第19章 夫の計らいで松本の両親の墓域に分骨

 

 

  

 

 

 昭和三十二年四月。

 宇内の計らいにより、わたくしは松本市宮渕の赤堀家墓域に分骨されました。

 ご承知のとおり、向かって右より赤堀月蟾(次兄)、赤堀簾蔵・さよ(父母)、信光(弟)と並ぶ西側に、三段の黒御影石の小ぶりな墓を作ってもらいました。


 

 ――松本は、母の実父の出身地で、その父がアルプスの見える故郷を愛し、墓もそこを希望したのであった。

 両親の墓の傍に『久女之墓』とのみ標してある。

 文字は虚子先生にお願いして書いていただいた。

 先生は、他の人なら書かないところだが、と申され、とくに書いてくださった。力の籠った、書として味わいのある、厚味と奥行の深い、非常に立派な文字であった。   (『杉田久女句集』昭和四十四年 角川書店 石昌子「あとがき」)


 

 墓碑銘を書いてもらっていながらなんでございますが(これとて、わたくしとしてはありがたくもなんともなく、むしろ、甚だしく迷惑に思っておりますが)、「他の人なら書かないところだが」とは何と虚子らしい言い草でございましょう。

 ここぞというところで念を押さずにいられないのでございますよ、あのご仁は。



  

 

 松本への分骨により、いつまでもすっきりしなかった自分の気持ちにひと区切りつけた昌子は、七月、筑紫保養院を訪ね、院長にカルテの閲覧を申し出ました。


 ところが、奥へ入った院長はなかなか出てまいりません。

 ようやく姿を見せると、当惑しきった表情で告げたのでございます。



 ――どういうわけか、久女さんのカルテだけが綴込からはずされています。



 さようでございます、わたくしの没後、医師の資格を盾にして訪ねて来たと思われる平畑静塔、横山白虹のご両名によって持ち去られたまま、興味本位で見たがる人たちの間を転々としているうちに行方がわからなくなっていたのでございます。


 一方、この話とは別に、昭和二十九年五月、橋本多佳子さんが「久女終焉の地を弔いたい」と言い出し、横山白虹さんとふたりで筑紫保養院へ出向き、わたくしのカルテの写しを所望(?!)されたという話もございます。


 保養院でもさすがに即答はでき兼ねたと見え、のち医師の白虹さんのもとに送られてきた写しが平畑静塔さん、橋本多佳子さんと転送されているうちに、どこかへ消えてしまったというのでございますが、どの話が本当やら、カルテの患者である当のわたくしにも遺族の昌子にも訳がわかりません。

 

 え、後年、田辺聖子さんがお訪ねくださったとき、紛失したカルテがもどされていた?


 なんとも摩訶不思議なお話でございますよねえ。

 田辺さんが当時の副院長から聞き出されたという「精神分裂病は若いときの発病が多く、久女の五十五、六歳は非常に稀で、ちょっと疑問がある」という談話も、麻酔を打たれて入院させられたわたくしにとりましては、何よりの名誉回復の証しでございました。



 

 

 昭和三十四年四月八日、高浜虚子没。

 享年八十六。

 わたくしより三十一年も生き永らえたことになります。

 

 健気にも昌子は、虚子先生ご逝去三句を詠みました。

 

 

 句縁ただ仮りそめならず春の雷     石 昌子

 椿添ふ温顔在りし日の如く

 御最期も椿の陰に伏し給ひ

 

 

 まこと、わたくしども母子にとって、ただならぬ所縁の人物でございました。



  

 

 昭和三十七年、奥三河で宇内がなくなりました。

 享年七十九。


 ――西信院釈慈光宇居士。


 わたくしの墓のとなりにそう標されました。

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