第7章 ふたたび俳句に――夕顔やひらきかゝりて襞深く
1
大正十五年七月、以前から床に就いておりました姉の越村静が亡くなりました。
享年三十八でございました。
知らせを受け、急いで駆けつけましたが、葬儀には間に合いませんでした。
何年か前、里帰りした東京で最後に会った姉は、もういいというのに珍しく新橋まで送ってくれまして、いつになく別れづらそうに涙ぐんでいたことが切なく思い出されました。
夏帯やはるばる葬に間に合はず
霧しめり重たき蚊帳をたたみけり
その年の十一月、今度はわたくしの腎臓病が再発いたしました。
医師の勧めにより、空気のきれいな福岡県箱崎で静養することになりました。
宇内にむすめたちを預けるのは不本意でしたが、どうしようもございません。
姉妹そろって病弱なのは、やはり幼時のマラリア罹患のせいでしょうか。
ふつうに内地で育った日本人なら、めったに罹らない病気でございます。
腎臓病特有の青い顔を天井に向けたわたくしは、強烈な南国の太陽がもたらす真っ黒な影にも似た、暗い運命めいたものを感じずにはいられませんでした。
病間や破船に凭れ日向ぼこ
筑紫野ははこべ花咲く睦月かな
2
昭和二年の正月を療養先で迎えたわたくしは教会を離れる決意をいたしました。
もちろん、教会に非があったわけではございません。
芸術以外のものでは満足できないわたくしには、最初から無理な選択だったのでございます。
これからはよそ見をせず俳句に専念し、いまの言葉でいうところのライフワークとして女流俳句の研究に取り組むことを決意した当時のわたくしについて、
――たしか黒地の蚊絣かなんかの単衣ものに、博多の献上をきりりと結んで玄関に現われた久女の、凛々しく美しい姿にただ呆然としました。(『女性俳句』)
俳句の手ほどきをしてさしあげた若い方のひとり、丸岡静子さんは、わたくしの没後、そんなやさしい追憶を書いてくださいました。
ひとたび決めますと、もう迷いませんでした。
宇内の反対は承知のうえの覚悟でございます。
――まやかしの平穏をとるか、健康をとるか。
ぎりぎりの二者択一の結果でございます。
わたくしは自分の考えを押しとおしました。
四月、道後で開かれた第一回関西俳句大会に出席。七月、別府の亀の井ホテルで開かれた虚子先生歓迎俳句大会に出席。また、渾身の評論「大正時代の女流俳句に就て」を『ホトトギス』に発表。その合い間を縫って各地の句会に出席など、家族からすれば席の温まるひまもない、わるい見本のような主婦でございました。
逆に申せば、僭越ながら、あっちこっちから引っ張りだこ状態だったとも言えるのでございますが、その昂揚した、もっと申せば、いささか慢心した気分を端的にご指摘くださったのは、橋本多佳子さんのご夫君の豊次郎さんでございました。
いえ、もちろんわたくしがいけなかったのでございます。
ご夫君公認で俳句の手ほどきを受けられる多佳子さんの如才なさ、もてなし上手に甘えてついつい橋本邸に入り浸り、しまいには弁当持参で押しかけて、あちらの夕餉の時間になっても帰らないほどの長居をつづけたのでございますから。
ひとつことに夢中になると他が見えなくなる。
わたくしのわるい癖でございます。
それに。
いまから思えば、多佳子さんも間に入って相当お困りだったのでしょう。
あのころ地域の社交場になっておりました橋本サロンには、土地の名士や資産家の有閑夫人連が集まっておりましたが、この人たちの話と申せば夫や子どもの自慢か宝石や着物の話ばかりで、文化の「ぶ」の字も話題にのぼりません。
一度や二度ならなんとか我慢できますが、毎度のこととなりますとね。
で、つい皮肉を申し上げたり、不愛想になったりしたのでございます。
そんなこんなで、豊次郎さんから、
――出禁。
を申し渡されてしまいました。
ごはんも喉を通らないくらいショックでございましたよ、
――明日からこの家の敷居をまたいでくれるな。
いかめしい髭面からそう厳命されたのでございますから。
いまさらながら、俳句の手ほどきばかりに夢中になり、他の人びとの思惑を顧みなかった自分が悔やまれましたが、壊れた花瓶は二度ともとへはもどりません。
わたくしは泣く泣く多佳子さんの指導を吉岡禅寺洞さんに託しました。
ちなみに、わたくしの没後、多佳子さんは、生前のわたくしについて、かなりのことをお話になったり、お書きになったりした時期があるようでございます。
ですが、軽佻浮薄はあの方の欠点であると同時に美点でもありますし、後年にはそれを後悔するような痕跡も残されておりますから、まあよしといたしましょう。
――わたくしの知る範囲にも、久女のため身も心も押しつぶされてしまった人を知っている。(昭和二十五年『俳句研究』)。
異性問題にもずいぶん奔放で、故人となった長谷川零余子、太田柳琴、神崎縷々など困らされた人々である。次々とその情熱の対象とされた人々は不思議と死んでいった。久女は恋愛して非常に苦しんでいるときでも句作は衰えず、かえって脂がのり、『ホトトギス』へ、月々四句、三句と発表されていた。(随筆集『菅原抄』昭和二十三、四年)
華やかな橋本サロンから追われ、孤独にもどったわたくしは、いっそう虚子先生への思いを強め、俳句の本筋に帰って、一からやり直したいと作句に励みました。
夕顔やひらきかゝりて襞深く
晩涼やうぶ毛生えたる長瓢(ひさご)
3
並々ならぬ決意を『ホトトギス』昭和二年九月号に発表いたしました。
例によってだらだら長いので、ところどころ省略して引用してみます。
――しばらく俳句に不熱心でありましたため、これと申して作句上、有益な話も持ち合わせませんが、少しばかり感じたことを話します。わたくしは昨年の春以来、少々健康を害し、実姉死去のため上京したりしたので、いっそう体も衰弱し、秋ごろ、箱崎のほうへ転地するようになりましたが、従来の忙しい生活からまったく孤独な病人として、来る日も来る日も間借りした二階にぽつんとして暮らす所在なさ。毎日決まって松原を散歩しました。
いつもひとりでお宮の前の松原に行っては海を眺めたり、松原の上の美しい空を見詰めたり、あるいは、破船にもたれてときの経つのも知らず、日向ぼこをしながら来し方行く末のことを静かに思いめぐらすのでしたが、そういうとき、いつもわたくしの心にうかみ来るものは、あの懐かしい俳句の古巣と、昔のころの真剣な、燃えるような作句熱とでありました。
久しい間、余り熱心に俳句を作らず、ときどき思い出したように『ホトトギス』雑詠に投句してみたり、また半年以上も怠けたりして、昔とまるで違った、俳句に縁遠い、多忙な生活をしていましたわたくしは、たまたま句作して落選でもすると、もうとても、自分は駄目になったのだ、とてもいまの人たちには追いつけそうにない、出しても駄目だというような引っ込み思案になって、それきり意気地なくまた怠けるような状態をつづけておりました。
昔は、大正八、九年ころは、雑詠に欠かしたことはなく、『ホトトギス』雑詠の成績の可否はわたくしの一番の頭痛の種でありました。この世の悲しみ、憂い、所帯の苦労も、精神的の懊悩も、みな一途に俳句に塗りこめ、そこを慰安の絶対境としてどうにも抜け出ることのできない宿命に悩む者にとっては、俳句のとき以外は自由な境地は見出せなかったので、そのころは実に熱があった、燃えていた。
椿の写生のしたさに、弁当持参で二、三日椿を訪ね歩いたこともあり、わびしい憂鬱の襲うとき、悲しいときは手帖を持って野をぶらつき、写生する間にいつか悲しみは忘れ、心は晴れ晴れしい。手もとのやさしい野菊を見ては慰められ、またあるときは病弱な児を背負いつつ、あるいは寒夜に襁褓(むつき)を濯ぎながら、ときには重態の愛児の枕辺に沈思しつつ、または日ごとの市場の通い路に、ずいぶん熱心に俳句を作ったものだったのに……。わたくしは松原を散歩しながら、こんな思い出に耽るのでした。
それほど好きな俳句をやめて、かくまで不熱心になるのはどういう理由だったかというと、あまり凝り過ぎたためでした。ひとりの俳人として真剣に俳句へ精進したいと願うわたくしと、ふたりの子の母であり、ときと余裕のない家庭を持つわたくしと、このふたつの矛盾は始終わたくしを苦しめました。どうかして佳い一句を得たい、雑詠によい成績をあげたいという一心から、俳句に励めば励むほど家事に切りこんできて、夕餉が遅れたり、ぼんやりしていて「家庭や子を顧みぬ」と夫の不機嫌に毎度遭います。用事はあとからあとから来る。いったい真面目な夫は文芸嫌いで、わたくしがまずい一文を俳誌に載せられでもすると、そのたびに気まずい争いが家庭に起こります。
伸びよう、作ろうとするわたくしの真剣な深入りは、ますます性格の相異から来る深い溝をふたりの間に横たわらせてゆき、いろいろの曲折を経たあげく、わたくしの命のパラダイスであった俳句は、かえって苦しみの種となり果てたのです。わたくしは増上慢に陥り、家庭をも、婦人としていかに精神的の慰安を求めるためとはいえ、あまりに脚下を見ず、無我夢中で俳句に溺れ過ぎていました。
そのうえ、自惚れの強いわたくしは、まだ充分に俳句の三昧境へも到達し得ないなか、早くも平静な客観的態度で自然人事を観照し、作句することがもどかしいようにも感じ、また夫が同趣味でなく、わたくしの作句を喜ばないので、いくぶん短気もあって、そのくせ十分に未練はありつつ、わが子にでも生き別れるような切ない心地で悩んだあげく、ひと思いに俳句を捨ててしまいました。
それは大正十一年ごろだったので、伸びかけた苗を踏みにじるように踏み折ってしまって、あのときもう少し俳句に執着し、根気よくいままでつづけて熱心に作っていたら、せめていまの雑詠の人びとと同じ潮流に押し流されてゆくこともできたろうに、やめてしまったばかりに、もうとうてい追っつけ直すもない、惜しいことをした……。と、わたくしは自惚れからでなく、俳句に対する努力を継続しなかった憾みを、あの箱崎滞留中の日ごとの散歩にしみじみと思わせられ、また昔の燃えるような俳句熱を思い出しては、いまの不熱心、老いこんだ自分を顧みて、主婦らしい静かな諦めの吐息をつくこともありました。
あるいは、留守居の子らを案じて寝つかれぬ木枯しの夜、枕辺の手帖をまさぐって一句を認め、寂しいときは松原へひとり出て、松の老樹が風雨に堪えつつも静かに強く茂りかわす静寂の姿に、しみじみ年月というものの貴さを覚え、立ち尽くすのでした。 (「俳句に蘇りて」)
それにいたしましても、
――平静な客観的態度で自然人事を観照し、作句することがもどかしいようにも感じ……ひと思いに俳句を捨ててしまいました。
とはまあ、われながら、よくも書いたりという気がいたします。
見方によっては反乱の芽を内蔵しているような文章をそのまま主宰誌に掲載してくださった虚子先生の、一種ふところの深さの誇示、あるいは反面教師的な利用の仕方めいたものも、あらためて感じるのでございます。
4
昭和三年は期せずして評論活動に力を入れた年になりました。
まず一月には『ホトトギス』の座談会「筑紫俳壇漫議」に出席、二月には評論「大正女流俳句の近代的特色」が『ホトトギス』に掲載され、四月にはやはり評論「近代女流の俳句」が『サンデー毎日』に掲載されたのでございます。
さようでございます、俳人久女は同時に、
――理論派の書き手。
として知っていただけるようになったのでございます。
もっとも、先述の「乳ぜり泣く子」の竹下しづの女さんには、
――二言目には自称プロ作家をふりまわす久女の作品にはプロ的逸品が少ない。
わたくしの評論の矛盾点を、ずばり指摘されてしまいましたけれど。
この場合のプロとは、プロレタリアートのことでございまして、言われてみればたしかにそのとおりかもしれませんが、ただ、言い訳を許していただければ、わたくしは一介の主婦でございますから、労働者の句を詠めるはずがございません。
自らプロレタリアートを名乗ったつもりはございませんが、もしそう受け留められたとするならば、わたくしの気持ちの中のプロレタリアートとは、働かずして日々を暮らせる不労所得の富裕層にあらずというほどの意味でございます。
書いたものが活字になる機会が増えるにつれ、いろいろな場面で「出る杭は打たれる」を肌で感じていたわたくしは、職業婦人からの主婦蔑視感をまざまざと見せつけられた思いがしたのでございますが、同じ女性同士ゆえ、あえて申しますが、そういう類いの偏見は、いまの世も根本では変わらないようでございますね。
一日二十四時間、一年三百六十五日働きづめの主婦の仕事ほど評価の低い、やり甲斐のない労働は他に例を見ませんが、同性ですらこの程度の認識なのですから、
――だれに食わせてもらっているんだ。
宇内のような侮辱的な台詞を口にする夫族はあとを絶たないわけでございます。
この年は地方句会も怠らず、十月には福岡の第二関西俳句大会、小倉の広寿山福聚禅寺を会場とした虚子先生歓迎俳句会にも、むろんのこと出席いたしました。
それに、わが家にとって記念すべき出来事がございました。
長女の昌子が同志社女学校(現同志社女子大学)へ入学したのでございます。
さようでございますね。
おっしゃるとおり、母親のわたくしといたしましては、はじめてのひとり暮らしが心配でなりませんでしたが、幼いころから揉め事が絶えない両親のもとで育ってきた昌子本人は、修羅場の舞台の実家を離れ、京都での新生活をスタートさせて、正直なところ、ほっとしたのではなかったでしょうか。
5
三十代最後の昭和四年は、わたくしにとってかなり充実した年になりました。
俳句を教えてくれた次兄の月蟾が没したことは残念でございましたが……。
三月、吉岡禅寺洞さんから『天の川』の婦人俳句欄の選者を仰せつかりました。
六月にはその『天の川』に評論「婦人俳句に就て」を発表し、九月には改造社版『現代日本文学全集』三十八巻に作品が掲載され、十月には雑誌『阿蘇』に、随筆「阿蘇の噴煙を遠く眺めて」を発表いたしました。
十一月には特筆すべき出来事がございました。
大阪の中央公会堂で開かれた『ホトトギス』四百号記念第三回関西俳句大会に、ご夫君の豊次郎さんに櫓山荘への出入りを禁じられて以来お会いしていなかった、句妹の橋本多佳子さんをお誘いしたのでございます。
その席で、たまたまわたくしは多佳子さんに山口誓子さん(4S)をご紹介いたしましたが、この出会いがご縁で、多佳子さんは誓子さんに師事され、水原秋櫻子さん(4S)主宰の『馬酔木』に入会し、同人にも推挙されたのでございます。
結果的に、わたくしは知らずに虚子先生に背いていたことになります。
関西俳句大会には京大三高俳句会の雄で、のちに『旗艦』を主宰され、昭和初期の新興俳句運動を主導されることになる日野草城さんも出席しておられました。
春の灯や女はもたぬのどぼとけ 草城
懇親会では「東京行進曲」の替え歌「雑詠行進曲」を一同で大合唱し、高野素十さん(4S)の音頭で「虚子先生万歳」を唱え、大会は成功裡に終わりました。
その夜はご夫君が大阪税関に転任されていた中村汀女さん宅に泊めていただき、日本の俳壇の核にどっぷり身を浸した感激を遅くまで語り合ったのでございます。
6
久女の句にはゆとりが生じて来たと言っていただけるようになりました。
主宰の点欲しさの擦り寄りが影を潜めたということでございましょうか。
そういえば、先述の「童顔の合屋校長紀元節」も当時の句でございます。
春衿やホ句会つづくこの夜ごろ
牡丹を活けておくれし夕餉かな
夕顔を蛾のとびめぐる薄暮かな
子犬らに園めちやくちやや箒草
茄子もぐや天地の秘事をさゝさやく蚊
富家の茄子我つくる茄子に負けにけり
夕顔に水仕(みずし)もすみてたたずめり
好晴や壺に開いて濃竜胆
秋来ぬとサファイア色の小鯵買ふ
露けさやこぼれそめたるむかご垣
白萩の雨をこぼして束ねけり
一方、当時の『ホトトギス』には、不穏の芽が土を突き破り始めておりました。
傍目には東大出の俊才で百花繚乱と映ったようでございますが、実際には、虚子先生が直接指導された「東大俳句会」すら分裂しかかっていたのでございます。
山口青邨さんが水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四氏を束ねて、
――東西の四S。
あえて声高に称されましたのは、謀反をうわさされていた秋櫻子さんや誓子さんと、虚子先生に従順な素十さんの仲を取り持とうとしたためと言われております。
7
このころ、秋櫻子さんは俳句に「調べ」をとり入れることを思いつかれました。
申し上げるまでもございませんが、調べとは音律のことでございます。
高嶺星蚕飼の村は寝しづまり 秋櫻子
この一句の着想を得たとき、
――心を調べの上に表わそうという自分の傾向を自分でつかんだ。
のちに回想されております。
秋櫻子さんや誓子さんの清新な句風に衝撃を受け、コスモスのようにどよめいている俳壇であればこそ、わたくしばかりは変わらず虚子先生に就いて行こう、吹きつける野分から先生をお守りしようと、悲愴なまでの決意を新たにいたしました。
あとから振り返れば、独りよがりの滑稽な思いこみでございますが、
――子飼いの門弟に背かれてお寂しい虚子先生の第一の信奉者たるべし。
熱く自分に言い聞かせることに、わたくしは大いなる喜びを感じておりました。
その一方、わたくしの中には新たな気持ちも芽生え始めておりました。
あくまで生涯の師と仰ぐ虚子先生に拠り、秋櫻子さんからずばり「勉強ぎらい」と指摘された先生が飽きもせず提唱される花鳥諷詠に徹し抜き、迷い、悩み抜いた末に、結果的に秋櫻子さんと同じく、詠み手の心、すなわち主観をも大切にする、
――近代的なポエム。
旧来のものより一段上の芸術俳句への模索を開始したのでございます。
朝顔や濁り初めたる市の空
露草や飯(いい)噴くまでの門(かど)歩き
また、このころ、若手の幅広い教養に遅れをとるまいと、『万葉集』『ジャン・クリストフ』『戦争と平和』『罪と罰』などの書物を耽読して研究を深めました。
8
昭和五年(一九三〇)四月、わたくしが四十歳の誕生日を迎える直前、『ホトトギス』を離反しかけていた水原秋櫻子さんが第二句集『葛飾』を発刊されました。
発行所は『馬酔木』。
五百部刷って、わずか数日で完売という人気ぶりでございました。
第一句集『南風』と同様に序文はご自身で書かれましたが、虚子先生に拠らないなど『ホトトギス』ではあり得ませんから、それだけで騒動の種でございます。
もともと虚子先生には、
――門下の句集出版を好まない。
といううわさが飛び交っておりましたので、秋櫻子さんの大胆ななさりようは、唯々諾々と従っていた同人や会員たちの度肝を抜くのに十分でございました。
果たして、水原秋櫻子第二句集『葛飾』の底を流れる清新な美は、新しい刺激を求めてやまない若い俳人たちに、驚きと礼讃をもって受け入れられました。
そういう膝下の動きを、当の虚子先生はどのようにご覧になっていらっしゃったかと申しますと、有名なエピソードがいまもひそかに語り継がれております。
句集を一部贈呈した秋櫻子さんに面と向かって、
――たったあれだけのものかと思いましたよ。
ただひと言、そうおっしゃったそうでございます。
――まだまだ勉強が足りませんから。
秋櫻子さんが穏やかに返しますと、師の虚子先生の重ねて曰く、
――あなた方の目ざす句は、一時はどんどん進んで、どこまで発展するかわからぬように見えたこともありましたが、この頃ではもう底が見えたという感じです。
この会話を機に秋櫻子さんはついに『ホトトギス』を去る覚悟を固め、以前から属していたもうひとつの結社『馬酔木』一本に絞ることにされたのでございます。
圧倒的多数の『ホトトギス』シンパ、つまりは日本の俳壇そのものを敵にまわすことになりますから、相当に悩まれた末のご決意であられたことと存じます。
そんな潔い秋櫻子さんの姿勢に遠く小倉から心からの喝采を贈り、目新しい作句姿勢に影響されることにも、快い知的な喜びを覚えたわたくしでございました。
ですが。
それと虚子先生への変わらぬ信奉とは別ものでございます。
若手を応援しつつも、虚子先生率いる『ホトトギス』王国の永遠を疑わない。
傍から見たら理解に苦しまれるにちがいない、まことに矛盾と欺瞞に満ちた、
――二律背反。
それを心の内に平然と同居させていたのが、当時のわたくしでございました。
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