第2話 6月22日 対東京ナイツオブラウンド戦後

 交流戦明け。


 翌日の移動日を挟み、東京で二連戦を控えている俺の元に、その男からの連絡は届いた。


「おう、マチ‼ 明日上京してきたら銀座ザキンで久々に飲もうぜ‼ 」

 その、底抜けに明るい声に俺は受話器越しに溜息を吐いた。


「冗談じゃないわ。連戦明けならまだしも、連戦前に敵チームのヘッドコーチと酒飲む選手なんか居りゃあせんじゃろ」


 ――そう、電話の向こうの相手は昨年から東京ナイツオブラウンドで、ヘッドコーチを務める勝丸拓也かちまるたくやという男だ。

 何故、そんな男が俺の携帯に電話を掛けてきてそんな事を言ってるのかというと。


 この男、元チームメイトである。

 同じ200X年ドラフトの同期であり、こいつが3位で俺が4位。同じ外野手という事も在り互いに意識する関係だった。でも、こちらは高卒で向こうは大卒での入団だったので何というか。アマの延長線で先輩後輩関係となった事で打ち解けるのも早かったんだと思う。

 酒とタバコを教わったのはこいつからだし、今の嫁さんと出逢えたのもこいつのおかげといえばおかげだ。

 そんな勝丸だけど――今から8年前のオフにFA権を使用して現在の球団。東京ナイツオブラウンドに移籍した。

 理由としては常勝球団の東京で優勝を経験したいというものだったが、実際は広島時代の何倍もの移籍金を用意されていたという話だ。

 正直、複雑だけど移籍それは俺達の仕事では別段珍しい事じゃない。


「よし、解った。それじゃ日曜のデーゲーム明けならいいだろ? 絶対じゃけえな? 」


「いや、待て待て。試合が終わったら明後日は広島なんじゃけ、わし戻ら……」

 しかし、俺の言葉は途中までしか出なかった。

 言うだけ言って、あいつ切りやがった。


 ――日曜夕方、銀座。


「おう、こっちこっち。こっちだぁ、マチ‼ 」

 銀座の小洒落た寿司屋。東京に行ってからのこいつの行きつけの店だ。


「わかったけ、大きな声だすなや。他のお客さんに迷惑じゃろうが」

 やれやれと、溜息を吐きながら奴の隣の席に俺は腰掛ける。


「よしゃ、じゃあまず乾杯といこか‼ 大将。とりあえずビール‼ んで、適当に高いネタから握ってって」


 間もなく、グラスで綺麗に泡立ったビールが二つ目の前に並ぶ。


「乾杯」勝丸の声に合わせて俺はグラスを合わせた。


「広島は、今年は優勝するかもしれんなぁ」

 何品かの寿司を飲み込んだ時、あいつはそんな事を言い出した。


「折り返し前に6ゲームも差を付けとるチームにそれを言うか」思いっきり皮肉で返してやった。


「おいおい、冗談じゃないぜ? 広島はここ数年Aクラスの常連じゃし、木藤なんかすげー成長しとるが。ありゃあ来年の五輪で日本の四番打つで? 」

 本気で言ってるらしいが、ここは冗談と思っておく事にしておこう。

 そして、暫く寿司を食う音しかしなかったが。


「なぁお前、なんで広島にこだわるんじゃあ? 」

 ふと、あいつがそう尋ねてきた。封印してた広島弁が出てきたところを見ると、少し酒が回り出したらしい。


「そりゃ、あんた。広島以外にわしみたいな大怪我持ちの代打しか出来んおっさんを雇うてくれる球団なんかありゃせんが」

 少し、冗談ぽく俺は返した。しかし、あいつはそれが気に入らなかったらしい。持っていたグラスをテーブルに音を立てて置くと、顔を横に向け、真直ぐに俺を見る。


「あんなぁ……確かにお前はアキレスやら十字靭帯ぶちめがしとるから、走ったり守ったりは出来んじゃろうが、それでもDH指名打者のあるパ・リーグなら引く手数多じゃろうが。実際に今年も交流戦で何試合かDHでスタメンじゃったろう? スタメン出来るがな。昨日は出番なかったが、今日も上畑うえはたからきれーに流しやぁがって……。

 それにおまあ、今給料幾らよ? 代打だけじゃったら良くて5000位か?

 パ・リーグで右打者が不足しとるチームなら喜んで倍出すじゃろうて。上のお姉ちゃん、再来年中学じゃろ? 金は有って困るもんじゃないぞ。

 わしは去年引退してもFAの条件でコーチに就けてもらえたけど、正直それがなかったら四十前で無職ど? 稼げる内に稼ぐのもプロど? 」

 俺は、笑って誤魔化そうとしたが、そうもいかんらしい。持っていたグラスを飲み干すと、なるべく感情を込めない様に静かに言った。


「給料は……確かに有って困るもんじゃないが……でも、現状の生活でも特に不憫なく嫁も子どもらも送れりょうるし……わしはあんたと違って生まれも育ちも広島じゃけえのぉ……やっぱ住みやすいってのが一番よ。

 それに……引退しよう思うとったわしに代打って生き方を教えてくれたのも、監督園方さんじゃしな。あの人の指揮の下……やっぱ広島で野球がしたいんじゃな」


 それを聞くと、あいつは酒のせいか顔を赤くして真似の様にグラスの中のビールを一気に飲み干した。


「あ、あんなぁ……お前、おまあのぉ……

 わ、わしだってのぉ……金に目が眩んで、広島を出たわけじゃあなあんぞ?

 わしが、FAん時の会見で言った理由を覚えとるか?

 優勝できるチームに行きたかった。

 でもな? わしは広島だって優勝できると本気で思っとたんぞ? 」


 そこで、言葉が止まったのは続きの言葉で俺に気を遣っていたんだなぁと解った。


「お前が怪我ぁする前はのぉ……」


 思わず、俺は息を呑んだ。2人の間に得も言えぬ空気が纏わり出す。


「は、ははは。あんたがFAしたんわ、わしのせいってか? ははは。冗談でもキツイで。それは」

 しかし自分の声と思えない程その声は上ずってしまっていた。


「そりゃ、そうじゃろ。

 あの頃は万年Bクラスじゃった広島にようやっと東京へ対抗出来るカードが揃いだした時じゃった。

 わしもホームランが30本打てる力が付いてきた頃じゃったし、投手も小粒ながら先発の駒が揃いだしとった。

 でもな、何より大きかったのはマチ。お前じゃ。

 怪我する3年前から右翼手のレギュラーを自力で勝ち取って、そっから2年連続でトリプル3……しかも2度目の時は、首位打者と盗塁王付き、おまけでゴールデングラブまで獲りやがった。確かその年はオールスターで文句なしのセの4番を張ってMVPまで当たり前の様に獲って。

 でもよ、お前の成長は傍から見ても、まだまだ続いとった。

 ――あの年怪我がなけりゃ、4割も打てとったじゃろうな……」


 その言葉を止める様に、俺はお茶の入ったグラスの氷を鳴らした。

「んな訳なかろうが。4割なんざメジャーでも居らんのに」

 だがその反応はまずかったらしい。ムキになった様にあいつは身体を跳ね起こして来た。


「なーーーーー、わきゃあなーーわ‼ 5月半ばの時点で打率4割9分、ホームラン17本なんざ成績どう考えても普通じゃあなぁ‼ 完全に覚醒したお前の実力と運が間違いなく絡んで‼ チームも連勝に次ぐ連勝‼ 開幕して2カ月で2位の東京に7ゲームも差をつけとった‼ 

 しかも、20年ぶりの優勝を勇退が決まっとった監督の為にと、チームが一丸になっとったんじゃ‼

 そんな中、お前が‼ 試合中に選手生命が脅かされる様な怪我をした‼ 」

 その言葉が、苦みを以て俺にあの日を思い出される。出来れば、思い出したくない何の面白さもない過去の昔話だ。


 その日は、先日の名古屋戦の様に膠着した投手戦だった。先にあいつが言った様に当時の広島は誰が見てもノリにノッており、その試合も五月ながら11連勝を懸けた大事な試合だった。

 勝ちたかった。俺達をプロの世界に入れてくれた当時の監督、美浦みうらさんを……広島で二人目の優勝監督にさせたかったから。


 そんな事を考えていたからかもしれない。


 俺が打った打球はぼてぼての遊ゴロだったが、運良く深い所に転がった。

 最終回の先頭打者だった俺は、それを見て全力疾走で一塁へ駆けた。

 そして、審判の「セーフ」という言葉を聞いた時だった。


 ハッキリと覚えている。

 太いゴムの様な……自転車のタイヤなんかがひょっとしたらそれに近いのかもしれない。実際に聴いた事は無いんだが。

 ともかく、そんな……そんな物がブチ切れる音を俺は聴いた。

 不思議な感覚だった。

 音なのに、それは耳からでなく直接自分の脳内に体幹の軸を通して響く、あれ程の不吉な予感を覚える音はそう多くない。


 その直後だった。

 これは、そういった経験のある者なら把握る事だが。試合中というのは何事であってもその最中に「痛み」を感じる事は少ない。

 強い興奮状態。所謂アドレナリンがバンバン放出されているからだ。

 だからこそ――俺自身も驚いた。

 その、痛みの膨大さに。


 歩けるとか、立てるとかの次元じゃない。

 襲い来る異常とも言える痛みに気が狂いそうになった。本気で痛みの元の足を切り離したいとすら思った。死球の経験もあったけど、あれは当たるまでのコンマ数秒痛みに耐える時間がある。ああ~これは当たるなぁって感じで。

 おかしいと思われるかもしれないけど。


 ――だから多分俺は、あの時死んだんだなって、あの時も。いや今も、そう思ってる。


「飲み過ぎじゃわ、勝丸さん」

 自分の肩に担ぐようにしてあいつを何とか店から出すと、そのまま用意してもらっていたタクシーに押し込む様に乗せた。


「おい、勝丸さん。帰るトコはきちんと運転手さんに自分で言いんさいよ? 運転手さん、申し訳ないですがよろしくお願いします。大雑把なトコは世田谷の方ですけえ」

 そう言うと、運転手は「ああ、はいはい」とにこやかに微笑んだ。

「お? 」その反応を見て安心して離れようとした俺の襟が引っ張られた。

 見ると、明後日を見る目であいつがボソボソと呟きだす。


「なぁ――美浦さんは……監督は……

 わしの事……今も裏切りもんじゃと……思うとるじゃろうか? 」


 あぁ――またか。


「思うとりませんよ。勝丸さんが東京でブチ打って移籍一年目から東京の優勝に貢献したんを、監督は喜んどったって、園方さんからリハビリの時に聞きましたから」

 その俺の言葉を聞くと、あいつはまるで安心しきった様に手を離す。


「じゃあ、運転手さんお願いします」


 タクシーのドアが閉じ、エンジン音を鳴らして離れていく。


「さて……と」

 今日はやけに明るい夜だ。見上げれば満月じゃないか。

 ランニングの出来ない俺のウォーキングにまるで花を添えてくれている様に。


「監督、見てくれとんですか? 」

 言った後で、ハッとする。

「わしも、少し飲み過ぎたかのぉ……」


 その月明かりを眺めながら、ホテルへと俺はゆっくり歩を進めた。

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