第1章 信州人の血を引く南国育ち



 

 ええ、もちろん承知しておりますよ。

 以前からあなたさまがわたくしの墓にひそかに詣でてくださっておりますこと、そして、そのたびに長いこと、わたくしに語りかけてくださっておりますこと。


 丸の内中学校のグランドを巡る桜の蕾が一度に咲き初め、薄桃色の蘂を降らせ、葉桜から万緑の滴りへと春が深まり、土手一面のマーガレットが微風に揺れ、西山の上に夏の雲が立ち上り、ジョギングや懸垂の生徒たちの周囲に吹く風に少し堅い芯が混じり始めたと思うと、早くも高原都市の空には鰯雲がたな引き始め、連山の紅葉が里へ降りてくると、あたり一面の枯色に粉雪混じりの寒風が吹きすさぶ。


 早いもので、わたくしがこちらの世へ参りましてから七十四年、夫の生家である奥三河の墓地から、父の出身地の松本に分骨してもらって六十三年目になります。

 ありがたいことに、そんなわたくしの小さな墓を全国各地から訪ねてくださる方があとを絶ちませんが、あなたさまのように頻繁な方はさすがにお珍しいですよ。

 

 さようでございますか。

 生前、俳句修業のために深く傾倒しておりました万葉集にゆかりの地、太宰府の精神病院(筑紫保養院)の寒い一室で、夫にもふたりの娘たちにも句友たちにも、だれひとりにも看取られることなくわたくしが息を引き取りましたのは、終戦からおよそ半年後、昭和二十一年一月二十一日午前一時半のことでございました。

 それからちょうど三年後、すなわち、昭和二十四年の、それもわたくしの命日の翌日にあたる一月二十二日の未明に、寒い産院であなたさまがお生まれになった。

 ――まことに勝手ながら、そんなところにも仏縁を感じております。

 なかば本気で思ってくださっているのですか。

 いいえ、こじつけでも何でもございませんよ。

 仏縁とはそういうものでございましょうから。

 

 

 

 そういえば、クルタンさんをご存知でいらっしゃいますよね。

 あら、わたくしとしたことが、そんなおかしな言い方をして。

 生後三か月の赤子から、あなたさまが手塩にかけてお育てになったワンさん。

 末のお子さんとも思っていらっしゃる、愛し子でいらっしゃるんですものね。

 そのクルタンさんとわたくし、こちらでは大の仲良しなんでございますのよ。


 あるとき、風にそよぐ秋桜の花群れに黒い尻尾がちらちらいたしましたので、

「あら、そこにいるのは、どこのいい子ちゃんかしら?」

 ちょっと声をかけてみましたら、すぐに走り寄って来てくれました。

 全身真っ黒な中型のワンさんゆえ、一見、強面に見えがちですが、とても心根のやさしい子なので、わたくしたちはたちまち気の合うお友だち同士になりました。


 つい先日も、わたくしのために、濃紫の美しい鉄線の花を届けてくれました。

 わたくしが紫色が好きなこと、どうしてわかったのでしょう、不思議ですわ。

 え、おつむのほうはいたってぼんやりだけど、動物的勘はすぐれている?

 何をおっしゃいますか、決してぼんやりなんてことはございませんよ。

 それも飼い主としての愛ある謙譲と受け留めさせていただきましょう。

 でも、たしかに動物的勘は、人一倍、いえ犬一倍すぐれていますわね。

 え、あなたさまも?

 ま、あんなことを。

 人間より動物が好き。

 そうおっしゃりたくなるお気持ち、わからないではございませんが。

 

 

 

 仏縁と申せば、もうひとつ。

 一度だけ、ちらっとお目にかかったことがございますのよ、こちらの世で。

 だれにって、そちらの世で因縁の深かった高浜虚子先生にでございますよ。

 寒そうな懐手で歩いて来られましてね。

 はじめはどなたかわかりませんでした。

 だって、すっかり小さく縮んでしまわれて、肌は黄ばみ、皺だらけで、温顔とも眼光鋭いとも称された人相まで、まるで別人のように変わっておられましたから。

 ――ひとりの天才に対する九百九十九人。

 として、その他大勢視されたことを恥とも思わない圧倒的多数の凡人俳人に教祖のように崇められる一方、勇敢に反旗を翻した方々や客観的立場の評論家からは、

 ――老獪、冷酷、ずる賢い。

 などと評されながらも、日本の俳壇を牛耳る一大結社『ホトトギス』の、さらに言えば、日本の文学界の首領(ドン)として鬱勃たる勢力を歴然と、あるいは隠然と示され、アンチ虚子先生、アンチ『ホトトギス』派に一歩も譲らなかった当時の強気な面影は、どこをどう探しても見つかりませんでしたからね。

 わたくしの姿を認めると、ちらっと会釈をされただけで、なにもおっしゃらず、毒々しいほど真っ赤な曼珠沙華の園に、すうっと消えてゆかれましたよ。

 ええ、足もとのほうからすうっと。

 そう、絵に描いた幽霊みたいにね。


 いつのことでしたか、はるばる九州の小倉から出て来て、東京の丸ビルにある『ホトトギス』事務所を訪ねたとき、並み居る取り巻きから居留守をつかわれ、

 

 帰朝翁横顔日やけ笑み給ふ

 

 そんな悲しい句を詠んだことがあったなんて、いまとなっては信じられません。

 わざわざむごい扱いを受けるために、先輩や朋輩や後輩の俳人たちから謗られるために、田舎の貧乏教師の妻としては高価な薔薇の花束を持参したなんて、ねえ。

 

 ですから、仏縁はともかく、えにしほど当てにならないものはございませんよ。

 たとえ腐れ縁のような取るに足らないえにしだったにせよ、そちらの世では積年の交流のあった方々が、こちらの世では赤の他人よりもっと他人であったり、逆にクルタンさんのように無縁だった存在が、無二の親友になったりするんですから。

 あの方に寄り添う門人?

 さあ、どうでしょうか。

 いまのわたくしは、そのことについて氷の欠片ほども関心がございませんゆえ。


 あなたさまもいずれはこちらの岸辺に赴かれる身。

 その節は膝を交えてゆっくりお話いたしましょう。

 もちろん、クルタンさんもご一緒に、三人でね。


 え、厚かましいですが、その節は俳句の指南をしてほしい?

 もちろんですとも、わたくしでよろしかったらいくらでも。

 こう見えて、わたくしは人さまのお世話が好きな性質で、ややもすれば、自身の作句より、手ほどきした後進の成長によろこびを感じるほうでございますから。



 

 それはそれといたしまして.

 ゆっくりできるとおっしゃる今日は、なにからお話いたしましょうか。

 生真面目で律儀な信州人の血を引くわたくしは、いまの言葉で申せば、

 ――カオス(混沌)。

 というのでしょうか、時間的経過が交錯する無秩序が不得手な性質でございますから、そちらの世に生を受けたときから順を追ってお話させていただきましょう。

 え、いまの言葉をよくご存知?

 いやですわ、お忘れですか、

 ――久女は学ぶことが好きだった。

 生前のわたくしを知る人たちが、皮肉混じりに口を揃えておりましたでしょう。


 ついでに申せば、

 ――結論から先に語る女だった。

 とも言われておりますから、反省をこめた結論を最初にお話しておきますね。

 

 わたくしがあそこまで追い詰められたキーポイントは、

 ――内集団バイアス(贔屓)の法則。

 であったと、いまにしてしみじみ思うのでございます。


 俳句結社という事業の主宰者は、集団内に自ずから生まれやすい身内贔屓を上手に利用し、力をつけた同人がひそかに賛同する会員たちを引き連れて独立したり、他の結社に流れたりしないように、隅々まで不穏な動きへの目配りを怠らない。

 それが利益追求企業の経営者としての手腕である、と。

 生殺与奪を一手にする絶対的支配者としての首領に忖度した大軍は、多勢に無勢の卑劣を恥ともせず、目障りな異色の一羽のやわらかい部分――目や腹や尻――をつつきまわし、羽を毟り取り、容赦なく蹴散らかして籠の外へ追い出そうとする。


 なのに、知らないうちに異端と見做されていた一羽は、

「待って! わたくしという鶏の居場所はここなの、ここしかないの!」

 恐れ慄き、全身で訴え、必死で籠の隙から中へ入れてもらおうとする。

 そんなことをしてもだれも喜ばず、庇おうとする仲間すらいないのに。

 とんでもない勘ちがいに気づかず、

 ――それもこれも自分の努力が足りないせい。

 ひたすら思い込み、滑稽な哀願を懸命に試みつづける、みすぼらしい羽抜鶏。


 わたくしが大宰府の精神病院で不慮の死を遂げてのち、

「お母さんをどうしてあんなところへ閉じこめたの?」

 父親を問い詰めずにいられなかった長女の昌子が、

 ――何が何だか核心のつかめない問題で、わたしたち一家は、へとへとになって悩み疲れ果てていた。

 と記録した、その訳のわからない喧噪から永久に解き放たれてみて、初めて気づいたのでございますよ、一連の出来事の根底を成す、そら恐ろしいものの正体に。



 

 ついでに、結論めいたことをもうひとつ。

 採用句の多寡にこだわり、毎月、一喜一憂していた『ホトトギス』の雑詠欄。

 いまから思えば、あれほど阿呆らしいことはございませんでした。

 だって、そうでございましょう?

 その月に寄せられた膨大な句の中から、虚子先生のご一存で採不採が決まる。


 申しては何でございますが、

 ――選者の器。

 すなわち、その人物の知見、感受性、物事の指向性、嗜好、さらには、その日の体調や機嫌、もっと申せば、文化の名を隠れ蓑にした利益追求企業である結社内の力関係のバランスを図るための政治的配慮といった、きわめて曖昧にして主観的、胡散くさいものが、本来、公正であるべき選考の基準とされるわけでございます。

 そう考えてみますれば。 

 虚子先生のご判断が、絶対的な尺度であろうはずがございません。

 なのに、同人も会員もその月の『ホトトギス』に自分の句が何句採用されたか、結社内での位置はどうか、そのことだけが最大の関心事なのでございますから、

 ――大人の見識として如何なもの?

 いまにして思うわけでございます。


 たとえば、わたくしの句の場合がいい例でございましょう。


 谺して山ほととぎすほしいまゝ

 

 何度も英彦山に登り、最後に下五が天啓のごとく降って来てようやく実ったこの句を、わたくしはまず『ホトトギス』(昭和六年一月号)に投句いたしましたが、虚子先生のお目には適わず、雑誌に掲載されることはありませんでした。

 ですが、同年の春、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社共催の「日本新名勝俳句」に応募しましたところ、最高賞の帝国風景院賞金賞をいただいたのでございます。

 同賞の選者は虚子先生でございました。

 何とも不思議なお話でございましょう?

 

 じつは、そこにはこんな仕組みが隠されていたのでございます。

 両新聞社が指定した日本新名勝百三十三景を詠むことを条件にしたこの賞には、全国各地から、じつに十万三千二百七句の投句があったそうでございます。

 この空前絶後の応募数自体が、当時の虚子先生の圧倒的な人気と権勢ぶりを如実に示しているわけでございますが、それはまあ、ともかくといたしまして。

 あまりの数の多さに新聞社の事務作業が追いつかず、そのころはまだ虚子先生のもとにいらした水原秋櫻子さんや日野草城さんたちに予選の手伝いを命じられた。

 そのどなたかが推してくださった句を、本選で虚子先生もお採りになった。

 と、こういう次第でございます。


 入賞者の名前が明らかになったあと、でございますか?

 いえ、ひと言もございませんでしたよ、わたくしには。

 そういう方でございますから、虚子先生という方は。

 のち、十年一日のごとき客観写生主義に飽き足らず、虚子門下を去られた方が、

 ――鋼鉄の心臓。

 旧師をそのように評されたそうでございますが、まさにまさに、まさにまさに。


 

 

 後年、どんなにお願いしても虚子先生はわたくしの句集の序文だけは書いてくださらない、つまりは出版自体をお許しにならないのだと思い知ったとき、いつか、だれかが、わたくしに代わって念願を果たしてくれるときのために、次兄の月蟾に俳句の手ほどきを受けてより二十数年作りつづけてきた句稿の整理を始めました。

 そのとき、わたくし、はっきりとわかってしまったのでございます。

 

 ――虚子選で『ホトトギス』に採用されたものにも駄句、凡句もあれば、逆に、採られなかったものにも、ときを超えて燦然たる光を放ちつづける佳句がある。

 

 時間の濾紙。

 公正な天下の審判が、句の価値以外のすべてを剥ぎ落としてくれるんですね。

 それと同時に、

 ――そうだったのか!

 はっと思い当たりました。

 すなわち、組織の要である付和雷同に馴染みきれない、厄介な性質のわたくしに句集の出版を許せば、せっかく虚子先生がお採りくださった句でも、冷静な自選によって容赦なく省き、またお採りにならなかった句からも躊躇なく採用するなど、ホトトギス王国の最高権力者の顔をつぶすことを、平気で仕出かすにちがいない。

 さようでございます。

 王さまに公然と反旗を翻した、かつての門下生の秋櫻子さんたちのように。

 絶対君主の虚子先生、それだけは許せないと思われたのでございましょう。

 

 拙いながら俳句芸術に生きた身として、 

 ――生涯にただ一冊の句集を上梓したい。

 ささやかな志も果せないまま客死同様の最期を迎えることになったわたくしが、生前、それとなく後顧を託しておいた娘の昌子が、虚子先生の序文をいただくために作家の川端康成さんにもご足労を賜るなど、一所懸命に奔走してくれました。

 その結果、もはや久女句集の出版を阻止することはできない、これ以上の妨害は俳壇はもとより文学界全般、さらには一般世間の目が許さない、のっぴきならない状態に追い込まれてから、ご自分のなされようを正当化するための布石として、

 ――『墓に詣り度いと思つてをる』

   『国子の手紙』

 随筆とも創作ともつかない、恣意と謎だらけの奇妙な二編を発表されました。


 どんなに巧みに体裁を繕ってみても、いえ、そうすればするほど、矛盾と破綻が露わになる悪あがきを草葉の陰から拝見しておりますと、まことに失礼ながら、

 ――人物、ちっちゃ!

 ということになるわけでございましてね、ほほほほ。


 

 

 そんな俗物中の俗物になぜあそこまで心酔し、神のごとく崇拝し、この師なしにはわたくしの俳句芸術は完成しない、いえ、わたくしの存在そのものが成立しないとまで思い詰めていたのか、わがことながら、いまとなっては訳がわかりません。

 不明を恥じ入るばかりでございます。

 

 先述の虚子先生の偽証に着想を得たと思われる、二編の小説と一編の戯曲、


 ――松本清張『菊枕』

   吉屋信子『私の見なかった人』

   秋元松代『山ほととぎすほしいまゝ』


 設定された女主人公への悪意という符牒がみごとなまでに通底する三編の創作につきましては、針小棒大をものともせず、捩り飴のように真実を枉げ、申しては何でございますが、下賤な読者の興味を惹くよう、あえてドラマチックに盛り上げたのでございますから、物書きとしての筆が滑ったで片付けてもらっては困ります。

 抗弁できない身を一方的に傷つけた罪はきわめて重いと存じます。


 おそらく、虚子先生の文章を通じて久女という風変わりな素材を知ったとき、

 ――鉱脈を探り当てた!

 共通の感興を抱かれたのではなかったでしょうか、お三人がお三人ともに。

 その結果、人品高潔とは言いかねる俳人仲間(わたくしが俳句の手ほどきをした後輩女性も含め)による虚実入り混じった「証言」にも後押しされて、いわゆる、

 ――久女伝説。

 なるものが生まれるべくして生まれた。

 そういうことではなかったでしょうか。

 

 ですが、振れすぎた錘はかならずもとへもどると申します。

 後年、冷静沈着な作家の目で丹念に取材された二編の好著、


 ――田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる……わが愛の杉田久女』

   坂本宮尾『真実の久女 悲劇の天才俳人 1890-1946』


 により、悪意あるうわさを根底から覆す真実をものの見事に解明していただき、おかげで「久女ルネサンス」の到来とまで言われるようになったのでございます。

 おふたりの作家にはお礼の申し上げようもございません。

 それに、あなたさまもいまの時代ならではのネット小説というツールを駆使し、七十余年前に没した身のさらなる名誉回復につとめてくださっております。

 いまにしてわたくしは無上の果報者と思っております。

 

 ついでにもうひとつ付け加えさせてくださいませ。

 苦労をかけた昌子が、のちに大勢の聴衆の面前で、


 ――母の久女は、気持ちに卑しいところがまったくない人でした。


 晴れやかに語ってくれましたことは、わたくしの大きな誇りでございます。

 わたくしの宝物は俳句にあらず、断然、ふたりの娘たちでございますから。



 

 さて、そろそろ本題に入らせていただきましょうか。

 わたくしの経歴の当初を年譜式に書き出せば、つぎのようなことになります。

 

 明治二十三年(一八九〇)五月三十日、鹿児島市で父・赤堀簾蔵(長野県松本市出身、鹿児島県庁勤務の官吏)、母・さよ(兵庫県出石町出身、華道教授)の三女として誕生。本名・ひさ。兄二人、姉二人。夭逝した長姉のあとに生まれた女子に両親は、鹿児島の旧藩主島津久光公(享年七十一)にちなみ、長寿を祈って命名。

 

 明治二十八年(一八九五)、五歳のとき、父の沖縄那覇県庁への転勤により那覇へ転居。同三十年四月、小学校へ入学。五月、台湾の嘉義(のちの台中)に転居。長兄は鹿児島の造士館に、次兄は沖縄の中学に残る。過酷な旅の果て、病弱だった弟の信光没。末っ子になったひさも、次姉の静も、マラリアに罹患して苦しむ。

 

 父の転勤に伴い、南国の土地三か所を転々として育ちましたが、いたって好奇心旺盛で観察の好きな少女でございましたので(すぐに夢中になる後年の兆しが早くも見えておりますでしょう?)、その暮らしが決していやではありませんでした。

 ただひとつの、かつ最大の痛恨は、幼い弟の死でございましたが。

 くだくだしくお話するより、のちに執筆した随筆から抜粋いたしますね。文章の一部に、現在のそちらの世ではちょっと、と思われる表現が混じっているかもしれませんが、発表時の時代背景を考慮していただき、大目に見ていただければ、と。

 

 

 

 ――年若な官員さまであった父は、母と幼い長子とを神戸に残して、ひと足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で、命からがら、燃えつつある鹿児島を脱出して桜島に逃げ、民家の床下に隠れて芋粥をもらったり、山中に避難しているうち官軍の勝ちになったので、県の書類だけを背負っていたのを持って、碇泊中の軍艦にたどり着き、ようやく命びろいしたという。

 

 母たちもその翌春かにはるばる鹿児島に上陸したときはただ真っ暗な焼野原で、一軒の宿屋もなく、漁師の家にひと晩泊めてもらったが、言葉がわからず恐ろしかったそうである。だが、十七年も住みつき、すべてに豊富な桃源のような薩摩でわたくしの兄姉たちはみな鹿児島風に育てあげられた。わたくしは長姉の死後三年目に生まれたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ、長寿するようにと命名されたものだとか。

 

 いったい、わたくしの父は松本人。母は但馬の出石の産なので、こじつけのようではあるが、わたくしが南国に生まれ、その後また琉球、台湾としだいに南へ南へ渡って、絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長したことも面白く思われる。

 

 母から、お稚児という牛若丸のような髷にいつも結ってもらって、友禅の被布を着て、おとぎ文庫の因幡の白兎や松山鏡を読みふけりながら、盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だったわたくしは、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町に住み馴れて、年ごとに柑橘の花を愛でるのである。

               (「朱欒の花の咲く頃」大正九年十月三十一日)




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 あらためて読み直してみますと、わたくしの散文、ことに初期に書いたものは、

 ――こなれない。

 と申しますか、ただ思いついたままをだらだら認めただけのような、まとまりのない印象でお恥ずかしゅうございますが、いまさらどうしようもございません。

 しばらくお付き合いくださいませ。

 

 ――九州の最南端の海辺の町でわたくしが生まれたのは、香りの高い夏蜜柑の花が碧緑の葉かげにいっせいに咲き出す五月の半ばであった。幼時の覚束ない記憶。そこには、年や月や日などという、タイムの流れに支配された観念は少しもなく、ただ非常に強い印象の断片が色彩濃く存しているばかりであった。

 

 琉球島は非常に湿気と霧が多かったように覚えている。そして、陰鬱なほど茂った榕樹(ガジュマル)の大きな丸い暗紫色の影は強烈な太陽に灼けた道路の上に、城壁のようにめぐらされた分厚な石垣の上に覆いかぶさって、その無数の日の斑をチラチラとそこいら一面にひらめかしていた。紫色に熟した小さい木の実は、ぽたぽたと地上につぶれていた。


わたくしの家は那覇の大道路に沿って高い石垣を巡らせたもののひとつであった。草や木の茂みの中には、恐ろしい毒蛇や、色彩の美しい大蜥蜴が隠されていたし、不思議の熱病、焦げつくような太陽、それらのものはわたくしたちをどれほど恐怖させたことであったろう。


 低い天井には、灯るころから守宮(やもり)がゾロゾロとたくさん這いまわっていた。長い箒の先でドンとひとつ天井を突くと五つも六つもポタポタ落ちてきた。畳の上で叩きつけると、胴と尾の付け根から別々に切れて、ピクリピクリと気味わるく左右に歩いてゆく。毎晩、毎晩、守宮取りをしても、守宮はあとからあとから増えて、わたくしは毎夜寝るのが恐ろしかった。ハブは家の中の鼠を捕りに這入ってくるので、蒸し暑い夏の夕方も、早く雨戸を閉めてしまうのであった。

 

 緑青色の葉かげには、目玉の黒い芋虫がいてわたくしを脅かしたり、遊んでいる眼前の芭蕉の幹に、斑点のある艶々しい蛇の胴がヌルヌル動いたりするのは毎日のことであったが、おしまいにはわたくし共もさほど恐ろしがらないようになった。

 

 毎日毎日を城壁のような石垣に包まれて外部と断たれて暮らしていたわたくしがただひとつ、外界のありさまを知り得る機会というのは、石垣の道に面したお台場に上って、もの珍しい四辺のありさまを眼鏡でも覗くような心持ちで見下ろすときであった。


 そこには門前のごチャゴチャした琉球人の小家や、石の井戸、裸足で豚の生きたの、野菜、魚の桶、なんでも頭にのせて売り歩く女たちや、顎髭を生やして銀の笄(こうがい)を挿した悠長げな男たちの行き来するのも見えたし、ときには奇妙な葬式の列が泣きつれて通るのも見えた。


 わたくしの家と同じように石垣をめぐらした隣の門には、大きな栴檀(せんだん)の樹が薄紫の花をどっさりつけて、下を通る牛の背や、反物を頭にのせた琉球の女たちの上に、その薄紫色をこぼしているのも見えた。

           (「南の島の思い出」大正七年『ホトトギス』七月号)



11

 

 え、色彩感覚が抜群でいらっしゃる?

 作者の興奮が生々しく伝わってくる?

 自分ではつまらないものだと思っているのでございますが、せっかくそう言ってくださるのですから、ここは素直にお言葉をちょうだいしておきますね。

 

 ご承知のとおり、若いころのわたくしは作家を目ざしていた時期がございます。

 さようでございます、俳句という最小の短詩型に限界を感じられた、一時の虚子先生のように。

 こうして自分の書いたものを読み直してみますと、たしかに微に入り細を穿った情景描写は、われながら、なかなか迫力があると思わないでもございません。

 ですが、最後まで山場をつくらず、平板なまま終わっても一向にさしつかえない随筆ならともかく、まずストーリーテラーの資質が求められる小説家というのは、ちょっと、いいえ、かなり無理な願望だった、わたくしにはやはり俳句という最短の文芸しかなかったのだと、自嘲めいたことを思ったりもしております。

 自惚れ屋、自信家と言われたわたくしらしくないですか? ふふふふ。

 

 ――弟の死後、わたくしども一家は県庁の椋の木蔭を去り、竜眼(リュウガン)の樹のある家へ移って行った。そこは鄭成功かなにかを祀った大きな廟のあとで、表のほうは幅の広い土人町の四辻に位し、裏は土人の小家や草っ原を隔てて城壁に対していた。土で積み固められた背の低い土人の家ばかりの中にあってこの赤煉瓦の宏大な建物は、その丸屋根の上に抜きん出て遠くから目標とされていた、巨大な竜眼の樹を擁していることによって、いっそう見栄えがして見えた。

 

 わたくしどもの住居と定められた「第二の棟」の門を出たところには、かなりたっぷりと畑地があった。そこには砂糖黍も植えられてあるし、一尺余もあるような長胡瓜、長茄子の木、背の高い、一年越しに茂った胡椒木、赤い花が咲いて青い実のなる山桐も、ニラも、太陽の強い光を吸って異常な発育を遂げていた。

 

 竹垣には、台湾昼顔の、牡丹色に近い花が日盛りの強い影を葉の中に埋めているのや、鳥兜のような色と形をした毒々しい艶の花が咲いたりしていた。庭の隅には仏手柑(ぶっしゅかん)が、樹の小さな割にたくさん珍奇な大きな実をつけているのもあった。愛児を失った父は、役所から帰るとすぐに上衣を脱いだままの姿で、夕方までこの花園とも畑ともつかぬ茂りの中にたたずんで暮らすことを唯一の慰みとしていた。

 

 わたくしの家のじき裏手にある土人の家の豚が、ときどき、畑を荒らしに来た。畑の入り口には、あってもさほど用をなさぬようなご粗末な竹の戸がちょっと押し付けてあるばかりであったので、豚の群れは芋のような短軀をヨチヨチと小走りにやって来て、短いしっぽを振りながら、グーグーギューギュー、奇妙な吶喊(とっかん)をあげつつ、押し合いへし合い、狭い木戸口を畑へなだれ入った。

 

 やっと家の者が気づいて、それというので横手の門から飛び出して行くと、豚は逃げ場を失って、大まごつきにまごついて、入り口の木戸を扼されているため、昼顔の巻きついている垣根を無理やりに押し破って、グーグーギューギュー、危っかしい足つきで逃げてゆく。畑の青物はさんざんに豚に荒らされ、朝顔の鉢はころげてしまい、やわらかい豆の葉や草花の芽でも出ていようものなら、みな無惨に踏みにじられてしまっていた。

 

 いったい、領台当時、あちらに行っている日本人の中には、何の考えもない人々がいて、理も非もなく、むやみに敗戦国たる台湾人たちをいじめ、二言目には打ったり蹴ったり、売物なども無茶な値で奪うように買い取るようなことさえあって、表面に土人たちは懼れているようでも、内心には恨み、疑い、なるたけ売物でも掛け値をたくさんにして、騙してやろうというふうの態度であった。

 

 しかし、わたくしたちの父母は、すべての土人たちに対して無茶なことも言ったりせず、召使いの寮外にも、もうひとり県庁からよこされてある水汲みの土人にでも親切にしてやったので、嘘の多い、盗み心のある土人たちも、割合に正直にしていた。その中でも寮外は十四くらいの男の子で、城外の貧しい家の子であったが、土人に似げないすばしこい、気の利いた者で、日本語もよくわかるし、父母のやさしいもてなしにすっかり信頼して、よくまめまめしく働いてくれた。

 

 父はよく、台北や台南地方に御用で出張した。そういうときにはたいてい護衛の巡査が三人ぐらいずつ鉄砲を担いで、大形げに父についてゆくのであったが、母をはじめわたくしどもは、父の帰宅するまでは、いろいろと安否を気づかって待ちこがれるのが常であった。ひとつには、さまざまのうれしいお土産を待つためでもあった。赤い鼻緒の下駄や、ビラビラのついたつまみ細工の簪(かんざし)、千代紙、ガラスの箱に入っているお鍋やお皿など台所用具の玩具は、わたくしを大よろこびに酔わせた。  (「竜眼の樹に棲む人々」大正九年『ホトトギス』二月号)



12

 

 こうしてところどころ抜粋してみますと、いったいにわたくしの文章というものは、センテンスが長いと申しますか、切れ目なしに一気に書き継ぐと申しますか、一途な気性そのままというようなところがございますわね。

 あらためて嘆息をつく思いでございます。


 もっとも、少しばかり言い訳させていただきますとね、当時の文芸誌にはこんな調子のものが少なくなくて、なまじ読みやすいものよりも、難字や漢字が多いほうが文芸としてすぐれていると見られたりしておりました。

 もったいぶったと申しますか、肩ひじ張った書き手の投げた球を受け取る読み手のほうもまた同様でございましたので、何でもかんでもお手軽がよしとされるいまの世のように、簡潔で平易な文章が好まれたわけではございません。


 あら、いやですわ、わたくしったら。

 若書きの拙さに、つい弁解めいてしまいました。


 でも、あれでございましょう?

 世間全体が悠長にできていたあの時代ならともかく、効率一辺倒、何事も手早く済ませなければならない現代の小説は、前ふりと申しますか、出来事が展開する前の風景描写がやたらに長くては、読者がついて来てくれないのでございましょう?

 よくご存知でいらっしゃる?

 そちらの世で果たせなかった夢をこちらの世でなどという気はさらさらございませんが、みなさまがおっしゃるように学び好きなわたくしですから、未練がましいとは思いつつも、文芸関係の情報にはつい触手を伸ばさずにいられないのです。

 

 ――わたくしの体をめぐる多感の流れ。それはあの、桔梗色の連峰をめぐらした銀色の桑の海、信濃平に育てられた父と、裏日本の淋しい海辺に生まれた母とから伝えられたものである。桜島の噴煙絶えぬ南国の海辺の町に蜜柑の白い花が薫ずるとき、わたくしは初めて現実界のものとなった。

 

 わたくしには故郷もなく、幼馴染みもない。父母に連れられて東へ移り西へさすらい、あるときは地震うる町に、洪水を怖れ住み、あるときは竜宮のような絶海の孤島へ渡って行った。そこにはエメラルド色の深い海が島をめぐって果てしもなく湛えられ、毒蛇の棲む榕樹の林は陰鬱な沈黙を守り、灰色の霧の底には、深紅の花が奇蹟のように咲いていた……。

 

 鮑。菊貝。桜貝。青い魚や赤い藻や、わたくしのために解放された海の宝物をほしいままに漁りつつ、翡翠色した潮を浴びつつ、わたくしが無限の謎の世界に幼い驚異の目を開き得たのもこの島であった。多感な空想児だったわたくし。まだひたい髪の短い五つ六つのころである。

 

 運命の手はさらに南へ南へとわたくしを移らせて行った。わたくしは鱶(ふか)の海を渡って、椰子や想思樹の茂る熱帯島に住んだ。焼きつくような日輪と、石油色した島の水は、わたくしの皮膚を間もなくチョコレート色に変じてしまった。

 

 十九の年の夏、永い間の憧憬であった父の故郷へ行った。その藍色の信濃の山の美しさ、山を包む霊ある雲のたたずまい、わたくしはもう何もかも忘れ、山の神秘にとらえられてしまった。

 

 その後、わたくしは栄華も富も、都会も、あらゆる現実界の光輝も幸福も捨てて、自ら矢矧川(やはぎがわ)の上流の淋しい淋しい山中をわたくしの墳墓の地とすべく、思いがけない宿命の手にわれから投じていった。だが、そこにはわたくしの希望む深刻な色の山も神秘の森もなく、ただ平凡な山と水。暗い因習と無智な安価な生活とが、わたくしを取り巻いて渦巻くのみ。わたくしの胸は失望と悔恨とにうごめいている。

 

 わたくしは願う。かの千年の森林と、千尋の谷を埋むる白雲とを包含する深山に、わたくしはただ一塊の土くれのように、山の神秘に抱かれて永遠の死の眠りを得たいのだ。けれども、かよわいわたくしに、ああ何ができ得ようか。わたくしはもう宿命の大纜(ともづな)に体中をぐるぐる巻きにされて、千尋の深淵にズドンと投げこまれたも同様、胸を衝く刃もない……。

               (「思い出の山と川」大正八年九月「曲水」)



13

 

 わたくし、たったいま気づきました。

 後年、英彦山に登ったときに、天啓のごとく閃きを得たと想いこんでいた、

 ――ほしいまゝ。

 の下五でございますが、この随筆で、すでに何気なくつかっておりますわね。

 こうして見ますと、本質的な人間の中身は変わらないのでございましょうか。

 

 まあ、それはともかくといたしまして。

 先述のように、これでもわたくし、若くて畏れ知らずだったころは、小説を書く作家になりたいと、かなり本気で思っていたんでございますのよ。

 でも、ふとした瞬間の閃きに恵まれさえすれば、わずか数秒で一作品が完成することもある、あえて申しますが「お手軽」な俳句とちがい、いまの言葉でプロットと申すのでしょうか、物語としての起承転結を整えた十万字からの小説を仕上げるには、それなりに修練を積まねばならないのはもちろんですが、それより何より、天賦の才というものがどうしたって必要でございましょう。

 

 わたくしが筑紫保養院で没した年ですから、終戦の翌年でございます。

 昭和二十一年も暮れようとするころに、桑原武夫さんという評論家が、

 ――俳句第二芸術論。

 なるものを総合誌『世界』(岩波書店)に発表されました。

 清濁併せ呑むと言えば聞こえがよろしいんですが、人間界の塵芥のような俗人が過半を占める集団として、本来の芸術以外の不純物が入りこみやすい性質を宿命とする結社の組織に、まるで繭玉の中の蛹のように守られていた主宰者に、はっきり申せば『ホトトギス』の虚子先生に喧嘩をお売りになったのでございます。


 口幅ったいことを申すようでございますが、じつはわたくし、それより以前に、俳句という最短の表現形式に芸術としての疑問を抱いていた時期がございます。

 年下の同朋の秋櫻子さんや草城さんたちと同じく、宗教のお題目めいてきていた『ホトトギス』の客観写生に飽き足らなくなったときのことでございます。

 悩みから自由になりたい一心で、散文への転身も考えないではなかったのでございますが、こうして冷静に過去の文章を読み直してみますと、作家に不可欠な、

 ――自他をクールに観察する目。

 をもたないわたくしには、やはり無理だったことが、しみじみと感得されます。


 ともあれ、あのころの日本人としてはずいぶんと風変わりな生い立ちで、それがわたくしの性格に影響を及ぼしたこと、おわかりいただけましたでしょうか。

 

 さようでございますか、あなたさまは拙いわたくしの随筆をお気に召された?

 ことに豚を追うくだりは、久女さんがこんなユーモリストとは知らなかった?

 いやですわ、あんなことをおっしゃって。

 わたくしという人間は、本質的におもしろいことが大好きなんでございますよ。

 ですのに、どうした巡り合わせか、陰鬱だの、偏執だの、ナルシストだのという残念な印象ばかり広まってしまいましてねえ、まったくやれやれでございます。


 先刻の第二芸術論にもどりますと、いっときは桑原武夫さんのご指摘のとおり、

 ――俳句が果たして文芸と呼べるのか。

 芸術の冠は厚かましいのではないか、深く悩んでいたわたくしでございますが、虚子先生に序文を拒否され、句集の出版を諦める覚悟を決め、それならばと没後のための句稿の整理を始めてから、かえって肚が据わったというのでしょうか。

 それまで霞がかっていた物事の本質が、はっきりと見えてきたのでございます。


 すなわち、たとえ片手間仕事にせよ、いえ、寸の間の閃きであればなおのこと、たった十七文字にこめられた情趣、真実は芸術以外の何ものでもないし、ときには長編小説にまさるポエムを秘めることもできる。それが俳句という文芸であると。

 ですから、わたくしは誇りをもって、

 ――未来永劫の俳人。

 を宣言したいと思っております。


 

14

 

 さて、南国の太陽を友にした野育ちでお転婆なわたくしも、いつの間にか肩上げがとれて娘らしくなり、現地の尋常高等小学校を卒業する時期がまいりました。

 放っておいても大丈夫な男の子はともかく、当時、地方に派遣されていた官吏の娘たちは東京の女学校に進むのが一般的でございましたから、わたくしも姉の静に倣い東京女子高等師範学校附属高等女学校(現お茶の水女子大学)へ進みました。姉妹揃っての入学は珍しいというので、現地の新聞に紹介されたりいたしました。

 明治三十五年(一九〇二)春のことでございます。


 父に連れられて上京すると、姉と同様に寮に入りましたが、いたって好奇心旺盛な娘にとって初めての都会生活は見るもの聞くもの珍しいことばかりでしたので、郷愁やさびしさを感じる暇もなく、あっと言う間に月日が過ぎてまいりました。

 もっとも、そこはそれ、

 ――何事もなく。

 と思っていたのはわたくしばかりで、地方といっても大半が内地育ちの寮友たちは野放図なわたくしに眉をひそめる友もいたようですが、人を疑うことを知らない呑気なわたくしがそのことを聞かされたのは、ずっと後年のことでございます。

 

 そうこうするうちに、父が宮内省の学習院に転勤になりました。

 鹿児島や琉球の学校を卒業して東京の大学に進んでいた長兄と次兄、それに姉とわたくし、父と母の家族六人は、ふたたび一緒に住めることになりました。

 公舎として用意された家は上野桜木町の、白い壁に出窓のある洋風の館でした。

 長い南国暮らしで赤堀家に培われた家風と申しますか、文化風土と申しますか、明るく自由闊達な雰囲気は、自ずからこの瀟洒な洋館を朗らかな笑い声で満たし、全員が年頃になっていたわたくしたち兄姉妹は、のびのびと青春を楽しみました。

 外ではテニスやダンス、家にあっては、料理上手な母が教えてくれる西洋料理や、近所の官吏夫人を師とするフランス刺繍がわたくしの生活の芯となりました。


 台湾でも庭づくりに余念がなかった植物好きの父は、

 ――菊づくり。

 に懲りまして、春先からの愛情こめた丹精の成果が秋には見事な大輪や愛らしい小菊となり、馥郁たる香りを放って、わたくしたち家族を幸福な思いに浸してくれました。

 後年のわたくしの菊好きは、このときの父の影響だったのかもしれません。

 そのことが枉げて利用されましたことはまことに無念の極みでございます。

 

 こうして両親の厚い庇護のもとに、東京女子高等師範学校附属高等女学校本科を卒業いたしましたのは、明治四十年(一九〇七)十七歳の春のことでございます。


 いささか自慢めきますが、わたくし、卒業前の期末試験の成績がかなりよかったようでございまして、とりわけ得意としていた歴史の答案の欄外に担当の教師が、

 ――上 ほとんど完全 秩序的によく書かれたり。

 最大級のコメントを記してくださいました。

 それを見た父はたいそう喜んでくれまして、

 ――久子卒業前最終の答案につき、記念のため保存し、子孫の参考に供すべし。

 と書いた付箋を貼り、大切に抽斗に仕舞ってくれました。

 その後のわたくしの人生の烈しい生々流転を思えば、

 ――ほんとにわたくしのことかしら?

 思わず自問したくなるような、お伽噺めいたエピソードでございますけれども。


 え、久子という呼称でございますか?

 あのころの女子は、戸籍とは別の字を充てるのが普通だったのでございますよ。





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