第8話 直々の許可。

 こつこつと、遠くで人が歩く音がして、ザイルは目を開く。銀色の睫毛に縁取られた青い瞳が真っ直ぐにこちらを見ていて、束の間、息が止まった。

 内心の動揺を隠すようにくつりと笑う。「どうした。見惚れてんのか」と横になった自分を見下ろす彼女に問いかければ、彼女は一度口を開いた後、その顔に笑みを載せた。「ええ、そうかもしれません」と、穏やかに答えながら。


「とても穏やかに眠っていらっしゃったので、不躾ながら、眺めておりました。ランドル殿下もお美しい方だとずっと思っていましたが、ザイル殿下はまた違った美貌をお持ちですね。羨ましいですわ」


 ふふ、と笑う彼女は、目を細めてそう言葉を続ける。羨ましいと言う割には、そこに妬みなどの感情は伴っていないようだった。自分が男だからかもしれないが。

 「美しいと言われても、あまり嬉しくねぇがな」と笑えば、彼女はまたふふ、と笑っていた。


「顔で何かが決まるわけでもねぇが、そうだな。俺はお前の顔の方が好きだ」


 考えながら言って、腕を伸ばし、ラテルティアの頬に触れる。彼女は驚いたように、その青い目を真ん丸に開いていた。


「人間、自分の好みの顔を持つやつの前では、取り繕おうとするだろう。俺のように肩書があるやつの前では特にな。お前も肩書はあるが、穏やかな顔してるから、相手は油断してくれそうだ」


 そう続ければ、彼女は一瞬固まった後、彼女には珍しい、僅かに引き攣った様な笑みを浮かべた。頬に触れたザイルの手を自らの手で避けつつ、「そうですわね」と呟く。

 その様子に、思わず笑った。


「そういう理由抜きにしても、俺はお前の顔、結構好きだがな。驚いた時にだけ大きくなる目も、型にはまったように笑みを浮かべたままの形の良い唇も」


 穏やかな顔に似合わず、ザイルをザイルだと認識していながら、笑顔で向かってくる不遜な態度も。

 ラテルティアはまた驚いたように目を瞠った後、僅かにその顔を背けた。「それ、褒めておりませんわ」と怒ったように呟く彼女の頬が僅かに赤くなっていて、そんなところも愛らしいと思う自分が、やはり気持ち悪かった。


「お前はそう言うが、そもそも俺は人間の顔にあまり興味がねぇ。どんな顔していようが、腹の中でなに考えてんのかなんて分からねぇからな。美しければ目を惹かれるが、それだけだ。年を取れば、老いて美しさも損なわれていく。それを思えば、今だけの美しさに執着しても意味ねぇだろ」


 社交界に身を置けば、嫌と言う程それを理解する。自分など、正妃が生んだ第二皇子として、物心ついた時からすでに認識していた。口先だけの言葉。顔に浮かんだだけの笑み。取り繕われただけの美しさ。そんな世界を生きていたから、外見に対する興味は段々と消えていった。

 だからこそ、思うのだ。表面的な美しさよりも、大事な物。


「お前は、お前が思っているよりもずっと綺麗だと思うが」


 自らの立場を理解し、自分が言葉を発することの意味を考え、周囲の甘言に耳を貸さず。寄り添うべき者が自らを理不尽に扱おうと、凛として立って、微笑んで。

 この学園で三か月程過ごしているが、王太子の婚約者ということに対する妬みや嫉み以外で、彼女のことを悪く言う者はいなかった。穏やかで周囲を気に掛ける、理想的な正妃になると、皆は口々に言う。そんな彼女を蔑ろにしていると、ランドルの評価はあまり高くはなかったが。


 俺も思うからな。ラテルティアは、正妃として申し分ない。……あいつがもっと尊重さえしてれば、俺も思わねぇよ。


 彼女の婚約を解消して、あわよくば自らの傍に、なんてこと。

 ラテルティアはザイルの言葉に最大限にその目を瞠り、あわあわとした様子でその視線を彷徨わせる。白い頬は先程よりも赤くて、「可愛いな」なんて予想外にうっかり口に出た。自分のそんな言葉に驚いたが、彼女の方がもっと驚いた様子で、「からかわないでくださいませ……」と消え入りそうな声で言うものだから。今度こそ口に出さずに、心の中だけで「可愛い」と呟いた。


「俺は本当のことしか言わねぇからな。そんな顔すんな」


 困ったような、どうすれば良いか分からないような戸惑いの表情。本当にやめて欲しいと、ザイルは思った。自分を律するのにも、限界というものがあるのだから。顔にはおそらく、いつも通りにやにやと品のない笑みを浮かべているだけだろうが。


 自覚しなければ良かったのかもしれねぇな。好意を理解して、欲が出るようになった。厄介な感情だとは聞いていたが、ここまでとは。


 困ったものだと、気付かれぬように息を吐き、身を起こした。

 あの舞踏会の日から、すでに一週間ほどが過ぎていた。窓の方へと目を向ければ、いつもならば一組の男女が隠れるように座っている位置が、植栽に隠れて見えなくなっている。それもそのはず、今ザイルとラテルティアが座っているのは、舞踏会よりも前に使っていた長椅子から、三列ほど後ろの長椅子だったから。

 本当は、別の部屋に移らないかと言われたのだ。ラテルティアに。膝枕をするのは構わないけれど、この講義室を使うのは嫌だと。

 彼の、彼らの姿が見えるから。

 諦めようというのだろう。彼の心を、彼女なりに。別に他の部屋に移るのは構わないとも思ったが、ザイルはそれに頷かなかった。確かに、意識をせずとも目に入らない位置であれば、その瞬間は忘れることが出来るかもしれないけれど。


 ……それは、現実から目を逸らしているのとあまり変わらねぇからな。


 彼女には酷かもしれないが、いっそのこと、自らの意志で想いを切り離すべきだと思ったのだ。席を移動したのは、最大限の譲歩である。

 あれから、彼女が窓の外を見るのは以前の三分の一ほどに減った。見えることはないと分かっていても、彼に対する想いなどないと思っていても、やはり気になるのだろう。その他の時間は、持ち込んだ本を読んだり、勉強をしたりしている。あとは、先程のように、自分の寝顔を眺めていたり。

 そんなに面白い顔をしているわけでもないと思うのだが、目覚めた瞬間に彼女と目が合うのは、今回が初めてではなかった。まあ、照れたりするわけでもないので、自分が言ったように、見惚れていたわけではないだろうが。隣国とはいえ他国人の顔立ちが珍しいのかもしれないと、そんなことを思った。


「……にしても、ジェイル。お前いつまで入って来ねぇつもりだ」


 先程、自分が目覚めたときに耳にした足音は、空耳ではないはず。少し声を大きくして言えば、躊躇うような間の後に、講義室の扉が開いた。

 現れたジェイルは何故か嬉しそうに笑っていて、「いえ、お邪魔かと」と答えた。


「殿下はどうせ講義中は寝てらっしゃいますし、少し遅くなっても良いかな、なんて思っただけです」


「……お前、それだとラテルティアも講義に遅れるだろうが」


 心底呆れた顔で言えば、ジェイルは「あ」と間抜けな顔で呟いていて、思わず、溜息を吐いた。気が利いて間が抜けているという言葉を、彼以上に体現している者を、今の所ザイルは見たことがない。隣に座るラテルティアが、「大丈夫ですよ」と気遣うような苦笑と共に呟いていた。

 ラテルティアと並び、後ろにジェイルを引き連れる形で、次の講義へと向かう。誰もいない廊下も、しばらくすると人が増えてきた。空き部屋となっている講義室の周囲は人の気配がないのが常だが、普段から使われている講義室の辺りは、基本的にいつでも人の姿がある。

 先に通りがかった講義室でラテルティアは次の講義が行われるらしく、その姿を見送ろうと立ち止まる。

 「ラティ」と、この国に来て何度目かの、随分と聞き慣れてきた声が聞こえた。


「珍しく遅かったね。講義に遅れるかと……。おや、ザイル殿とご一緒でしたか」


「ランドル殿」


 ランドルはラテルティアの方からこちらへと視線を向ける。自分と彼女との間に、疑わし気な視線を走らせるランドルに、さてどうするかと考えた後、ザイルはにっこりと笑みを浮かべた。「ああ、偶然居合わせてな」と、悪びれる様子もなく口を開いた。


「俺が昼休みの間に過ごしている講義室の近くで、レンナイト公爵令嬢を見かけたもんだから、話してただけだ。まあ、眠くなった時に枕になってもらっ……」


「ザ、ザイル殿下! 何を仰ってますの……!?」


 すらすらと言葉を吐き出すザイルに、慌てたようにラテルティアが口を挟む。彼女らしからぬ慌てた声に、周囲の学生たちの視線が集まった。

 その様子に、ランドルが僅かに眉を顰める。「ラティ、駄目だよ」と、彼は少しだけ困ったような顔で彼女に声をかけた。


「私の婚約者である君が、そんな大声を出すなんて。それに、ザイル殿下の言葉を遮るのも、失礼になる。君らしくないね」


 優しい声音で、しかし彼が口にしたのは明らかな叱責である。ラテルティアは、はっとした様子で顔を青くして、「申し訳ありません」と、ザイルに謝罪の言葉を述べた。

 その二人の様子に、知らず顔を顰める。この方法を取るのが一番楽だった、が。


 ……もっと彼女のことを考えて言葉を運ぶべきだったか。


 最短でより自分が望む結果を出すことが身についているため、ザイルは彼女がのを。そしてその通りになった。けれど。

 次からはもっと、彼女のことを考えて動かねばと、そんなことを初めて思った。彼女の心境や、周囲との関係性に罅が入ってはいけないから。

 しかし、事が運んでしまっては仕方がないというもの。ザイルはその顰めた表情のまま、「本当だな」と呟いた。


「俺の言葉を遮るとは、な。王太子の妃としては……。ああ、そうだ。ランドル殿。良いことを思いついた」


 言って、ザイルはラテルティアからランドルへと視線を移す。笑みさえも浮かべるザイルに、ランドルは少しだけ不審そうな顔になった。


「俺が教えてやるよ。他国の皇子への対応について。王太子の婚約者として、これからも他国の王族を相手にすることもあるだろうからな。俺はあと三か月で卒業するが、三か月も傍にいれば嫌でも身につくだろ。練習相手になってやるよ」


 良い考えだろう、と嘘くさい笑みを浮かべれば、ラテルティアはこちらの意図が読めたらしく僅かに引き攣った笑みを、ランドルは少しだけ強張った表情になった。ちらりと彼はラテルティアの方へと視線を向ける。「それは、どうでしょう」と、ランドルは躊躇うように呟いた。


「彼女は私の婚約者ですから、あなたとの間におかしな噂が立つかもしれません。彼女のためにも、あまり良い案ではないかと思うのですが」


 慎重に言葉を選ぶランドルに、しかしザイルは笑った。「大丈夫だろ」と、軽く受け流すように。


「ここにこれだけの証人がいるからな。皆、聞いただろ? ラテルティア嬢は、『他国の王族への対応を学ぶために、俺の傍にいることが増える』だけだ。おかしな噂がたっても、お前たちがそれを否定してくれる。そうだよな?」


 いつもと同じ、有無を言わせぬ口調で言えば、それを拒否する者など出てくるはずもなく。

 一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべた後、ランドルはいつものお綺麗な笑みを浮かべた。「分かりました」と、溜息交じりに呟きながら。


「そこまで言うのでしたら、彼女の将来のためにも、応じないわけにはいかないでしょうね。彼女の婚約者としても、よろしく頼みます」


 言って、彼は「ではこれで」と言って講義室へと向かう。周囲の学生たちもまた、それを見て慌てたように動き出した。もうすぐ講義の始まる時間だから。

 そんな中ただ一人だけ、困惑した様子でこちらを見る人物に、ザイルは歩み寄り、苦笑交じりの笑みを向けた。「悪い、考えなしだったな」と、謝りながら。


「お前といるのをあいつに咎められるのが癪だったんでな。今日はまだ良いが、これからもないとは言えねぇから。……結果としてお前の評判を落としたのは、悪いと思ってる。すまなかったな」


「あ、いえ、それは……」


 素直に謝罪するザイルに、ラテルティアが少しだけ慌てた様子を見せる。いつもの取り澄ました彼女も凛としていて好きだが、おろおろと周囲を見回す彼女の方が、個人的には好きだった。年相応の、ラテルティアという少女そのもののように感じるから。


「明日から、お前の屋敷まで迎えに行く。待ってろよ」


 ランドルから直々にお許しが出たのだ。それも、大勢の証人の前で。これを使わない手はないだろうと思いながら言えば、彼女は少し驚いた顔になったけれど。

 にっこりと笑ってくれた。「お待ちしております」と返す彼女に、口許に笑みが浮かぶのを、どうしても止められなかった。

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