第3章 兄より俳句の手ほどき――童顔の合屋校長紀元節


 

 

 

 大正三年の春休みに、わたくしたち一家は小倉市外の日明に転居いたしました。

 今度の家は板櫃(いたびつ)河畔の、前の家よりは少し広い借家でございます。

 昌子は三歳の春を迎えておりました。

 可愛い盛りのひとり娘を抱えた夫婦は、ふつうならいっそう契りを深めるところでございましょうが、わたくしたち夫婦の場合は、そうはまいりませんでした。

 釦のかけ違いと申しますか、やはり物事は最初が肝心でございます。

 ――婚約時の約束をことごとく破られた。

 わたくしの中に潜む無念が、何かあるとつい頭をもたげたがるのでございます。

 ――金、家、留学、女中。

 何ひとつ履行してもらっていない。

 騙し打ちのような結婚ではないか。


 中学教師の薄給では、どんなにつましく暮らしても限界がございます。

 それなりにふたりで甘い夢を見ないでもなかった新婚時代が終わり、子を得て、現実のきびしさを知ったわたくしたちには、自ずから諍いが多くなりました。

 お恥ずかしい話ですが、給料日前には決まって米びつが底をつきます。

 すると夫は妻のやりくり下手を、妻は夫の甲斐性なしを責めて互いにゆずらず、幼い子どもの前も忘れて、朝となく夜となく陰鬱にいがみ合うのでございます。

 その浅ましさたるや。

 学問もない下町の夫婦と何ら変わりがございません。

 それでも、息子思いの姑がいてくれたころは、吝嗇な舅に内緒で何かとお心配りいただいていたのですが、頼りの姑に亡くなられてみますと、呆れるほど広い山林や畑を所有していても、こと現金に関しては小銭すらも出し惜しむ(田舎の資産家にありがちな)宇内の実家からの援助は、ぷつりと途絶えたのでございます。


 海外留学など夢のまた夢。

 どこが気に入ったのか、すっかり腰を据えた中学教師を定年まで勤めあげたら、小倉に別れを告げて故郷の奥三河へ帰り、自前の山林をのんびり歩きまわったり、鳥撃ちでもして余生を暮らす(当人はまったく気づかないようでしたが、あれほど毛ぎらいしている父親の生き方そっくりに)つもりの宇内は、あくまで旅先と位置づけている小倉に家を建てる気など、さらさらございませんでしたので、わたくしたち家族は一生の大半を借家で暮らさなければなりません。

 そう思うと、うない髪の昌子が哀れでなりませんでした。


 それより何よりわたくしの不満は、

 ――優秀な宇内が絵筆をとらない。

 そのことに尽きるのでございます。

 むかし、新聞社の懸賞に応募した短編小説の一節を引用してみますと、

 ――俗務に追われ、俗人に虐げられつつ不快な沈んだ顔色をして、裏金のついた重い靴を引きつつ河畔を帰って来る。(いまや遅しと待ちかまえていた妻が、なぜ絵を描かないのか責めると)頬の生えさがりつづいている頬ひげの辺を撫でつつ、『ぼくの道楽は、おまえの手料理を食うことと釣りだけだ。活動写真ひとつ行かないんだもの、いいじゃないか』と気弱げに反論を試みる。(『河畔に棲みて』)

 毎日がそんな状況でございました。

 

 でも、ひとりになって考えれば考えるほど、そこそこの才能でもつとまる田舎の中学の美術教師という凡職に甘んじ、せっかくの天与の画才を自ら埋もれさせようとしている夫の不甲斐なさが、歯ぎしりするほど情けなく思われてまいりまして、夕方、わたくしの機嫌をうかがうように帰宅する宇内の顔を見たとたんに、

「あなた、そんな体たらくでは首席が泣くではありませんか!」

 いっそう烈しく責め立ててしまうのでございました。

 何もかも思うようにならないわたくしにとっても地獄の日々でございましたが、間断なく責められつづける宇内にとっては、もっと地獄だったのかもしれません。


 と、あのころの修羅場のかずかずを思い返しながら、いまやっと気づきました。

 わたくしは、宇内を、宇内の画才を珠のように愛しんでいたのでございますね。


 

 

 先述いたしましたように、わたくしは結婚生活に、

 ――宝石、着物、名誉。

 そういったものを求めたわけではございません。

 もし、わたくしがそういうことに価値を見い出せる人間であったら、お茶の水の大半の同窓生たちのように、最初からそういう結婚相手を選びましたでしょう。

 事実、だれそれの夫は同期を抜きん出て出世しただの、だれそれの夫は政府から海外へ派遣されただのという話は珍しくありませんでしたし、身内でも、姉のしづの夫が海軍中佐に昇進し、東京の両親をたいそう喜ばせてもおりました。

 でも、わたくしには、そうしたことを羨む気持ちはございませんでしたから、

「妻子にそんな暮らしをさせておくなんて、宇内さんはどういうつもりかしら」

 姉から貧乏暮らしを非難されたときも、いっこうに動揺いたしませんでした。

 

 それだけに、宇内には美術家として誇れる仕事をしてほしかった。

 日々の安穏に満足できる女性が多いことは理解できますし、それを責めるつもりもございませんが、わたくしという女はそういうタイプの人間ではございません。

 ――ときには滑落も厭わないから、その分、高く登り詰める至福も味わいたい。

 もったいなくも天から芸術家の才能を与えられた夫ととともに、妻のわたくしも本当の芸術の高みに登り詰めて、頂上の景色を存分に味わいたいのでございます。

 なのに、肝心の夫にその気がないのですから、如何ともしようがありません。

 闘争心のない馬を懸命に駆り立てる、滑稽な自分が惨めでなりませんでした。

 

 たまたま与えられたに過ぎない教職を疑いもなく甘受した宇内。

 たぶん生徒に教えることが性に合っていたのでございましょう。

 妻のわたくしが気づかないうちに天職とまで思うようになっていたらしい夫は、学校では教え上手の、生徒たちに慕われる、いい教師だったようでございます。

 その証拠のように、休日ともなれば教え子たちが誘い合って押しかけてまいりまして、もてなしに追われたわたくしは平日よりかえって忙しい始末。二十数人もの生徒に一挙にやって来られますと、昼食をとるひまもございませんでした。


 幼いころマラリヤに罹患して以来、あまり身体が丈夫でないわたくしが、微熱があったりして、少しでも生徒のもてなしを億劫がったりしますと(これも父親の血を引き)何より面子を重んじる宇内は生徒たちが帰ると急に不機嫌になりました。

 人前では自分を抑えているだけに、そうなると手がつけられません。

 わたくしや昌子に手を挙げることこそありませんでしたが、家のものを投げたり蹴ったりしてさんざんに当たり散らし、ようやく癇癪をおさめるのでございます。

 

 こういうときの救いの神。

 それは近所に住む宇内の同僚教師の合屋武城(ごうやぶじょう)さんでした。

 世間から聖職とみなされるだけに、かえってひと癖もふた癖もありがちな教師には珍しく心根の清らかなやさしい方で、満月のような温顔をひょっとこやお多福に変じてみせたりして、険悪な夫婦の間を笑いでとりもってくださいました。

 幼い昌子も高い高いのおじさんに懐いておりましたし、荒み風が吹き始めた家に合屋さんがいらっしゃると、ぽっと蜜柑色の灯がともるようでございました。

 

 ずっとのち、わたくしが太宰府の筑紫保養院で不慮の死を遂げたときも、宇内と一緒に駆けつけて、火の気のない病室でひと晩中通夜を営んでくださいましたし、没後、死人に口なしとばかりに卑劣なうわさが蝗のように飛び交いましたときも、

 ――久女さんに限って、そんなことはあり得ません!

 どなたに対しても断乎否定してくださったのも合屋さんでいらっしゃいました。

 

 童顔の合屋校長紀元節

 

 俳句を知ってのち、校長に就かれた合屋さんに贈った挨拶句でございます。

 生前から没後に至るまで、あまりにもいろいろなことがあったわたくしは、

 ――周囲の人には恵まれなかった。

 そう思いこんでおりましたが、捥ぎ立ての梨のように瑞々しい感受性と正義感を秘めた稀有な方との親交に、あらためて感謝の念を深くいたしております。


 え、けがれのない魂はけがれのない魂を知っている?

 ま、あなたさまらしくもないお上手をおっしゃって。

 でも、言われてみればたしかに合屋さんという方は、

 ――清濁併せ呑む。

 ということがきわめて苦手な方でいらっしゃいました。

 清よりも濁を好まれた虚子先生とは、まさに正反対の。


 

 

 大正五年八月、二十六歳のとき、小倉の産院で次女の光子を出産いたしました。

 さようでございます、長女の昌子とは五つちがいの姉妹ということになります。

 え、昌子の語る母親と次女の光子のそれとに、微妙な温度差が?

 まあ、そういうものかもしれませんね。

 円満だった両親に少しずつ亀裂が生じ、日ごとに烈しくなる諍いの中で幼児期を送ることになった昌子と、物心ついたときにはすでに父母の気持ちは遠く隔たっていた光子とでは、ふた親に対する見方にも差異があって当然かもしれません。


 娘というものは年頃になると、同性の母親にとかくきびしい目を向けがちなものですが、多感な思春期を不仲の両親のもとで送らねばならなかった昌子と光子は、

 ――おかあさんもわるい。

 おとうさんの気持ちをもう少し汲んであげるやさしさがおかあさんにあったら、わが家もほかの家庭のように大きな波風を立てずに済むはずなのにと、わたくしを疎ましく思ったり、批判したりしたことも少なくなかったろうと思います。

 

 だいぶ後年のことになりますが、自身が教師の身でありながら、

 ――女に学問は不要。生意気になって嫁のもらい手がなくなる。

 頑強に言い張ってゆずらない宇内が、東京の美術学校への進学を希望する光子の学費をどうしても出してくれませんので、そのころは俳句とともに書も嗜んでいたわたくしの色紙販売の斡旋を、厚かましさは重々承知のうえで俳人仲間に依頼いたしましたところ、ちょっとした感情の行き違いが生じたことがございます。

 あからさまに罵られて席を立ち、持って行き場のない怒りを抱えたまま帰宅いたしまして、何でも黙って聞いてくれる昌子に、事のなりゆきを綿々と訴えました。

 すると、いつものように共感して慰めてくれるかと思いきや、


 ――どうしていつも余計な騒ぎばかり引き起こすの、おかあさんは!


 さもうんざりというように険しく眉根を寄せ、深々と嘆息されました。

 全面的な味方と信じていた娘に、とつぜんぽんと突き放されたわたくしは、恋人に裏切られたような衝撃で、それから何日も立ち直ることができませんでした。

 でも、自分の不明が客観的に見えるようになったいまは、人、とくに俳人仲間と軋轢ばかり引き起こす厄介な母親をもった娘の不運に詫びるばかりでございます。


 

 この年の暮れ、東京から次兄の忠雄が小倉へやってまいりました。

 次兄は会社勤めのかたわら月蟾(げつせん)を名乗る渡辺水巴門下の俳人でございましたが、父に似て真面目一辺倒の長兄とは対照的に、仕事よりも趣味や遊びに打ちこみ過ぎまして、不惑の四十を前にして職を失い、妻子とも別れる体たらく。

 官吏を定年退職していた父が、旧友の宇内に身柄を託したのでございます。


 こういうとき、外面のいい宇内は、間違ってもいやな顔などいたしません。

 遠来の客のように温かく迎え、酒だ食事だと手厚くもてなしてくれました。

 しかるに。

 でんと座っていられる男はそれでよくても、主婦はそうはまいりません。

 客用布団一枚、茶碗ひとつない貧乏所帯に、兄とはいえ大の男に転がりこまれたのでございますから、手のかかる幼児と赤ん坊を抱えたわたくしは、兄の寝場所や食事の算段に頭を悩ませ、夜中まで身を粉にして働かねばなりませんでした。

 

 平日はごろごろ遊び暮らし、休日には宇内と連れだって釣りに行くなど、気ままな食客生活を楽しんでいるように見えた次兄でしたが、あまり丈夫とはいえない妹宅の居候になって日数を重ねますと、さすがに気が咎めてきたものと見えます。

 重い靴の音をさせて宇内が出勤したある朝、

 ――おれが俳句を教えてやってもいいぞ。

 そんなことを言い出したのでございます。

 招かれざる客の次兄からすれば、俳句指南は無為徒食への詫びのつもりだったのかもしれませんが、もうひとつ、ひとつ屋根の下で暮らせばいやでも見えてくる妹の不幸に手を差し伸べてやりたかったのかもしれないと、いまは考えております。


 これと思いこめば一途になりやすい妹の性分を知り抜いている次兄は、わたくしの家事の手すきを見つけては、熱心に俳句の作法や真髄を説いてくれました。

 とくに何度も繰り返し聞かされましたのは、写生にすぐれ、能楽に堪能、大上段にかまえない飄逸な句をつくることから、俳句の活神(いきがみ)さまとして全国の俳人から敬われているという、高浜虚子なる大先生のお名前でございました。

  

 灯にぬへば髭長き虫の黙し居たり

 

 わたくしが初めて俳句らしきものを詠んだうちの一句でございます。

 箸にも棒にもかからない、お恥ずかしい代物ではございますが、われながら何と初々しいと、いまさらながら、あのころの純情に胸が熱くなったりもいたします。



 

 ところが、皮肉なことに、東京の俳壇を離れていた次兄も知らなかったようですが、このころの虚子先生はと申せば、のちに離反した弟子たちに先駆けるように、自ら提唱されてきた写生俳句の世界を見限り、ご自身の執筆活動をひそかに小説に乗り換えようとされていた、ちょうどその時期に当たるのでございます。


 北九州の貧しい台所の隅で、ようやくひとりの女が俳句に目覚めようとしていたときに、のちに全身全霊を打ちこむことになる当のご本人が、いちぬけたとばかりに転身を図っていたのでございますから、何ともはやな話ではございますが。

 ともあれ、そんな虚子先生の隙を突き、同じ子規門下の河東碧梧桐さんら個性的な方々が新傾向俳句運動を起こされましたが、やはり一枚岩とはまいりませんで、無季俳句や十七字破壊派がてんでに新しい主張を展開し始め、混乱に陥りました。

 今度はその隙をついて、虚子先生が俳壇に返り咲かれたのでございます。


 自他ともに許すスーパー文人と見なされていた虚子先生ですが、実は小説の才はお持ちでなかったことが証明されたのでございますが、そこは彼の大先生のこと、

 ――余は守旧派である。

 主宰誌『ホトトギス』に時代がかかった宣言を出され、批判を封じられました。

 ただし、

 ――十七字、季題趣味、この二つの拘束あればこそ俳句の天地が存在する。

   ただし、作者めいめいの主観の涵養も大切。

 つまり、従来のような写生一辺倒ではなく主観も大目に見ることも付け加えて、くすぶっている若手の造反に釘を刺されることもお忘れになりませんでした。

 

 春風や闘志いだきて丘に立つ  虚子

 大空に又わき出でし小鳥かな

 木曾川の今こそ光れ渡り鳥

 

 大正二年から五年にかけ、虚子先生四十代前半、再び打って出てやるぞという、ひそかにして大いなる野望に満ちた大志が籠められているようでございます。

 

 小説はイマイチでも利にさとい実業家でいらした虚子先生は、新傾向俳句運動の自滅とともに俳壇の主流に復帰した『ホトトギス』のさらなる地盤強化のために、

 ――ホトトギス婦人俳句会。

 なるものを提唱されました。

 申すまでもございませんが、お手本は歌人の与謝野鉄幹さんでございます。

 晶子夫人というスーパースターの活躍もあり、主宰歌誌『明星』で女性の投稿に力を入れたことにより女性読者数=発行部数の大幅な増加を招き、そのことが結社経営の安定化につながった。虚子先生はその先例に倣われたのでございます。


 虚子先生肝煎「婦人俳句会」のリーダーは長谷川かな女さんでございました。

 わたくしより三歳上の才媛で、ご夫君は『ホトトギス』の編集を手伝われていた零余子さんでございます。

 ほかに阿部みどり女、飯島みさ子、金子せん女、真下真砂子さんらが参加され、吟行のあと新宿柏木のかな女さん宅で句会を開くのが月の恒例でございましたが、華やかな一団になぜか男性は虚子先生おひとりでしたので、ずいぶんと世間の耳目を集めたようでございます。

 発足当初は好奇の目で遠巻きにされていた「ホトトギス婦人俳句会」でしたが、大正八年に至りますと、本田あふひ、久保より江、竹下しづの女、中村汀女さんらにわたくしも加わりまして、自ずから存在感を増していったと承知しております。

 

 なお、わたくしの没後、吉屋信子さんによって恣意的な脚色が加えられ、かな女とわたくしはご夫君の零余子さんを巡ってただならぬ関係にあったと、いわゆる、

 ――久女伝説。

 なるものが長らく巷間で囁かれていたようでございますが、のちに述べますが、これは信じがたいほど悪質な作為に満ちた、まったくの作り話でございます。


 

 5

 

 目論見どおり、たちまち俳句のとりこになっていく妹をよそに、手ほどきをした次兄本人は、相変わらずのんべんだらりとした居候生活に浸っておりました。

 しかも、全面的に世話になっている立場でありながら、薄給の宇内を前にして、世の中は金がすべてのようなことを平気で申しますので、愚かにも小倉の拝金主義に易々と染まった次兄の浅慮を、声を荒らげて責めずにいられませんでした。

 同時に不肖の息子を案ずる東京の母の心中を訴えつづけたのでございます。

 

 貧乏を押し付け合っている夫とはろくに口も利かない。

 しつこく世話をやきすぎて、次兄にも敬遠されている。

 憩うべき家庭において、わたくしは野中の枯木のように孤独でございました。


 ところが、そんなわたくしを救ってくれる人物があらわれたのでございます。

 幼い身に大人の悶着も多分にひびいたのでございましょう。

 もともと乳の飲みの細い子でしたが、離乳食を開始したばかりの次女が栄養失調に陥りまして、ぐったりした光子を抱いて駆けこんだのが、親身に診てくださると評判だった小児科医の太田登博先生でございました。

 奇遇にも、太田先生は柳琴の俳号をもつ俳人でもいらっしゃいました。

 光子を連れて通院するうちにそのことを知ったわたくしは、こういうときいつもそうであるように、勝手に浅からぬ縁を感じまして、穏やかで紳士的な先生を、

 ――物質万能の小倉には珍しい、高潔な人格者。

 としてお慕いするようになったのでございます。


 それ以来、子どもの健康にせよ俳句のことにせよ、事あるごとに柳琴先生を頼るようになったわたくしを、口さがない人たちは下賤なうわさの種にいたしまして、吝嗇なくせに独占欲の強い宇内からも猜疑の目を向けられるようになりました。


 でも、誓って申しますが、わたくしの慕情は恋愛ではございません。

 男女の別なく自分や周囲にないものを持った方(これが宇内の気に入りません)に惹きつけられ、その方の知識や感性を貪欲に吸収し、自分のものにしてしまう。

 それがわたくしという人間でございます。

 零余子さんにせよ柳琴さんにせよ、そんなつもりはないのに、なぜかいつも醜聞がついてまわるのは、まさにわたくしの不徳のいたすところでございましょう。


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