第14.5話 ドレスと嫉妬

 さらさらと、膝の上で眠る黒髪を撫でながら思う。この人のために、何か出来ることはないだろうかと。

 相変わらず目の下に浮かんだ隈は、前回彼がここに来た時よりも少し薄くなっている気がした。まあ、隈が出来ている時点で、十分な睡眠を取っているとは決して言えないだろうけれど。

 すーすーと、ただあどけなく眠る彼を見て、思う。何をすれば、彼を助けることが出来るのだろうかと。


 自由をくれると仰った時は、半信半疑で。でも、本当に自由になれるのならばと期待して。そのくせ、わたくしは何もしないまま、この方は本当に、わたくしを自由にしてくださった。


 嬉しかった。素直に。けれどそれと同時に、焦りにも似た感情が胸に湧き出した。彼は膝枕のお礼だと言うけれど、そんなもので足りるとは思っていなかったから。彼が、自分にしてくれたことに対する代償は。だから、何か彼のために出来ることはないかと、ずっと考えているのだけれど。


 ……この方は、フィフラル帝国の第二皇子。筆頭公爵家といえど、わたくしがこの方に与えられるものは、すでにお持ちの方。そうでなくても、欲しいものは自分の力で得ようとするでしょう。


 だから、どれだけ考えても、ラテルティアには彼のために何をするべきなのか、全く分からないのだ。


「お父様でさえ無理だった、わたくしの婚約の解消を成し遂げてくださったのだもの。わたくしに出来ることならば、何でもして差し上げたいけれど……」


 彼に望まれていることといえば、こうして膝枕をして、彼の睡眠時間を少しでも長く確保するくらいで。ラテルティアは制服のスカートの上に広がる黒髪を撫でながら、深く一つ、息を吐き出した。


 それにしても、何であんな例え話をされたのかしら。確かに、考えられない話ではなかったけれど。後悔はしないのかと訊いてくださるだけで良かったのに。


 まるでランドルが、自分を思って行動した結果であるような例え話。彼を見つめる事しか出来なかった、以前の自分ならば、そんな例え話でも心を慰められていたかもしれないけれど。

 不思議なほど、今は何も感じなかった。そういう意図もあったのかもしれないと、ただそう思っただけだった。


 少しずつ、ランドル殿下がレナリア様を始めとする女性たちを伴っていても、何も感じなくなってきましたもの。不思議ですわ。あれほど、殿下の事を想っていたはずなのに。


 今にして思えば、あれは執着に近いものだったのかもしれない。彼自身ではなく、彼の、王太子の婚約者という立場に対しての。自分がこれまで重ねてきた、努力に対しての。

 そうだとしたら、自分を王冠と呼ぶ彼を責める資格は、自分にはないかもしれない。知らず、自嘲気味に笑った。

 一週間ほどぶりにザイルに膝を貸したその日の夜、王宮に呼び出されていた父、ガレイルから、婚約の解消について聞かされた。国王から直々に言い渡されたらしい。貴族ならば誰もが望む王族との縁だが、ガレイルはランドルとラテルティアの婚約がなくなったことを嬉しそうに話していた。


「元々、王族との縁には興味がないからね。ラティは気にしなくて良い。……国が違えば、教育も、それぞれが持つ責任の重さも違うとは思ってはいたけれど。年も一つしか違わない上に、第二皇子という立場だというのに、個人事業まで展開しているし。我が国の王太子と違って、とても頭が回る人だね。あの方は」


 呼び出されたガレイルの書斎。ふと、感心したようにガレイルが言うのに、ラテルティアはぱちりと瞬きをする。執務机についたガレイルは、珍しく興味深そうな顔で手元の書類を眺めていた。今回の婚約解消についての書類か、それとも。

 ガレイルは机の前に立って話を聞いているラテルティアの方を見ながら、にっこりと笑う。「どんな方だい? 彼は」と訊ねられ、またぱちぱちと数度、瞬きを繰り返した。


 どんな方……と言われましても。


「お父様の仰る通り、とても頭の良い方ですわ。第一皇子であるお兄様を敬愛しておられ、広い視野をお持ちで、第二皇子というお立場の元、すでに国政にも携わっておられるようです。傲慢や傍若無人などと言われておりますし、確かにそのように振舞っておられますが、理不尽なことを仰ったりするわけでもなく、あの方自身はとてもお優しく、責任感もあって。噂では遊び呆けていると聞きますが、むしろ仕事のし過ぎではないかと心配になる程で。近頃は隈も消えず、ちゃんと眠っているのかも……」


「ラティ。ラティ、もう良い。分かった」


 つらつらと、ザイルという人物について思いつくことを口にしていたら、ガレイルが呆れたような顔でこちらを見ていた。「お前の気持ちはよく分かった」と言うが、ラテルティアは何のことだかさっぱり分からなかった。


「あとはお前自身に任せておこう。彼も、無理強いをするつもりはないと言っていたからな。……全く。お前がそこまで庇う青年だ。彼の妃となる相手は、幸せだろうな」


 ぼそぼそと、苦笑交じりに呟かれた言葉。それは偶然にも、昼間にラテルティア自身がザイルに告げた言葉で。ラテルティアはこくりと大きく一つ、頷いた。彼の妻になる者は、間違いなく幸せになれるだろうとラテルティアは心の底から思っていたから。

 彼はその性格上、自分の求めた相手を妻として迎えると思う。傲慢な振る舞いの一環か、それとも彼自身のそもそもの性格か。ある程度の家格は気にするだろうが、完全な政略での婚姻を、彼は拒否してしまう気がするのだ。少しでも、兄の妨げにならないように、と。そして、たかが膝枕の礼一つで、こうして面倒事を引き受けてくれるような人なのだから、愛する者を必ず幸せにしようとするはず。それこそ、持てる力を全て使って。その様子が目に浮かぶような気さえして。

 ずきりと、胸の奥が痛んだ。驚いて、胸元に手を添える。今の痛みは、一体。

 考えるも、ガレイルが「呼び出して悪かったね」と告げたので、頭を下げ、ラテルティアは大人しく執務室を後にした。廊下をとぼとぼと、自分の部屋へと向かって歩いて行く。

 なぜ、胸が痛んだのだろうと、小さな疑問を頭に浮かべながら。

 今年度最後となる、学園の定期舞踏会。この日だけは、学生だけでなく、その両親、親戚などの参加が認められている。そしてこの学園は王国が運営しているため、ラティティリス国王、レディオルもまた、毎年姿を現していた。

 レンナイト公爵家に迎えに来たランドルと共に、王室の馬車に乗り込む。ガレイルと、母、レティシアも、レンナイト公爵家の馬車であとについて来るということだ。

 二人きりの馬車の中、向かい合って座ったランドルは、優しい顔で微笑んでいた。そんな彼を見るのも、これが最後になる。そう思うと、少しだけ感慨深いような気がしていた。

 貴族街の間を通る整った石畳の道と、揺れの少ない最上級の馬車。見慣れた窓の外の景色が流れていくのと同時に、少しだけ不安にもなってくる。ザイルもガレイルもすでに確定したと言っていたから、何一つ問題ないのだと分かっているのに。


「大丈夫かい、ラティ。そんなに緊張して、どうしたんだい?」


 声もなく窓の外を睨みつけているラテルティアに、ランドルは心配そうな声でそう訊ねてくる。いつもならば、当たり障りのない会話をしているから、黙っているラテルティアの様子が珍しかったのだろう。

 慣れた調子で笑みを張り付けて、「いいえ、何でも」と答える。ランドルは尚も心配そうにこちらを見ていたけれど、それ以上は何も言わなかった。

 淡い水色に銀色の刺繍を施したドレスを身に着けて、ラテルティアはいつも通り婚約者であるランドルと共に会場入りした。日頃の様相を煌びやかに変えた広間に二人が入ると同時に、気付いた者から順に挨拶にやって来る。慣れた調子で挨拶を返していたところで、不意に手を添えていたランドルの腕に力が入るのを感じた。

 「殿下?」と不思議に思いながら顔を上げると、ランドルは真っ直ぐに何かを見つめていて。その視線を追った先に見えた光景に、ラテルティアもまた、その身を固くした。

 見知った者同士、さわさわと言葉を交わす幾人もの男女のその向こう側。今まさに会場に入って来た、一組の男女。ざわりと、周囲が驚きに満ちた雰囲気に包まれる中、ラテルティアは二人を見ていた。

 何で、と思いながら。


 何で、ザイル殿下がレナリア様と一緒に……?


 水色のふんわりとしたドレスに、水色と黒のたくさんのレース。ラテルティアには決して似合わない甘やかなその装いも、可愛らしいレナリアにはよく似合っていた。

 隣に並ぶザイルもまた、黒地に水色の刺繍の正装。見るからに揃いの姿で、楽しそうに話していて。

 ずきりとまた、胸の奥が痛んだ。何で、とただ、頭の中に言葉が巡る。


 何で、一緒にいるの。何で、そんなに楽しそうなの。何で、揃いの服なんか着てるの。何で。


 その人に、触らないで。


「…………っ」


 頭の中に湧き出した言葉に愕然とする。今のは、まるで。

 醜い、嫉妬のよう。


「ラティ? 大丈夫かい?」


 目を瞠り、呆然とするラテルティアに、隣に立ったランドルがまた心配そうに声をかけてくる。けれどその様子に、反対に思う。何で、そんなに平気なの、と。


 わたくしのことになんか、構わないで、あの人の所に行けば良いのに。そうすれば、あの人は彼から離れてくれるのに。


 次々と頭の中に溢れ出す考えに、ラテルティアは俯いて両手で顔を覆った。何で、自分はこんなことを考えているのだろう。何で、こんなに苦しいのだろう。

 ランドルがレナリアや、他の少女たちと寄り添っていた時は、ただただ諦めにも似た感情に、疲れて切っていただけだったのに。

 傲慢で、傍若無人な彼が笑いかけるのは、自分だけだと思っていた、なんて。


「……ああ、嘘、わたくし……」


 まだ何一つ、彼に返すことが出来ていないのに。面倒ばかりをかけてしまったのに。自由が欲しいなんて、甘えたことを言いながら。

 こんな、彼にとっては面倒でしかないであろう感情を、抱くようになっていたなんて。


「ラティ? 本当に大丈夫かい? 具合が悪いのなら……」


「おい。どうかしたのか」


 言い募るランドルの言葉に被せるように、聞き慣れた低い声が聞こえてきた。覆っていた両手をおそるおそる外し、顔を上げれば、こちらを心配そうに見下ろす赤い瞳と目が合う。

 ランドルに挨拶をするためだろう、いつの間にかすぐ目の前に立っていたザイルは、手袋を外してからその手を伸ばし、ラテルティアの頬に触れる。「顔色がわりぃみたいだが……」と、心配そうに言うザイルにぱちりと瞬きをして。

 その傍に寄り添うレナリアの姿に、またその身を固くした。


「大丈夫ですわ、ザイル殿下。ご心配をおかけして申し訳ありません」


 にこりと、一瞬で淑女の笑みを浮かべながら言えば、ザイルはゆっくりとその眉根に皺を寄せる。「ランドル殿」と、彼はラテルティアの傍らに立つランドルに声をかけた。


「すまねぇが、レナリア嬢を頼む。少し、ラテルティアを借りたい」


 頬に触れていた手を外し、ザイルはレナリアを示しながら言う。その言葉に、すぐに応じるだろうと思ったランドルはしかし、不快そうに眉を顰めた後、ゆっくりと首を横に振った。


「ラティは体調があまり良くないみたいだから、私が控室に連れて行こう。ほら、ラティ。こちらに寄りかかって……」


「ランドル殿」


 肩へと腕を回し、心配そうに身を寄せてくるランドルに、ザイルが更に声をかける。細められた真っ直ぐな視線は、睨みつけているようにも見えた。


「話をするだけだ。そのくらい良いだろ」


 低く言うザイルに、ランドルはその視線を受け止めたまま、ラテルティアの肩にある手に力を込めていて。「ランドル殿下」と声を上げたのは、ザイルの傍らにいたレナリアであった。


「私もランドル殿下にお話があるのですが、よろしいですか?」


 おそるおそる、というように顔を上げ、彼女はランドルにそう声をかける。しかし不思議なことに、彼はそれでもその場から動きたくなさそうな素振りを見せて。「ランドル殿下」という、再度のレナリアの言葉に、深く息を吐いた。


「分かったよ。……では、ザイル殿。ラティを頼みます」


「ああ」


 言って、ランドルがその手をラテルティアの肩から離すと同時に、今度はザイルがラテルティアの背に触れた。

 すたすたとザイルに導かれるままに足を進めた先は、いつかと同じ広いバルコニー。広間の喧騒を遠くに聞きながら、ラテルティアは手摺の方まで歩み寄り、手をかける。ザイルもまた、こつこつと足音を立てながら、ラテルティアの傍らに立った。「どうしたんだ、お前」と、不思議そうに言いながら。


「もっと喜んでるかと思ったんだが。何、怒ってんだ?」


 「何が気に食わない?」と真っ直ぐに訊ねてくる彼に、思わず視線を逸らす。「何でもありませんわ」と答えるけれど、それが通用する相手ではないことはすでに分かっていた。「ほら、言え」と、真面目な顔で再度続けられれば、逃げ道などあるはずもなく。

 躊躇うような間を置いた後、「……何で」と、小さく口を開いた。


「何で、レナリア様とお揃いの服をお召しなんです?」


 言えば、ザイルは「は?」と意味が分からないというような顔をしていたけれど、構わず続けた。


「二人で一緒にいらっしゃるし、楽しそうにお話ししてらっしゃるし……」


 ……嫌だったんだもの……。


 聞かれなければ、言うはずもなかった。けれどザイルは目敏くて、自分が不満を抱いていることにすぐに気付いてしまう。

 幼い子供のようなことを言っている自覚はあった。自分に、そのようなことを言う資格がないことも分かっている。分かっている、けれど。

 ザイルは驚いたようにこちらを見ていたけれど、不意にその口許を押さえ、目を閉じて、深く息を吐いた。呆れられただろうかと、こわごわそんな彼を窺えば、手を口許から降ろした彼は、いつも通りの楽しそうな笑みを浮かべていた。


「何だ、妬いたのか? それとも、俺と揃いのドレスが羨ましかったのか?」


 にやにやと、品のない笑みを浮かべるのはからかっている証拠。そんな笑みでさえも端正なものだから、顔が良いというのはすごいなと少し思った。


 妬いたのか、なんて。揃いのドレスが羨ましかったのか、なんて。


「……どちらもですわ」


 俯き、ぽつりと零す。そんなの、どちらもだ。羨ましかったし、二人の仲の良さそうな雰囲気に嫉妬してしまった。

 誤魔化そうにもどうせ彼には気付かれるのだと、開き直って答えたラテルティアは、ザイルが何の反応も示さないことを不思議に思い、またおずおずと顔を上げる。

 片手で顔を覆ったザイルは、ぴくりとも動かなかった。


「殿下? ザイル殿下、どうされましたの?」


 急に体調でも悪くなったのだろうかと不安になって問えば、ザイルが空いている方の手のひらを、待て、というようにこちらに向ける。大人しくその指示に従い、首を傾げながらそんな彼を見守って。

 大きく一つ呼吸をしてから両手をそれぞれ降ろしたザイルは、少しだけ疲れたような顔で「勘弁してくれ……」とぼやいていた。

 不思議に思い、「どうされましたの?」ともう一度訊ねれば、「気にすんな」と言われてしまったのでそれ以上は聞けなかった。


「何にしろ、誤解だ。レナリア嬢を俺が連れてきたのは、あくまでこれから起こることに対する前準備。楽しそうに話していたっていうのも含めてな。で、ドレスは、だ。揃いじゃなくて、偶然だ」


 淡々と言うザイルに、しかし最後の言葉は信じられず。疑問と共に見上げれば、「いや、本当に」と彼は気負うこともなく答えた。


「俺は黒髪だから、正装も黒い場合が多いんだが。……前は髪の色の刺繍だったから、今度は目の色をと思ったら、レナリア嬢の髪と瞳の色と同じで、その色をドレスにしていたレナリア嬢と揃いになったってわけだな」


 「納得したか?」と、彼は続けて問うけれど。彼はどう見ても、黒い髪と赤い瞳で。その刺繍の、髪の色とか目の色というのは一体どういうことだろうと思い、首を傾げた時だった。

 ざわざわと、急に広間が騒がしくなったのは。

 「何かしら……?」と、思わずそちらを振り返って呟いたラテルティアに、ザイルはさっとその手を差し出してくる。唐突に何だろうとその手を見た後、彼の顔を見上げれば、ザイルはとても楽しそうな顔で広間の方を見ていた。

 「時間だな」と、呟きながら。


「国王陛下のお出ましだ。……行くぞ、ラテルティア」

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