ぎゅっと持っていた紙ごとその両手でスカートを握りしめ、何と言うべきか迷うように口を引き結び、視線を俯かせて。

 ぱっと顔を上げて、真っ直ぐにザイルを見た。涙交じりの声で、泣きそうな顔で紡がれた言葉は、ザイルどころか、彼女の両親の思考を停止させるのに、十分な驚きを孕んでいた。

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