第13章 虚子、句集の序文執筆を徹底拒否――叱られてねむれぬ夜半の春時雨

 

 

 

 

 

 昭和十年(一九三五)、四十五歳のわたくしに衝撃的な事件が起こりました。

 四月二十八、九日、神戸の須磨寺で、虚子先生歓迎俳句大会が開かれました。

 ご案内はいただかなかったものの、わたくしは自ら進んで会場に出向きました。


 ところがでございます。

 着席すると事務係の人が来て、


 ――座をはずしてください。


 耳元で囁くではありませんか。


 どうしていけないのですか?

 そう申し付かっております。

 わたくしひとりが、なぜ?

 とにかく、困りますから。

 押し問答の末、わたくしは隣室で句会の模様を聞いている羽目に至りました。


 句会の終了後、『ホトトギス』の重鎮、西山泊雲さんに別室へ呼ばれました。

 さようでございます、虚子先生の腰巾着と言われていたご老人でございます。

 そこでわたくしは、厳めしく腕組みした泊雲さんにきつく申し渡されました。


 ――先生を困らせてはいけません。


 句集の序文を請う手紙のことを何の関係もない老人に咎め立てされたわたくしの驚愕と忿怒、恥辱、絶望、悲嘆、その他のほどをご拝察いただけますでしょうか。


 自分からしゃしゃり出たのか、それとも虚子先生のお気持ちに忖度されたのか、あるいはそうするよう仕向けられたのか存じませんが、ご自身は型にはまった古くさい凡句駄句しか詠めないくせに、他人に偉そうに説教する老人も老人なら、その無礼を諫めない周囲も周囲だと、『ホトトギス』とその周辺の人たちへの熱い恨みが付き上がってまいりました。


 ――まさか虚子先生は、わたくしの私信を他人に見せたりはなさらないだろう。


 信じたいと思いながらも、信じきれないものがわたくしの中に残りました。

 打ち萎れての帰途、夜汽車の窓をひっきりなしに伝う涙を見ておりました。

 

 とほくより桜の蔭の師を拝す

 叱られてねむれぬ夜半の春時雨



 

 

 翌五月、改造社の総合誌『現代俳句』に、


 ――久女句集『磯菜』刊行予定。


 の記事が掲載されましたのは、苦悩を見兼ねたどなたかのご配慮と存じますが、それに関係があるのかどうか、わたくしは『ホトトギス』で冷遇され始めまして、九月号から向こう三年間、雑詠欄にほとんど採用されなくなりました。


 そういえば、立場は異なりますが、わたくしのご紹介で知り合った山口誓子さんのお勧めで『ホトトギス』から『馬酔木』同人に変わった橋本多佳子さんも、


 ――昨日までの友はみな敵のような顔をしてわたしたちを見ます。


 と嘆かれ、その後十数年にわたって俳人との交際を断たれたそうでございます。

 それより以前のことですが、同人でありながら反『ホトトギス』色を明確にした日野草城さんも、大正の終わりごろには、ほとんど入選しなくなっておりました。

 面映ゆうございますが、その草城さんのお言葉を引かせていただきます。

 

 ――杉田久女は才女である。感受力のすぐれていることは作家として恵まれたる条件にちがいない。それと共に、あまりにも鋭敏なる感受は、彼女を多かれ少なかれ神経質にする。進んではヒステリー的傾向を帯びしめさえする。自己の俳壇的地位や結社首領の待遇に関心を持ちすぎることは、ある場合、不幸をもたらしさえする。作家としての本当の幸福は、それらの外在的条件にはなくして、むしろ内の内なるものに、自ら蔵して自ら認識するところのものにありはせぬか。自ら知る悦びは、ひとに識らるる喜びとは比べものにならぬことくらい、この聡明なる閨秀作家が知らぬはずはないのだが――。          (「俳壇人物評論二」)

 

 たしかに草城さんのご指摘のとおり、どのような目に遭わされても、わたくしは虚子先生一辺倒で、秋櫻子さん、禅寺洞さん、多佳子さんのようにきれいさっぱりと『ホトトギス』から離脱することなど、考えたこともありませんでした。


 一途な……といえば聞こえがよろし過ぎますわね。

 ようするに変化が怖かった、保守的な人間だった。

 それが虚子先生を崇めつづけた因かもしれません。

 

 少しあとになりますが、「鈍客観写生に低回する勿れ」を発表された原田浜人(ひんじん)さんも、その時点から『ホトトギス』を乾されたようでございます。



 

 

 この年も暮れようとする十二月二十三日、飛来地として知られる山口県八代村に鶴を見に行きました。どんな句を詠もうと『ホトトギス』に採用されないことは重々承知でしたが、前年の一月、ちさ女さんが持って来てくださった鶴の肉が忘れられず、生きている鶴の句をどうしても詠んでみたかったのでございます。

 

 旅のあと書き留めておいた一文をお目にかけます。

 

 ――山口県八代村の一夜は月光と霧に包まれ、実に美しかった。暁方、田鶴(たづ)の飛んで来るのをしきりに待ち、わたくしは夜中しばしば起きたのであるが、夜がしらじら明け初めたころ、亭前の刈田に甲高い鶴のひと声を聞いたような気がしてわたくしは飛び起きた。障子を開けて露台に出てみると、向こうの松山から、いまねぐらを発った三羽の鶴が、高く鳴きつつこちらを向いて悠々と飛んで来るのであった。三羽の田鶴はわたくしの佇んでいる真上に来て真っ黒い翼を広げつつ、絵に描いた鶴そのままの美しい姿で軒高く旋回した。大空の月を中心に舞い、澄みなき澄む三羽の鶴をうち仰ぎつつ佇ち尽くすわたくしの魂は恍として躍った。

 

 大地も稲城(いなき)も霜白く、太陽はいま東の山から朝霧を破って日の征矢(そや)を盆地に注ぎ始め、田の面の稲城はくっきりと紫影を曳いて噴煙を上げていた。田鶴はなおいく群れもいく群れも舞い来り、飛翔しては遠近の刈田に舞い下り、あるいは日輪のまぶしい光芒の中で盛んに飛翔した。田鶴の舞い来る数は三羽あるいは四羽五羽以上、ときに数十羽、群れを成してじつに美しく、翅をかえして舞い下りるとき、その右左に真っ直ぐにのべた翅の表がキラリキラリと純白に輝き光る様はまことに見事であった。

 

 朝餉を済まして宿を出たわたくしは、鶴の群れを見るべく刈田を縦横に拾い歩いた。天気はよく晴れ渡っていた。刈田の畔は紅葉し、小川のそばには見事な一株の枯れ薄(すすき)が純白の穂を風に梳(くしけず)られていた……わたくしは稲城を出て、そろそろと田鶴の群れに歩み近づいて行った。雛鶴を連れて刈田を餌(あさ)る群鶴は、わたくしの歩み近づくに従って、静かに山の方へ山の方へと歩みを移しつつあった。群れから離れた一羽の鶴がわたくしの胸に刻みつけられた。四山に谺して寂しげに鳴く田鶴の姿を追うわたくしの目には涙があった。

 

 天気は実に明朗で、瑠璃色に透いていた。わたくしは数枚の絵葉書を出すべく、八代村の人家の方へ歩みを運んで行った。どの家もどの家も数株の菊咲かぬ戸はなく、南天は赤い実を房々つけて苔むした庇に茂り、わたくしの歩いてゆく家の向こうの刈田にも田鶴がのどかに鳴きつつ舞い下りるのを眺めて、わたくしの心はいつかまた今日の天気同様に明るくなった。         (「野鶴飛翔の図」)

 

 山冷にはや炬燵して鶴の宿

 燃え上る松葉明りの初暖炉

 菊白しピアノにうつる我立居(たちい)

 ストーヴに椅子ひきよせて読む書かな

 

 月光に舞ひすむ鶴を軒高く

 月高し遠(おち)の稲城はうす霧(き)らひ

 舞ひ下りてこのもかのもの鶴啼けり

 

 鶴舞ふや日は金色の雲を得て

 鶴の影舞ひ下りる時大いなる

 大嶺にこだます鶴の声すめり

 寄り添ひて野鶴はくろし草紅葉

 親鶴に従ふ雛のやさしけれ

 

 ふり仰ぐ空の青さや鶴渡る

 大空に舞ひ別れたる鶴もあり

 舞ひあがる翅(は)ばたき強し田津百羽

 旅籠屋の背戸にも下りぬ鶴の群

 鶴の里菊咲かぬ戸はあらざりし

 鶴鳴いて郵便局も菊日和

 学童の会釈優しく草紅葉


 

 

 

 昭和十一年二月十六日。 

 六十三歳の虚子先生は、六女の章子さん(十七歳)を連れて渡仏されました。


 横浜港を出航した箱根丸が立ち寄る門司港でお待ちしていたわたくしは(はい、どんな目に遭わされようとも、ひたすら虚子先生一途でございましたので)、洋行へのご挨拶句を添えた花籠を直接先生にお渡ししたかったのですが、取り巻きの方々に取り上げられてしまい、花籠の行方を見届けることもできませんでした。

 

 虚子たのし花の巴里へ膝栗毛

 

 このときのこと、さらに、まったくの嘘で塗り固めた帰路の出来事まで脚色した「箱根丸事件」なるものが、わたくしの没後、巷に飛び交ったようでございます。

 ですが、わたくしはただ、心からお慕いし、ご尊敬申し上げる虚子先生の晴れの海外旅行に、ひと言お祝いを申し上げたかっただけなのでございます。


 あまりに情けなくてお話するのも憚られますが、あろうことか、虚子先生ご自身による、門弟への恣意と悪意に満ちた、前代未聞のでっちあげ話でございます。


 それによりますと。

 門司港で虚子先生に大きな鯛を進呈した久女は、小倉の俳句会の一団を率いて「虚子先生渡仏万歳」と認めた旗を立てたランチを繰り出し、沖に出て行く箱根丸をどこまでも追い駆けた、というのでございます、虚子先生のご迷惑も顧みずに。


 さらには。

 帰路も門司港で船を待ち構えていた久女は、虚子先生の上陸中にたびたび船室を訪ね、機関長をつかまえて「なぜ先生に会わせてくれないのか」と泣き叫んだ。そのとき色紙に、一字も読めないような乱暴な字で意味不明な文を書き殴った……。


 


 なれど。


 持つべきはよき友、よき弟子でございますね。

 わたくしの没後ではありますが、お弟子さんのちさ女さんが持って来てくださった珍しい鶴の肉をご令息の病室へお届けした、やはり門弟のいく代さんが証人を買って出てくださいまして、往路のランチの一件を全面否定してくださいました。


 それに。


 まさに噴飯ものでございますが、そもそも帰路の箱根丸は門司へ寄港していないことまで明らかになりまして、非常識な久女の奇行の象徴としてセンセーショナルに喧伝されました「箱根丸事件」の真実が白日の下に晒されたのでございます。

 

 

 ――御仏の救いの手にすがりて「やかな」の門戸をくぐれよくぐれよ。

   しこうして悟れずとも進まずとも、唯この一道に安着せよ。

   この一路に繋がれよ。

   天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。

                  (『ホトトギス』明治三十八年九月号)

 

 

 高らかに唱えた虚子先生のもとには、政財界の大物や俳壇以外の文化人、医師、学者、マスコミの人たち、地方の資産家などの名だたる門弟がたくさん詰めかけ、その頂点に立たれた虚子先生に、わたくしごとき一介の主婦が、田舎の美術教師の妻ごときが近寄ることこそおこがましい、と思わないでもございませんでしたが、

 

 ――芸術は富や名誉や地位ではない。

 

 そんな不遜な思いも捨てきれずにおりましたので、錚々たる取り巻きの方々には分を知らない生意気な女と映ったのかもしれません。



 

 

 じつは、この洋行より少し前、句集の一件が思わぬ方向で進行しておりました。

 別に虚子先生(鬼とは申しませんが)がおられぬ間に進展させてしまおうとか、さような意図があったわけでは決してございません。


 単に偶然が重なっただけでございますが、二月十日、池上浩山人さんのご紹介でかねてより知遇をいただいていた徳富蘇峰先生からお手紙を頂戴いたしました。

 お預けしてあった句稿を、出版社の書物展望社に依頼してくださったと。


 わたくしは小躍りせんばかりに喜びました。

 念願の句集の目処が立つかもしれないのですから当然でございますが、むろん、蘇峰先生と組んで虚子先生の裏をかいてやろうなど思ったわけではございません。

 ご親切に、池上さんによる装丁も考えてくださっているとのことでございます。


 ――ここまで話が進んでおります、虚子先生にはお手数をおかけいたしません。


 フランスから帰国された折にはきっとご機嫌もよろしゅうございましょうから、丸の内の『ホトトギス』事務所へお伺いして、さようにお話するつもりでございました。

 

 ところが。

 すべてが裏目に出てしまったのでございます。


 おそらく取り巻き連の進言もあったろうと思われますが、あたかもご自分の留守を狙ってことを起したかのような、わたくしの句集の出版話を知った虚子先生は、途方もなく冷酷な判断を下されたのでございます。

 

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