第20章 松本清張『菊枕』吉屋信子『私の見なかった人』秋元松代の戯曲

 

 


 

 

 

 昭和二十八年八月、昌子たちを驚かせ、悲しませる出来事が起こりました。


 前年、『在る「小倉日記」伝』で第二十八回芥川賞を受賞された松本清張さんが受賞後の第一作として『菊枕』(『文藝春秋』)を発表されたのでございます。


 さようでございます。

 題名からして俳句界の人たちにはピンと来たと思います。

 かつて、わたくしが虚子に贈った菊枕をテーマにし、先述の欺瞞だらけの虚子の二編を下敷きに、橋本多佳子さんや横山白虹さんら一部の偏った俳人に裏取り取材して面白おかしく膨らませ、極めてスキャンダラスに仕立てた小説でございます。

 

 のちに文芸評論家の山本健吉さんが、



 ――あまりに、これまで知られている挿話から久女像を組み立てていて、常識的で、彫りが浅い。



 と論じてくださったことは救いでございましたが、正しい事情を知らない読者の大半は、小説に書かれていることのすべてが事実と信じたにちがいありません。

 昌子たち遺族が、作家と出版社に異議を申し立てたことは当然でございます。


 

 ちなみに。

 わたくしが俳句を手ほどきした橋本多佳子さんは、わたくしが没した直後は、

 


 ――ついに狂って世を去った久女であるから何かにつけて異常な情熱を示した。わたくしの知る範囲にも久女のため身も心も押しつぶされてしまった人を知っている。異性問題にもずいぶん奔放で、個人となった零余子、柳琴、縷々など困らされた人々である。次々とその情熱の対象にされた人々は不思議と早く死んで行った。

 


 等々酷いことをあちこちに書いておられましたが、さすがに年を重ねてからは、

 


 ――手ほどきの師に久女を得た幸福を、いまだに忘れずにおります。


 

 など穏当なことを書いてくださるようになりました。

 多佳子さんの名誉のために申し添えておきましょう。



 

 

 それから十年後の昭和三十八年。

 またまた信じがたいことが起こりました。


 少女小説で人気があった吉屋信子さんという方が『私の見なかった人』(『小説新潮』)の一環として、杉田久女を材にした創作を発表されたのでございます。


 昌子が久女句集を贈呈したことに起因するようでございますが、虚子の『国子の手紙』などで前知識があった吉屋さんにとっては、まさに飛んで火にいる夏の虫、言葉巧みに昌子から取材し、恣意的に奇矯な久女像を作り上げたのでございます。


 吉屋さんご自身のお言葉を借りますと、つぎのようなことになります。


 

 ――貪欲にその人の母のことを聞いて、さまざまの資料を得た。そしてわたくしは、一度も見なかった杉田久女のイメージを自分で描き上げていた。



 その内容たるやまことにもって酷いもので、ことごとく嘘八百である点において虚子の罪障と少しも変わりません。たとえば、つぎのような記述がございました。



 ――その頃、恩師虚子は愛娘星野立子の才能に望みを嘱して女流俳誌『玉藻』を発刊させた。

『玉藻』の創刊号を久女に贈呈すると、その封も切らずに送り返されてきた。

 その『玉藻』の入った紙袋の表には久女の文字が落書きのように記してあった。「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う」というような意味が書きつけてあった。

 虚子門下の人々は、子煩悩の先生の子女をうやまうことひとかたでなかった。

 だが、久女はどうかしていた。

 もうだれをも見さかいなく、まるであばれん坊の振る舞いを人に示した。



 この小説について田辺聖子さんは同じ作家として鋭いご指摘をくださいました。

 

 

 ――俳句の才を高く評価しながらも、久女を異常に自己顕示欲の強い女として描く。徹頭徹尾、虚子側に立って久女を裁いている。鬱然たる俳壇の巨星と、渺たる地方俳人では勝負にならない。

 

 ――吉屋信子は『ホトトギス』に近いとされた作家だが、「まだ貴女が俳誌を出すのは早いと思う。もうしばらく勉強を乞う」この衝撃的な一文は、当時の『ホトトギス』周辺や俳壇の少なからぬ人たちが思っていながら、とうてい進言できなかったことを、亡き久女の口を借りて語らせたという説もある。


 


 吉屋さんの小説には、さらにもっとひどい嘘、というより明らかな作為に満ちた記述がございます。

 

 ――なかでも長谷川かな女を、久女はライバルとした。東のかな女、西の久女と唱えられると、そういう気持ちになってしまう。ところが久女には虚子がどうやら(かな女)の方をごひいきのようにひがむことがあった。感情の起伏烈しくブレーキのいっさいきかない久女は早速と一矢を放った。「虚子嫌いかな女嫌いの単帯」 

 驚いたのは東京下町のむかしの正しい躾を身につけた、柔和な性格のかな女である。「呪う人は好きな人なり紅芙蓉」と、柳に風と優しく受け流して周囲をホッとさせた。一説にはかな女の良人零余子を久女が好きだったから……とも言われた。


 

 事実は時系列がまったく逆なのでございます。


 かな女の「呪う人は好きな人なり紅芙蓉」の発表は大正九年、わたくしの「虚子嫌いかな女嫌いの単帯」の発表は昭和十三年の「俳句研究」十月号でございます。

 それを無理やり入れ替えてしまうとは!


 物語を面白くしようと思えば、どんな悪辣で人を傷つけてもなんとも思わない。

 小説家とは、まことに恐ろしいものでございますね。



 

 

 それから十三年後の昭和五十一年、三本目の矢が昌子たち遺族に放たれました。


 水原秋櫻子さんらとともに新興俳句運動を担った秋元不二男さんの実妹で、橋本多佳子さんと懇意だった劇作家の秋元松代さんの戯曲『山ほととぎすほしいまま』が上演されたのでございます。


 これまた前二作の小説に負けず劣らず、大嘘だらけの誇張ぶりでございました。

 むしろ、視覚に訴える演劇であってみれば、さらにその罪は深うございました。


 ことに。

 女主人公が九州を訪れた師の膝にどうとばかりに倒れ込む場面、妻を閉じ込めておくために夫が戸を打ち付ける場面などは観客の評判を呼び、せっかく収まりかけていた久女伝説の再発掘と定着に一役も二役も買う役を果たしたのでございます。


 クリエーターを自称する方々の誇りは、どこへ行ったのでございましょう。

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