杉田久女――紫陽花に秋冷ゐたる信濃かな 🌼
上月くるを
プロローグ
目 次
プロローグ
第1章 信州人の血を引く南国育ち
第2章 謹厳実直な美術教師の妻に
第3章 兄より俳句の手ほどき――童顔の合屋校長紀元節
第4章 高浜虚子『ホトトギス』との出会い――花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\
第5章 実生活の空虚を俳句に託す――東風吹くや耳現はるるうなゐ髪
第6章 キリスト教に救いを――足袋つぐやノラともならず教師妻
第7章 ふたたび俳句に――夕顔やひらきかかりて襞深く
第8章 星野立子『玉藻』創刊――初雪の久住と逢ひ見て高嶺茶屋
第9章 日本新名勝俳句で金賞受賞――谺して山ほととぎすほしいまゝ
第10章 主宰誌『花衣』の創刊と廃刊――愛蔵す東籬の詩あり菊枕
第11章 『ホトトギス』同人に推挙――娘がゐねば夕餉もひとり花の雨
第12章 最後の拠り所としての句集を志す――下りたちて天の河原に櫛梳り
第13章 虚子、句集の序文執筆を徹底拒否――叱られてねむれぬ夜半の春時雨
第14章 不意打ちの『ホトトギス』除名――一束の緋薔薇貧者の誠より
第15章 入魂の句集『磯菜』刊行を断念――鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな
第16章 筑紫保養院での最期――物言ふも逢ふもいやなり坂若葉
第17章 虚子『墓に詣り度いと思つてをる』『国子の手紙』
第18章 角川書店より『杉田久女句集』刊行
第19章 夫の計らいで松本の両親の墓域に分骨
第20章 松本清張『菊枕』吉屋信子『私の見なかった人』秋元松代の戯曲
エピローグ
プロローグ
二〇二〇年三月六日。
新型コロナウィルスの集団感染源として、同じく密室空間のライブハウスと共に槍玉にあげられたスポーツジム通いを自粛した筆者は、大腿筋を鍛えるレッグエクステンションの代替策として旅行先のまちで急勾配のウォーキングを思いついた。
東方間近に聳える丘の中腹に、青い屋根の中学校が見える。
たしかあの周辺には四十五度近い急坂がつづいていたはず。
しぶしぶ行う自力スクワットより確実に効果がありそうだ。
期待どおり、まっすぐ北に伸びる胸突き八丁では、どっと汗が噴き出してきた。
時節柄か引っ越しのトラックが歩道を塞いでいる。
車体のうしろにまわると、一本の標が立っていた。
――杉田久女の墓。
歴史の闇に埋もれた事物を訪ね歩いていた二十年前、何度か詣でたことがある。
導かれるように標識をたどってみると、愛知県豊田市にある杉田家墓所から分骨されたという久女の墓は、父方の赤堀家の乾いた墓域につつましく立っていた。
だれによっていつ供えられたものか、一面の冬枯れの景色の中で、少し色褪せた紙の花がカサコソさびしい音を立てている。
流麗な「久女の墓」の揮毫は、俳句の師の高浜虚子の筆と案内に記されていた。
謎に満ちた生涯を自分なりの視線で書こうと何度も試みたものの、とうとう書けなかったのは、それぞれ一家言ありそうな、当時の周囲にいた俳人たちに遠慮したからだった。
だが、縛られるものがなくなったいまなら書けると思った。
年来の贔屓筋の思い入れを、久女も苦笑して許してくれそうな気がした。
ひょんなことからスタートする物語だが、本格的に執筆に取りかかるのは、現在連載中の『書物屋お了』を完結させてからだから、ほぼほぼ数か月先になろうか。
まずは分不相応な花火をどんと打ち上げておいて、のっぴきならない状況に自分を追いこむのが筆者のやり方。今回もまた同じ轍を踏むことになるだろうか。
* * * *
それから三か月余りを経た五月下旬。
再びの旅行で久女の墓を訪ねると、紙の花に代わって生花が供えられていた。
折しも、二十年前には未刊だった最新資料を読んでいる最中だった。
三女の久女の聡明をとりわけ愛しんだという父母や、美術教師の宇内と結婚して九州の小倉に住む久女に俳句の手ほどきをした放蕩者の次兄、幼くして逝った末弟の墓石と並び、冬期の極寒で土が盛り上がったためであろうか、やや右肩下がりに見える久女の墓石の銘――繰り返し哀願しても生涯ただ一冊となる句集への序文を書こうとせず、すなわち句集の上梓自体を許そうとせず、そのことが久女の後半生と最期を決定的にした――その師なる人が、門弟の死後に与えた筆跡を見つめた。
ただひたすら見つめた。
それにしても、である。
自分を敬慕してやまなかった門弟が不慮の死を遂げたあと、六年間に二百三十通に及ぶという私信から、予定調和的な結論付けに都合のいい一部を抜粋し、ときには恣意的に前後を省略するなどして奇矯な振る舞いを強調し、表向き創作と銘打ちながら、じつは、わかる者にはわかるかたちで、商業誌『文体』に発表する。
そんなことが許されていいものだろうか。
他の門弟たちには懇切な序文を与えながら、久女ばかりをなぜ拒み通したのか。
――その理由は自分ではなく、久女の側にこそある。
生前、あれほど焦がれ、望んでもついに適わなかった故人の無念を晴らすため、愛娘らをはじめとする遺族の手によって、必ずや上梓されるであろう久女句集。
それが世に出される前に、証拠に基づく「事実」を知らしめておく必要がある。
だれからであれ、受け取った手紙類は一読したら屑箱に捨てる習慣であるのに、もっとも疎ましい久女の手紙に限り、なぜか引き出しいっぱいに保管しておいた。
満を持して用意しておいた素材を、いまこそ巧みな包丁さばきで料理するとき。
きっとそう踏んだはずだ。
師としてあるまじき行為の理非を流麗な筆跡に問いたかった。
むろん、答えはなかった。
墓に暇を告げると、坂の勾配が少しゆるくなった一画に案内板が立っていた。
――貞享義民塚。
貞享三年(一六八六)秋、年貢の減免を求めた農民一揆の首謀者として、はるかに城下を見晴るかすこの場所で磔に処された、多田加助らの首が発掘された場所。
以前も目にしていたはずだが、久女と結び付けて考えたことはなかった。
だが、ふと首を巡らせてみて、はっとした。
久女の墓まで直線距離にして三十メートルほど。
その延長線、標高にすれば五百メートルほど下に、五重の松本城が望見される。
鑓に突かれる直前、加助がぐいっと睨むと、わずかに傾いたという伝説の天守。
この事実は衝撃だった。
歴然、隠然たる権力に背いたがために奪われたふたつの生涯。
二百六十年の風雪を越え、こんなに至近距離に祀られている。
両者にはなんの因果関係もないが、かつて飛騨山脈と呼ばれた北アルプス連峰下の峻烈な風土に培われた人品には、なんらかの共通点があるのではあるまいか。
谺して山ほととぎすほしいまゝ 久女
人間界の右往左往をよそに、今年の老鶯はことのほか滑舌がいい。
朗らかな声に降られての帰路、久女の墓の案内板を読み直してみる気になった。
簡潔というより、天才俳人を語るには素っ気なさ過ぎる文章の一節に曰く、
――昭和九年、中村汀女たちとホトトギス同人。
ちょっと待って。
違和感が残った。
久女がホトトギスの同人に推挙されたのは、たしか昭和七年だったのでは?
かりに筆者の記憶ちがいだったにしても、俳句の手ほどきを受けた久女から句妹と呼ばれた十歳下の人を、同期同人の筆頭のように記すのはどういうものだろう。
この不見識には納得できない。
立ち尽くす筆者の横を、マスクを付けた分散登校の中学生たちが帰って行った。
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