第17章 虚子『墓に詣り度いと思つてをる』『国子の手紙』

 


 

 

 

 桑原武夫さんの一矢が俳壇に一大旋風を巻き起こしていた昭和二十一年十一月、虚子は自ら主宰の『ホトトギス』に随筆「墓に詣り度いと思つてをる」を発表し、その冒頭に、わたくしの長女、昌子からの手紙の抜粋を紹介しました。


 

 ――母は病気でありました。わがままで手がつけられないところがありました。もし先生のご不快を買ったことなどあれば、それも病気のせいと水に流していただきたく存じます。


 

 自分のことはともかく、娘第一の母親として許しがたいことは、虚子から過度に冷遇されたわたくしが心を病むに至った経緯に直接関わっていなかったがゆえに、何事も推測で、あくまで低姿勢でお願いするしかない昌子の思いを巧みに利用し、自分に有利な証拠として、石見銀山のような毒を仕込んだ料理の素材として扱ったことでございます。


 

 ――この手紙にあるように、ある年以来の久女さんの態度には、まことに手がつけられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、ある時代の『ホトトギス』の雑詠欄では、特別に光り輝いていた。それが、ついには常軌を逸するようになり、いわゆる手がつけられぬ人になってきた。


 

 切実な思いの籠もった娘の手紙を呼び水にしてもっともらしい結論を導き出し、わたくしに対して自らが行って来た行為に正当性を与えたのでございます。


 虚子の思惑どおり、わたくしのイメージは世間に固定されてしまいました。



 

 

 事実が如何に歪られたか「墓に詣り度いと思つてをる」の後半を引いてみます。

 

 ――最後に久女さんに会ったときのことを思い出してみよう。

 昭和十一年の二月二十二日、フランスに旅行する船が門司に繋留しているときのことであった。ちょうどわたくしの誕生日に当たるので、その祝いとして久女さんから立派な鯛が船室に届けられた。これは久女さんが率いている小倉の俳句会からの贈り物となっていたが、いずれ久女さんの心尽くしであろうと思われた。

 

 それから門司を出航する間際になって、甲板に立って港に別れを告げようとしていると、そのとき「虚子渡仏云々」という旗を立てた一艘の舟が船尾に現われた。

 その舟には女の人が満載されておって、その先頭に立っているのが久女さんであった。察するところ、その満載された女の人は久女さんのもとに集まっておる、昨日、鯛をわたくしにくれた、小倉の俳人であろうと思われた。

 そうしてそれらの人は、みないっせいにわたくしに向かってハンケチを振っていたが、その中に久女さんは先頭に進み出て、千切れよとばかり手を高く上げて振っていた。

 

 甲板に出ている客は、みな異様の目をしてその舟を見、またその視線をわたくしの方に向けていた。その舟はエンジンのついている舟なので、ポンポンと音を立てて、汽船に遅れぬようにと懸命について来る様子であった。

 もういい加減に離れてくれればと思っているのに、いつまでもついて来た。

 わたくしは初めの間は手を挙げて答礼していたが、その気違いじみている行動にいささか興がさめてきたので、そのまま船室に引っ込んだ。

 

 フランスから帰る時分にも同じ航路を取ったがために、また門司に立ち寄った。そのときはわたくしは人々に擁せられて陸に上がっておった。久女さんはわたくしの船室を何度も訪れたそうで、機関長の上ノ畑楠窓氏に面会して、何故にわたくしに逢わしてくれぬのかと言って泣き叫んで手のつけられぬ様子であったという。

 そのとき久女さんが筆を執って色紙に書いたものだというものを、楠窓氏はわたくしに見せた。それは乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった。

 

 それからほとんど十年の月日が経って、この娘さんの手紙を受け取るようになったのであった。(中略)

 小倉に行くついででもあったら、わたくしも一度久女さんの墓に詣りたいものと思っている。              (「墓に詣り度いと思つてをる」)



 

 

 これがまったくの作り話であったことは、先述のとおりでございます。

 有体に申し上げ、わたくしには舟を借りるような余裕はございませんでしたし、一連の虚偽は、わたくしの門下のぬい女さんの証言で明らかになっております。


 百歩ゆずって、もしここに書かれたとおりであったとしても、恩師の渡仏を祝いハンケチを振る弟子の行為が「気違いじみている」とは何事でございましょうか。

 弟子を導く師匠として、あんまりな言い様ではございませんか。


 それに、田辺聖子さんのご指摘のとおり、あの尊大きわまりない虚子が、傍目を気にしたりいたしましょうか。もし、書いてあるとおりのことがあったとしても、むしろ、有名人然として得意になっておられたのではございませんか。


 帰路の出来事とされる奇態なエピソードに至っては、そもそも船が門司には寄港しなかったのでございますから、まったくもって何をかいわんやでございます。


 少し調べればすぐに露見することを、後世に残る俳誌に書かれるということは、虚子には生来の虚言癖があったのか、もしくは、いまで申せば認知症でしょうか。

 そうした類いの老人性の病気だったのではないかとも推測されます。


 さらに申せば、「詣りたい」というわたくしの墓は、小倉にはございません。

 そんなことまでお忘れになっていたのでございましょうか、このご老体は!



 

 

 昭和二十二年。

 七十四歳の虚子は小説『虹』『愛居』『音楽は尚ほ続きをり』を発表しました。


 

 ――虚子はインテリ女性より色町の女のほうが本質的に好きだった。



 富士正春さんにご指摘されたとおり、若い娘たちへの偏愛を臆面もなくつづった代物で、わたくしには「気色わるい!」以外の何ものでもございませんでした。

 

 このころ。

 昌子は、わたくしから託された句集の出版に向けて始動してくれておりました。


 本づくりの経験のない昌子の手探りの編集作業は、空襲下の小倉の防空壕で守り抜いた句稿(巻紙で、表紙に『久女句集稿』と墨書したものでございます)、また各紙誌に発表した随筆や評論を原稿用紙に清書することから始まりました。



 

 

 そうした昌子の動静を察知し、先手を打とうとしたのでございましょう。

 昭和二十三年の暮れ、七十五歳の虚子が動きました。

 五十枚の創作「国子の手紙」(『文体』十二月号)を発表したのでございます。

  

 

 ――ここに国という女があった。その女はたくさんの手紙を残して死んだ。

 その手紙は昭和九年から十四年まで六年間に二百三十通に達している。

 わたくしは人の手紙を見てしまうと屑籠に投ずるのが普通であるが、ふとこの人はおかしいなと思い始めてから、その手紙を抽斗しに投げこんでおいた。

 それが六年の間にその抽斗しいっぱいになってそれだけの数に達したのである。そのおかしいなと思い始めるまでの手紙は、屑籠に投じてしまったのであるから、それを加えたら、もっとたくさんの数になるのである。

 

 国子はその頃の女としては教育を受けていたほうであって、よこす手紙などは、いわゆる水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。

 が、不幸にして、ついにここに掲げる手紙のような精神状態になって、その手紙ものちにはまったく意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった。

 

 また、わたくしのほか、他の多くの人にも手紙を出しているらしかった。それは俳人仲間ばかりでなく、その頃文壇で有名であった人にも出しているらしかった。

 それらの手紙はどうなったか、おそらく、みな狂人の手紙として打ち捨てられたものと思う。俳句界五十年の生活の中に、狂人と思われる手紙を受け取ったことはほかにもあるが、しかし、国子の如く二百三十通に達したというのは珍しい。



 

 

 とうてい文学者とは思えない、下劣な書きぶりでございますが、書簡発表の許可問い合わせへの昌子の返信(昭和二十一年九月七日)も手前勝手に都合よく引き、

 

 ――どうか如何様にも先生のおよろしきように願いあげます。

 定めてはげしい字句もありましょうし、わたくしも母子であってみれば、汗の流るる思いもあろうかと思いますが、もう俎上の魚たる覚悟が決まっておるつもりでございますし、かえって故人に対する先生のお情けがとてもおこがましくもありがたくお受けする次第でございます。



 また、わたくしからの十九通の手紙と電報一通を「あまりに奔放な放埓なと思われる点を省き、必要に応じ平明に書き直した」とつぎのように紹介しております。

 

 

 ――わたくしの文章をあまりお削りくださいますことは、わたくしの性格からして非常に不愉快に思います。わたくしは先生と反対の立場の人々とも親しみ、全国的に多くの知己もありますから、いろいろな話を絶えず耳にいたしますので、僭越を忘れて言上します。


 

 ――キョウカギリセンセイノシッカヲシリゾク(電報)



 ――先生、わたくしはSさまの句が好きでございました。いまも好きですし、またSさまも好きです。芸術の上で互いに敬愛することは、わたくしの自由だと存じます。しかし、また芸の上の迎合で、わたくしは一個の女性としてS氏の純情と、S氏の俳句は筒井筒振分髪の幼い恋のよう、一生これは忘れることはできませぬ。師を敬し、またS氏の純情を愛する心持ちは、十一面観音も国宝であり、三熊野の如意輪観音もみな観世音菩薩のおん姿であるが如くであります。



 

 

 ――先生は老獪な王さまではありましょうが、芸術の神さまではありませぬ。

 わたくしは久遠の芸術の神に額ずきます。句集出版のことはもうあとへ引くことはできません。先生の御序文を頂戴いたしたく存じます。わたくしも芸術の方針としては、S氏もT氏もH氏もI氏もO氏もN氏も、みな切り離すのはいやでございます。四方の人と親しみとうございます。俳句の上ではわたくしはどこまでも日本一。日本一の国子であります。国子は古今第一の旗じるしが欲しいのでございます。子どもらにせめて書籍の印税でも残して、母としての義務を果たしたく思います。

 

 ――注文された原稿枚数に近づいた、久女の句集には序文よりもこの手紙をつけた方がいいのではないか。ひとまずこれで打ち切ることにする。以上は昭和九年に来た手紙を集めたのであるが、なお十年以後十四年までに二百ばかり来ておる。その中にはただ墨を塗ったものや、くしゃくしゃにしたものなどが交じっていることは記憶しているが、まだ整理もせず、読み返しもしないである。なお、わたくしは町子(昌子)の編む国子の句集の今は一日も早く世に出んことを望むものである。

 

 

 さようでございますか、田辺聖子さんが次のような分析をしてくださいましたか。没後とはいえ、田辺さんは本当に心強い味方になってくださいました。


 

 ――虚子は昭和九年の手紙としているが、この時期、徳富蘇峰や福田蓼汀らに出した手紙は達筆かつ文章も見事。また、句集出版について、少なくとも虚子から二度は返信をもらい、一度は選句をしてもらっている。久女としては、いくら考えても序文をもらえない理由に思い当たらない。夏目漱石の没直後の虚子による「漱石氏と私」(大正六年『ホトトギス』)にも同じ匂いがする。



 

 8

 

 昭和二十五年九月、改造社の『俳句研究』で「杉田久女特輯」が組まれました。

 

 

 ――久女カルテ事件。


 

 なる奇怪な事態が発生したのもこの年でございます。


 人としてあってはならない、下劣きわまりないことでございますが、平畑静塔さん(精神科医の俳人)と横山白虹さん(内科医の俳人)のご両名が筑紫保養院を訪ね、医師の肩書を利用して、わたくしの病床日記をご覧になったのでございます。


 

 ――久女の最期の部屋の外庭に立って感慨無量の果て 

   甕の濡れ一条黒し万緑下         静塔


 

 その後、どういう経緯があったのか存じませんが、カルテは院外へ持ち出され、橋本多佳子さんらに転送されているうちに行方不明となりましたが、いつの間にか筑紫保養院にもどされ、不埒な一件は闇に伏されたのでございます。



 なお、虚子の俳諧日記には、つぎのように記されております。


 ――五月十二日、小田小石、杉田久女の病床日記を携え来る。(『玉藻』八月号)


 まったく揃いも揃って何という薄汚い人たちなのでしょうか。


 ――恥を知りなさい!


 わたくしは声を大にして申します。

  



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