第2章 謹厳実直な美術教師の妻に

 

 

 

 次兄の友だちのひとりとして、

 ――杉田宇内。

 という美学生を知ったのは、女学校に在学中のことでございます。

 第一印象でございますか?

 さようでございますね、

 ――イケメン。

 でございましたよ。


 なにしろあなた、背がすらりと高くて、眉目秀麗を絵に描いたような端整な顔立ちですし、それに憧れの美学生というのですから、どうしたって夢中になります。

 じつはわたくし、文学と同じく美術も大好きでしてね、小説家でなければ絵描きになりたかったぐらいですから、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科本科から研究科へ進んだエリートと聞き、それだけでもうぼうっとなってしまいました。

 

 でも、そういうわたくしはと申せば、容貌には自信がありませんでした。

 ――無鼻立ちがぱらっとしていて、口が大きいのが難。俗にいう舞台顔。

 ま、あなたもお人がおわるい。

 どなたからさようなことを?


 ああ、北九州の俳句仲間の横山白虹さんでございますね。

 あの方はあなた、お医者さまのくせにと申すのも何でございますが(とはいえ、守秘義務があるお仕事ですからねえ)、人のうわさ話を好む性癖がございまして、生前から没後まで、あることないこと吹聴されて、まことに閉口いたしました。


 え、のちに田辺聖子さんが、

 ――日本的な化粧で紅を内へさすとき、やや厚めの唇はにわかに色っぽくなる。

 そんなことを書いてくださった?

 まあ、おやさしいお方ですこと。

 

 宇内の話にもどりましょうね。

 ありていに申せば、ひと目惚れでございましたよ、宇内もわたくしも。

 道行く娘たちが頬を染めるほど男前の宇内はともかくとして、わたくしのほうは辛口の白虹さんが評したような、よくいえば個性的な風貌でございますから、人によって評価が分かれたと思いますが、日頃から美しいモデルを見慣れていた美学生だけに、かえって女の姿かたちの判断基準が変わっていたのかもしれません。

 とにかく、初対面でふたりとも相手が気に入ったのでございます。


 当時の東京美術学校には黒田清輝、岡田三郎助、高村光雲、藤島武二さんなど、日本の美術界を代表する錚々たるメンバーが教授をつとめておられましてね、その優秀な先生方がこぞって宇内の卒業制作に、

 ――首席。

 のお墨付きをくださったのでございます。

 芸術至上主義のわたくしといたしましては、将来、わが夫になる人の画才はどこまで伸びてゆくのだろうと、いやが上にも期待が高まるのでございました。


 またまた自慢めいて恐縮でございます。

 お茶の水出の才媛(と世間が申すのでございます)として、数えきれないほどの縁談をいただいていたわたくしでございますが、同窓の友人たちのようにいわゆる名家に嫁ぐよりも、貧乏でもいい、真に芸術三昧の暮らしをしたいと本気で念じておりました。もっとも、本当の貧乏がどういうものか少しも存じませんでしたが。

 

 当初、わたくしの両親はこの縁談に乗り気ではございませんでした。

 と申しますのも、宇内は愛知県西加茂郡小原村松江の出身でございます。

 地図でもおわかりのとおり、それはもう大変な山奥でございます。


 代々の大庄屋の跡取り。

 その昔「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」と謳われた四天王のひとりで蜻蛉斬りで知られた槍遣いの名手、本多平八郎忠勝の末流を誇る家柄。

 広大な敷地には七棟の邸、土蔵二棟、表門、裏門、蚕室を擁し、召使が数人。

 代々「振袖(一般には留袖)の花嫁でなくてはもらわなかった」という名家。


 仰々しい釣書に惹かれなかったわけでもなかったとは思いますが、

 ――蝶よ花よと育てた娘を、草深い地へ嫁がせるのは忍びない。

 父も母も口を揃えたのでございます。


 かたや奥三河の杉田家では、

 ――東京の高級官吏の令嬢で、お茶の水出の才媛。

 という条件がいたくお気に召されたものと見え、

 ――たしかに田舎ではあるが、相応な資産があるゆえ、跡取りの宇内の連れ合いには、一生、金の不自由はさせない。結婚すれば東京近辺に家を建ててやる。宇内は外国へ留学させて絵の勉強をさせ、家事の手伝いには当方から女中を手配する。

 として、熱心に赤堀の両親を説得されたのでございます。


 あとから思い返せば、いわゆる仲人口というのも妙でございますが、杉田家からの手紙は、都合のいいことばかり並べ立てた釣書のようなものでございました。

 結婚させてしまえばこっちのもの、とでもいうのでしょうか、

 ――金、家、留学、女中。

 いっそ天晴れと言いたくなるほど、当初の約束のひとつ残らずがもののみごとに反故にされたわけでございますから、あなた、何をかいわんやでございます。


 東京と奥三河との往信の結果、ともあれ、両家の縁談は成立いたしました。

 明治四十二年、十九歳のわたくしは前途洋々たる美術家の妻になりました。

 いえ、なったつもりでございました。


 

 

 ところが、運命の女神は最初からわたくしに好意をもたなかったのでしょうか。

 希望に満ちたはずの新婚生活に、意外な展開が待ち受けていたのでございます。

 

 開校したばかりの北九州の小倉中学から東京美術学校に図画教師の求めがあり、卒業制作が首席だったばかりに(といまにして思います)宇内が推薦されました。

 で、せっかく進んだ研究科を一年で退学いたしまして、上野公園の桜が満開を迎えるころ、福岡県立小倉中学校教諭として赴任することになったのでございます。


 研究科を修了したら欧州へ留学する。

 当然、新妻のわたくしも同行する。

 そんな夢を見ていたわたくしに、

 ――田舎教師の妻。

 の選択はまったくございませんでしたので、急転直下のなりゆきに、東京の家はどうなるの? 外国留学の件は? 女中は? と少なからず当惑いたしました。

 でも、少し翳りのある表情を見せた母親はともかくとして、

 ――まあ、新婚旅行のつもりで、一、二年九州へ行って来るのもよかろう。

 わたくしの不安を先取りした父親は、つとめてあっさりと申します。

 世間知らずのわたくしも、つい、そういうものかしらと思いまして、

 ――それにしても、わたくしはよほど南方に縁があるのね。

 ぐらいの軽い気持ちで、宇内に就いて現地に赴くことになったのでございます。


 学校が用意してくれていた家は、小倉市鳥町というところにございました。

 父に言い聞かされたように、新婚旅行の宿というにはあまりにも侘しい、生活感のあふれた借家でございましたが、ほんの一、二年の寓居と思えば、狭苦しさも壁の染みも、色褪せた畳も、何もかも我慢できました。

 でも、まさかこの地に一生住むことになろうとは……。

 

 小倉は小笠原十万石の城下町でございますが、わたくしたち夫婦が赴いた当時は第十二師団司令部の軍都になっておりまして、市街の三分の一は軍関係の建物で、それ以外も製紙・陶器・瓦斯・製鋼などの工場が大半の、わたくしからすれば、

 ――殺伐たる工業都市。

 でございました。

 九州といえば南国の印象を抱いておりましたが、とんでもございません。

 少女時代を過ごした琉球や台湾とは気候風土がまったく異なりまして、山陰風とでも申しましょうか、からっと晴れ渡った爽やかな日がほとんどございませんで、ことに陰鬱な曇天ばかりの冬期は、強烈な底冷えに悩まされることになりました。

 

 ちなみに、わたくしどもの着任の十年ほど前、師団の軍医部長として赴任された森鴎外こと森林太郎さんは、のちに『小倉日記』と呼ばれることになる日録に、

 ――この地の醤油と味噌と、みな不熟にして食うに堪えず。豊前・筑前は歴史のある地方であるにも関わらず、わたくしの心をあかしめる地誌すらない。そのうえ人気は荒々しく、物価が高い(すなわち、いいところがひとつも見当たらない)。

 などと、率直な感想を夜ごと吐露されていらっしゃいますが、ドイツ留学経験もおありになった作家のご心情に、僭越ながらわたくしも深く共感いたしました。

 余談でございますが、夫の宇内も小倉の味噌の深みのない味をたいそういやがりまして、終生、故郷の三河から八丁味噌を取り寄せておりました。

 

 おそらく小倉に限らなかったと思いますが、当時の北九州地方は日清・日露戦争の軍需景気で沸きに沸いておりまして、一にも二にも、金、金、金でございましたから、わたくしがもっとも大切にしたい情趣のかけらも見当たりませんでした。

 次兄の手ほどきで俳句を知ってから、

 

 目の下の煙都は昏し鯉幟

 

 と詠まずにいられなかったのは、新橋を起点とする旅の末、小倉駅に降り立ったときの暗鬱な街や煤煙にくすむ空があまりに衝撃的で、結婚前に初めて訪ねた父の故郷、信州の清冽な山河や朴訥な人情が恋しくてならなかったからでございます。


 

 

 その年の冬、暮れも迫るころに、奥三河の婚家で結婚式を挙げました。

 小倉中学への赴任がバタバタと決まり、挨拶に出向く時間がとれなかったため、わたくしが婚家を訪ねたのはこのときが初めてでございました。

 覚悟していたとはいえ、昔風の塗駕籠に乗せられて延々と山道を分け入って行く陸路の深さには心底から驚愕し、しまいには恐怖すら感じる始末でございました。

 遠い記憶をたどるより、若いころに書いた随筆から引かせていただきますね。

 

 ――やがて日がとっぷりと暮れ、山の間から冬の月が出て、山かげの田の面の氷をキラキラ照らし出す。暗い谷底からひびく渓流の山坂を上下して、やっと山裾にチラホラと灯をみつけたときの、涙の滲むような淋しさ。

 

 寒さは迫る、体は揺られとおして綿のよう。あとさきの提灯ふたつをたよりに、死んだような山中をたどるとき、駕籠のわきにかたまり歩く人々の踏みしめる草履の音のみが、恐ろしいほど山径の沈黙をやぶる。

 

 やがて、そこの村はずれに、定紋付きの提灯を持った人々がかたまって出迎えてくれ、にぎやかに山賊の砦のような楼門に担ぎこまれるときには、駕籠の前後の提灯は三十ぐらいに増えていた。              (「山家の秋」)

 

 父と一緒に東京からはるばる出席した母は、

 ――振袖三昧であんな山の中へかたづけて……。

 のち、わたくしの身に異変が生じるたびに、そう言って深い嘆息をついたそうでございますが、まさにあとの祭りでございました。

 

 ちなみに、わたくしより十四歳年上、旧仙台藩士の娘で明治女学校出、のちに夫とともに新宿中村屋を創業され、荻原碌山や中村彜(つね)など芸術家の卵たちにサロンを開かれた相馬黒光(良)さんは、わたくしどもの結婚より十数年前、東京から長野県穂高の養蚕事業家、愛蔵さんのもとに嫁がれましたが、そのとき、上田から馬の背に揺られて保福寺峠を越えられたと聞いております。

 どちらがどうと申し上げたいわけではございませんが、いずれにいたしましても、あのころの田舎への嫁入りは、相当に体力と気力の要ることでございました。


 余談でございますが、黒光という珍しいペンネームは、その後の波乱の人生が示すように良さんの並外れた烈しい性格の行く末を案じた明治女学校の教頭先生が、

 ――あふれる才気を少しでも黒で隠すように。

 何事も控え目にしたほうがいいという思いを込めてつけられたものとか。

 わたくしには黒光さんほどの才はございませんが、生意気にも自分の意見というものをもった、可愛げのない、色気のない女として虚子先生に疎まれました。

 いみじくも、のちに富士正晴さんが語られたところの、

 ――虚子はインテリ女より色町の女の方が本質的に好きであった。

 というご節、あれには胸の空く思いをさせていただきましたよ、ほほほほ。

 むろん、わたくしがインテリでないことは、重々承知の上でございますが。

 

 そのような恐ろしい思いに堪えて、ようやく辿り着いた宇内の生家では、山賊のようなむくつけき男衆にどっとばかりに取り囲まれまして、長旅の疲れを癒す間もなく、いきなり三日三晩のどんちゃん騒ぎに放り込まれた結婚式でございました。

 ですが、婚家ではわたくしをとても大事にしてくださいました。

 ことに舅さまは、お茶の水出の嫁がたいそうご自慢らしく、わたくしの滞在中、村の寄り合いごとなどに、なにかといえば跡取りの嫁を引っ張り出されました。

 かたや人形のように控え目で、ご自分の考えや意見をいっさいお持ちでないかのようなお姑さまは、何から何まで舅の言いなりで、拝見していてお気の毒なほどでございました。

 だだっ広い邸の内には口うるさい大姑と寝たきりの舅もおりましたし、頼りの夫は、田舎の資産家の常とかで、村内に公然とお妾さんを囲っておられましたので、すべてのことにじっと堪えるために生まれて来られたような慎ましやかなお姿が、しきりにわたくしの胸をちくちくと刺激いたしました。


 

 

 小倉にもどっての新婚生活は、もちろん理想とはほど遠いものでございました。

 ですが、両親の翅の下に庇護されていた東京を離れての田舎住まいには、ある種の緊張感の中にも自由に羽ばたける、ささやかな喜びめいたものがございました。

 それに、若さというものはそれだけで、生きるエネルギーでございます。

 とりあえずは、いまこのときに熱中するしかないふたりでございました。


 明治四十四年(一九一一)八月二十二日、長女の昌子が誕生いたしました。

 跡取りの出産は婚家でというしきたりにしたがい、奥三河の杉田家に身を寄せた二十一歳のわたくしは、生後間もない子どもを連れての長旅は難儀だと引き止められまして、結局、つぎの夏までの一年間を山深い里で暮らすことになりました。


 いいえ、婚家と申しましても、さほど窮屈な思いはいたしませんでしたよ。

 何しろわたくし、ワンマンな舅のお気に入りの嫁でございましたから(笑)


 田舎とはいえ電気が通っていた小倉とはちがい、まだランプ暮らしだった山家の明け暮れは不便といえば不便ではございましたが、日がな一日ほととぎすが啼き、玄関の大衝立に雉子が止まる夏、全山に惜しみなく絵の具を振り撒いたような秋、一転して墨絵の枯淡を展開する冬、さみどりの新芽がいっせいに萌え出る浅春……そんな自然と一体となった暮らしは、工場の煙にくすんだ小倉の城下住まいより、ずっとわたくしの性分に合っていると、心底から思い思いしたものでございます。 

 中風で寝たきりの大舅、口やかましい大姑。

 わがままな舅、歯がゆいほどおとなしい姑。

 ゴツゴツとむき出しになった走り根の土中のような四人の関係は相変わらずではございましたが、そこに放り込まれた年若い嫁が一種のカンフル剤になっているのかしらなどと思いながら、わたくしは最後まで褒められ者の嫁を押し通しました。

 

 夏休みを利用して迎えに来た宇内に連れられて小倉へもどると、赤ん坊の昌子を中心にした三人の新しい暮らしが始まりました。

 教師の仕事には無闇に熱心だが家庭のことには無頓着と見えていた宇内は、意外なほどの子煩悩ぶりを発揮しまして、初子の昌子をとても可愛がってくれました。

 酒も煙草もやらず、いわゆる飲む、打つ、買うの男の道楽にも縁がない。

 唯一の趣味は妻の西洋料理という、きわめて真面目な夫でございました。


 宇内はよく中学の同僚や生徒を家に招きましたが、そういうときは、台所仕事の済んだわたくしが談笑に加わることを宇内もしきりに勧めてくれましたし、どんな話題にも臆せずどなたとも気軽に打ち解ける、自分で申すのも何でございますが、

 ――座持ちのいい妻。

 が自慢のようでもございました。

 休みの日に街に出かけるときも、親子三人いつも一緒でございましたので、小倉中学の教師仲間内では、もっとも幸福な家庭とみなされていたようでございます。

 

 ちなみに、この年三月、炭坑労働者からの叩き上げで大富豪にのしあがり、一種の侮蔑をこめて炭鉱王といわれていた伊藤伝右衛門(五十歳)が、大正天皇の従妹にあたる柳原燁子(白蓮 二十五歳)と結婚して世間の話題を呼んでおりました。

 わたくしが没してのち、

 ――白蓮さんとは華やかさにおいて比較にならない。

 と辛口の評価をなさった後輩の女性俳人がいらしたようでございますが、お会いしたこともない方と比べられるなど、わたくしにすればいい迷惑でございました。

 

 大正二年(一九一三)、忍従の人生だった義母のしげが亡くなりました。

 夫からやさしい言葉ひとつかけられず旅立ってしまったのでございます。

 その舅は妻の喪も明けないうちから池の鯉を殺生するような人でございまして、そのうえ四十九日が済むと、村内に囲っていたお妾さんを邸内に入れようとして、宇内や親戚中の大反対に遭い、臍を枉げて当たり散らす始末でございました。

 母思いで、粗暴な父親を憎んでいた宇内は、このときから、帰省してもいっさい口を利かなくなったのでございます。

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