第5話 8月2日 大阪梅田オクトパス戦後

「うっす‼ 前町さん‼ 今日は同部屋よろしくっす‼ 」

 ドアを開けて、開口一番。まるで幼稚園の様な元気溌剌な声が響いた。

 夜じゃなければ元気を分けてもらえる様なその声だが、残念ながら今がその夜なので、唯々安眠の妨げとなる迷惑な行為だ。


「ああ、木藤。お疲れ。でも、もう夜遅いからな挨拶はいいぞ」

 俺は、窓際の木製の椅子に腰かけながら玄関で直立不動の若者にそう返した。


「うっす‼ すんませんっす‼ 」

顔の横の窓ガラスが衝撃でビリビリと揺れる。


「……とりあえず、シャワーでその汗流せ。な? 」

 どうやら、木藤は晩飯の後も素振りやらホテル周りをランニングして来たようだ。身体中から溢れ出る濃い汗の臭いが一気に部屋の中を満たした。


「うすっ! 失礼します‼ 」

 そう言うと同時に着ていた短パンとパンツ。Tシャツをその場に投げ捨てて裸で風呂場へと消えていく。

 俺は、臭いの原因のそれを眺めると、近くに置いてあったビニール袋を裏返して、それを拾った。


 それだけしかしていないから、時間にしてものの2、3分だろう。

「ういっす‼ お先にシャワー頂きました~‼ 」

 風呂場のドアが、勢いよく開かれて身体を拭いてもいない木藤が飛び出しながら、そう叫ぶ。


「……身体はきちんと拭きな。風邪ひくぞ」

 そう言うと、横のクローゼットを開けてタオルを取って俺は木藤に投げ渡した。


「うす‼ ありがとうございます‼ 」

 礼を返すとガシガシと乱暴に全身を拭き始めた。


 木藤毅彦きとうたけひこ。守備位置右翼手、右投げ両打ち。背番号51の高卒6年目24歳。4年前から1軍でその才気の片鱗を見せ瞬く間にレギュラーの座を獲得。

 その後、毎年更なる進化を見せ4年連続3割40本塁打30盗塁を記録、今やチームを越えて国内を代表する若手のスラッガー。

 8月現在、首位を走る広島の原動力はまず間違いなくこの男の活躍と言っていい。

 現在打率3割8分5厘、34本塁打、81打点は、堂々の現行三冠王。驚くは更に31盗塁で盗塁王まで視野に捉えている所だ。史上初の四冠王を視界に捉える。


「うす。前町さん‼ 向かい。座って良いすか? 」

 俺の「おういいぞ」の「う」のところで、木藤は俺の向かいのチェアに腰掛けた。

「……おう……」結局「いいぞ」は俺の口から出てこなかった。


「……ん? 」

 そんな中、俺は向かいに座った木藤が場に似つかわしくない物を握っている事に気付いた。


「え、なんでバットむき出しで持っとん? わしを襲って現金でも奪うつもりなん? 」

 勿論、俺なりのジョークなんだが、その言葉を聞いた木藤は首が飛びそうなくらい横に振るう。

「す、すみません‼ お、おれ。バットを持ってないと落ち着かないんです‼ 」

 そう、木藤は寝るまで風呂やトイレ、食事の時以外常にバットを持ち歩いているのは今やチームでは知らない者はいない。


 気持ちは解る。


 今の木藤はバットと感覚を共有している状態と言っていいだろう。その状態を試合まで維持しようと、彼は今片時もバットとの時間を割きたくないのだ。非常識な行為だがそこには合理的な意味が在る。

「冗談だ、木藤。ただ周囲には充分注意しろよ。暴漢と間違えられたら最後だ」

 それに対し、彼は一気に表情を明るくして「はい‼ 」と子どもの様に無邪気に応える。


「……訊いて良いすか? 」


「何を? 」の「な」の所で木藤は言葉を続ける。

「前町さんは、なんで野球始めたんすか? 」


「はぁ? 」予想にもしていなかった突然の問い掛けに、間抜けな声が漏れた。


「……野球を始めた……理由? 」

 目の前の青年はこくんと首を縦に振る。


 何故、野球を始めたか。

 確かにそれは理由というか、きっかけが間違いなくあるだろう。

 しかし、もう35歳。そんな遥か昔の事は頭の中の朧気な霧の中に霞んでいる。


 ――参ったな。


「木藤は、何で始めたんだ? 」

 時間稼ぎも兼ねて、俺は問い掛け返す事にした。

「俺っすか? 野球が大好きだったからです!

 生まれてすぐに、祖父ちゃんがバットを買ってくれて、それを遊び道具にしてて自然に……」


「ははは。随分危なっかしい子どもだな」


「…………」

 ――え⁉ 終わりかよ?


 短いものになるかもと、予想はしていたがまさかの一言とは。そして、木藤はキラキラした瞳を俺にコロコロと向けてくる。


 野球を始めた理由。霞の中を……少しずつ彷徨ってみるか。この若者と一緒に。



 ――28年前。


「とーちゃん、とーちゃん。あの建物ってなぁに? 」

 盆や正月といった家族親戚が集まる日には限ってうちは、寿司の持ち帰りを頼んでいた。言っても当時ではファストフードの扱いだった回転寿司だけどな。


 その寿司屋から見て、登坂を経た先にその変わった建物は在ったんだ。


「ありゃあ……バッティングセンターじゃのぉ。へぇ、こっから見た感じ結構古い昔ながらの奴じゃろな。

 ……行ってみるか? 」

 俺は、その言葉が嬉しかった。父親は自営業で一緒に遊ぶ時間なんか滅多になかったし、何よりその「バッティングセンター」という建物が俺には遊園地の様にしか見えなかったんだ。


 首を金槌の様に振るう俺に、父親は微笑んでいた。

「よし、じゃあ寿司が痛まんようにドライアイス貰って来るけ待っとれ」


 親父と初めて行ったバッティングセンター。

 それが、間違いなく俺の人生での野球の始まりだ。


 緑のネットに包まれた、動物園の裏側みたいな、サーカスの控室の様なその建物。

 当時、見た事も無かった瓶のコーラの自販機。

 隣のプレハブ小屋には、一昔前のアーケードゲームと、これまた初めて見るピンボールマシン。しかも1プレイ10円だった。


「あい、20球200円ね」

 中央ら辺のスーパーの外で宝くじを売ってる場所の様な所で、父親はお金をメダルに替えてもらった。

「バットは、借りれる? 」

 父親が受付の老人に尋ねると。

「入ってすぐ横に置いとる」と消え入りそうな声で返事が返って来た。


 初めて握ったバットは、それまでの人生で夏休み前に持って帰った朝顔の植木鉢の次に重かった。


 それを振って、飛んでくるこぶし大の軟球を打ち返す。


 単純明快ながら。

 それが上手くいかない不思議。

 バットを振るえば、身体の軸がずれにずれて身体が有らぬ方向へ流れていく。


 初めての20球、球速70キロのそれに俺はカスる事もなく。それどころか半分以上はバットを振る事も出来なかった。


「ハハハ、トモ君。球をよく見にゃ当たらんよ。出ておいで。お父さんのちょっと見ときんさい」

 そう言うと、父親は球速100キロのゲージに入る。


「100キロ‼ 」

 驚いたね。当時の俺にとって「100」って数字は存在する数で一番大きいイメージしかなかったから。

 今でなら、遅すぎる球の方が難しかったんだって分かるんだけど。


 父親のバットを構える姿ってのは、想像よりもずっと格好が良かったな。

 子どもの頃、一番身近なヒーローは親父だってのは多分皆そうなんじゃないだろうか。


「うがっ」

 そんな父親の記念すべき俺の前で迎えた初球は見事な空振りだった。そして、それが威厳というか自尊心を保つ為か。

「う~ん……やっぱり軟球用のバットは振り難ぃのぅ……」

 俺の方を振り返らずにそんな事を呟いていた。


「とーちゃん……」

 心配そうな俺のその言葉は。

「カキィイイイン」と、耳の奥まで響く金属音にやがてかき消される。


「どうなら、トモ君。今の見たか?

 今のが、とーちゃんの真のバッティングじゃわい」

 当たった途端、得意そうに振り向く父親が。

 ――本当に、格好良かったから。



「……そうじゃなぁ……小学1年くらいの時に、行ったバッティングセンターがわしの野球を始めたキッカケじゃなぁ……」

 それを言って、目の前の……自分より一回りも年下のその青年はどんな表情をするのだろうか?

 見てみたい好奇心も在れば――不安というか、緊張も在る。

 俺は、ゆっくりと目の前に視線を移した。


「……はぁ? 」

 そこに居た青年は、想像もしていなかった反応を見せていた。


 何の事は無い。テーブルに突っ伏して眠りに落ちていたのだ。

 

 それを見て、俺は少し安堵した。


 内面的な事を後輩に話したのは初めてだったし、何よりもその話に出て来る重要人物はもう故人だ。湿っぽくなるのも目に見えていた。

 それを望んでいた自分の深い所の思いも何だか弱みの様で。


 聴かれなくて、むしろ良かった。


「おい、おい、木藤。ちゃんと布団で寝ろ」

 肩を揺らすと、その青年は声にならない声を出しながら、近くのベッドに倒れ込んだ。

「ごいん」と、持っていたバットが倒れた拍子で頭を打ったが、気にせず鼾がやがて聴こえる。


「やれやれ」俺は近づくと、その上から掛布団を掛けてやる。

 木藤は、完全に寝入りながらも、その両手でしっかりとバットを抱きかかえていた。







「……それで? ドライアイスが溶けるまで二人で遊んでたんですか? 」


「ん? いや、バッティングセンターはよいよ居らんかったんじゃけどな。どしても智徳にちゃんとした道具を買ってやりたくてな。バットを見に行ったんよ」


「……それで、疲れて寝ちゃったんですか」


「うん……でも、見てみぃ。ほれ。嬉しそうにバット抱いたまま寝よるんで」


「……将来は、プロ野球選手ですかね? 」


「……わしらの子どもじゃけ、そんな高望みしちゃあ可哀想じゃけど。

 そうじゃなぁ……ウィードに入団してくれたら、これ以上の自慢はないよの? 」





 嬉しそうなその会話はまるで――心のゆりかごのようで。

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