第12章 最後の拠り所としての句集を志す――下りたちて天の河原に櫛梳り

 

 

 

 

 

 愛し子のような『花衣』廃刊の打撃がようやく癒えかけた昭和八年。

 わたくしは『花衣』に代わる子どもがどうしても欲しくなりました。


 ――『磯菜』。


 はじめての久女句集のタイトルは、これしかございません。


 思いつくと即実行に移さねばいられないのがわたくしでございます。

 何はさておき、まず虚子先生に序文を請うお手紙を差し上げました。

 実際、『ホトトギス』の同人や会員が句集を編むときは水原秋櫻子さんのような勇敢な方を除き、ほとんどすべての人たちが主宰の序文をいただいておられます。下賤な話ですが、相応のお礼を差し上げることは申し上げるまでもございません。

 

 ところが。

 わたくしの依頼にだけは、虚子先生はどうしても応じてくださらないのです。

 さような話は聞いたことがございませんので、わたくしはひどく戸惑ってしまいまして、もしや手紙にご無礼があったのかしらと、何度も出し直してみました。

 けれども、いつまで待っても梨の礫でございました。


 思い余ったわたくしは急きょ上京し、徳富蘇峰先生の秘書をつとめられたのち、国立博物館にある文化財研究所内国宝修理室で文化財の修理に当たっておられた『ホトトギス』同人の池上浩山人さんを訪問いたしましたが、虚子先生とご昵懇でいらっしゃる池上さんにも良案は思い浮かばないようでございました。


 池上夫人も含めた微妙なやり取りを思い返せば、このときすでに虚子先生が久女を快く思われていないという話が、ご夫妻のお耳に届いていたのかもしれません。

 

 断片的ではございますが、わたくしの五月の日記から引いてみますね。

  

――歳時記の用事も終わりたれば、宝塚に八十の母を訪う(父亡きあと母は宝塚の長兄宅に引き取られておりました)。四年ぶりなり。赤堀家の長男の結婚式に参列のためなり。母、喜び給うこと限りなし。二十日に帰倉。大阪駅頭に送り来られし八十の母君、小さき夏羽織。二十円くださった。母よ、まさきくおはしませ。

 

 手づくりの苺食べよと宣(の)らす母

 並びきく母耳うとし河鹿きく


 

 日記の冒頭に記しました「歳時記の用事」と申しますのは、当時、高浜虚子編『俳諧歳時記』(改造社)の編纂が進行中でございまして、『ホトトギス』の同人にも下調べのお手伝いが命じられました。

 若いころのまま調べたり学んだりすることが大好きだったわたくしは、この地道な作業にさびしい魂魄の拠りどころを求め、夢中になってお手伝いいたしました。

 

 仕上がった歳時記の序文に、

 ――解説に当たられた諸君。

 として下調べを補佐した『ホトトギス』の同人が紹介されましたが、その筆頭にわたくしの名前を掲げていただきましたし、なおかつ、各季語の例句にも拙い句をたくさん採用していただきましたことは、まことに栄誉なことでございました。


 ただ、その件と句集『磯菜』の序文の拒否との整合性が、わたくしにはどうしても理解できず、よりいっそうの惑乱を深める要因にはなってしまいましたけれど。


 まさか、あの虚子先生が、

 ――何事にも一所懸命になる久女は、こういう下請け仕事には打ってつけ。

 などと、けちな計算をなさったとは、ゆめゆめ思いたくございませんが。


 

 

 ところが。

 ここでまたしても、わたくしの気持ちを大きく揺すぶる出来事が起こりました。

 なんと『ホトトギス』七月号雑詠欄の巻頭に五句が掲載されたのでございます。

 

 うらゝかや斎(いつ)き祀れる瓊(たま)の帯

 藤挿頭(かざ)す宇佐の女禰宜(にょねぎ)はいま在(ま)さず

 丹の欄にさへづる鳥も惜春譜

 雉子なくや宇佐の盤境(いわさか)禰宜独り

 春惜しむ納蘇利(なそり)の面ンは青丹さび

 

 しかも、翌月号で虚子先生ご自身が絶賛してくださいました。

 

 ――作者の熱情がたまたまあるものに触れると、たちまち才気煥発して立派な句になる。宇佐の宮に親しく詣でて古い記録を読んだ場合に、作者の興味は横溢してこれらの句になったものと思う。作者の感興が本で、材料が末である。そのことを誤解しないようにしないと、たちまち皮相ばかりを真似た句の続出することを恐れるのである。

 

 俳人としてここまで言っていただき、有頂天にならない者がおりましょうか。

 わたくしは日記にごく簡潔に、なおかつ慎重に記しました。

 

 ――五句巻頭は神の守りと、高浜先生のご慈愛による。神の守りいよいよ加わりて、わが芸術の完成を望むのみ。

 

 面映ゆいほどお褒めくださる一方、句集の序文は頑としてお許しくださらない。

 もう何が何だか訳がわかりませんでした。

 ですが、本物の神さまに、神さまの姿をなさった虚子先生に、いえ、虚子先生のお姿をなさった神さまに、わたくしはお縋りするしかございませんでした。



 

 

 この後もわたくしの句は相次いで『ホトトギス』に採用されることになります。

 

   筑前大島十二句

 大島の港はくらし夜光虫

 濤青く藻に打ち上げし夜光虫

 足もとに走せよる潮も夜光虫

 夜光虫古鏡の如く漂へり

 海松(みる)かけし蟹の戸ぼそも星祭


   大島星の宮吟詠

 下りたちて天の河原に櫛梳(けず)り

 彦星の祠は愛(いと)しなの木蔭

 口すゝぐ天の真名井は葛がくれ

 

   玄界灘一望の中にあり

 荒れ初めし社前の灘や星祀る

 大波のうねりもやみぬ沖膾(なます)

 星の衣吊すもあはれ島の娘ら

 乗りすゝむ舳(へ)にこそ騒げ月の潮

 

 十二月には地元紙『九州日報』に随筆「菊枕」が掲載されました。

 

 ところで。

 このころ『ホトトギス』を取り巻く風雲は急を告げておりました。

 さようでございます、東の水原秋櫻子さん主宰の『馬酔木』、西の吉岡禅寺洞さん主宰の『天の川』を拠点とする新興俳句運動が隆盛の気運を見せており、さらに二年後には、大阪の日野草城さんが『旗艦』を創刊されるのでございます。

 

 かたや、前年の昭和九年三月には、改造社から総合雑誌『俳句研究』が創刊されまして、大手版元が原稿料を支払う商業雑誌をスタートさせたことは、結社という旧態依然の象徴に胡坐をかいていた俳句界に大きな衝撃を与えました。


 むろん、そのことを百も承知の改造社では、この際、俳壇に巣食う閉鎖性を打破しようという意気込みだったのでございましょう。

 創刊号には水原秋櫻子さん、富安風生さん、星野立子さん、それにわたくしなど中堅どころに執筆依頼がまいりましたが、古くからの『ホトトギス』の在籍者で、虚子先生の威を借り、実質的に牛耳っている人たちには声がかかりませんでした。


 ライバルの河東碧悟桐さんが引退されたあと、最大結社『ホトトギス』を率いる虚子先生は単なる俳人の枠を超え、日本を代表する文化人になっておられました。

 ですが、刻々と迫りくる新時代の波濤から、いまもってなお花鳥諷詠一辺倒の『ホトトギス』を守るために生み出された窮余の策だったのでございましょう。


 正直なところ、

 ――まだ早いのでは? 

 と思う人も含め、同人数を増やすことで内部の団結を高めようとなさいました。


 

 

 昭和九年四月、四十四歳を目前にしたわたくしは一大決心で上京いたしました。

 もちろん、虚子先生に初めての句集『磯菜』の序文を強くお願いするためでございますが、丸の内の『ホトトギス』事務所に、先生はいらっしゃいませんでした。


 あるいは居留守をつかわれたのかもしれませんが、わたくしは矢も楯もたまらず川端茅舎さんを訪ねたり、夕方、お茶の水の橋の上で前田青邨(東大助教授)さんの帰路をお待ちして、竜星閣(出版社)へのご紹介を依頼したりいたしました。


 さようでございますか。

 のち青邨さんはつぎのようなことを。

 おやさしい方でいらっしゃいますね。

 

 ――虚子先生の機嫌を損ねていた久女は、藁をもつかむ思いでわたしに頼みに来た。非常に大事なことを頼まれたのだが、虚子先生が拒否しているものを、わたしが口添えして竜星閣から出させるということはできなかった。その心情、まことに哀れで、涙がこぼれる。

 

 傍目には見苦しい悪あがきのように見えますでしょうね。

 いいえ、よろしいのです、本当のことでございますから。


 わたくしはただ、わたくしの俳人としての力を引き出してくださり、わたくしという人間を理解してくださった虚子先生の序文をどうしてもいただきたかっただけなのでございます。


 ほかの方々、たとえば飯島みさ子、久保より江、長谷川かな女さんらの句集にはいずれも行き届いた序文を書かれているのに、なぜわたくしだけが拒まれるのか。

 その訳が、わたくしにはどうしてもわからなかったのでございます。


 聞くところによりますと、お嬢さんの星野立子さんは、


 ――虚子先生の一挙手一投足に一喜一憂し、行く先々に就いてまわるような久女さんの熱意がうるさかったのだ。虚子先生は弟子とはもっと距離を置いた淡い付き合いを望んでいたのだ。


 そんなふうにおっしゃったそうでございますが、それが本当だとしたら、わたくしはまるで逆を、嫌われるように嫌われるように行動していたことになります。


 ――率直なアドバイスをしてくださる方がいてくださったら。


 そんなことも思わないわけではございませんが、還暦過ぎの老人の掌でいいように踊らされ、もっと認めてほしくてもがいていた自分が惨めで、愛おしくもあり、いまとなってはもはや、何もかも、どうでもいいような気がいたしております。



 

 5

 

 そんな葛藤の最中、『ホトトギス』五月号の雑詠巻頭に五句が掲載されました。

 

 雪颪す帆柱(ほばしら)山冥し官舎訪ふ

 生ひそめし水草の波の梳き来たり

 逆潮をのりきる船や瀬戸の春

 磯菜摘む行手いそがむいざ子ども

 くぐり見る松が根高し春の雪

 

 ――やっぱり虚子先生はわたくしをお見捨てにならなかった。


 そう狂喜したのもつかの間でございまして、翌月号の選評を読んだわたくしは、全身の血がさあっと音を立てて下がってゆくような心持ちを味わいました。

 

 ――官舎を訪うている人は身分の低い、と言っては語弊があるが、官舎にときめいている人を訪ねる、境遇のあまりよくない人、というような心持ちがする。

 

 油断していた足許をいきなりすくわれました。

 かような侮辱が許されてよいものでしょうか。

 いま読み返しても、あまりに冷たい、品のない鑑賞でございます。


 これに追随するように、わたくしの没後、句妹であった橋本多佳子さんは、つぎのようにお書きになったそうでございますが、こちらも品があるとは言いがたく。


  ――官舎とは八幡製鉄所長用の官舎。久女は「ダイヤを捨てた」と言いながら「中学教師の妻」と言われるのをとてもいやがって、「有閑夫人のお相手はできない」と絶交してしまった。

  

 そんな苦悶のなかで、八月、わたくしは日本放送協会小倉放送局のラジオ番組「境涯から生れる俳句」に出演いたしました。



 

 

 時間が前後して恐縮でございます。


 この年一月の晦日の夜、お弟子さんのちさ女さんが訪ねて見えました。

 長寿の妙薬という鶴の肉を持って来てくださったのでございます。

 ちさ女さんのご依頼により、同じく弟子のいく代さんにお裾分けいたしました。

 

 ――ちさ女さんが来て「朝鮮の妹から白鶴を一羽送ってきましたから、先生にもひと切れ持って来ました」と言って、お皿にのせた一塊の鶴の肉を差し出した。

 鶴の肉というものは、わたくしが子どものとき、東京の実家で、やはり朝鮮から送られたのを食べたことはあるが、もう三十年も前のことで、いっこう覚えもないので、手に取りて眺めると、牛肉のような赤い肉だった。

 

「これは胸の肉なのでございますよ。昨夜は二時ごろまで鶴を料理(つく)るのにかかりました。そして肉は、今日、主人とふたりで三十軒ばかりお分けしました。白鶴は剥製にやったりして、この三日ほど鶴のことで騒いでいます。お隣の方など、鶴は食べたことがないから、たった一片くださいとおっしゃるから、二、三片差し上げましたら、今日は汽車に乗って直方の七十いくつかのお母さんにあげにお出になるそうです」と、ちさ女さんは、鶴の肉を方々へ分けて、自分たち夫婦は骨ばかりしゃぶったとも愉快げに話して笑うのだった。


「先生、もう一片のほうは縫野さんの坊ちゃんにあげてください。いく代さんがあんなに心配していらしたから」ちさ女さんはもの優しく言い置いて帰って行った。

 

 翌日、わたくしは草庵のまわりを歩きまわって、まだ莟(つぼみ)の固い紫色の蕗の薹や、芹、嫁菜を摘んできて、市場へ行って赤い小蕪や春のお菜を五、六種買ってきた。

 それらをきれいに洗い、塗盆にのせて居間の畳の上に置いた。部屋の中はきれいに片付けられ、名香の煙が静かに流れていた。灯下の屏風の前に俎板を据えて座ったわたくしは、一塊の鶴の肉や包丁、摘草籠に入れた芹よめな、盆に瑞々と盛られた春菜の彩りを愛でながら、白布を敷いた俎板の上で、静かに鶴を包丁し始めた。

 

 わたくしはふと気がついて、机の上の歳時記を引っ張り出し、鶴の包丁というところをめくって見た。例句が少ないので、鶴を料理る宮中の古式を想像することも難く、先年切も万年切もわからないが、鶴の肉をすきながら、大空を飛翔している白鶴を想像したり、ちさ女さんの語った鶴の腿の薄紅色の肉だったら、いっそう料理るのにも感じがいいだろうにと、そんなことを思いつつ薄くへいだ肉を古代絵巻の蓋物に盛り並べるのであった。


 この蒔絵の蓋物は主人の家がむかし大庄屋をしていたころ、殿さまから拝領したという根ごろ塗の本膳中のお椀なので、三百年前の金箔総蒔絵の大時代もの。わたくしが朝夕机辺に向いて愛でている器なのであるが、白鶴の肉に芹や若菜、蕗の珠など山肴を盛り寄せて、じっと眺めていると、何とも言えぬ古典の懐かしさが湧いて来るのだった。



 

 

 さて、その翌日は、その蓋物を持って記念病院を訪ね、手術後の令息の容体を訊いてから白鶴の肉をあげると、いく代さんは看病やつれした顔に喜びの色を浮かべて、「静弥さん、すぐ煮てあげましょうね。ですが、滝川さんも昨日から酸素吸入してらして、大分おわるいから、一片でも差し上げましょう」と蓋物のまま令息の友人で大分容体のわるい滝川さんの病室へ出て行かれたが、すぐもどって来て。「先生、滝川さんの奥さまがたいへんお喜びになって、でも、お初に頂戴しては済まないから、いま頂戴にこちらから出ますとおっしゃってでした」とのこと。


 間もなく滝川夫人が小皿を手にして入って来て、わたくしにも挨拶され、鶴の肉を三切れもらい、蕗の薹や他の春菜も取り揃えて帰られた。わたくしもご病人のお見舞いを述べて、せめて日がかかっても全快さるるように祈った。

 

 いく代さんは火鉢に小さい鍋をかけて鶴の肉を煮始めた。わたくしは袂から長崎のあちゃさんと玩具の鈴と、香椎で拾った檀の実を静弥さんの枕元に差し出した。病人は寝床の上に起き上がってたいへん機嫌がよく、わたくしのあげた鈴を鳴らして、鶴の吸物のできるのを待っている。


 そこへご主人も製鉄所の帰り道に立ち寄られ、「先生もご一緒にお食事してお帰りなさい、今日はわたくしの誕生日だから」と勧められるので、ついわたくしも呑気にその気になり、ご病人があの古蒔絵の器で機嫌よく白鶴の吸物を吸われるそばで、縫野ご夫婦と一緒にのんびりとご馳走をいただいた。

 

 わたくしの持って行った鶴の七片のうち残り三切れを磯野氏の令息が食べ、一片をご主人が誕生日の祝いにと食べ、またわたくし宅の残りの鶴の肉は、節分の夜、八十一の老母と主人とわたくしとが一片ずつ、千年の寿にあやかるようにと語り合いながら賞味したのであった。  (「鶴料理る」昭和九年四月『かりたご』)

 

 盆に盛る春菜淡し鶴料理る



 

 

 この年、句集の序文をめぐって、わたくしは千地に乱れておりましたが、こんなことではいけない、自分が壊れてしまうと気を引き締め直しまして、元寇の防塁跡などを訪ね、ひとり吟行で俳句の根源に立ち返ろうとつとめたりもいたしました。

 

 防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む

 領布(ひれ)振れば隔たる船や秋曇

 

 また、些細なことをきっかけに、わっと涙が噴き出したり、妙にセンチメンタルになったりいたしまして、やたらに昔が恋しくなり、生まれ育った鹿児島や琉球を詠んだ句を作ったりもいたしました。

 

 海ほほづき鳴らせば遠し乙女の日

 爪ぐれに指そめ交はし恋稚(わか)く

 ひとでふみ蟹と戯れ磯あそび

 紫の雲の上なる手毬唄

 朱欒(ざぼん)咲く五月となれば日の光り

 天碧し盧橘(ろきつ)は軒をうづめ咲く

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