第6章 キリスト教に救いを――足袋つぐやノラともならず教師妻

 

 

 

 わたくしの内部に消化しきれないものが蓄積していたのでございましょう。

 ある未明、眠れないまま認めた虚子先生宛ての書簡が『ホトトギス』大正十一年一月号に「夜あけ前に書きし手紙」と題して掲載されました。

 随筆の扱いになってはおりますが、あらためて読み返してみますと、自分勝手な感情を書き散らしただけの、何ともお恥ずかしい文面でございます。

 私的な文章の公表を自ら求めましたのは、ただひたすら俳人としての再起を自他に表明しておきたかったからでございますが、結果として虚子先生に私生活の不満を訴えただけのかたちになっておりますこと、まことに汗顔の至りでございます。


 例によってだらだらと長いので(笑)、一部を抜粋してみますね。


 

 ――虚子先生 ただいま午前三時でございます。腹痛がして目が冴えて眠れず、厠へ起きようとして雨戸を開けますと、昼のように明るい月光が屋根かげをそれて四角く落ちています。わたくしはいったん臥床へ入りましたがまた起き出して畑窓を開けますと、月を浴びているコスモスの窓近いひとかたまりに灯色が流れます。

 

 とうとう堪らなくなって、裏の扉を開けて、花畑の中へ入ってゆきました。照りつづいた大地に月光が白々と照っています。風のない夜で、地に咲き伏したコスモスの影が静かに静かに大地に映っています。すきすきになったポプラ並木の葉ごしに青い巨きい潤みをもった星を仰ぎつつ、わたくしは黒い影を引いて、いつまでもじっと立っていました。

 

 畑の向こうの家あたりから、厩の板を蹴るのらしい馬の音が聞こえて来ます。体がすっかり冷えて、またしくしくと腹痛を覚え出しましたので、家へ入ろうとしてコスモスの中の径に踏み入りますと、わたくしの体で押された花と花とが押し合って、大地の黒い影が静かに次々と揺れ移ってゆきます。群れ咲いているコスモスの上にわたくしは漆黒の影を印しつつ、やがてそこを通り抜ける。水のような大空には大きい白雲が流れています。

 

 わたくしは家の中に入っても、すっかり目が覚めて寝る気もしませんので、灯の下の卓に寄りかかって、いまの月下の印象を句にしてみました。ちょうど三十句ほど駄句ができましたが、句の巧拙は別として、非常に楽しく、心が清々いたしてきます。腹痛も忘れ、何も羽織らぬ寝衣の素袷一枚で寒いとも感ぜず、鉛筆を舐めていました。

 

 いま初めてわたくしは、ご選句に洩れることを意に介せず――それは採っていただけば、うれしいことはこの上なしですが――自分の生活にふれ、目に見、耳に聞いたこと、心の叫びを作句すること。とにかく拙くとも、自分の性格なり、生活に触れたことを作りたいと思います。


 一時やめていましたときは、必ずしも写生でなくても主観でもゆけると考えた日もありますが、やはり生きた句は写生から生まれるのだと、この節しみじみ感じます。ただし、写生といっても、見当たり次第手当たり次第に何でも拾い上げて写生するのでなく、深い魂の感銘を基礎としたまことの写生をしてみとうございます。

       (「夜あけ前に書きし手紙」『ホトトギス』大正十一年一月号)

 


 受け取った側の迷惑も顧みず、自分の辛さばかり訴え、生意気にも写生一辺倒に疑義を呈しているあたり、まさに久女の面目躍如というところでございましょうか(笑)。

 

 

 

 翌二月の『ホトトギス』入選句がまたまた宇内の怒りを買うことになりました。

 

 足袋つぐやノラともならず教師妻

 冬服や辞令を祀る良教師

 戯曲よむ冬夜の食器つけしまゝ

 

 申し上げるまでもなく、一句目はイプセン『人形の家』のノラを演じた信州出身の女優、松井須磨子さんに触発されて詠んだ句でございますが、須磨子さんはのち劇作家で演出家の島村抱月さんと共に芸術座を旗揚げし、トルストイの『復活』のカチューシャで人気女優になったものの、大正八年一月、当時猛威を振るっていたスペイン風邪で抱月さんが亡くなると、自ら恋人のあとを追った……。

 夜空の花火のような生涯に、わたくしは無意識で憧れていたのかもしれません。

 

 二句目はある夜のわが家の情景でございます。

 昇進の辞令を恭しく神棚に飾り、おごそかに柏手まで打つ夫を、

 ――やれやれ、小倉の中学の役職がそんなにありがたいのでございますか。

 美術家と結婚したはずのわたくしは、皮肉に観察せずにはいられませんでした。

 

 三句目に至りましては、主婦の本業たる家事を放っておいて、夫の目からすれば埒もない戯曲なんぞを読みふけっている悪妻を、宇内が喜ぶはずがございません。

 

 わたくしが毎月いまや遅しと待ち侘びてゐる『ホトトギス』の到着日は、夫と娘たちにとっては新たな軋轢を生む日として歓迎されないものになっておりました。

 

 まことに不純な動機で、関係者の方々には申し訳ございません。小倉メソジスト教会での受洗は、そんな四面楚歌の状況から逃げ出したかったからございます。

 

 われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華

 バイブルをよむ寂しさよ花の雨

 

 知らないうちに投句されて、あとでとんでもない恥をかかされる俳句とちがい、妻が静かに教会へ通うことは、どうやら宇内の眼鏡に適ったようでございます。

 

 

 

 そんな折りの三月二十五日、小倉の中原(なかばる)海岸にある橋本邸櫓山荘で虚子先生歓迎俳句会が開かれることになりまして、一流の文化人が集う上品な会とかなんとか宇内を懸命に説得した結果、わたくしも参加できることになりました。


 高名な建築家で辣腕の実業家としても知られた橋本豊次郎さん所有の櫓山荘は、あのあたりでひときわ目立つ、海辺の瀟洒な西洋館でございました。

 夫人の多佳子さんはまだ二十五歳のお若さ。

 贅沢な全身純白の洋装に鍔広の真っ白な帽子をかぶり、白牡丹のようにすらりと立たれたお姿は、とうてい二児の母とは思えない美しさでいらっしゃいました。

 当時はまだ珍しかった自動車を駆り、颯爽と城下町を疾駆するご夫妻の艶姿は、淀んだ煤煙の下でかつかつの日々を凌ぐしかない庶民の憧れの的でございました。

 

 室町幕府の出先機関になぞらえ、

 ――『ホトトギス』の九州探題。

 蜜月時代の当時はまだそう言われていた俳誌『天の川』主宰の吉岡禅寺洞さんが門司に出迎えた虚子先生は、櫓山荘で橋本夫妻や小倉周辺の人びとの歓待を受け、翌日、ご機嫌よく東京へもどられましたが、このとき、途中で合流した宇内も一緒に小倉駅までお送りしたことを、ざらざらする違和感を持って記憶しております。

 さようでございます。

 ここというときに決まって登場するのでございますよ、宇内という人物は。


 え、とつぜん久女の夫でございますと挨拶された虚子先生が、

 ――ほう、これが例の、辞令を恭しく神棚に祀った田舎教師か。

 そんな目で観察されたかどうか、その辺は一向に存じ上げません。

 まあ、いい勝負だったのでは? 肚に含むところのある男同士。

 どちらが狐で、どちらが狸だったか、その辺は存じませんけど。


 そうそう、申し遅れました。

 このときの出会いで、豊次郎さんからぜひにと依頼されたわたくしは、ときどき櫓山荘に通い、多佳子夫人に俳句の手ほどきをしてさしあげることになりました。

 何かと毀誉褒貶の多い橋本多佳子さんとの因縁の始まりでございます。

  

 

 

 大正十二年。

 杉田家にとって小康状態のような時間が過ぎてゆきました。

 宇内三十八歳、わたくし三十三歳、昌子十二歳、光子七歳。

 外聞を気にする宇内の「努力」もあり、傍目にはそれなりに幸せな家族に見えたかもしれません。

 

 この年四月から、わたくしは宇内の代理として私立勝山高等女学館で図画と国語を教えることになりました。また、翌年には行橋市の県立京都(みやこ)高等女学校で、卒業生や保護者たちにフランス刺繍を教える活動もいたしました。かたわら教会のバザーやクリスマスなどの催しにも積極的に関わるようにいたしました。

 いいえ、面倒だなんて、少しも。

 世話好きなわたくしは、むしろ若い人たちとの時間に救いを感じておりました。

 

 あら、いやだ。

 いま、はじめて気づきましたが、教え好きは夫唱婦随でございますわね。

 それにこうして振り返ってみますと、教え子に親切な教師であったと自負されるわたくしも、夫に負けず劣らず外面のいい人間でございましたこと、ほほほほ。

 まさに絵に描いたような似たもの夫婦ということでございましょうか。

 

 その一方、俳句も細々ながらつづけておりました。

 ですが、多感な時期にさしかかった娘たちのためにも、家庭に無用な波風を立てないよう、過度に熱中し過ぎないようにと、細心の注意をはらっておりました。


 

 

 大正十四年五月、松山で虚子先生歓迎俳句大会が開かれました。

 どのように宇内を説得したものか覚えておりませんが、とにかくわたくしも出席が適いまして、はるばる小倉から駆けつけました。

 ところが、句会のあとの宴席で、出席者中で紅一点だったわたくしは虚子先生のお隣に座らされまして、緊張のあまり心身ともにこちこちになってしまいました。


 ――久女は厚かましかった。


 そんな印象がまかり通っているようでございますが、どこでどう取り違えられたものやら、本当のわたくしは、生真面目で朴訥な信州人そのものでございました。

 お酒を召されない先生にサイダーをお注ぎするのが精いっぱいで、洒落た会話のひとつもできない自分が惨めで情けなくて、膝を縮めて小さくなっておりました。

 

 上陸やわが夏足袋のうすよごれ

 替りする墨まだうすし青簾

 

 あとから顧みれば、このころは『ホトトギス』の停滞期に当たっておりました。

 村上鬼城、飯田蛇笏さんらとともに柱となっていた渡辺水巴、原石鼎、前田普羅の各氏は、銘々の主宰誌(『曲水』『鹿火屋』『辛夷』)を持って『ホトトギス』を去っておりました。

 

 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城

 芋の露連山影を正しうす     蛇笏

 

 かたまつて薄き光の菫かな    水巴

 秋風や模様のちがふ皿二つ    石鼎

 雪解川名山けづる響きかな    普羅

 

 かたや、山口青邨さん(東京帝国大学教授 のち『夏草』主宰)が言い出した、

 ――『ホトトギス』の四S(しいえす)。

 水原秋櫻子さん(のち『馬酔木』主宰)、山口誓子さん(『天狼』)、高野素十さん(『芹』)、阿波野青畝さん(『かつらぎ』)はまだ若手でございました。

 

 みちのくの町はいぶせき氷柱かな 青邨

 

 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  秋櫻子

 湖へ出て木枯帰るところなし   誓子

 方丈の大庇より春の蝶      素十

 牡丹百二百三百門一つ      青畝

 

 低迷を脱しようと総合文芸誌から俳句専門誌に転換を図った『ホトトギス』は、虚子先生選の雑詠欄を核に、俳句評論や写生文の充実に力を入れておりました。



 

 私事で恐縮でございます。

 わたくしが召されたあと、新進気鋭の文芸評論家でいらした山本健吉さんに、

 

 ――ホトトギスに残った男性俳人は低調、安易、月なみで、この時代の作家たちは、ただひとり強烈な個性を奔放に発揮した閨秀、杉田久女についに及ばないのである。(『現代俳句』)

 

 そんな過分なご評価をいただきまして、新聞の三面記事的要素のきわめて強い、いわゆる久女伝説にも糊塗されず、透明な光を放ちつづけてくれているのでございますが、じつを申せば、この当時、わたくしも相当に悩んでいたのでございます。


 いまから思えば、俳人の多くが経験される、

 ――通過儀礼。

 だったのかもしれませんが、畏れ多くも虚子先生が十年一日の如く提唱される、

 ――客観写生。

 なる『ホトトギス』標語に欠伸が出るほど飽き飽きしてきておりまして、作句を触発されるだけの新鮮な魅力を、まったく感じなくなっていたのでございます。


 写生の重要性はよくよく理解いたしましたから、

 ――虚子先生、そこから先の明確な方向性を、どうぞお示しくださいませ。

 正直に申せば、そんな気持ちでございました。

 


 7

 

 ちなみに、のち、虚子先生に公然と反旗を翻し、自ら新興俳句運動の先駆をつとめられた水原秋櫻子さんは、わたくしより二歳下の俊才でいらっしゃいました。

 東京帝国大学医学部在学中、虚子先生傘下の「東大俳句会」に、富安風生(のち『若葉』主宰 代表句「何もかも知つてをるなり竈猫」)、山口青邨、山口誓子さんらと参加されました。

 ご本業は産婦人科のお医者さまで、宮内省侍医寮御用係として皇族のお子さんを数多くとりあげられております。

 その秋櫻子さんはそのころ、虚子先生に従いながらも、

 

 ――遠からず主観を濃く打ち出す俳句の時代が到来する。

 

 他に学ぼうとする謙虚がなく、したがって進歩がなく、『ホトトギス』の首領として俳壇に君臨することに満足している虚子が、果たして、そんな時代のうねりを敏感に察知し、俳句を詠もうというからには、多寡はあれど、それぞれに批評眼を持っている門弟たちをこれからも圧倒的にリードしていくことができるだろうか。

 冷静に『ホトトギス』の将来を見据えておられました。

 そんな動きに、虚子先生は平然とうそぶかれました。

 

 ――写生を強要するために偉大なる作家が生まれないという理由はない。偉大なる作家は如何にしても現われるものである。写生を説くのは、偉大なる作家のためではない。偉大ならざる作家のためだ。まず普通一般の作家のためだ。

                       (大正十一年『ホトトギス』)


 

 

 なるほどねと、わたくしは思いました。

 

 ――天才一人 VS 凡人九百九十九人説。

 

 酷薄に線引きされた師弟関係がここでもまた臆面もなく唱えられていることに、ある種の感懐を見い出さざるを得ません。

 さようでございます、お金に興味もなさげな文化人の冠の下は、

 ――結社という企業の安定した利益追求を第一義とする実業家。

 そのものでいらっした、それが高浜虚子という人物の実態なのでございます。

 

 それに。

 忘れてならないのは、この手の文を読まされた『ホトトギス』の同人はもとより新人会員に至るまでほぼすべての人びとが自身を、よもや天才とは思わぬまでも、

 

 ――凡人九百九十九人の中でも上の方。

 

 と自認していることを、先生はとうに見抜いていらしたことでございます。

 まことにもって、根っからの食わせ物と申しましょうか。

 その昔、師の正岡子規先生がいみじくも看破されましたように、人間というものの嘘偽りのない本質を、ずばり見抜く目を持っておられたのでございましょう。

 

 ただ。

 虚子先生自身が一人の天才だったかどうか。

 遺された句が雄弁に物語っておりますわね。

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