第14章 不意打ちの『ホトトギス』除名――一束の緋薔薇貧者の誠より
1
送られてきた『ホトトギス』十月号を開いたわたくしは、あっと叫びました。
――従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、滝本水鳴両君を加ふ。 ホトトギス発行所
目を疑うような一文が巻頭の一頁を占めて……。
ただそれっきり、理由も何も書いてありません。
驚愕したわたくしは、全身の血がさあっと引いていく音を聞いておりました。
新興俳句運動の旗手になっていた日野草城さんと吉岡禅寺洞さんはわかります。
でも、わたくしは……。
いったい『ホトトギス』に、虚子先生に何をしたというのでございましょう。
いくら考えても考えても、爪の先ほども思い当たる節が見当たりません。
烈しい動悸と息切れで呼吸ができなくなり、その場にヘナヘナとくずおれながら、自分の手の小刻みな震えを、どうしても止めることもできずにおりました。
少し落ち着いてから、巻末の「消息」欄の虚子先生の仰せに目を走らせました。
――わがともがらにあらざる俳句界には多少の議論が横行しているそうですが、それらは自ら発生して自ら消滅する、あたかも病菌の如きものかと思います。
黙ってほうっておけば、それ自身さかんに談論して、やがて自滅していくこと、古今軌を一にしておるのであります。
明らかに草城さんと禅寺洞さん、さらには水原秋櫻子さんたちに向けての宣言でございますが、王者の咆哮めいた挑戦的な文言の裏に秘められた虚子先生のお心、
――昨日や今日、鬱勃として起こった有象無象など、俳句結社にあらず。
わが『ホトトギス』こそ唯一の正道であるという自負が透けて読み取れました。
では、わたくしはアンチ虚子勢力に追随するとして追放されたのでしょうか。
それはちがいます、まったくちがいます。
わたくしには『ホトトギス』しか、虚子先生しかおりません。
声を限りに叫ぼうにも、丸の内は、鎌倉のお宅ははるか東方でございました。
まさかのことに、わたくしという人間が、
――虚子先生に嫌われたのかもしれない。
とは脳裡をかすめもいたしませんでした。
わたくしはただ泣いて泣いて、泣いて泣いて、身をよじって泣いて、子どもや夫の帰宅も知らずにおりました。
至らない点が多いわたくしに、変わらず温かなまなざしを注いでくださいました吉岡禅寺洞さんのつぎのお言葉が、いまさらながら身に沁みるのでございます。
――宗教以上の宗教としていた久女さんの俳句、結局はただひとつ、虚子という本尊によって生かされねばならない人であった。本尊から見放されたら、もう久女さんは死あるか、精神が狂ってしまうほかはないであろう。
2
この世に生まれてこの方、これほどの恥辱を受けたことはございません。
――除名。
それも弁解無用とばかりにバッサリと斬って、用水路に投げ捨てられた。
だれがどう見ても、とんでもない不始末を仕出かしたとしか思えません。
――傍観者のわたしでさえ母に何か落ち度があったと考えるよりほかなかった。
何があっても絶対的な味方になってくれると信じきっていた長女の昌子ですら、後年、さように述懐したほどでございますから、まして、人さまにおいては……。
わたくしは虚子先生を、注進をした取り巻き連を恨んで恨んで恨み抜きました。
みんないっせいに消えてなくなれと願ったことも一度や二度ではございません。
けれど、結局、わたくしは虚子先生なしには生きていかれないのでございます。
口惜しくても悲しくても、『ホトトギス』あってのわたくしなのでございます。
覚えがない非を、自分をどう言いくるめてでも認めるしかないのでございます。
悶えから逃れるため、わたくしは少し考え方を変えてみることにいたしました。
――今回の件は虚子先生のご温情なのだ。
わたくしの覚悟を試すため、虚子先生はあえて思いきったことをなすったのだ。
でなければ、もっと穏便にして、周囲に気取られぬよう退ければいいのだから。
そう思い直してみますと、本当にそんな気がしてまいりました。
そこまでわたくしのことを考えてくださる虚子先生にご恩返しをしなければ。
その日から近くのお寺や神社に日参し、一心不乱にお百度参りを始めました。
3
そんなわたくしの狂奔を見兼ねたのでございましょう、
――俳句は『ホトトギス』だけじゃないんだから、別の結社へ移れば?
長女の昌子が申しましたが、わたくしはかたくなに首を横に振りました。
――ここまで育ててくださった虚子先生を裏切るなんて、できないよ。
言いつつ慟哭するわたくしに、昌子も一緒になって泣いてくれました。
――昌子は母を愛し、母を哀れと思って涙しながら、母の哀れさが逆に憎しみに窯変(ようへん)し、疲れ果ててしまう。
さようでございますか、さように田辺聖子さんが?
まあ、たしかにそのとおりでございましたでしょう。
娘とわたくしの母子関係は反転し、わたくしは娘に甘えきっておりましたから。
4
一方的に同人を除名されたあとも『ホトトギス』への投句をつづけました。
でも、どんなに渾身の句を送ろうとも、ただの一句も採っていただけません。
事務的に送られてくる『ホトトギス』は、わたくしの苦しみとなりました。
悲嘆に暮れるわたくしに立ちはだかるようにして、宇内は冷然と申しました。
――おまえのような人間には、虚子先生でさえ愛想をつかされたのだろう。
世間の風から守ってくれるどころか、自ら妻を撃って勝鬨をあげる夫に、
――わたくしの俳句は、あなたなんかに指一本も触れさせるものですか!
その辺にあるものを投げつけて精いっぱい抵抗いたしましたが、宇内は意固地になる一方で、やがて、その日その日の生活費しか渡してくれなくなりました。
まさに生き地獄の日々。
でも、わたくしのなかに、こつんと堅く芽生えたものがございました。
俳句という、あまりに短い表現形式に対する素朴な疑問でございます。
――偶然の要素が多い、たった十七文字を、芸術と呼んでいいのだろうか。
戦後、桑原武夫さんが提唱されて大物議をかもすことになる俳句第二芸術論。
評論家の先生と並ぶのはおこがましゅうございますが、たしかにそれに通底する疑念が、錯乱した頭の隅で、そこだけ冷静な青い光を放っていたのでございます。
5
隅まで追い詰められた鼠のようなわたくしは、矢も楯もたまらず上京して丸ビルの『ホトトギス』事務所を訪ねましたが、取り巻きに阻止され、虚子先生にお目にかかることはできませんでした。
一束の緋薔薇貧者の誠より
帰朝翁横顔日やけ笑み給ふ
古くからの『ホトトギス』の同人のおひとりが、わたくしの不名誉を晴らそうと一所懸命に走り回っている昌子に、わたくしが除名された本当の理由を教えてくださったのは、わたくしが死してより、しばらくのちのことでございます。
言うまでもなく、『ホトトギス』王国といっても一枚岩ではございません。
良識ある同人や会員のみなさんは、虚子先生のあまりのなさりように心を痛めていてくださったのでございます。
――虚子先生は、久女さんの俳句や評論の実力を怖れておられたのです。
久女さんが立子さんを凌ぎ、女流として日本の頂点に上り詰められることを。
そこへちょうど中村汀女さんが現われたので、汀女さんには申し訳ないですが、この程度の実力なら立子さんの補佐役としてちょうどいい、立子さんを押しのけて世に出るようなことは決してあるまいと、さように踏まれたのでございましょう。
昌子は就職などの際、ずいぶんと中村ご夫妻のお世話になっておりましたので、かわいそうに、ますます複雑な立場に置かれたようでございます。
ですが、先輩の観察眼は、当たらずとも遠からずというところかもしれません。
6
このころ、当時の大手版元、改造社が『俳句三代集』を編纂しておりました。
主な結社の主宰は、そろって審査員や評議員に選ばれておりましたが、なかでも虚子先生は別格で、顧問の位置づけでございました。
なお、女流で評議員に名を連ねていたのは、長谷川かな女おひとりで、虚子先生の覚えの目出度い、かな女に大きく水を開けられたことを思い知らされました。
たてとほす男嫌ひのひとへ帯
張りとほす女の意地や藍ゆかた
押しとほす俳句嫌ひの青田風
虚子きらひかな女嫌ひのひとへ帯
ユダともならず
春やむかしむらさきあせぬ袷見よ
当時は、いま読み返しても胸が錐で揉まれるような句ばかり詠んでおりました。
いささか過激な四句目は、このときのわたくしの率直な感想を詠んだものでございますが、のち、吉屋信子さんによってとんでもなく悪辣な脚色を加えられます。
その件は後述いたします。
ともあれ。
この時期のわたくしは、虚子先生やその周囲の人たちに対する底深い怨嗟に支えられ、その昏い力を糧にしてやっと生きていたようなものでございます。
男は神か天皇のごとく担ぎ上げられているが、俳句なんてなんぼのものだろう。手の白い、肩に筋肉もない羽織袴の男が自らと家族を食わせるためのインチキだ。そんなものに翻弄されて右往左往し、生命力まで吸い取られるなんて阿保らしい。
いやいや、やはり俳句は芸術だ。
最短で万物を表現する崇高な芸術そのものだ。
朝に晩にわたくしの心は振り子のように揺れるのでございました。
7
昭和十二年(一九三七)七月、日中戦争が勃発(といっても関東軍が仕掛けたのでございますが)いたしまして、軍都・小倉は、にわかに慌ただしくなりました。
わたくし、四十七歳のことでございます。
同じころ、随筆「英彦山の仏法僧」が地域紙『門司新報』に掲載されました。
十月には「青田風」と題する「虚子きらひかな女きらひのひとへ帯」など十句が『俳句研究』に掲載されました。
さようでございます。
『ホトトギス』に乾されたわたくしに救いの手が差し伸べられたのでございます。
また、十一月には長女の昌子がよき縁を得て、石一郎と結婚いたしました。
母として新居訪ふなり菊の晴
新婚の昌子美しさんま焼く
十一月、星野立子さんが『立子句集』(玉藻社)を刊行されました。
身贔屓を隠されない虚子先生は、序文で令嬢の才を賞賛されました。
――写生という道をたどって来たわたくしは、さらに写生の道を立子から教わったと感ずる。それは写生の目ではなく、心という点であった。その柔らかい素直な心は、ややもすると硬くなろうとする老いの心に反省を与える。
女流の俳句は、かくの如くなくてはならぬとさえ思った。
まあまあ、よくもよくも抜け抜けと!
いまのわたくしは冷静にそう判断いたしますが、萎縮していた当時は虚子先生の威光にひれ伏し、ほんの少しでいいからお裾分けをとひたすら願っておりました。
九月、橋本多佳子さんのご夫君の豊次郎さんが逝去されました。
短夜の乳児を「すてつちまおか」と詠んで一躍有名になった竹下しづの女さんが機関誌『成層圏』を創刊され、中村草田男さんとともに、金子兜太さんら若い才能を育てる土壌を醸成されました。
8
昭和十三年、どういう風の吹きまわしか存じませんが、『ホトトギス』五月号と六月号の雑詠に、新婚の昌子を詠んだ二句ほか一句が採用されました。
着馴れたる紫袷解きしまま
七月号にも二句が掲載されましたが、結果的にこれが最後の掲載となりました。
わたくし、四十八歳の夏のことでございます。
苺摘む盗癖の子をあはれとも
百合を掘りわらびを干して生活す
この年、火野葦平さんの『麦と兵隊』がベストセラーになり、東海林太郎さんの歌う同名の楽曲(作詞:藤田まさと 作曲:大村能章)も大ヒットいたしました。
さようでございます、
――徐州、徐州と人馬は進む……。
で始まる、あの戦時歌謡でございます。
9
懲りないわたくしは、翌昭和十四年五月、上京して丸ビルの『ホトトギス』発行所を訪ねましたが、またしても虚子先生には会えずじまいでございました。
いったん小倉へもどり、宝塚の母を訪ねて一か月ほど滞在いたしました。
「プラタナスと苺」と題する四十二句が『俳句研究』七月号に掲載されました。
これがわたくしの最後の俳句発表となりました。
土濡れて久女の庭に芽ぐむもの
紫の雲の上なる手毬唄
つゆの葉をかきわけかきわけ苺つみ
朝日濃し苺は籠につみみてる
みづみづとこの頃肥り秋袷
菊の句も詠まずこの頃健かに
手づくりの苺食べよと宣(の)らす母
病む母に苺摘み来ぬ傘もさゝず
外面のいい宇内ばかり責められません。
長く一緒に暮らすうちに、いつの間にか似たもの夫婦になっていたのでしょう。
外向けの俳句では、肥ったとか健やかとか体裁のいいことを詠んでおりますが、本当はこのころ、医師の勧めを断り、手術をせずに薬物療法に頼っていた子宮筋腫が悪化いたしまして、絶え間ない出血を注射で抑える日々を送っておりました。
鏡に映る顔は自分でもぞっとするほど青白く、痛みと不安から気持ちが乱れがちでございました。
かわいそうに、新婚の昌子は遠くの母親の心配ばかり、東京の新居に落ち着いていられないような状況だったろうと、いまさらながら申し訳なく思っております。
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