第7話 9月22日 対東京ナイツオブラウンド戦 前編

 秋にさしかかるこの頃日本プロ野球、俗に言う「ペナントレース」は佳境を迎える。

 下位のチームが「自力優勝」から続々と脱落する中10数年前からセ・リーグでも導入されたクライマックスシリーズに向けて優勝を諦めたチームも3位までの席を目指し、再び覇気を剥き出しに試合に臨む。

 今季、その当確線上に居るチームは首位をほぼ手中に納める東京ナイツオブラウンドのみ。

 俺の所属球団である広島ウィードも現在リーグ順位2位を守っているが、CS出場資格のないBクラスの4位までは2ゲームしか差がない。残り20試合あまり。

 ついでに言うとこの状態はさほど珍しい事ではない。

 首位のチームが独走すればするほど他のチームにそのしわ寄せが見られる事はよくある事なんだ。


 そんな他の4球団がCSへ眼の色を変える中。

 マジック5を灯す東京ナイツオブラウンドの牙城を崩そうと画策すは現状唯一優勝の可能性の有る2位広島のみ。

 この時の園方監督の方針は広島にとってもろ刃の剣とも言える。首位東京に全力を尽くすという事は他の相手チームに対して所謂「良い先発」が当てられないという事になるからだ。

 逆に優勝の目のない相手はその2位、3位の席に座っているチームに最善の布陣で挑む。


 マジックの仕組みを聞けば、よりこの体制が愚かしいと思うかもしれない。マジックというのはつまり首位、優勝チームが確定する事を表す。

 セ・リーグの公式戦試合数は143試合。つまり、対決数も決まっている為全ての試合を消化する前に必然的に優勝は決まる。要するに他の球団が残り試合数で首位を覆す2位の勝利数。そしてそれを阻止する首位の勝利数。

 その両者の数が残り試合により覆らなくなった時――マジックの数値が0となる。

 その年のリーグ優勝チームが決定きまるカウントダウンと言えば分かりやすいか。


 そして、ここまで言えばもうプロ野球の順位システムを知らない人でも想像が付く筈だ。

 そう――20数試合を残して、マジックが5という事。これはもう90%以上の確率で優勝する。

 2位のチームが20数試合で5敗以上せず。

 首位の東京が20数試合で5勝以上しない。

 そんな事――普通、プロの世界では起こり得ない。


 百も承知のその状況で。

 諦めない。という困難さとは。


「今日の先発は予告通り、桂坂かつらざか

 相手もエースの姿野すがたのをぶつけてきた。

 優勝も勿論じゃが、皆も知っての通りこの二人は今季最多賞を競っとる相手同士でもある。

 ……解っとるの?

 桂坂カツに勝ち星を付けて……優勝も頂く‼ それが、わしら広島の野球じゃあ‼ 」


 園方監督が、こう言ってチームの士気を高めるのは珍しい。

 何故ならばこういったやり方は彼のやり方ではないからだ。

 そう――これは、美浦監督が、チームの状態がどうしようもない時にやっていたやり方だ。

 それが解る者は、選手ではもう俺を含めて数名のベテランしかいない。


 つまり、そう言う事だ。

 ここに居る者達のほぼ全員が優勝を知らない。勝ち方を知らない。

 そんな中、背水の陣で挑むこの試合。


 行く末を占うのは、少しでも経験を積んだベテランのそれだと彼は読んだのだ。


 そして、それはこの試合で的中する事となる。


 序盤2回の裏、広島のエース桂坂がここで2アウトから連打を浴びて2失点。そして、その流れの影響か、内野陣が次々にエラーを併発して失点は5となりこの回で桂坂は降板。

 対して東京の投手、姿野は落ち着いた投球を繰り広げる。


 中盤6回を迎え――0対6、その差は6点。


「……トモ……」

 園方監督の呟く声が聴こえると、俺は立ち上がる。

「……この回も三者凡退なら、次のイニング……頭のピーの所で、代打……行くぞ」

 俺は、ゆっくりと立ち上がると傍らのバットを握る。

「全員の目が覚める様な一発が要りますね」

 その俺の言葉に、園方さんが驚いた様に振り返った。


「……頼めるか? 」

 その言葉に、俺は笑ってみせる。

「ええ。チャンスヒッターになってきますよ」


「七回の表……広島ウィードの攻撃は……バッター9番、アンダーワールドに代わりまして……バッターは、前町……背番号1」


 ウグイス嬢の声が響いても、いつもの歓声はない。

 どんな時でも熱狂という表現が似つかわしい広島ファンが、今日の試合を観て諦めているのだ。

 観客の空気というのは、想像よりも勝敗を分ける要因となる。

 俺達が若手の頃、広島の球場は現在のそれではなく、とても古い球場だった。平成を遥か前に迎えた時代に対してそこはまるで前年号の昭和で時が止まっていた。


 俺が産まれた頃が近年で最も広島が強かった時代で。その時はそのオンボロの球場にも観客が観客で溢れ返ったそうだ。


 しかし、時は過ぎその球場に訪れるファンは年々減っていき……。

 俺達はその球場が満員となった所を見る事が遂になかった。


 新球場になってファンが訪れ集まった事。それが間違いなく近年いまの広島の強さの一つだ。


 俺の今回……この打席での仕事は――。

 もう一度、ファンの心を信じさせる事だ。


 0対6、完全な完封ペースで進む好調の姿野に反撃の口火を切る。

 それは、公園の砂場で一つだけ光る砂を見つけ出す事と、どちらが容易だろうか?

 ……そんな事は決まっている。


 俺は、プロ野球選手だ。

 たとえ、1試合フルに……満足に出場出来ない、あの球場の様にオンボロだとしても。

 ファンに夢を魅せる。

 この絶体絶命のこの状況は。

 ――そのチャンスだ……‼


 姿野英司すがたのえいじ、年齢は30歳。東京ナイツオブラウンドのエースで日本を代表する右投手。安定して150キロ以上を計測する直球に、メジャーで流行っているムービング系も操り、特に厄介なのが4種類の球速と曲がり方をするスライダーだ。

 これで更に150球を投げる体力と、コーナーを突く制球力を持っているのだから、昨年まで2年連続で沢村賞とMVPを獲得するのも頷ける。

 

 今日の配球割合は圧倒的に直球と球速の速いスライダーを主体に組まれているが、受ける捕手、佐々波ささなみがまたいい仕事をしている。

 3回表、桂坂の代打で出たザビエイルに対しては、初球からチェンジアップ、そしてその後は徹底したスロースライダー主体という明らかに直球狙いのザビエイルを読み切り完封した。


 ――では、俺に対しては初球は何を選択する?


 可能性として一番高いのは、インコースボールラインに直球だ。

 これが決まれば、次の投球からアウトコースのスライダーが右打者の俺には致命的に効く。


 次にあるとすれば、初球に手を出さないと決めて甘い低めのコースに一球。しかし、万が一手を出された時の為にツーシームでゴロを狙う。


 ……いや、止めよう。


 佐々波という捕手の厄介な所は、その柔軟な思考配球にある。

 毎回毎回、まるで別人かと思う程のリードで配球を読んで打つ事をさせない事。そしてその実力は俺なんか足元にも及ばない。

 だからこそ――今回は俺の読みを信じない。


 考えろ。

 俺なら、俺がこの状況で代打で出てきた時、どう俺を攻略する?


 今、この状況で佐々波が唯一恐れる事は――。

 姿野の、この完璧とも言える投球鼓動リズムが崩れる事だ。

 そう――。

 絶対に避けるべきは、それが変わり得る事態。

 四死球。

 そして、前町智徳という選手は、代打で今季打率2割7分9厘、11打点。


 0本塁打。

 長打を警戒する優先度は低い。


 俺なら。

 俺相手に無駄な球を、姿野に投げさせない。


 そして技術を手にし、腕力を失ったロートル選手に。

 姿野の超一級品の直球をスタンドに運ぶ事は絶対に無い――と判断する。


 ……こいよ。

 佐々波、姿野。

 

 振りかぶった姿野の動きがスローモーションに入り、外の音が水を通した様な濁音の世界を纏わせる。その指先から放たれる瞬間の、そのボールの縫い目まで見える程に。


「パキィイイィイイイン――‼ 」

 直球。

 それは、間違いなく力で捻じ伏せに来る球だった。高めに腕を振り切った、日本を代表する投手の投げた渾身の直球。


 肩に力が入ったか、それが僅かに打者との対角線に反れた事が。

 彼にとっての不幸であり――俺にとっての幸運だった。


「ガシャンッッ」

 右翼手の選手が見上げる先にある、黄色いポールを揺らしその白球は彼のグラブに納まる。


 少しの間、しんと静まり返ったその室内球場が。


「うわぁああああぁあああああああああああ‼ 」

 と、大歓声を挙げて中央のオーロラビジョンが派手なファンファーレを奏でる。


 もし――球がもっと真ん中に寄って来ていたら、恐らく外野の頭を越す事は無かったろう。

 彼らの読みは間違っていなかった。

 俺に、姿野の渾身の直球をスタンドに放る腕力は、確かに無いのだ。

 偶々。

 偶々偶然、それが「流し打ち」出来るコースにずれてしまった事。

 それが、彼らの脳裏にも在った唯一、俺が他の打者よりも秀でていると評られた能力。技術力と繋がってしまった。


 歓声が木霊するダイヤモンドを一周するのは、1年ぶりの事。忘れずにこなせるか心配になるな。


「すごいな、トモ君。ホームランじゃが」


「トモ‼ ようやった‼ 」


 世界が、現世に戻る狭間で遠い時間の向こうからその声は聴こえてくる。

 冷静ぶっている俺が興奮でどうかなっている事の象徴だと思う。


「わぁあああああああ‼ 」

「まえまちぃ~~~~‼ 」

 最後のホームベースを踏んだ時。

 耳を塞ぎたくなる程の歓声が自分の名を呼ぶ。

 そして、俺は三塁側のベンチに戻る際にその10番目のチームメイトに最初に応えるのだ。


「前町さん‼ 」

「ナイバッティンです‼ 」

 我が家の前では、チームメイト達が怖くなる程手を伸ばしてきていて、それを一つずつ丁寧に叩いていく。

 全てを終える頃に肩がやや重みを覚える。ようやっと一仕事を終えた身体をベンチに預けると、近くの紙コップにビタミンドリンクを入れて飲み干した。最高に今日のドリンクは美味いな。


「トモ、ようやってくれた」

 試合中に、監督自ら声を掛けてくるのは非常に珍しい。


「まぐれが当たりました。どうせなら走者が居ってくれたらよかったですね」

 そんな、俺の冗談に監督は力強く頷いた。

「確かに、ランナーは居らんかったがそれ以上にいいものが打者陣に宿ったわ。見ぃ、先程まで辛気臭く姿野の球を見る事しかしてなかった奴らが目の色を変えとる。ベンチも声を出しだして、明らかに空気が変わっとる。

 ……勝つぞ。トモ。今日は勝てる試合じゃ」


 そう、この場面で6点差が5点差になった事は、そう重要ではない。


 大切なのは。

「今日の姿野の球は打てない」

「逆転は不可能」

 と、いう味方側の空気を変える事。

 そもそも、大量失点は序盤であり、その後はリリーフ陣が必死で1失点に留めているのに、肝心の打者が正面堂々と姿野にぶつかりすぎていた。それでは、佐々波の思うつぼだ。

 相手は、2年連続MVP、沢村賞の超エース投手。

 だが――俺達も同じプロ野球選手なんだ。


 同じ人間を相手にするのだから、方法は幾らでもある。

 だのに、それが思考にも視界にも入らなくなるのは危険と言う他ならない。


「いけ~~~‼ 真倉まぐら、繋げ~~」


 例えば――今、打席に立っている真倉五郎まぐらごろうの最大の武器はその俊足にある。

 真倉の50メートルタイムは、5秒6これは、非公式測定ではあるがなんと日本陸上記録を上回っている。

 真倉の場合、綺麗に球を捉える必要はない。

 三遊間方向にゴロを転がせば、ほとんどの確立でヒットになるのだ。


 そう――現在の正にこのように。


 観客が「わーーー」と一斉に沸き出した。

 代打の選手に本塁打を打たれた直後の初球。仕掛けるにはもってこいのタイミングだったろう。

 ここまで3打席完璧に抑えられていた真倉はセーフティバンドを決めた。これには先程まで涼しい顔だった姿野の表情が明らかに強張る。

 結果はセーフティになったが、一塁手の外国人選手エヴァンのフィールディングがもう少し良ければ間に合うタイミングだった。

 俺の本塁打が効き始めている。

 余裕綽々にゲームを進めていた、姿野が今初めてその決着を焦っている。


 続く、二番打者、泳着晴道およぎはるみち。10数年前から他のチームでも取り入れられている「打てる二番」タイプの打者。

 バントよりも、シャープなバッティングが特徴的な彼は一番の真倉と相性がいい。

 チーム最速を誇る真倉は、その俊足ながら盗塁数はチームトップの木藤のそれの半分にも満たない。

 彼は、盗塁のスタートがとても下手なのだ。

 だから、定石通りの送りバントが決まりにくい。


 それに対して打率3割を誇る巧打者の泳着が2番に入っている。確かに真倉のスタートは遅いが、加速が付けば、間違いなくチーム最速。内野を越せば二つ先の塁は固い。

「カキィン」

 白球が三塁線ライン際を、雷の如く打球が襲う。

 三塁手が懸命に飛びつくが無情にもそれは、その脇を走り抜けた。

「わぁあーーーーーーーー‼ 」

 鳴り物の音と歓声が場の空気を割らんが如く、響き渡る。

 ノーアウト、一、三塁。そして打者はここで最も結果が期待できる男。木藤。


「歩かされますかね? 」

 隣でスコアノートにペンを走らせながら、井土さんがそう尋ねてきた。


「だとしたら、もう申告敬遠が行われていますから……

 姿野を信じて勝負でしょうね。

 満塁で四番の雲母きららと勝負したとして……万が一本塁打が出たら、1点差。

 ここで、木藤を最悪で外野フライに打ち取って。

 1点支払ってスコアリングランナーを消しておきたいのが、向こうさんの思惑じゃないかな」


 俺の言葉に、少し肩を揺らしながらも井土さんも俺も視線はグラウンドから反らさない。

「流石、前町さん――となると、ここは……」

 俺も、少しだけ笑いが込み上げた。

「ええ――

 大チャンス。です」


「カアァァァン」と、甲高い竹を割った様な音。

 互いのチームのエースとスラッガーの堂々とした、力と力の勝負。


 その結末を、白球は無情にも現世に描き出す。

 やがて、それが大きく弾ける様に到達地点にぶつかるが。


 打った瞬間から、球場内には歓喜の叫びと、悲哀の悲鳴が木霊していたから。


 その音はもう聴こえない。


 木藤は見事に姿野の初球スライダーを振り抜いてバックスクリーンに放り込んだ。

 右手を高々と突きあげながらグラウンドを周る彼に、俺の時よりも大きなそれが注がれていた。


「……? 前町さん、どちらに? 」井土さんが思わず。と言った感じでそう声かけてきた。皆が木藤を迎えようとベンチの前へ駆け寄る中、俺一人逆方向のベンチ裏へと歩を進めていたからだ。


「準備ですよ。次の投手のデータ。頼みます井土さん」

 彼は「へ? 」と間抜けな顔でそう呟いた。普段冷静な彼にしては珍しい表情だ。


 俺はベンチ裏のフォーム確認の部屋に入ると静かにバットを構える。


 あんなものを見せられて同じ野球人として高ぶらなければ、それは嘘だ。

 本当に、現在のメンバーと同じチームで野球が出来て俺は幸せ者だ。


 過去の広島は、CSもなかったこの時期になると所謂「消化試合」になって、無意味なチームの勝利より皆自分のタイトルだけを狙っていた。

 その時代による規則の変更も影響はしているのだろうが。

 現在のこのチームは、どんな大差がついた勝負でも決して「諦めない」あの頃の俺達が欲していたその全員の姿勢が在る。

 俺のあのまぐれのホームランで、彼らは再び歩み出した。

 薄氷よりも薄く、そして渡り切る事が困難なその「勝利」への道を。


 ……らしくないな。まるで詩人だ。


 俺は、瞑想から瞼を開くと一度、バットを振り切る。

「ヒュンッ」と音が後から空気を割いて聴こえてくる感触。

 どうやら、今日の俺の調子は悪くない。

 そう思った時、慌ただしくその扉が開くんだ。

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