第4章 高浜虚子『ホトトギス』との出会い――花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\

 

  

 

 次兄の思惑を大きく超えて、わたくしはたちまち俳句に夢中になりました。

 あらためて申すまでもありませんが、どんなに懇願しても絵筆をとろうとしない宇内への期待を、未知の自分の才能を育てることに置き換えたのでございます。

 期待する相手が自分であれば、すれ違いや諍いは起こりません。

 何をどうしても芸術を、すなわち生きている実感を掌中にしたいわたくしは、もっとも手っ取り早く、なおかつ確実な方法に目覚めてしまったのでございます。


 夜ごとの次兄の吹きこみが功を奏したのでございましょう。

 ――入門するなら高浜虚子先生。

 そう決めていたわたくしの眼中にほかの選択肢はございませんでしたので、渋る宇内を次兄も説得してくれまして、晴れて『ホトトギス』の会員になりました。

  

 大正六年、二十七歳のわたくしを小躍りさせる出来事が起こりました。

 『ホトトギス』の「台所雑詠」欄に初めて採用されたのでございます。

 

 鯛を料るに俎板せまき師走かな

 皿破(わ)りし婢のわびごとや年の暮

 冬の朝道々にこぼす手桶(おけ)の水

 へつついの灰かき出して年暮るる

 凩や流シの下の石乾く

 

 それはもう、うれしかったの何のって。

 まだよちよち歩きとはいえ、自分の詠んだ句が活字になって公の目に留まる。

 こんなに晴れがましいことがございましょうか。

 郵送されてきた『ホトトギス』の自分の頁を飽かずに眺め、神棚にお供えし、夜は枕元に置いて目覚めるたびに撫でさするなど、この一冊に魂を打ちこみました。


 同時に、昂揚した気持ちの中に、

 ――結社愛。

 のようなものが芽生えたことを、熱く、誇らしく感じておりました。

 その他の小結社の有象無象など足許にも及ばない大組織、天下の『ホトトギス』の誌上に、わたくしの五句、すなわち、わたくしの生命そのものが掲載された。

 その途方もない喜びは、虚子先生と『ホトトギス』への絶対的なリスペクトと、俳壇の圧倒的多数を占める同胞へのシンパシーを醸成する作用をもたらしました。


 さようでございます。

 冒頭の述懐のとおり、

 ――内集団バイアス。

 状態に自らの身を投げ打っていったのでございます。


 

 

 その年の五月、さらにわたくしを感激させる出来事が待ち受けておりました。

 里帰りの折り、虚子先生に初めてお目にかかることができたのでございます。


 飯島みさ子さんのお宅で開かれた「婦人俳句会」の席のことでございました。

 紅一点ならぬ黒一点の虚子先生は、四十四歳の男盛りでいらっしゃいました。

 次兄が申していたとおり、能楽に堪能でいらっしゃるゆえか一挙手一投足に無駄がなく、鷹揚な笑顔にも大結社の長としての自信と尊厳が滲み出ておられまして、

 ――尊敬できるだれか。

 を欲していたわたくしは、たちまち師の前にひれ伏したい気持ちになりました。

 

 初空や大悪人虚子の頭上に 虚子

 

 そんな大それた句を詠まれたのは、翌七年正月のことでございますが、そのとき如何様な企みが紋付き袴の胸中におありになったのか、知るよしもございません。

 ちなみに、虚子先生に俳句を導かれた正岡子規先生は、ご門下の二雄を、


 ――河東碧梧桐は冷やかなること水の如く、高浜虚子は熱きこと火の如し。碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有情の人間を見るが如し。


 と評されたそうでございますが、その子規先生を、七歳年下の虚子先生は、

 ――子規。

 呼び捨てにして憚らず周囲の顰蹙を買ったことを、あとになって知りました。

 

 白萩のように優雅で純真でいらした飯島みさ子さんは、このときまだ十九歳。

 

 母に似し眉うれしけれ冬鏡      みさ子

 木の芽雨母追ふて傘まゐらせぬ

 熱の目に紫うすきぎぼうしゆかな

 

 一連の美しい句を詠まれましたが、のち、二十五歳の若さで早逝されました。

 

 「婦人俳句会」の話にもどりますね。

 その席では長谷川かな女、阿部みどり女さんの知遇も得ることができました。

 かな女さんは三十一歳。

 江戸の下町育ちの、粋にして嫋々たる美貌の持主で、初対面のわたくしにも気軽にお声をかけてくださるなど、懐かしいお人柄の方でございました。

 このころ『ホトトギス』の編集を手伝っていらした零余子さん(飯島みさ子さんの師)がご夫君でいらっしゃいましたが、のちに、原石鼎さんが戯れに、

 

 主よりかな女が見たし濃山吹    石鼎

 

 と詠まれるほど人気のある女流俳人でいらっしゃいました。


 みどり女さんは、かな女さんよりひとつ上の三十二歳。

 北海道長官をつとめられた陸軍中将のご令嬢で、結核を患っておいででしたが、ご夫君のご理解を得て俳句に勤しんでいらっしゃるということでございました。

 

 スイートピー蔓のばしたる置時計   かな女

 幌に降る雪明るけれ二の替      みどり女

 

 そんな都会的で華やかな方々に囲まれた田舎出のわたくしはと申せば、黒紋付の羽織に濃茶縞の着物という、見るからに場違いで地味な出で立ちでございました。

 それだけでも気後れがして、もじもじしてばかりいた記憶がございます。

 

 父母の老を花に訪はんと旅立てり

 

 ともあれ、小倉にいては味わえない、刺激に満ちた体験をしたのでございます。



 

 年の暮れも押し迫ったころ、宇内が知り合いに頼んで世話をしてもらった就職先もすぐにやめてしまい、不甲斐ない自分の唯一の支えとしていた俳句においても、妹のわたくしに追い越されたかたちになって腐っていた次兄が、心労でというのもおかしなものですが、とにかく身体をこわして入院することになりました。

 ただでさえ多忙な年末に病人が出たとあって、主婦のわたくしはてんてこ舞い。

 さしせまる歳取りや正月の支度もままならないような状況に陥っておりました。


 すると、そんな様子を見かねたのか、ちょっとそこまでと言って、雪の夜の町へ出かけて行った宇内は、幼い娘たちが小躍りしそうな玩具、羽子板、羽根、彩りの美しい菓子などを、こまごまと取り揃えて買って来てくれたのでございます。


 最終電車もなくなった半里の夜道を、雪まみれになって帰宅した宇内が、

 ――よその子がお正月なのに、うちの子だけしょんぼりはかわいそうだからね。

 心尽くしの包みを武骨に差し出してくれたときは、意地っ張りのわたくしも、

 ――まあ、すてき! あなたって何ていい方なんでしょう!

 素直に叫んで、冷たいオーバーの胸にとびつきました。

 宇内は本当に子煩悩な、やさしい父親でございました。


 この時代の家族を詠んだ句を少しあげてみましょうね。

 

 六つなるは父の布団にねせにけり

 その中に羽根つく吾子の声すめり

 雛市に見とれて母におくれがち

 姉ゐねばおとなしき子やしやぼん玉

 面痩せし子に新しき単衣かな

 七夕や布団に凭れ紙縒(よ)る子

 まろ寝して熱ある子かな秋の暮

 

 獺(うそ)にもとられず小鮎釣り来し夫をかし

 葱植うる夫に移しぬ廂の灯

 昼飯(ひる)たべに帰り来る夫日永かな

 うかぬ顔して夫帰り来ぬ秋の暮

 蠣飯に灯して夫を待ちにけり

 父を待つ子等に灯すや大吹雪



 

 大正七年(一九一八)四月、長女の昌子が小学校へ入学いたしました。

 よそ行きを着せた娘の手を引き、晴れの入学式に臨むわたくしの胸は、この子が生まれてからのあれこれを行きつもどりつして、まさに感無量でございました。


 同じころ、もうひとつ晴れがましい出来事がございました。

『ホトトギス』雑詠の虚子選に初めて入ったのでございます。

 

 艫(ろ)の霜に枯枝舞ひ下りし烏かな

 

 中央俳壇の雄である『ホトトギス』において天下の虚子選に入りましたことは、地方俳壇においては、ひとかどの俳人として認められたことにほかなりません。

 これも没後のことになりますが、生前、近くにいた女性俳人に、

 ――久女さんという人は、きわめて自己顕示欲が強い方でした。

 相当な辛口で評されましたわたくしも、それまでは自ら「俳人」を名乗るというおこがましいことは、さすがにできずにおりましたが、これからは、周囲が自然にそう呼んでくれるだろうと思うと、何ともいえず誇らしい気持ちでございました。


 いえ、正直に申しますと、晴れがましいなんて品のいいものではございません。

 明けても暮れても手をガサガサにして厨を這いずりまわっている無冠の主婦に、

 ――俳人。

 という、芸術の志向者として垂涎の冠が与えられたのでございます。

 そこいら中に大声で触れまわりたいほどのうれしさでございました。

 入選を告げたとたん、宇内はさらに苦虫をかみつぶしましたけれど。

  

 手ほどきをしてくれた次兄の手前、表立っての反対は見せませんでしたが、宇内はわたくしが俳句に夢中になることを、内心ではとてもいやがっておりました。

 正確に申せば、こと俳句に限りません。

 何事にも一途になりやすい妻が、ひとたび家庭の外に目を向けたとき、夫以上の価値を見つけ出し、自分の世界に目覚めることをひどくきらったのでございます。

 まあ、わからないでもございませんけれど。

 実際、宇内の懸念は的中いたしましたから。

 

 この年の八月、小倉市内の堺町へ転居いたしました。

 小倉中学美術教師の杉田家にとって三番目の家は市街地の東のはずれに当たり、旧城下の屋敷町の黒塀や煉瓦塀が途切れた先の、畑付きの借家でございました。

 わたくしはここで野菜を育てて楽しむとともに、家計の足しにいたしました。

 

 春雨の畑に灯流す二階かな

 花大根に蝶漆黒の翅(はね)あげて

 寒風に葱ぬくわれに弦歌やめ

 

 三番目の弦歌の句には多少のいわれがございます。

 天罰のごときスペイン風邪の世界的な流行で各国の軍隊が機能しなくなり、ほぼ強制終了的に第一次世界大戦が終わったこの年、日本では商品輸出の急増による、

 ――大戦景気。

 別名を大正バブルと呼ばれる異常な状況が発生いたしまして、その恩恵を受けた成金が全国に排出いたしましたが、工業都市の小倉はその筆頭でございました。

 あり余るお金に溺れた富裕層は自ずから刹那的、享楽的になり、わが家の近くの料亭からは、真昼間から三味線に合わせた下品な都都逸が聞こえてまいりました。

 一方、同情と侮蔑とある種の羨望と嫉妬をこめ、成金の富裕層や労働者層から、

 ――洋服貧民。

 と呼ばれておりました中間層(下級役人、教員、会社員ら)は、夏空の積乱雲のごとく湧き起こったインフレのため、深刻な生活難を強いられたのでございます。


 そのころ。

 成金の先駆けの大親分のような伊藤伝右衛門に嫁いだ歌人の柳原白蓮さんは、

 ――筑紫の女王。

 と呼ばれる華やかな社交生活を送っておられましたが、年上の夫におねだりして出版してもらった処女歌集『踏絵』の費用が六百円! と聞き仰天いたしました。

 なにしろ、しがない中学教師の月収の数か月分に相当いたしましたから。

 

 そんな雲の上のような話をよそに、俳人としての第一歩を恐るおそる踏み出したばかりのわたくしは、唯一のよすがとする『ホトトギス』八月号の雑詠欄に、


 仮名かきうみし子にそらまめむかせけり


 ほか三句が入選し、これを手始めに、毎月採っていただけるようになりました。

 負けん気の強いわたくしは、

 ――貧乏という負。

 を糧にしたのでございましょう。

 俳句のほかに随筆も頻繁に投稿いたしまして、七月号には幼時の記憶をたどった「南の島の思い出」、同じく十一月号には亡き弟の思い出をつづった「梟啼く」が掲載されるなど、これまでになく旺盛な執筆活動を展開し始めておりました。


 このころ、虚子先生門下の飯田蛇笏先生が、主宰される俳誌『雲母』七月号で、

 

 ――(近ごろ女流俳人が増えたが、そのいずれも)何処やら力の足りない、なまなましいところが見える中にあって、近来にわかに頭角をもたげ、その作風能く他を睥睨せんとする勢いを明らかに看取することの出来る俳人は小倉の久女である。

 

 過分なご高評を賜りましたことは、八方ふさがりの日常にひと筋の光明を求めてもがいていたわたくしを、どんなにか勇気づけてくれたことでございましょう。

 

 その年の暮れ、悲しい出来事がありました。

 利かん気の少女をことのほか愛しんでくれ、

 ――ひさは身体が弱いんだから、多少のわがままは捨ておけ。

 そう言って庇ってくれた父の簾蔵が病気で亡くなったのでございます。

 ひとり残された母が急に小柄に見えまして、哀れでなりませんでした。

 

 父逝くや明星霜の松になほ

 湯婆(たんぽ)みなはづし奉り北枕

 み仏に母に別るゝ時雨かな


 

 

 大正八年(一九一九)は、わたくしの二十代最後の年でございました。

 ――三十代に突入する。

 臆面もなく美魔女だの熟女だのと騒ぎ、騒がれている昨今とちがい、あのころの女性にとってそれは、女ではない何ものかに脱皮するときの訪れを意味しました。


 その覚悟と二十代への惜別をこめて一念発起したわたくしは、『河畔に棲みて』と題する短編の私小説を書いて、大阪毎日新聞の懸賞小説に応募いたしました。

 結果は残念ながら、

 ――選外佳作。

 でございましたが、そのあとに思いがけない展開が待っておりました。

 『電気と文芸』という雑誌の俳壇選者をつとめられておられた長谷川零余子さんのバックアップにより、同誌に拙稿の全文を掲載していただけたのでございます。

 いえ、わたくしのほうから売り込んだのでは断じてございません。

 ましてや、色仕掛けで云々という下品なうわさに至ってはもはや。

 どなたかの恣意による「久女伝説」のひとつでございましょうね。


 さようでございますね。

 落胆と喜び半々といったところだったでしょうか。

 お情けの佳作とは申せ、選外は選外でございます。

 ――小説のかたちは成しているものの、選ってすぐれているとは言えない。

 プロ作家の選考委員から、はっきりとそう判断されたのでございますから。

 ――やっぱりね。

 広げた新聞がざわめくような衝撃が去りますと、いっそのこと、さばさばいたしまして、ひそかに捨てきれずにいた小説家への夢が吹っきれたのでございます。

 

 一方、本業の(と位置づけるのも妙なものですが)俳句では『ホトトギス』四月号の雑詠に「寒風に葱ぬくわれに弦歌やめ」など四句を採っていただきました。

 

 春寒や刻み鋭き小菊の芽

 菊苗に干竿躍りおちにけり

 葉鶏頭のいただき躍る驟雨かな


 おっしゃるとおり、

 ――脂がのってきた。

 と申しますか、虚子先生がお念仏のごとく説かれる客観写生の本質が、理屈ではなく、勘としてつかめかけてきた、そういう時期に当たるのかもしれませんね。

 

 五月には下関で開かれた高浜虚子先生歓迎俳句大会に出席いたしました。

 根っからの小心者のわたくしは、久しぶりの大御所の前で全身が板か鋼になったかのように緊張いたしましたが、幸い、句会では最高点を賜ることができました。

 

 簀戸(すど)たてゝ棕梠の花降る一日かな

 船港にみちて灯りし葦戸(よしど)かな

 蛙田に灯流し去れる電車かな

 

 そして、『ホトトギス』六月号雑詠三席に、のちに代表作と言っていただける、


 

 花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\

 


 ほか六句を採っていただいたのでございます。

 この句につきまして、虚子先生が八月号で、


 ――すなわち花衣の句の如きは、女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立っているものとして認める。


 とご評価くださいましたことは、どんなに名誉でありましたことか。わたくしの虚子先生へのご信奉は、このご高評によって不動のものになったのでございます。


 ちなみに、のちにわたくしが身の程知らずにも創刊を発起してたちまち挫折し、「それみたことか、3号雑誌(実際は5号でございましたが)で終わった」と南国のスコールのごとき非難を浴びることになる俳誌『花衣』の評論「大正女流俳句の近代的特色」で、この句への自解を記しておりますので、ご参考までに。


 ――花見からもどって来た女が花衣を一枚一枚はぎ落とすとき、腰にしめているいろいろの紐が衣にまつわりつくのを小うるさいような、また花を見てきた甘い疲れ気味もあり、その動作の印象と複雑な色彩美を耽美的に大胆に言い放っている。

 

 え、何て華やかな、艶のある句、大好き、でございますか?

 いささか照れはいたしますが、どうもありがとうございます。

 よく評していただきますように、この句を自意識過剰な女のナルシシズムの極致ととっていただいても、わたくしといたしましては一向にかまいません。詠み手を離れたとたんに独り歩きする俳句の解釈は、まったくご自由でございますから。


 ただ、少しばかり種明かしをさせていただきますと。

 俳句は必ずしもそのときの自分の姿を写しとっているとは限りません。

 蝶よ花よの娘時代ならともかく、育ち盛りのふたりの子持ちの貧乏教師の妻に、晴れ衣をまとって花見に出かける余裕が時間的、金銭的ともにあり得たかどうか。その辺の微妙なニュアンスは暈しておいたほうがよろしゅうございましょうね。


 ともあれ、作句はビギナーとはいえ、名句を見慣れてきたあなたさまに、


 ――少し汗ばんだ女体をからめていた豪奢な花衣や襦袢。それを幾重にも縛っていた紐が一本ずつ解かれていく際の衣擦れの音や幻惑されるような彩り。これから夕餉の支度に取りかからなければならない物憂さまでが一句に詠みこまれている。


 そんな解釈をしていただけましたこと、まことにうれしゅう存じます。


  

 

 『ホトトギス』八月号の雑詠欄では、

 

 茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね

 

 など自信句を採っていただきまして、何だのかんだの申しましてもやはり掲載句の質と数にこだわらずにいられないわたくしは、まずまず気をよくいたしました。

 一方、同号の巻頭に日雷(ひがみなり)のごとき衝撃をもたらせましたのは、

 

 短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)    しづの女

 

 わたくしより三歳上、行橋出身の竹下しづの女さんの一句でございました。

 かつてここまで率直な私情を詠んだ句を目にしたことがありませんでしたので、圧倒的な存在感を放つ五文字を見た瞬間、いきなりガンと頭を殴られたようで、

 ――負けた、大敗を喫した。

 率直にそう思いました。


 しづの女さんは女子師範出の教師、当時でいうところの職業婦人でいらっしゃいましたから、俳句を体のいい習いごと程度に考え、小ぎれいで思わせぶりな、なおかつ作者本人は決して傷つかない、用意周到な句ばかり詠んでいた並みの女性俳人とは、ものの見方、考え方が根本から異なっておいでになったのかもしれません。


 かといって、同様な自嘲の句と申しましても似て非なるもの、のちのわたくしの「足袋つぐやノラともならず教師妻」や「冬服や辞令を祀る良教師」につきまとう湿った翳は微塵も感じさせず、明るくからっとして、かっかっかっという男性的な笑い声まで聞こえてきそうな、気魄とユーモアにあふれた逸品でございました。


 正直に申しまして、わたくし、他者に与えられた才能を、このときほど羨ましいと思ったことはございません。心が般若めくほどの嫉妬を感じたのでございます。

 されど。

 所詮、人は人、われはわれでございます。

 生来の気質も生きてきた道も環境もすべて異なる方と引き比べても、自分が惨めになるばかりでございますから、気を取り直して、毎月欠かさず渾身の投句をつづける一方、「ホトトギス婦人俳句会」にも本格的に参加するようになりました。

 

 夏痩や頬も色どらず束ね髪

 板の如き帯にさゝれぬ秋扇

 白豚や秋日に透いて耳血色

 玄海の濤(なみ)のくらさや雁叫ぶ

 夜寒さやひきしぼりぬく絹糸(きぬ)の音


 そんなわたくしを見ていてくださった方がいらしたのでございましょう。

 何ですか大仰に過ぎ、自分で披瀝するのもおこがましゅうございますが、


 ――東の長谷川かな女、西の杉田久女。


 いつしか、そんなふうに称していただけるようになったのでございます。


 いえ、この件につきましては、虚子先生はまったく関与されておられません。

 この先の展開を思い合わせますと、一部の同人や会員が勝手にもてはやすことを内心で苦々しく思われていたか、あるいは鼻先で嗤われていたかもしれませんね。


 でも、それはあくまで信州人の血を引いて硬骨な、女としての可愛げのないわたくしに限ることでありまして、抜群の人当たりのよさで、『ホトトギス』の中でもとりわけ男性陣に絶大な人気がおありになった、かな女さんは別でございますが。


   

 

 遠く小倉から中央の動静に気を配る一方、地方句会にも参加いたしました。

 そのうちのひとつ「二八会」は、光子のかかりつけ小児科医の太田柳琴さんや、柳琴さんのお仲間で耳鼻咽喉科医の曾田公孫樹さんなどがご一緒でございました。

 

 盂蘭盆会も過ぎた八月二十六日、ひどく慌てふためく出来事が起こりました。

 長谷川かな女さんのご夫君で、『ホトトギス』の編集を手伝っておられた零余子さんご一行が、日暮れ間近に、とつぜん茅屋を訪ねて見えたのでございます。

 折悪しく、しばらく滞在していた母を宇内が駅まで送って行った、ほんの三十分ほどのことで、食材は乏しい、九つの昌子と四つの光子はお腹を空かせているで、困りきっているところへ帰宅した宇内は、一瞬、怪訝そうな顔をいたしましたが、すぐにいつもの外面のよさ全開となり、さあさあとばかりに歓待してくれました。

 じつは、これが宇内の手ごわいところでございまして、

 

 呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉    かな女

 

 万人を一様に驚かせた大胆不敵な、ある意味人を食ったこの句を宇内が承知していたかどうかわかりませんが、あとになってから、まるで自分の留守を狙って来たかのような零余子さんとの関係を、ねちねちと執拗に責め立てられました。


 でも、それはいつものことですので、置いておくといたしまして。

 お客さまの分の夕餉の材がないことをかげでこっそり宇内に相談いたしますと、期待どおり、こういう場面でも外面のよさを首尾よく発揮してくれまして、自分の分は要らないから、精いっぱい客人をおもてなしするように言ってくれました。


 結局、その晩、零余子さんご一行は、客用布団もないわが家に一泊されることになったのでございますが、わざわざ小倉までお越しくださった用件はといえば、

 ――『天の川』に設ける「九州婦人十句集」欄の世話役をお願いしたい。

 とのことでございました。

 たびたび申し上げておりますように、わたくしは人さまのお世話を厭わないほうでございまして、むしろ、若い方々の才を見い出し、少しでも伸ばしてやることに喜びを見い出す性質でございますから、ふたつ返事でお引き受けいたしました。


 え、作家より編集者に向いているタイプ?

 そうご指摘いただいてみれば、たしかに。

 中村汀女さんや橋本多佳子さんなど、俳句の手ほどきをしてさしあげた方々が、素直に知識を吸収してみずみずしく開花していかれる様子を間近にできますことは、わたくし自身に佳句が生まれたときに勝るとも劣らない喜びでございました。

 


 

 この前年、福岡の吉岡禅寺洞さんによって創刊された俳誌『天の川』の誌名は、

 

 天の川の下に天智天皇と巨虚子    虚子

 

 虚子先生を太宰府にお招きした折りの一句からいただいたと聞いております。

 あの、ここだけの話でございますが、

 ――ものすごい句!

 率直にそうお思いになられませんか?

 大宇宙のもとに天皇と自身を並列に置き、しかもご自分の名前の上に「巨」まで付けるとは、並みの神経の持ち主には、とうていできない芸当でございますよね。


 懐古趣味の虚子先生が、唐など海外からの侵攻から国を護った天智天皇の膝下にひれ伏し、その天皇をお守りする臣下としての昂揚を詠んだ句なのではないかと、

 ――どこをどう推せばそのような? 

 首を傾げたくなる枉げた解釈が、いまだに喧伝されているようでございます。

 ですが、限界を感じた俳句から小説への転向を図り、その小説にも限界を感じて再び俳句にもどられた大正期の「初空や大悪人虚子の頭上に」の一句と同様に、

 ――太々しい本音を、ついうっかりのぞかせてしまった。

 それが許される自分であることを、あえて誇示されたのではないでしょうか。

 いみじくも両句に詠みこまれた「大悪人」と「巨」の不気味さをいやというほど見せつけられてきたわたくしには、そのように思われてならないのでございます。

 

 このように虚子先生の肝煎りで創刊された俳誌『天の川』は、当然ながら、発足当初は『ホトトギス』の九州支局的存在として広く俳壇に認識されておりました。

 ですが、賢明な吉岡禅寺洞さんはしだいに、

 ――蝋をかむような客観写生の花鳥諷詠。

 ばかり強いる『ホトトギス』に疑問を抱かれるようになり、結果として新興俳句に傾斜してゆかれまして、やがて運動の急先鋒をつとめられることになります。


 ちなみにわたくしの没後、恥知らずなうわさが大手を振って闊歩していたとき、冷静なご評価をくださった稀少な俳人、それが吉岡禅寺洞さんでございました。


 ――久女は「花衣ぬぐやまつわる紐いろ/\」の句のように情趣豊か、もちろん今日の婦人のようではなく、明治生まれの落ち着いた文学者という感が深かった。熱情家であり、負けず嫌いであるが、その謙譲な態度は言葉の調子にも重々しささえあったので、同じ女性でもてんたんな人々――久保より江さんなどとはまったくちがっていて、気性が合わないようであった。久女さんの熱情詩人としての焔が、客観写生を強いられても満足するわけはなかった。

 

 え、久保より江さんのことでございますか?

 あら、まだお話してありませんでしたっけ?

 話が前後して混乱してしまいますが、不足や重複はどうかご寛恕くださいませ。


 より江さんは虚子先生と同じく松山の産でいらっしゃいまして、夏目漱石さんの下宿先の「愚陀仏庵」がご祖父の所有だったことから、少女時代、正岡子規先生や漱石さんに可愛がられたそうでございまして、小説『吾輩は猫である』の女学生、雪江のモデルとしても知られる方でございます。

 わが国の耳鼻咽喉科学の先駆者でいらっしゃる医学博士の久保猪之吉さんと結婚されてからは、お子さんもお出来にならなかったことからお邸をサロンとして開放され、歌人の柳原白蓮さんをはじめ上流社会の婦人連と親しくされておりました。

 そうそう、大の猫好きでいらして、


 猫に来る賀状や猫のくすしより    より江


 といった句をお詠みになりました。

 わたくしとは、でございますか?

 気が合わないわけではございませんが、あちらは華やかな社交界の花形、かたやこちらは貧乏教師の妻でございますから、生きる世界がちがうと申しましょうか、まあ、そんな感じでございます。



 

 話をもどします。

 零余子さんご一行に不意打ちされた当初は、あまりの貧乏ぐらしを目の当たりにされた恥ずかしさに台所から一歩も出て行かれなかったわたくしでございますが、いつまでもそうしてはいられません。

 あり合わせのもので夕餉を整えながら、これはかえっていい機会かもしれないと開き直る気持ちが生じてまいりましてね、ささやかな酒肴を運びながら、日頃から思っていること、感じていることを、洗いざらいお話することにいたしました。

 

 ――ご覧のとおり、赤貧洗うが如しを絵に描いたような暮らしでございますし、折りからの人手不足で女中さんも雇えない。そんな境遇に甘んじなければならない一介の主婦であるわたくしは、いたずらに俳句などに手を出さず、日に夜をついで襤褸(ぼろ)継ぎをしたり、夫や子どもの足袋の穴のひとつでも継いだりするほうが分相応かもしれない。そのように考え、自分の焦りを戒めようといたしました。でも、お笑いくださいますな、好きな俳句をどうしてもやめることができませんで、もがきながら、あえぎながら、しぶとく句作をつづけているのでございます。

 

 すると、ちらちらと横合いからいやな目を送ってよこしていた宇内が、あたかもわたくしの話を引き取るようにして、奇妙なことを言い出したのでございます。

 

 ――俳句のことはわかりませんから、絵のことを少しばかり。わたしの妻は油画を描きますが、ときどき、じつにいい色を出すことがあります。しかし、描いている妻自身には、それがいいのかわるいのか少しもわからないようでして。わたしが「なかなかいいじゃないか」などと言おうものなら、むしろいいところを滅茶苦茶に塗りつぶしてしまったりするのです。美術教師の目から見ても、どこかに感じのいい独創的なものを秘めているのですが、惜しいことに、どの絵もどの絵も未成品のままになっておりましてね。ことほどさように、なにがなんだか取り留めがないのですよ、この人は。

 

 先に行くにしたがって間隔が開いていくばかりの夫婦の話を、困ったような顔で聞いておられる零余子さんに、宇内はしばらくの間を置いてとどめを刺しました。

 

 ――ですから、妻の俳句もきっとそんな程度なのでしょう。

 

 わたくし、このときほど宇内を憎んだことはございません。



10

 

 なぜかたびたび惹き起こされるスキャンダルとは裏腹に、もともとわたくしは、男性よりも同性に親しみを感じる性質でございますので、自身の作句活動の活発化と同時に、女性俳人のみなさんとの交流も自ずから深まってまいりました。

 

 まずは中村汀女さん。

 わたくしより十歳年下、熊本出身の彼女は、娘時代から九州日日新聞の俳句欄に投稿しておられ、その選者の三浦十八公さんの紹介で『ホトトギス』にも掲載されまして、同じ九州に久女という者がいることを知って手紙をくださいました。

 え、わたくしのご返信が、

 ――うらやましいほどの達筆。

 であったと、汀女さんが?

 少しも存じませんでした。

 何でも一所懸命にならずにいられないわたくしは、かりにも俳句を詠むからには書を疎かにできないと考えまして、小倉師範の教師で、日田井天来の流れを汲み、気迫のこもった雄渾な墨跡がすてきな石橋犀水先生に就いて学んでおりました。

 

 つぎは久保より江さん。

 わたくしより三歳年上のより江さんについては先述のとおりでございます。

 補うとすれば、九大医学部に耳鼻咽喉科を創設された久保猪之吉先生のお人柄もあってか、男尊女卑の当時には珍しく、ご夫婦仲が睦まじかったことでしょうか。

 猪之吉先生は病弱なより江さんをたいそう大事にされ、風邪の罹患を恐れて冬は玄関の電話口にも立たせず、外出も禁じられたと語り草になっておりました。

 ――おかげで温室の植物、もしくはモヤシみたいな人間になりました。

 とは、照れ隠しを込めたより江さん一流のお惚気でございます。

 

 もうひとりは竹下しづの女さん。

 先述のように、しづの女さんはより江さんと同い年で、福岡県行橋市の生まれ。

 小学校訓導から小倉師範学校教諭になり、音楽と国語を担当されておりました。

 とりわけ漢文に堪能でおられ、さばさばした男勝りの性格の方でございました。

 農学校教師のご夫君の勧めで俳句を始められ、吉岡禅寺洞さんのご指導で『ホトトギス』に投稿を始めると、わずか四か月で巻頭を獲得されたのが、例の豪胆な句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」)でございました。

 この句についての自句自註がまた揮っておられます。


 

 ――すなわちこの句に現われている女は(上流婦人でも下流の無自覚、無知な女でもなく)現今の過渡期に半ば自覚し、半ば旧習慣に捕えられて、精神的にも肉体的にも非常なる困惑を感ぜしめられている、中流の婦人のある瞬間的の心の叫びであります。

 

 いまの中流社会の母となる人の重荷はどんなに過重なことでしょう。卑近に例をとっても、三度の食事、室内外の掃除、洗濯。外で働いてくる主人にも慰安を与えたし。子どもも教育したし、自分の修業もしたし、曰く何、曰く何と、体が三つも四つもあっても及ばないほどの仕事を抱えて、女中難で雇人もなし。

 

 体も心も綿のごとく疲れて眠っている短夜の最中を、乳不足の児は、乳を強要して泣く。眠さは眠し、半ば無意識に自分の乳首をあてがった。しかし、出ない乳は児の癇癪を募らせるばかり。火のつくように泣く。「エッ、ウルサイ」とはじめて正気に目覚めてみると、そこには可愛い児が泣いている。ヤレヤレお乳が飲みたくなったのか、もうそんな時間かと、疲れた体を起こして哺乳の支度にとりかかってやる。何という惨めなことでしょう。神さまが女に児を愛する本能をくださらなかったほうが女のためにはあるいは幸福かも知れません。この「エッ、ウルサイ」という瞬間の表現がこの句です。


 

 何とまあ、言いも言ってくれたりでございます。

 こういう豪放磊落な方には太刀打ちできません。

 さすがのわたくしもノックアウトでございます。

 


11

 

 家庭の外ではきらきら楽しい、お互いを高め合う交流が始まっておりましたが、外の生活が充実すればするほど、家庭では夫との諍いが激化してゆきました。


 わたくしは夫を格別きらいというわけではなく、

 ――根が単純で、腹黒いところがない、わかりやすいタイプ。

 そう思い、善意の人として理解していたつもりでございます。


 でも、勤め先の小倉中学の生徒のあいだで、

 ――バネさん(ひょこひょこ飛び跳ねるように歩くことから付けられたニックネームだと、当の本人が話してくれました)は家庭的に不遇なんだそうだ。

 そんなうわさが立ちまして、小学三年生の昌子が中学の生徒から「バネさん」とからかわれ、執拗に通せんぼされ、泣いて帰るという事件が発生いたしました。

 大勢の男子生徒が寄ってたかって無力な少女を脅かすとは、

 ――教師なんて何て因業な、何ていやな職業なんだろう。

 わたくしは日頃の不満を募らせずにいられませんでした。

 

 争ひやすくなれる夫婦や花曇り

 或時は憎む貧あり花曇

 ホ句のわれ慈母たるわれや夏痩せぬ

 

 真綿でくるむようにして育てられた娘時代は、貧乏がむしろ高潔の証しのように見えたものでございますが、まこと貧乏ほど人の心を蝕むものはございません。

 貧すれば鈍するとは、よく申したものでございます。

 もって行き場のない夫婦の怒りは、互いにぶつけ合うしかございませんでした。

 

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