第9章 日本新名勝俳句で金賞受賞――谺して山ほととぎすほしいまゝ

 

  

 

 

 昭和六年の三月、わたくしたち一家三人(昌子は京都に学んでおりました)は、それまでの借家より二キロほど東方の冨野菊ヶ丘へ転居いたしました。

 高台のせいかいつも強い風が吹いている、そんな家でございました。

 

 汐干潟見ゆる二階に移り来し

 

 翌四月、その数じつに、

 ――十万三千二百七句。

 空前絶後の応募数に及んだ日本新名勝俳句で「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が帝国風景院賞金賞を受賞いたしました。

 先に投句した『ホトトギス』で選に洩れた句が、当時の日本のトップクラスの賞を獲得したいきさつにつきましては先述のとおりでございますが、

 

 橡の実のつぶて颪や豊前坊


 この一句も銀賞に入賞いたしました。

 旧知の俳人では赤城山と琵琶湖を詠んだ句が同じく金賞を受賞されました。

 

 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々      水原秋櫻子

 さみだれのあまだればかり浮御堂     阿波野青畝

 

 いただいた百円の賞金で、昌子のよそゆきの羽織を新調いたしました。

 貧乏を嘆きながら、いつまでも上物好みのわたくしが選んだ生地は、しっとりとした藤紫と濃紫の横斜縞ぼかし模様でございまして、気品ある地色に華やかな蘭の花が誇り高く咲いている、まことに凛然とした絵柄でございます。

 その羽織を昌子はとても気に入ってくれまして、色が褪せても何度も染め直し、それこそボロボロになるまで、何十年もの歳月を大切に大切に着てくれました。

 

 身に纏ふ黒きショールも古りにけり

 

 宇内のものや自分のものを買うことなど、頭の隅をよぎりもしませんでした。

 幼いころから苦労をかけとおしだった昌子に、自分の俳句で稼いだお金で上等な羽織を買ってあげられたことは、大きな幸せをわたくしにもたらせてくれました。




 

 時間が少しさかのぼりますが、この年の『ホトトギス』一月号に、俳人で脳神経外科医の中田みづほさんと同じく内科医の浜口今夜さんの対談が掲載されました。

 東大俳句会で秋櫻子さんの先輩に当たるみづほさんは「秋櫻子と素十」と題し、虚子先生の客観写生に従順な高野素十さん(新潟大学医学部教授)を称賛され、


 ――俳句というのは虚心に自然を写すもので、秋櫻子のように、心を先にしてはいけない。


 と断言されておられます。

 この対談記事が、アンチ虚子VS虚子シンパの代表と見做されていた両者の確執を一気に増幅し、結果的に秋櫻子さんを窮地へ追いやることになりました。


 こうした動きの中で、あくまでご自身の俳句を大切になさりたい秋櫻子さんは、皇族方のご出産も多数担当される産婦人科医としての多忙な日常の間隙に、何とか穏便にホトトギスを去る方法はないものかと頭を悩まされていらっしゃいました。


 有名な話がございます。

 やはり東大の先輩で実業家でもいらした水竹居さんが、

 ――どうもぼくには君が野垂れ死にをするような気がする。

 と案じられたところ、厚意に感謝しながらも秋櫻子さんは、

 ――たとえ野垂れ死にをしてもいまのホトトギスにいるよりましだと思います。

 きっぱりと答えられたそうでございます。

 

 

 

 虚子先生と秋櫻子さんの対立は、ついに決定的になりました。

 秋櫻子さんは『馬酔木』十月号の巻頭論文「『自然の真』と『文芸上の真』」において、『ホトトギス』への訣別を、きわめて激烈な表現で宣言されました。


 ――心を養い、主観を通して見たものこそ文芸上の真である。

   これを尊ぶものこそ詩人である。

   いまごろ時代に逆行して『自然の真』のみを説いているのは

   無教養であることを示すもので、俳壇の恥辱である。


 無教養の例に引かれたのは、虚子先生の随一の信奉者、高野素十さんでした。

 けんかを売られた格好の素十さんもまた、中田みづほさんたちと刊行されていた俳誌『まはぎ』に「秋櫻子君へ」と題する反論を発表されました。

 

 息を呑んで成り行きを見守っていた俳壇の耳目をさらに集めたのは、虚子先生が『ホトトギス』十二月号に発表された掌編小説『厭な顔』でございました。


 織田信長の旧家臣だった栗田左近が生け捕りにされた。かつて信長への諫言が聞き入れられなかったとき、左近はとても嫌な顔をした。それを根に持って逐電し、越前の門前一揆を煽った愚挙を指摘した信長は、「また左近のそのときの厭な顔を思い出しふき出して笑った。左近はいっそう首を垂れた。『左近を斬ってしまえ』と信長は命令した」。短かすぎるほど短い史話はこれで終わっておりました。


 信長=虚子の絶対的権力と冷酷とを再認識させるようなラストは、人びとの胸を一様に寒からしめることにおいて、十分にすぎるほど十分な演出でございました。


 ――この人物を裏切ったら、斬られる。


 だれもがそう思ったにちがいありません。


 

 

 引用には長いと思いましたが、ここまで述べてまいりまして気が変わりました。

 いみじくも虚子という人物の真髄を著した掌編なので、後半を引いてみます。

 

 ――光秀、秀吉の手で、越前の門前一揆の若林父子の城を焼き払い、二、三百騎を討ち取ってその首を敦賀の信長の陣に致した。

 その中に一人の浪人を生け捕って、それも信長の陣に届けた。

 それは信長の命令で、あわよくば、この浪人だけは生け捕ってまいれ、ちょっと会ってみたいから、とのことであった。

 たかが浪人風情で二、三百騎と共に討ち取るのは易々たることであったが、なまじいに生け捕るのに骨が折れた。しかし、無事に生け捕って信長の陣に届けた。

 

 その浪人は栗田左近といって、もと信長の家来であった。

 が、ふと失踪して見えなくなったと思ったら、越前の門徒の一揆の中に這入っておって、あることないこと言いふらして、越前の門徒をして、信長に反抗せしむるように仕向けた。そうでなくっても門徒は信長に反抗すべく余儀なくされていたのだが、この男の毒舌も、いく分その勢いを助けたといってよいのである。

 

 信長はその左近のことなど格別歯牙にかけていなかったが、なぜその左近がさように豹変したかということについては思い当たることがあった。


 信長は小牧にある時分に、陣営の徒然に桜狩りを催したことがあった。

 桜狩りといっても仰山なものではなくって、微行でただ山桜をたずね、百姓家を驚かして、渋茶をすするという程度のものであった。

 

 そのとき召し連れた士のうちに、この左近があった。

 その左近がどういうはずみであったか、主だった将士のことについて、何か信長に耳打ちをしたことがある。その将士がだれであったかも今は記憶にないが、ただ軽くあしらって、てんで相手にしなかった。

 左近もそれきり口をつぐんだが、信長の目にとまったのは、そのとき左近の厭な顔をして引き下がったことであった。その厭な顔が、どういうものだか信長の頭にこびりついていた。

 元来、左近の相は、人に快感を与える相ではなかったが、少し伏目になって口をもぐもぐさせていたそのときの顔はまったく形容のできない不愉快な顔であった。

 

 信長はその後、左近が失踪したことも格別気にもとめずにいたが、近頃若林父子のもとにいて、種々信長に対して悪口を言い、門徒一揆を扇動しているということを聞いた時分に、ふと幻のように浮み出たのは、その厭な顔であった。

 

 しばらく厭な顔の幻をじっと見詰めていた信長は、あまり厭な顔なので、思わずふき出してしまった。

 じっと黙っていた信長が急にふき出したので、傍にいた蘭丸がたずねた。

「何がおかしいのでございますか」

「栗田左近という男を、おまえ知っているか」

「一向に存じません」

「そうか。じつは、おかしいのではない、気味が悪いのだ」

 そう言って、また笑った。

 そこで今度、越前の門徒一揆退治になって、光秀や秀吉に言いつけて、若林父子の陣にいる左近を生け捕って来いという命令を下したのであった。

 

 

 

 さて、信長の前に引かれた左近は打ちしおれて面を垂れていたが、信長はやさしく「左近、しばらくであったな。なぜおまえはおれに背いて門徒の一揆に加わったのか」と聞いた。左近はやはり面を伏せていた。

「いつかおまえがおれに囁いたことは、おまえの親切からであったろうということはおれも想像しているが、そのとき格別気にも留めて聞かなかった。しかし、そのとき、おれがおまえの言ったことを耳に留めなかったので、おまえがたいへん厭な顔をしたことは覚えておる」左近はやはり面を伏せて何とも言わなかった。

 

「大方そのため急におれに背くようになったのであろうが、格別、背くにも及ばぬことではなかったか」左近は少し口をもぐもぐさせている様子であったが、その顔は信長には見えなかった。

「おれもせっかくのおまえの言葉に耳を傾けなったのは悪かったが、おまえもそのために厭な顔をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかったか」信長はまた左近のそのときの厭な顔を思い出してふき出して笑った。左近はいっそう首を垂れた。「左近を斬ってしまえ」と信長は命令した。

              (『ホトトギス』昭和六年十二月号「厭な顔」)

 

 

 冷酷無比とされる織田信長公のスタンダードなイメージを一歩も出ていないどころか、それを巧みに利用して『ホトトギス』の左近すなわち秋櫻子さんに意趣返しをなさった虚子先生のあまりにも露骨なご作為は、目を覆うばかりでございます。


 ところで。

 昨今、その信長公が見直されているようでございますね。

 かの有名な、

 ――天下布武。

 にいたしましても、全国制覇ではなく、足利将軍を援けて当時は近畿地方を指していた「天下」の平安を図るという意味だったことが資料からわかってきたとか。


 とすれば、

 ――天下人。

 この呼称も根底から覆ることになります。

 魑魅魍魎どもがうずまく俳句の世界と同様に、正史として伝えられているものの正体の怪しさも、これはこれで相当なものでございますね。


 

 え、秋櫻子さんのお顔でございますか?

 人に不快感を与えるような、そんなお顔ではいらっしゃいませんでしたよ。

 産婦人科の名医として多くの妊産婦さんに慕われる温顔でいらっしゃいました。

 ついでに申せば、ご注進ご注進とばかりに、お仲間のだれかれのことを虚子先生に告げ口するような、そんな卑劣な方では断じていらっしゃいませんでした。


 

 

 風雲急を告げる中央の動きをよそに……。

 他人事のように申すのもおかしなものでございますよね。

 少し古い表現によれば、

 ――天然。

 とでも申すのでしょうか。

 わたくしにはそういうところがございました。

 ときに、その頓珍漢が、どなたかの癇に障る。

 そんなことも、ままあったようでございます。

 

 それはともかくとして。

『ホトトギス』をめぐる事態がどうこんがらかろうと、どこまで泥沼に嵌ろうと、虚子先生は虚子先生、秋櫻子さんは秋櫻子さん、わたくしはわたくしでございますから、以前からの構想を実行に移すべく、少しずつ準備を進めておりました。

 

 ――主宰誌の創刊。

 

 その夢はもはや夢ではなくなり、現実の色合いを深めつつありました。

 応援してくれそうな人たち、ことに女性俳人のお顔がいくつも思い浮かびます。

 機は熟した。

 そんな熱い思いが、真夏の畑でパンパンに熟した西瓜のように、わたくしのなかで膨れ上がって来ておりました。


 最大の難関は夫の宇内でございますが、もはや引き返せないというところまで形を整えてしまえば、つまりは堅牢に外堀さえ埋めてしまえば、有無を言わせず説得できるだろうという妙な自信が、なぜかこのときのわたくしにはございました。

 

 

 

 その年の暮れも押し迫ったころのことでございます。

 菊好きだった父の思い出から思いつき、その秋中をかけて白菊の大輪千数百個、中小輪六千余の花を摘み集めまして、座敷や縁側に広げた新聞紙の上で乾燥させておいたものを、ひと針ずつ丁寧に縫い上げた真っ新な白羽二重の袋に詰めました。

 さようでございます。


 ――菊枕。


 のちに、わたくしの奇矯の証しとされることになる問題の品を、秋櫻子さんとの一件をはじめ、羽織袴に付きまとうかずかずの毀誉褒貶は承知のうえで、なおかつ唯一の師と仰ぎつづける虚子先生の延命長寿を願ってお贈りしたのでございます。

 門弟数多といえど、これほど心の籠もった歳末の贈り物は、ご覧になったことがないにちがいない、どんなにお喜びになるだろうかとわくわく心を躍らせながら。


 明けて正月。

 年賀状への添え書きで、お礼のお言葉をいただきました。

 言祝ぐ新春から重宝して遣わせてもらっているとの仰せ。

 わたくしはどんなにうれしかったことでございましょう。


  ――昭和七年一月六日 菊枕をつくり送り来し小倉の久女に。

 そんな詞書付きで『ホトトギス』にも紹介してくださいました。

 

 初夢にまにあひにける菊枕    虚子

 

 わたくしは自分の好意が素直に受け留められたことに大いに満足いたしました。

 まさか「妙な匂いの枕を送りつけられて困ったよ」が本音でいらしたとは……。


 

 

 虚子先生VS水原秋櫻子さんのバトルは年が明けてもつづいておりました。

 掌編「厭な顔」で謀反人に模された秋櫻子さんは『馬酔木』の一月号別冊で、


 ――「織田信長公へ」。


 と題する皮肉たっぷりな反論を掲載されたのでございます。

 このころの秋櫻子さんは産婦人科医として多忙を極めておられ、入院の産婦さんの分娩が相次ぐと一睡もせずに夜を明かされ、そのうえ後進の指導もされるなど、たいへんな日々を送っておられたようでございますが、ひとたび遠慮のなくなったペン先の鋭さは、まさに留まるところを知らない勢いでございました。


 

 ――謹白 陣中ご多事の折からご執筆相成候大衆文芸つぶさに拝読仕り候。いつもながら結構布置の妙を極め、ご運筆も神に入りて、何も洩れ聞こえざる遠国(おんごく)の武士(もののふ)は、全然架空のご着想とは知るよしもなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑込み仕るべく。


 また、浜口越州(今夜)、高野常州(素十)などのへつらい武士は、額をたたいて、天晴れご名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりとは申せ、全然空想の作物は近頃流行り仕らず、ここはやはり写生的にご取材遊ばさるる方、拙者退進の史実も明らかとなりてよろしからんと、一応、愚見開陳仕り候。


 何はしかれ、日頃のご寛仁にも似ず、自ら馬を陣頭に進め給いしこと、弓矢とる身の面目これに過ぎたるはなく、厚く御礼申上候。恐惺謹言。                                     生きている左近

            (「織田信長公へ」『馬酔木』昭和七年一月号別冊)



 とまあ、こう申しては何でございますが、どっちもどっちと申しますか、心ある方々には何とも大人げない、子どもの喧嘩にょうに見えていたかもしれません。

 ただ、秋櫻子さんのご指摘のとおり、御大将自ら馬を駆って前線に繰り出されたのは、いささか軽率だったのではないかしらと、わたくしなどは思いますけれど。

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