第8章 星野立子『玉藻』創刊――初雪の久住と逢ひ見て高嶺茶屋

 

 

 

 

 

 昭和五年六月、日本中の俳人たちが、あっと驚くような出来事が起こりました。

 虚子先生の次女の星野立子さんが主宰誌『玉藻』を創刊されたのでございます。

 ご尊父虚子先生の全面的な支援を約束されての順風満帆な船出でございました。


 立子さんはわたくしより十三歳下、まだ二十七歳のお若さでいらっして、俳句を始めて四年目、わたくし同様に『ホトトギス』の同人にも推されていないうちの、

 ――とつぜんの旗揚げ。

 でいらっしゃいました。

 あまりに露骨な身びいきへの批判も聞かれないではありませんでしたが、おそらくは『ホトトギス』の後継も視野に入れ、虚子先生のご一存で決められたことに、

表立って反対意見を言える俳人など、ひとりとしてあろうはずがございません。

 

 ご令息を三人、ご令嬢を五人お持ちの虚子先生が「なかでもこの娘が一番俳句に向いている」と公言されたとおり、立子さんは天性の俳人でいらっしゃいました。

 

 大仏の冬日は山に移りけり

 冬の浪くだけしあとの静かな

 黒揚羽湖の紫紺にまぎれけり

 風うけて蘆の枯葉や流れゆく

 

 そんな外連味(けれんみ)のない詩情を淡々と詠まれる方でございまして、わたくしも拝読しているうちに、つい微笑を誘われたりしたものでございます。

 ですが。

 句歴の長い方は、一誌の主宰としてはまだ少し……と思われたかもしれません。


 

 

 鳴り物入りで始まった『玉藻』の創刊。

 もうだれにも止めることはできません。

 正直なところ、釈然としない思いもございましたが、わたくしにも執筆の依頼がございましたので「玉藻御創刊を祝して」と題する祝辞をお贈りいたしましたし、なけなしの財布から、いくばくかのご支援もさせていただきました。


 祝辞は『玉藻』一巻一号の冒頭近くに「この九州の片隅から曙の光りの如く玉藻を遥かにのぞみ見ています」の一文が掲載され、巻末の主宰の立子さんの「消息」欄に「杉田久女さんよりのご寄付を喜んでお受けいたしましたことを附記します」と記していただきました。虚子先生は「立子へ」と題する餞を贈られました。


 

 ――(俳句を作る機会が乏しい立子を見ていて)「思いついたのは、おまえの手で雑誌を出すことであった。わたしの経験によると、雑誌を出すということは句作をする上において最善の方法ではないが、次善の方法であると考えるのである。

 

 それは雑誌を出すとなると、雑誌の経営、編輯(へんしゅう)などの方面に力を割くことが多くて、肝腎の句作に十分の力を尽くすことができなくなる。句作本意に考えると、雑誌を出すなどということはむしろ余計なことである。なくもがなのことである。しかし、雑誌を出すとなると勢い専門的になる。いやでも応でも俳句に親しむこととなる。これが句作本位から見て、最善の方法ではないが次善の方法であると考える所以である。

 

 おまえの場合にあっては、あるいはこれが最善の方法であるかも知れぬと考えるのである。おまえもずいぶん苦しいだろうと思う。家庭の主婦として子どもの母として、あり余る仕事がある上にまた雑誌の編輯に携わらなければならぬのである。その苦しいことは万々承知しているが、また自分の天分を発揮する上に一条の慰安がないともいえぬ。


 

 こうして再読してみますと、ご自分の娘への言葉を公にすることに何のためらいも持たれない並々ならぬ自信のほどに、いまさらながら驚くばかりでございます。

 ですが。

 妻の生き方に理解のない夫を通して、男性全般に失望していたわたくしの中で、虚子先生だけは特別、神に近い存在でございましたので、一部の先輩がかげでうわさするように、世間一般の常識からかけ離れた父娘関係だとは思いませんでした。

 それよりも、わたくしの目が強く惹かれましたのは、


 ――雑誌を出すとなると勢い専門的になって、いやでも応でも俳句に親しむ。


 という示唆に富んだ一文でございました。

 そのとき閃いてしまったのでございます。

 

 ――わたくしも自分の雑誌を持とう!

 

 それが俳人として成功の近道と、虚子先生が保証されているのでございます。

 父親の愛に満ちた『玉藻』の幸福を羨ましがっている場合ではございません。

 わたくしは、わたくしの命を吹きこんだ雑誌を世に問わなければなりません。 



 

 そのうちに『玉藻』第三号の課題「青梅」の句選者の依頼をいただきましたので、立子さんのため、虚子先生のために、全身全霊をこめてお受けいたしました。

 同時に朝鮮の釜山で発行されていた『かりたご』の婦人雑詠選者も務めました。


 ――自分でも思ってもみなかった主宰誌創刊の夢!


 それを呼び水にして弾みをつけていたわたくしが、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社共催「日本新名勝俳句」の募集を知ったのも、このころのことでございます。

 日本新名勝百三十三景のいずれかを詠むことが条件で、季題は自由。選者は高浜虚子。最も優秀な二十句に、帝国風景院賞として、一句につき百円の賞金を贈る。

 これだけの規模の俳句大会は本邦初でございましたし、数多の俳人を押しのけて選者は虚子先生おひとりというので、『ホトトギス』の内部は湧きに湧きました。


 山岳、渓谷、瀑布、河川、湖沼、平原、海岸、温泉。いずれ劣らぬ百三十三景の中で、わたくしは小倉のわが家にもっとも近い英彦山(ひこさん)を選びまして、折りを見てはひとりで登り、偉大な賞にふさわしい一句の句想を練りました。

 

 坊毎に春水はしる筧かな

 三山の高嶺づたひや紅葉狩

 秋晴や由布にゐ向ふ高嶺茶屋

 登りきて紅葉明りや神の前

 初雪の久住と逢ひ見て高嶺茶屋

 

 険しい山の頂きで休んでいるとき、ほととぎすの鋭い啼き声を聞きました。

 推敲を重ねるうち「ほしいまゝ」の下五が天啓のごとく降ってまいりました。

 のちに代表句のひとつと言っていただける一句が生まれた瞬間でございます。


 

 

 いささか不可思議な経緯はあったものの、結果的に、


 谺して山ほととぎすほしいまゝ


 この一句が帝国風景院賞の最優秀二十句に選ばれたのでございますが、この句が生まれた背景について、のちに受賞の感想を認めた一文を引かせていただきます。

 

 ――昨夏、英彦山に滞在中のことでした。宿の子どもたちがお山へお詣りするというので、わたくしもついてまいりました。行者堂の清水を汲んで、絶頂近く杉の木立ちをたどるとき、とつぜんに何ともいえぬ美しいひびきをもった大きな声が、木立ちの向こうの谷間から聞こえてきました。それは単なる声というよりも英彦山そのものの山の精の声でした。短いながら妙なる抑揚をもって、切々とわたくしの魂を深く強く打ちゆるがして、いく度もいく度も谺しつつ声は次第に遠ざかって、ぱったり絶えてしまいました。

 

 時鳥! 時鳥! こう子どもらは口々に申します。わたくしの魂は何ともいえぬ興奮に、耳は今の声に満ち、もう一度ぜひその雄大な、しかも幽玄な声を聞きたいという願いでいっぱいでした。けれども、下山のときにも時鳥は二度と聞くことができずに、その妙音ばかりが久しいあいだわたくしの耳にこびりついていました。わたくしはその印象のままを手帖に書きつけておきました。

 

 その後、九月の末ごろ、再登攀のときでした。いつものようにたったひとりで山頂にたたずんで四方の山容を見渡していますと、七人ばかりのお若い男の方ばかりが登ってきて、わたくしの床几(しょうぎ)の横に腰かけて、あれが雲仙だ、阿蘇だとしきりに眺めていられます。聞いてみるとその人びとは日田の方たちで、その中に俳人もあり、わたくしが小倉の者だと申すと「では、久女さんではありませんか」と言われました。そんな話をしながら六助餅を食べていました折りから、再び足下の谷で、いつかの聞き覚えある雄大な時鳥の声が盛んに聞こえ始めました。

 

 青葉に包まれた三山の谷の深い傾斜をわたくしはじっと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆくまで耳を傾けつつ、いつか手帖に記してあったほととぎすの句を、もう一度心の中にくり返し考えてみました。ほととぎすは惜しみなく、ほしいままに、谷から谷へと啼いています。じつに自由に、高らかに谺して。

 

 その声は、従来歌や詩に詠まれたような悲しみとか、血を吐くとかいう女性的な線の細い、女々しい感傷的な声ではなく、北岳の嶮に谺して、じつになだらかに、じつに悠々と、また切々と、自由に――。英彦山の絶頂にたたずんで全九州の名山をことごとく一望に収め得る喜びとともに、あの足下のほととぎすの音はいつまでもわたくしの耳朶に残っています。       (「日本新名勝俳句入選句」)

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