第15話 婚約の解消。 前
学園の定期舞踏会に参加したのはこれで二度目だが、明らかに前回よりも参加者の数が多く、内装も煌びやかになっている。それというのも、年度末の舞踏会に毎年姿を見せるという、ラティティリス国王、レディオルを一目見ようという者が集まるからだろう。何しろ貴族だけでなく、庶民の学生も参加が可能な舞踏会である。家族だけでなく親戚も参列すれば、あまりの人の多さにうんざりするというものだった。
ラテルティアの手を取り、バルコニーから広間へと戻れば、集まった人々の視線は一か所に集中していた。広間の一段高くなった位置に置かれた椅子に座る、沢山の宝石が光る王冠や、遠目でも設えが良いと分かるマントといった、豪華な衣装を身に纏った一人の美丈夫。息子とよく似た金色の髪と青い瞳を持つ四十代後半だろうその人物は、柔和な容貌に笑みを浮かべながら悠々と広間を眺めている。
数日前にザイルが王宮で顔を合わせたその人物こそ、このラティティリス王国の国王、レディオル・ラティティリスだった。
「ザイル殿。ここにおられたか」
かけられた声に顔を向ければ、レナリアを伴ったランドルがこちらに歩み寄って来るところだった。レディオルの手前、婚約者であるラテルティアを伴っていないわけにもいかないということだろう。「ラティ」と呼ぶランドルに、ラテルティアは少しだけ不安そうな顔でこちらを見上げる。その様子に小さく笑って、「行ってこい」と告げながらその頭をぽすりと撫でた。
「最後だろ」
その耳にのみ届くような囁き声で言えば、ラテルティアはきゅっとその口を引き結び、こくりと頷いた。覚悟を決めた、とでも言うように。
「では、レナリア嬢。俺たちも行くぞ」
ランドルの方へと歩み寄るラテルティアの肩越しに、彼の傍らに立っていたレナリアの名を呼ぶ。レナリアはふわりと可憐に微笑むと、「はい」と言って頷き、ラテルティアと擦れ違うようにしてこちらに駆け寄った。慣れた様子で腕に手を添え、こちらを見上げてくる。その顔に浮かぶのは、嬉しそうというよりは、緊張を押し隠そうとでもいうような、疲れた笑みに見えた。
「国王陛下に挨拶しねぇとな。……ランドル殿も行くんだろ」
ラテルティアと寄り添うランドルに、少しだけ不快なものがこみ上げるが、顔に出すわけもなく。いつも通り、悠然とした態度を取りながら声をかければ、ランドルはどこか落ち着いた笑みを浮かべて「もちろん」と応えた。そのまま歩き出すランドルとラテルティアを追うように、ザイルもまたレナリアと足を踏み出す。
ラティティリスの王太子とフィフラルの第二皇子の歩みを止める者などいるはずもなく、四人はあっという間に広間の最前列までやって来た。すぐそこには、息子であるランドルに続いて、ザイルに向かって微笑みかける、レディオルの姿があった。
「今宵はラティティリス王国立学園の、年度末の舞踏会にお越し頂き感謝する」
朗々とレディオルが語り出すと、辺りの喧騒は一気に静まり返る。「今年もまた、何事も無くこの日を迎える事が出来て嬉しい」と、彼は続けた。
「隣国、フィフラル帝国から留学しているザイル皇子も、あと半月で卒業だ。最後の定期舞踏会を楽しんでくれ」
「お心遣い、ありがとうございます」
最後のも何も、これで二度目の参加なんだがと思いつつ、名指しで言われれば答えないわけにもいかないので、軽く頭を下げて短く応じる。レディオルはこくりと頷くと、今度はランドルとラテルティアの方に視線を向けた。
「さて、この場を借りて皆に報告がある。……ランドル。レンナイト公爵令嬢。前へ」
レディオルがランドルとラテルティアを見ながら言う。ランドルは不思議そうな顔をしていたが、ラテルティアは何のことだかすでに分かっているので、ただ真っ直ぐにレディオルを見つめていた。
元々最前列まで来ていたため、ランドルが一歩踏み出し、ラテルティアもまたそれに並ぶ。ちらりと彼女の視線がこちらを向いたので、ザイルはこくりと一つ頷いて見せた。何も問題ないと、伝わるように。ラテルティアは少しだけ表情を緩めて、こくりと頷き返していた。
「この場にいる者たちに、証人になってもらおう。……ラティティリス国王である私、レディオルの名の元に、我が息子ランドルと、レンナイト公爵令嬢、ラテルティアの婚約を解消することを宣言する」
レディオルの良く通る声が広間に響き渡り、僅かに喧騒が戻ってくる。驚きに満ちた空間の中、最も驚愕した表情を浮かべていたのは、誰を隠そうランドルであった。目を見開き、ただ茫然とレディオルを見つめている。
反対に、「ラテルティア嬢。この十年、ランドルが世話になったな」というレディオルの声に、ラテルティアは僅かにほっとしたような笑みを浮かべて礼の形を取り、「もったいないお言葉ですわ」と応えていた。
今のやり取りにより、広間の者たちには伝わっただろう。この婚約の解消が、両者の合意の元に発表されたものであり、双方ともに落ち度はないのだと。周囲の囁き声もザイルの思惑通りのものばかりだったので、ほっと息を吐いた。
「……お待ちください、陛下。何故、私とラティの婚約を解消するのです。少なくとも私は、この婚約の解消を望んでいない。それなのに……」
納得がいかない、という様子で言うランドルに、レディオルは視線を向けた後、僅かに息を吐いた。「君が望んでいなくとも、すでにこの婚約の解消は決定事項だよ」と、レディオルは困ったように笑って言った。
「そしてもう一つ。新たにラティティリス王国王太子ランドルと、フィフラル帝国の皇帝の妹君、クレア殿下の娘、レナリア嬢との婚約を発表する。また、レンナイト公爵がレナリア嬢の後見になってくれることになった」
「……は?」
レディオルの口から紡がれた言葉に、今度こそランドルは立ち尽くしていた。意味が分からない、というような顔で。ザイルの隣に立つレナリアは、ほっとしたような顔をしていたけれど。
「レナリア嬢が、クレア殿下の……? 彼女はセンディンズ辺境伯の……」
「ランドル」
あらかじめ予想していた通り、ランドルはレナリアの出生についてすでに知っていたようだ。思わずと言ったように零れ落ちた言葉を遮るように、レディオルが彼の名を呼ぶ。有無を言わせないその声音に、ランドルが口を噤む。レディオルの目に、僅かに咎めるような色が混じっていた。
「この話はすでに、決まったことだ。経緯については、ザイル皇子に訊ねなさい。この件に尽力してくれた、立役者だからね」
「恐れ入ります」
笑いかけられて、くつりと笑い返しながら頭を下げる。レディオルの言う通り、おそらく経緯を最も詳しく語れるのは自分だろう。ラテルティアのためにと動き出したことが、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったが。
さすがに俺も、叔母上の名を借りようなんて考えてもいなかったが。……さすが、兄上。
前回、センディンズ辺境伯の名では弱いと告げたザイルに、叔母であるクレアの名を出したのはエリルであった。
現皇帝クィレル、そして叔父であるダリスの妹であるクレアは昔、今のザイルと同じように、ラティティリスに留学していた。そしてあろうことか、ラティティリス人の庶民の同級生とそのまま駆け落ちしたのである。彼女がフィフラルに帰ってくることはなく、今もラティティリスのとある地域に住んでおり、手紙だけではあるが、ザイルもまた交流があった。もちろん、クィレルもダリスも、彼女の所在地については把握済みということだ。
ダリスが、ザイルがラティティリスに留学することを渋っていたのはそのことが頭にあったからであろう。ラティティリスに来る前に、必ず戻ってこいと再三言われたから。
「それでは皆、引き続き舞踏会を楽しんでくれ」
にこやかに笑って言い、レディオルは席を立って広間を後にする。それほど重要と言うわけでもない学園の定期舞踏会のため、あくまで顔を出すだけなのだろう。皆一様に頭を下げて、退出するレディオルを見送って。
「ザイル殿」と、切羽詰まったような声でランドルが呼ぶのに、ザイルは顔を上げた。
「どういうことか説明して欲しい」
今までにない鋭さを持った視線でこちらを見るランドルに、ザイルはちらりと周囲を見渡す。明らかにこちらを窺う好奇の目に僅かに息を吐き、「ああ、構わねぇが」と応えた。
「ここじゃあな。……控室を借りるか」
いつもの癖で頭を掻こうと髪に手が触れたところで、慌てて腕を降ろす。夜会で整えている髪を乱すのはやめろと、前回ジェイルに延々と言われたのだった。髪型一つどうでも良いと思うのだが、後が面倒臭いので耐えることにした。
振り返り、広間の出入り口の方へ向かおうとしたところ、「ザイル殿下」と再度聞き慣れた声で呼ばれてそちらを見遣る。ランドルの傍らに立っていたラテルティアは、躊躇いがちな視線をこちらに向けていて。「わたくしも、行ってよろしいでしょうか?」と訊ねてきたけれど。
「わりぃな」と、短く答えた。
「ラテルティアには、また後で説明させてくれ。まずはランドル殿と話してくるから」
ランドルにも、そしてラテルティアにも、それぞれ聞かせたくない話がある。二人揃って説明するのは、少し都合が悪い。
ラテルティアは何となく察したようで、こくりと頷き、「分かりました」と呟いた。
「ではまた後で、教えてくださいませね」
「ああ。……ランドル殿、行こうか」
礼をするラテルティアに応えて、ザイルは今度こそ踵を返し、歩き出す。自分の後を追うランドルとジェイル、そしてランドルの護衛の足音を聞きながら、ザイルは真っ直ぐに広間を出た。
控室は、広間から出て廊下をしばらく歩いたところにあった。いくつも用意された部屋の内、最も奥の部屋に入り、ランドルの護衛を部屋の外に立たせて扉を閉める。テーブルにソファ、奥にはベッドまで用意されたその部屋には、ザイルとランドル、そしてジェイルの三人だけが立っていた。
「さて、ランドル殿。何が聞きたい」
かつかつと音を立てて、テーブルの方へと歩み寄りながら問い掛ける。用意されていたワインをグラスに注ぎ、差し出せば、ランドルは少し逡巡するような素振りを見せるも、足を進め、それを受け取った。
「私は全て知りたい。何故、私たちの婚約が解消されたのか。……解消を、なかったことにはできないのか。全てを」
真っ直ぐにこちらを見据えて、ランドルは言う。ああ、やはりそうかと、思った。
全てはもう、遅いのだけど。
「いいぜ。教えてやる」と言って、ザイルはソファに腰を降ろす。向かいの席を示せば、ランドルも素直にそこに座った。
「まず、あんたが一番聞きたがってるだろう、婚約解消の撤回だが。……端的に言って、不可能だ」
「……! 何故……!」
「何故か? それをしてしまったが最後、フィフラルとの国交が途切れ、レンナイト公爵からの後ろ盾を失うことになるから、だな」
ワインを口にしながら、ザイルは淡々と答える。「どういう、ことだ」と言いながら、王子様然とした綺麗な顔に浮かぶのは、不審そうな表情。言っていることを信用できないからなのか、それとも。
信用したくないからなのか。
まあ、全部自分が悪いんだがな。
透明なグラス越しにランドルの顔を見遣りながら思う。
ラテルティアは何とも思っていないと言っていたけれど、さすがにこの話を聞かせるのは躊躇われたから、ザイルは彼女を呼ばなかった。彼女が傷つくようなことを、聞かせたくはなかったから。
彼らの婚約が解消されるしかなかった、決定的な理由。
「レナリア嬢が、あんたの子を妊娠してる」
「……な、に……?」
その顔に浮かんだのは、意味が分からないとでも言うような、呆然とした表情だった。
「俺が知ったのは、ある意味偶然だな。前に舞踏会で話した時に、あんたと彼女の関係に興味ねぇって言ったのを覚えてたらしい。直接あんたに話す前に、どうすべきか相談されたんだよ。俺がこの国を内側から壊してやろうと考えてたなら、すぐにレンナイト公に話したんだがな」
レナリアはランドルに素直に告げれば、なかったことにしろと言われるのではないかと恐れていたようだ。だからこそ、ザイルが偶然あの場にいるのを見た瞬間、相談してきたのである。両親を説得するには有難かったが、面倒事が増えたのもまた事実だった。
婚約者である娘を差し置いて、他の女との間に子を為した。レンナイト公爵がそれを知れば、自分と娘への侮辱と取り、婚約は破棄されたことだろう。加えて、レンナイト公爵が今後、王家の後見となることはなくなる。筆頭公爵家から見向きもされなければ、現在のこの国において、国王にどれほどの価値があるだろうか。
言葉にせずともその辺りの事情を理解できたのか、ランドルは青い顔でこちらを見ていた。
「レナリア嬢がただの庶民だったなら、王家の意向で亡き者にすることも、国から追放することも出来たかもしれねぇが。レナリア嬢はセンディンズ辺境伯の血筋だった。あんたは知ってたんだろ? ラテルティアを正妃に迎えた後に、貴族の血筋の方が側妃に迎えやすいだろうからな。……だが、それがまたマズかったわけだ」
レナリアを亡き者にしてしまった場合、もしくは追放してしまった場合。どちらにしろ、娘が行方不明となった母親が、藁にも縋る思いでその父親である辺境伯を頼ることも考えられないわけじゃない。国を跨いでいる以上、どのような形で国際問題に発展しないとも限らないのである。適当に罪をでっち上げて処刑するなど、もっての外。
いくら庶民といえど、他国の貴族と血の繋がりがある相手を一方的に消し去るのは悪手である。
「それならばあんたの側妃の一人に、って話になるだろうが、すでに妊娠している以上、あんたがラテルティアと結婚する前に、子供が産まれてしまう。そうすればレンナイト公爵にも自ずと知られる。それは非常にマズい。……だから、いっそのことその血筋を正妃としても問題ないくらいまで上げるのはどうかと、国王陛下に進言したんだよ」
そこで名が挙がったのが、叔母であるクレアだったわけだ。彼女がラティティリスで駆け落ちしたのは有名な話だったから。
まあ実際は、そもそもレナリアをクレアの娘とする事でランドルと婚約させ、ラテルティアとの婚約を解消してもらおうと画策していたわけだが。それがこんな形になるとは思ってもいなかった。遠回りになったような、近道になったような気分である。
「もちろん、父上と叔父上には確認済みだ」と、ザイルはまたワインを口にしながら言った。
「叔母上の娘ならば、れっきとしたフィフラル皇家の血筋。それならば、正妃として文句ねぇからな。だが、あくまで作り上げられた身分だ。レナリア嬢自身には、後ろ盾がない。……そこで、妊娠の事を抜きに、レンナイト公爵に話を持って行った」
元々、ランドルとラテルティアの婚約について良く思っていなかったレンナイト公爵は、一も二もなくレナリア嬢の後見となると言ってくれたのである。
「そうなると、あんたとラテルティアとの婚約に意味はなくなるわけだ。いくらレナリア嬢が皇家の血筋だったとしても、自分の娘を
それが、彼らの婚約解消までの経緯である。
ランドルはその肩を落とし、呆然とした顔で俯いてしまっていた。自業自得である。
「まあ、そういうわけで、あんたとレナリア嬢の婚約の解消は不可能。作り上げられた身分でも、フィフラルの皇帝が認めている以上、レナリア嬢は皇家の血筋。そんな彼女を妊娠させた挙句に婚約を解消すれば、普通に国際問題になるだろ。国王陛下は、レンナイト公が後見になるなら問題ないってことで、この案が認められたわけだ。……説明になったか?」
くるりくるりと、グラスの中のワインを揺らしながら問いかける。目的が達成され、笑みさえも浮かべるザイルに対し、ランドルはただ青い顔でワインを一口飲み、深く息を吐いた。「……分かった」と言う彼の声は、これまで聞いた彼の声の中で、最も暗く、苦しそうなものだった。
その様子に、ザイルは僅かに目を細める。王冠だと言ってラテルティアを蔑ろにしていたのは彼自身だ。それなのに、彼女との婚約の解消を告げられ、ここまで落ち込んでいる。
……レナリア嬢に言っていたのは、本心だったか。
馬鹿馬鹿しいと思った。想う相手を守るために、想う相手を傷つけてどうするんだと。他の方法があったはずだろうと。そう思うけれど。
「なあ、ランドル殿」
そう、ザイルは静かに呟いた。
「あんたさ。彼女のことを王冠とか言ってた気がするんだが。……本当の所、どう思ってたんだ」
本当にただの王冠だったなら、同等のものを与えられた今、こうして落ち込む必要もないだろう。だから。
問いかけたザイルに、ランドルは僅かに顔を上げると、「……私は……」と小さく口を開いて。
「失礼します!」という緊迫した大声と共に、部屋の扉が開かれた。
「お話し中、申し訳ありません! 緊急の事態につき、お許しください!」
部屋に入って来ると同時に礼の形を取ったのは、部屋の前に控えていたランドルの護衛騎士であった。背後には舞踏会の警備の兵が立っており、こちらを窺っている。
ただ事ではないその雰囲気に、ザイルだけでなくランドルもまた、普段の王太子然とした表情を取り繕ってそちらを振り返った。
「許す。何だ」
「はっ。会場にて、レナリア嬢が別の令嬢に刃物で襲われ、それを庇ったレンナイト公爵令嬢が怪我を負われました!」
ランドルの声に応えた護衛騎士の言葉に、ザイルはかっと目を見開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます