第16章 筑紫保養院での最期――物言ふも逢ふもいやなり坂若葉


 

 

 

 昭和十九年六月、軍都にして工業都市の小倉は、初めて空襲に見舞われました。

 そして、八月にも再び。


 国民の戦意低下を警戒した軍部は、空襲の始まった都市からの疎開を禁止いたしましたので、市民は日夜絶え間ない恐怖にさらされることになりました。

 空襲警報が鳴りますと、わたくしはまず防空頭巾をかぶり、それから命より大切な句稿を入れた風呂敷包みをしっかりと胸に抱いて、防空壕へ逃げ込みました。


 宇内でございますか?

 家庭より学校が大事な人ですからねえ。

 わたくしなど放っておいて、大急ぎでゲートルを巻いて学校へ駆けつけました。

 神経が尖ったわたくしは、いつも四囲から迫って来る恐怖に怯えておりました。

 


 物言ふも逢ふもいやなり坂若葉


 

 そんな緊迫した状況下、七月に母のさよが亡くなりまして、わたくしたち夫婦は葬儀に出席するために宝塚へ出向きました。

 俳句や家庭に関する諸々で、どんなに追い詰められて苦しんでいるときにも、


 ――この愛しい人を置いては死ねない。


 そう思っていた母でございます。

 享年九十の大往生でございました。



 

 

 大事な母の逝去はわたくしに新たな決意を呼び起こさせました。

 わたくしは鎌倉に昌子を訪ねて、ひとつの思いを託しました。


 ――わたくしの死後、いつでもいいから句集を出してほしい。


 昌子は当惑したように聞いておりましたが、黙ってうなずいてくれました。

 以下は、田辺聖子さんのお作品を引かせていただきます。

 

 ――「やっぱり子どもが大事だねえ。わたくしは少しばかり俳句ができたと思ってうぬぼれていたけれど、いまこの年になってみると、俳句より、子のほうが尊いねえ。俳句よりも二人の子を持ったほうが尊い、そう思って生きていくほうが尊いねえ。死なないほうがいいね。生きているほうが、おまえたちのためにいいねえ」昌子は胸をつかれて言葉が出なかった。

 

 久女はいつまでも娘の家を立ち去りがたいように見えた。何年ぶりかで母子が枕を並べて眠り、話し合った。久女には得がたい平安であったように思われる。

 しかし、娘は疲れ始めていた。もう早く独りになりたかった。淋しい留守家族の話し相手に飢えた日頃では、母との睦み合いが何よりも心の慰めであったろうに、そして、それを期待していたことは間違いないのに、久女に会って与えられたものは、澱んだ重い疲労であった。それは、久女自体の生きる苦しみが発散する、不吉な瘴気(しょうき)であったかもしれぬ。

 

 娘はそんな気持ちになる自分の薄情さが責められて苦しかったが、「お母さん、もうお帰りなさいよ。家も心配だし、途中も不安だわ。わたくしは大丈夫だから、もう遠いところをわざわざ来なくてもいいわよ」と言ってしまった。労わってやりたい、慰撫してやりたいと思いながら、なぜかこの母といると疲れるのだった。

 夜行で発つと言う母に、花を作るだけが楽しみという母に、豌豆と花の種子を持たせると、久女はこめかみや額を手で押さえながら、鞄に何度も入れたり出したりした。

 

 娘はせめて母を見送ろうと思った。

 子どもをおぶって駅まで行こうと、ともに家を出た。

 生きる希望を失った、魂のぬけがらのような母は、わたくしのような頼りない、薄情な子を頼ってはるばるとやって来、また、何の楽しみも待っていない家に帰らなければいけないのだ、そう思うとたまらなかった。

「もうお帰り。送ってこなくても、一人でわたくしは帰れるから。子どもに風邪をひかせるといけないから」と母は言った。

 

 昌子はそのとき、心の底から母を愛しいと思った。

 自分の淋しさを、母の淋しい心に寄り添わせたいと思った。どこまでも母を送りたかった。

 だが、母は押し返してきかなかった。昌子は負けて立ち止まって母を見送った。しばらくは月光を浴びた母のうしろ姿が見えていた。母はふり返って「大丈夫だから帰っておやすみよ、子どもを大事にしなさい」と言った。昌子はこのときほど、生きてゆくことを淋しく思ったことはなかった。

        (田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』)



 

 

 この年、『汀女句集』が刊行され、巻頭に虚子の手紙が掲載されました。


 

 ――『選は創作なり』というのはこのことで、今日の汀女というものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力が相まって出来たものと思います。

 あなたには限りません。今日のその人を作り上げたのは、その人の力と選の力が相まっているのであります。

 


 作家と選句がいまで申すところのウィンウィンであるとは、なんと尊大な自信、なんという不遜でございましょう。


 

 

 昭和二十年八月六日午前八時十五分。

 米軍機から広島に落下された核兵器「リトルボーイ」に次ぎ、同月九日午前十一時二分、同じく米軍機からプルトニウム爆弾が長崎に投下されました。


 本来は軍都・小倉が標的だったところ、上空が厚い雲に覆われていたため急きょ長崎に変更になったことは、わたくしたち国民には知らされませんでした。

 

 日々迫る戦況悪化の恐怖も影響したのでしょうか。

 盂蘭盆会が過ぎるころ、わたくしの心は、しだいに平静を失ってまいりました。

 よくは覚えておりませんが、

 

 ――宇内がわたくしを間諜だと申して、寸でのところで殺されかかりました。

   なんと恐ろしいことを。知らない間に食べ物に毒が入っておりました。


   あなた、よくもわたくしの頭を殴りましたね。

   この恨み、一生忘れませんよ!

 

 肩を竦めてそんなことを呟いたり、大声で叫んだりしたような気がいたします。

 そんな妻のすがたに、宇内は気味わるそうに狼狽え、


 ――間諜だの、毒だのと、馬鹿なことを言うんじゃない。

   それにおまえを殴ったことは一度もないじゃないか。


 などと、しきりに抗弁いたしました。


 わたくしにとりましては、実際に頭を殴ったかどうかが問題ではございません。

 長い長い歳月の間、わたくしを認めず、蔑み、罵り、精神的に支配してきたことじたいが、身体の痛みに何倍にも勝る、暴力そのものだったのでございますから。

 

 

 

 八月十五日に終戦を迎えました。

 そんな修羅場を一か月ほど繰り返した九月二十三日の夜、


 ――わたくしの家はこんなところじゃありません。東京へ帰ります!


 そう叫んで家を飛び出したわたくしは、すぐさま宇内に連れもどされました。

 翌日から宇内は中学を休み、わたくしの看護と申しますか、実質的な監視に当たらざるを得なくなりました。

 

 そして十月二十九日。

 わたくしは太宰府の福岡県立筑紫保養院(現県立精神医療センター)へ入院させられました。宇内の教え子の眼科医の勧めによったことは知らされませんでした。


 

 ――わたくしはなにも悪いことをしていません。

   あなた、お願いですからそんなところへやらないで!


 

 号泣しながら夫に手を合わせて哀願するうちに、ふっと気が遠くなりました。

 付き添っていた眼科医に麻酔薬を注射されたことなど知る由もございません。

 眠ったまま毛布に包まれ、遠いところの精神病院へ運ばれたのでございます。



 

 

 それからのわたくしはまさに生きる屍でございました。


 堅く施錠された部屋で過去と向き合ったり、懐かしいだれかれと話したり、幼い昌子と光子のために、ベッドのシーツを引き裂いて人形を作ってやったり……。


 ときには看護婦さんから紙と鉛筆を借りて、懐かしい思い出を俳句に詠んだりもいたしましたが、果たして文字の形になっていたものやら判然といたしません。


 ときどき宇内が見舞いに来ておりましたが、わたくしにとりましては小うるさいだけでございましたので、しっしっと手で追い払ったりしておりました。



 

 昭和二十一年一月二十一日午前一時半。

 わたくしは鉄格子の中で呼吸を止めました。

 享年五十五。


 カルテに記された死因は、


 ――栄養障害、腎臓病悪化。


 ということでございました。


 

 

 病院では宇内に電報を打ったようですが、臨終には間に合いませんでしたので、わたくしは見知らぬ地の見知らぬ病院の、逃げ出す気力体力もないのに、あくまで堅く施錠された孤独な部屋に寝かされたまま、ひとりで旅立つことになりました。


 わたくしども一家の有為転変にも関わらず、変わらず親しくしてくださった合屋武城さん、さようでございます、若かったわたくしが「童顔の合屋校長紀元節」とお詠みした、あの合屋さんでございます。

 その合屋さんと一緒に駆けつけて来た宇内は、悄然と肩を落とし、暖を取る火鉢ひとつ置かれていない極寒の部屋で、わたくしの通夜を営んでくれました。


 

 枕頭に梅折り挿して拝みけり      武城


 

 太宰府と申せば。

 大正六年、初めて福岡へ来た虚子が詠んだ「天の川の下に天智天皇と巨虚子と」が思い出されます。いまさらながら、なんとまあ大それた句をと思うばかりでございますが、その因縁の地で果てるとは、何という運命の皮肉でございましょうか。


                 *

 

 この後のことは、わたくし自身のことながら追体験めいた記憶しかございませんので、田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』坂本宮尾著『真実の久女 悲劇の天才俳人 1890-1946』のご懇切な記述に拠らせていただきます。



 

 

 東京から駆けつけて来た昌子と光子は、苦しみを知りながら最期を看取ってやれなかった母親の遺骨を抱き、ふたり揃って幼子のように号泣してくれました。


 とくに、いつぞやの上京の折り、淋しい母親の気持ちを重々承知していながら、早く小倉へ帰るよう急かせた自分を悔いていた昌子は、入院すら知らされなかった事実にこだわり、



 ――おかあさんをなぜあんな病院に押しこめ、なぜひとりで死なせたの!



 宇内を激しく責め立てたようでございます。

 娘の非難を一身に浴びた宇内に、返す言葉のあろうはずもございません。

 合屋さんの取り成しがなければ昌子は父親に殴りかかっていたかもしれません。

 


                 *



 生前のわたくしが句集の出版を託したことを、昌子は忘れておりませんでした。

 やがて立ち直った昌子は、亡母の名誉回復のための行動を開始してくれました。


 昭和二十一年一月二十八日。

 手始めに昌子は高浜虚子に手紙を書きました。

 内容は深い感謝と敬意と、少しばかりのお願いといったものでございました。


 内容を何度も推敲した昌子は、母親である久女の晩年の十年の憂鬱症とヒステリー症状には肉親である自分も「心から怒り、憎み、悲しみ、母が死なねば自分は浮かばれないと心の底から思ったほど」だったことを率直に打ち明け、「こんな母でも人の子として葬ってやりたいのです。母の最後に先生のお情けを仰ぐのです。本当に厚かましいお願いではございますが、後日、ささやかな句集を作り、それに何か御手向けがいただけたら、母のみならず私も救われる思いでございます」と、どこまでも丁寧な依頼を、どうかどうかと繰り返しております。


 まさかこの手紙が、のちに作為的に利用されようとは夢にも思わずに……。



 

 

 話が逸れますが、虚子ゆかりの太宰府でわたくしが没した前後の俳壇事情を振り返ってみますね。

 

 桑原武夫さんの評論「第二芸術――現代俳句について」が発表されたのは、雑誌『世界』(岩波書店)昭和二十一年十一月号でございました。


 虚子はじめ大家と称される宗匠連の句と、まったくの素人からの投稿句十五句を作者名を伏せて提示し、投稿句のほうがすぐれていることを客観的に知らしめるという、従来の俳壇の権威を根底から覆そうとする衝撃的な内容でございました。

 

 

 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝

 初蝶の吾を廻りていずこにか

 呟くとポクリッとベートヴエンひゞく朝    中村草田男

 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城

 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生

 鯛敷やうねりの上の淡路島

 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水

 麦踏むや冷たき風の日のつゞく        飯田蛇笏

 終戦の夜のあけしらむ天の川

 椅子に在り冬日は燃えて近づき来       松本たかし

 腰立てし焦土の麦に南風荒き         臼田亜浪

 囀や風少しある峠道

 防風のこゝ迄砂に埋もれしと         高浜虚子

 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな

 柿干して今日の独り居雲なし         水原秋櫻子

 

 

 そして、論文の後半で作者名を明かし、

 

 ――(宗匠と呼ばれる人たちによる)これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じえない。

 

 意味不明の句すらあるが自分の周囲の人たちに見せても同意見だった、として、狭い結社内の順位や、それを集合させた俳壇の排他性が、こうしたおかしな現象を生むこと、敗戦によって著しい変化を遂げたそれぞれの人生を十七文字に盛り込むこと自体が無理なのであり、俳句は、老人や病人が余技とし、暇つぶしの具とすることこそふさわしいのであるから、どうしても芸術の名を使うのであれば、


 

 ――第二芸術。


 

 とでも呼び、学校教育からも締め出すべきである、という論法でございました。

 


 

10

 

 取り上げられた句の首を傾げたくなるようなご粗末さからもうかがえますように(庇うわけではありませんが、大家といえど凡句駄句の類は山ほどございます)、ぐうの音も出ないよう用意周到に準備された痕跡が顕著な評論に対して、結社組織に安住しているところをいきなり上段から振り下ろされたかたちの俳壇では、さぞかし驚愕されたことと存じます。


 俳壇と距離を置く読者の反応は賛否両論でございましたが、矢継ぎ早な桑原さんの攻撃は刺激的で面白く、また少なからず当たっているところもございますので、草葉の陰のわたくしなど、そりゃあもう、すかっと胸の空く思いがいたしました。

 

 興味深い部分を、ちょっとここに引用させていただきます。

 お気の毒にも槍玉にあげられた水原秋櫻子さんへの指摘から。

  

 ――俳壇でもっとも誠実と思われる水原秋櫻子にして、文学の何たるかを分かっていない。子どもの喧嘩のような言葉を吐いて恥としない体質がすでに形成されていたという事実である。俳人と目される人物の感性がいかに疲弊堕落していたか。


桑原武夫の指摘は文学としては当たりまえのことであり、それに堂々と反論し得ないで、「何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはない」いう秋櫻子の言動は、思い上がり以外のなにものでもない。

 

 作句といっても、たかが知れている。どんな苦労をして俳句を為しているのか。

 苦労をして為す俳句にロクなものはない。頭でひねくりまわした「文芸上の真」など、耳障りのいい言葉をかぶせただけの言葉あそびではないか。


 元禄時代の俳人、捨女(田すて)は六歳のときに、

 

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡      田捨女

 

 の句を詠んでいる。伝説的な名句とされているものだが、この句は、六歳の捨女が苦労して詠んだものだろうか。

 そうではあるまい。単に六歳の子どもの頭に十七文字の言葉が出てきただけではないか。多少の素養があっただろうが、ひらめきによって偶然に出来た句でないか。作句で苦労するのは、能力のない証拠である。

 

 私と友人たちがさきの十五句を前にして発見したことは、一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。


「防風のこゝ迄砂に埋もれしと」という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった「囀や風少しある峠道」や「麦踏むやつめたき風の日のつゞく」より優越しているとはどうしても考えられない。

 また、この二句は、私たちには「粥腹のおぼつかなしや花の山」などという草城の句より詩的に見える。真の近代芸術にはこういうことはないであろう。


 私はロダンやヴルデルの小品をパリでたくさん見たが、いかに小さいものでも、帝展の特選などとははっきり違うのである。ところが俳句は一々俳人の名を添えておかぬと区別がつかない、という特色をもっている。



 

11

 

 

 長い戦争から解放された昭和二十一年は、窮屈に押し込められていた日本文化が一気に開花した年でもございました。むろん、俳句界も例外ではございません。


 一月には、『ホトトギス』の写生に対置する人事諷詠派の久保田万太郎さんが『春燈』を、臼田亜浪系の大野林火さんが『濱』を創刊されました。


 雨後の筍の如き戦後の「平和と民主主義」の風潮下にあって、五月には、かって新興俳句やプロレタリア俳句を標榜したアンチ虚子の俳句集団として新俳句人連盟が発足し、十一月に機関誌『俳句人』が創刊されるなど、アンチ『ホトトギス』の活躍が目覚ましい時代になりました。


 迎え撃つ虚子派としては、松本たかしさんの『笛』、皆吉爽雨さんの『祖谷』、中村草田男さんの『萬緑』、村上杏史さんの『柿』が創刊されましたが、草田男さんの『萬緑』は虚子シンパとは思えない特色を打ち出していて注目を惹きました。

 

 一方、戦時中に信州の小諸に疎開していた虚子は、終戦の翌年、七十二歳の六月に俳小屋を開いて「小諸雑記」の執筆を開始しました。九月には星野立子さんの『玉藻』を復刊させ、自らの軸足を『ホトトギス』から『玉藻』に移しました。


 それぞれ活発な動きを見せ始めた俳壇に、外部からとつぜん放たれて来たのが、桑原武夫さんの論説「第二芸術・現代俳句について」だったのでございます。



 

12

 

 だれがどうしたこうしたと、俳壇の内部にばかり目が行きがちだった俳人たちにとって、俳句と関わりのない、横合いからの奇襲に対して、俳壇の大家と呼ばれる人たちから、ことに圧倒的な王者たる高浜虚子からきちんとした論考に基づく反論がなされなかったことについて、田辺聖子さんはこう評していらっしゃいます。


 

 ――俳句に真実、思いをそそいでいた人々にとっては、まさに驚天動地の論文であったろう。そして、名指された大家たちの反駁を待ったにちがいない。

 しかし、大家たちは口を閉ざし、これといった反論をしなかった。


 恩師の子規を子規君、または子規と呼び捨てにして憚らない大家のなかの大家、虚子はここでも沈黙を通した。躊躇ない舌鋒で月並俳句を排し、近代俳句を創始した子規の愛弟子とも思えない虚子の身の処し方は、心ある俳人の肩身を狭くした。

 

 俳句から離れていった人々も少なくなかっただろう。また、痛罵されるがままの第二芸術の俳句に関心を失った若者も少なくなかっただろう。                 (田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』)


 

 ところが、呆れたことに虚子は、次のようにうそぶいて平然としておりました。


 

 ――「第二芸術」といわれて俳人たちは憤慨しているが、自分らが始めたころは、世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところが、十八級特進したんだから結構じゃないか。


 

  その人を食った反応に、桑原さんの重ねて曰く、


 

 ――戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とは、いよいよ不敵な人物だと思った。


 

 のち、昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)にもこう述べられました。


 

 ――アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点はひとつもないが。


 

 また、西東三鬼さんは、桑原さんの論稿への反駁書で、こうも述べられました。


 

 ――現代俳句の大家といはれる人たちは鋼鉄製の心臓の所有者で、まったく芸術的良心など不必要な人たちである。わたくしはこの点で桑原氏の前に頭を垂れて恥じる。


 

 「鋼鉄製の心臓の所有者」とは、虚子ひとりに向けられた言葉でございます。

  


 

 13

 

 昭和二十一年二月。

 有為転変の四十年間を過ごした小倉を発った宇内は、故郷の愛知県小原村松名に帰って、不肖の妻の本葬を執り行い、杉田家の墓地に納骨してくれました。

 

 ――無憂院釈久欣妙恒大姉。

 

 その後の宇内は、かねて夢見ていたとおりの余生を過ごしたようです。すなわち、あれほど忌み嫌っていた父親そっくりの肩に猟銃を担いで山野を歩きまわる。

 さようでございますか、昌子がそんなことを。


 

 ――何が何だか核心のつかめない問題で一家はへとへとになって悩み疲れ果てていた折りだったから、この際、猟だろうがなんだろうが、心を明るく変えることができるなら、なんでもわたくしにはありがたかった。

 

 家族の疲れの因となったわたくしは、首を垂れるばかりでございます。

 「何が何だか核心のつかめない問題」がすべてを物語っているようで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る