チャンス・ヒッター

ジョセフ武園

第1話 4月5日 対名古屋ホエールシャークス戦

『ピンチヒッター』という言葉がある。


 意味は、野球の用語で代打で出る選手を指す。その所以はかつての野球は9人で行う事が前提で怪我等の異常事態でのみ交代が許されていたかららしい。

 要するに、その選手が出て来る時は間違いなくチームに非常事態が起きている『ピンチ』であり、それを救うという意味で使われていた言葉と言うのが通説だ。


 ……しかし、時代は変わり野球の規則ルールも変わった。今や9人で野球をするなんて事は馬鹿げていてアマチュアでもそんなチームは存在しないだろう。

 色々な役割がそれぞれの選手に割り振てられ、プロの試合では平均で1試合15人近くの選手が毎日出場している。


 代打は、もうチームのピンチを示すものではない。


 いや、今の代打は寧ろその逆だと思っている。

 代打が球場にコールされる時は、決まってその試合の行く末を占う時だ。

 

 ならば……俺達の様に代打を専門とする選手は、こう呼ばれるべきではないか?


 そう……『チャンスヒッター』と。





 耳が裂けそうな位の賑やかな轟音と、目を潰すくらいの眩いライトが地の緑を焼く様に照らす。そのただっ広いこの場所が。俺の職場だ。

 季節は春を終えようかと言う、日中でも少し肌寒い時期だ。ましてや今日の様なナイターでは長袖くらいが丁度いい。


「トモ。次のイニング――投手の所で出すぞ。準備頼むわ」

 ベンチでリラックスしている俺に、打撃コーチの志摩しまさんがそう教えてくれる。


 試合は、0対0の投手戦のまま終盤7回のこちらの攻撃が終った所。

 俺はスコアラーの井土いづちさんにいつも通り合図を送るとそのまま愛用のバットを持ってベンチ裏へ向かった。

 前方にガラスが貼られているそこは、自分のスイングをチェックする為の部屋だ。

 そこで俺は鏡に写るもう一人の俺を見つめながら、一度ゆっくりとバットを振りきった。

 ――おっと、失礼。そう言えば自己紹介が未だだったな。


 俺の名前は、前町智徳まえまちとものり。今年で35歳になる、まぁ世間一般では中年とか、おっさんとか言われる年齢の男だよ。

 4つ年下の嫁さんと、11のお姉ちゃんと8つの息子のいる四人家族。惚気のろけるわけじゃあないが……まぁ、幸せに毎日生きている。


 ……そうそう、もう仕事は見てて理解ると思うが。

 俺の仕事は、野球選手。それも日本で最も上の舞台。プロ野球の一選手だ。


 ……ん?

 へぇ、そんなに褒めてくれるかい? まあ、確かに特殊な仕事だし、なろうと思ってなれるモノでもない。でも、なろうと努力しなけりゃなれないモノだからな。


 でもな? きっと、あんたのイメージでは華やかなそれが思い浮かんでんだろ?


 初めに言っとくけどな?

 ここも実はそんな華やかで煌びやかな世界じゃないぜ?


 確かに、一部の奴らは成功に次ぐ成功を収めて見る見る内にトッププレイヤーの階段を算段飛ばしで昇っていく……羨ましい限りだよ。


 ……俺?

 ああ、俺にはそういうチャンスはもうない。そういう役割に収まってるからな。大体35歳は世間一般では働き盛りの若手と言われるかもしれんが、この世界ではもうロートル。ベテランや化石なんて言われるんだぜ?

 チャンスは、若者に優先して与えられる。俺は自分の居場所を護るのがやっとさ。


 ……え? じゃあ俺の役目ってのは何なのかって?

 まぁ、慌てなさんな。俺の予想じゃそろそろ来るはずだから。


「前町さん‼ 守備2アウトです。そろそろベンチ裏戻って下さい‼ 」

 どたどたと、若手の後輩がそんな事を伝えに来る。


「わかったぁ」そう言うと俺はもう一度鏡に写る自分を見て一度頷くんだ。




「八回裏……広島ウィードの攻撃は……バッター……9番。アンダーワールドに代わりまして……前町。背番号1」


 俺の名前が、球場の巨大スピーカーから綺麗な娘さんの声で伝えられると、球場が揺れる程の歓声に包まれた。

 はは気分いいな、どうだい意外に人気あるだろ?

 チームカラーの赤のユニフォームを着たファン達が敷き詰められたアルプススタンドはいつ見ても絶景だ。


 それを眺めていたいが今は監督とスコアラーからの情報収集が先決だ。

「トモ、見ての通り膠着戦じゃ。この回に点が入りゃあなんでもいいがとりあえず拮抗を破ってくれぇ」


「前町さん。相手は中継ぎエースの狩間かるまです。球速は今季平均144キロ。今季投げている持ち球はスライダーとカーブ。今日は直球が走っていないようでコースにもイマイチ決まらないみたいですね。あ……捕手は二番手の毛利もうりが6回から引き続いてます」

 二人の言葉を聞くと、俺は小さく頷く。ここで言葉を吐くとようやっと貯まり始めたこの感覚を失うからだ。


 ネクストサークルまで向かう頃には、俺にはもう外部の声は聴こえない。

 少し離れた場所でこちらにボールを放ってくるその男の姿しか見えない。


 そう……この華やかなプロ野球の世界で俺の居場所は。

『代打専門』という、特殊な部門だ。


 代打――一試合の内、誰かの代わりに一打席だけ打席に立つその仕事は、ある意味このプロ野球の世界で『最も楽な仕事』と言えるだろう。

 平均3時間弱ある試合の中で長くても5分という速さでその役目は終わる。つまり肉体的な疲労という点から考えると、その考えは正しい。実際に選手の評価とも言える給料でもその点でスタメンで出る選手達とは雲泥の差が現れる。


 だが、だからと言って誰にでも出来る役割ではないと断言できる。


 昨年のプロ野球の全安打数は14855本。その内代打で打たれた数は552本。つまり全体のおよそ4%。

 そして四死球やエラーを除いた代打安打成功率はおよそ2割2分。因みに規定打席到達選手の平均値は約2割6分。

 前述に伴い3割が1流と言われるプロ野球で、代打においてのみその数値は2割5分に引き下げられる。


 ……ん? ずるい?

 おいおい、待ってくれよ。よく考えてくれ。


 代打はな?

 基本、1試合に1回しか打席が回ってこないんだぜ?


 つまり言うならば。

 スタメンの奴らは丸々1試合出ると4打席は回ってくるだろうから。5試合で6本安打を打てばいい計算だ。


 ……まだ、ピンと来てないな?

 じゃあ、ちょいと意味合いが変わるけど、じゃんけんで考えてみてくれ。

 毎日じゃんけんをして勝てばその日、飯にありつけるとして。


 その勝負が1日1回か。はたまた10回の内3回勝てば良しとするならば。


 ……な、どちらがやれそうかは一目瞭然だろ?


 要するにフィジカルが重要視される野球というスポーツでこの分野は唯一メンタリティとテクニックが割合を勝る役割だという事だ。

 スタメンの奴らとは明らかにチャンスの数が少ないその状況だから、合格点も引き下げてみてもらえるって訳だ。


 ヘルメットのつばを触って会釈をすると、俺はそのまま右打席に入り地面からバットを引っこ抜く様に上空に突きあげ、その先を見つめた。

 ま、ルーティーンってやつだな。特に意味はない行動だが、俺の精神状態をより高めてくれるお決まりの行為だ。

 そして、一呼吸空けると……離れた先砂山の上に立ち塞がっているあいつを見定める。


 一瞬目が合ったが、奴は直ぐに視線を反らした。

 奴――狩間は3年くらい前から相手チーム、名古屋ホエールシャークスで頭角を現した中堅の中継ぎ投手。

 以前は先発をしていたが、打者が2巡目になると途端に球が浮きだして勝手に自滅を繰り返していたが、投手出身の秦星はほし監督になってある日1イニング専門のリリーフをこなし間違いなく一流と言える実力を見せ、そこから中継ぎ投手として頭角を見せた。先にうちのスコアラーも言っていたが、先発の時から直球がキテる時はまず1打席では手に負える相手ではなかったのだ。


 今日は、その直球が走ってないというのは、俺にとって代えがたい幸運。


「プレイ‼ 」

 球審の合図とともに、狩間はセットポジションからゆっくりと捕手のサインを眺めている。


 まずは初球。三塁コーチベンチから俺には特に指示はない。己で判断しろという事だ。


 さて、この場合俺はまず『見』にまわる。1球チャンスを失う可能性が有るが相手の投球の組み立てを判断する大きな材料になるからだ。


 相手の持ち球はストレートに、スライダー、カーブ、そしてツーシームと……一応シュートか。一応とつけたのは、それが1軍では通用しないレベルのモノだからだ。この緊迫した場面ではまず投げてこないだろうし、投げてきたら流石にこちらも手を出さなければならない。あと、今季はツーシームも投げてないらしいな。


 投球練習では、投げたのは全て直球だった。わざとらしい程にそれを続けたのは恐らくわざとではない。

 ――本当に構えた所に来なかったのだろう。


 と……なると……恐らく初球はコースという細かい指示はなく。しかし、長打を警戒して。高低にのみ意識を集中させた……

 ストレート。


「ボール‼ 」

 途端に、球場がドッと沸く。

 奴が放ったのは、こちらの読み通り直球だった。力が入り過ぎてベースの前でワンバウンドして捕手の後方にまでそれは転がっていく。


 初球ボール球。これは大きい。まず、得た情報の多い事。

 今の球を見る限り、今日の狩間のストレートがまともにコースに来る可能性は、恐らく善くて5分。そして初球に速い球を見せてもらったおかげで相手の球筋も把握出来た。

 なにより、カウントを1つ減らさずに次の球を迎えられる。


 さて、定石通りならここでインコースか外角ギリギリにストレートでファールを振らせにくるんだろうが……今日の狩間に果たしてそれが投げれるか?


 今一度三塁コーチのサインを確認するが、動きは全くない。ありがたい。どうやらランナーもいないしこちらに完全に任せてくれるらしい。


 ならば……次は振る!


 直球のタイミングは掴んだ。コースに来たとしても最悪の結果でファールだ。恐らく打ち損じる事は無い。寧ろ、少しでも甘めに入ろうものならば内野の頭を越す打球のイメージは固まっている。俺は静かに強くバットのグリップを握りしめた。


「……何⁉ 」

 しかし、次の瞬間それは予想もしていない光景を迎える事になった。


「ストライク! 」

 ベルトの高さの緩いカーブが、ゾーン真ん中に決まった。

 思わず声が出てしまう程の甘い球だ。

 甘過ぎて手が出なかったが、これは悔やんでも仕方がない。狙い球が外れていたと諦めるしかない。大事なのはこれを引き摺らない事。そして――このパターンを今一度イメージにインプットしておく事だ。

 さあ、これでカウントは1B、1S。向こうは早く追い込みたいだろうが、普通は1球臭い所に外してくるだろう。

 そして、それならば万が一振ったとして、長打に繋がらないコース。恐らく外角低めのストレート。


 三球目。ようやっと予想通りの球が来る。

 しかし、本当に今日の狩間の制球は酷いな。この直球もシュート回転してゾーンに入ってるじゃないか。


「キィン」と乾いた音が球場に鳴り響き、観客が一斉に歓声を挙げた。


「ファール‼ 」

 白球は大きく白線の外へと弧を描いて、観客席へと飛び込んでいく。


 ……追い込まれたな。


 正直この状況を見て、外部の奴らは何て言うんだろうな?

 なんで、制球もままならない相手に追い込まれてんだ。って言うんだろうな。


 ……冗談じゃない。

 確かに、今日の相手はお世辞にも調子が良いとは言えない。

 ……でもな?

 それでも相手は、日本の最高峰プロ野球リーグの1軍の試合で、その監督にこのマウンドを任される程の実力者なんだぜ?


「ボール! 」次の球は、大きく高めに外れる。所謂釣り玉ってやつだな。カウント有利になった途端に表情が緩んでやがったからこれは解っていた。

 カウントは再び並行カウント。


 こうなると、有利なのは圧倒的に守備側。つまり今でいう所、相手さん側だな。

 ……ん? 何故かって訊きたそうな貌だな?

 なんて事はない。さっきの俺の言葉を憶えてるか?


 1打席しか回らないこの役割は、メンタリティの高さが要求されるってやつだよ。プロ野球の統計データでも明らかだが、2Sまで追い込まれた打者の打率ってのは代打関係なく更に1割以下まで低下する。圧倒的に精神面で守備側が有利になるからで、実際にこのカウントになると打者側は『振らなければならない球』という厄介な代物が出て来る。

 多くの打者はこれに苦しめられる事になる。


 それは野球を飯のタネにしている俺達にとって、決してもたらしてはいけない結果に通ずる。

 その結果とは――三振。それもバットを振らない。つまり見逃し三振。

 代打関係なくプロ野球選手の打者にとってそれは許されない結果だ。例えばスタメンの選手であっても二打席続けてこれを行えばまず間違いなく三打席目は与えられない。

 それ程に重い罰を背負う事になるプレーだ。


 だから、打者はストライクゾーンに入って来た球には、何が何でも手を出すしかない。


 ――と、なれば。

 投手側にとってこれ程やりやすい事は無い。臭い所に投げた球は全て振ってくるのだからもうコースに投げる必要は無いのだ。いや、コースどころか。ゾーンに投げる必要がない。

 アウトコースにボールになる変化球。

 低めいっぱいからワンバンする変化球。


 そして――もし、それを見逃されたなら。フルカウントになった次の球は高めの直球。これをされると、普通はもう勝ち目はほぼないと断言していい。


 さて、ではそんな追い込まれた立場の俺はどうすればいいのか?


 そこまで冷静に考えられるならば、まだこちらに勝算は有る。


 俺は、もう一度しっかりとグリップを握り直す――と、その時にさりげなくバットを指二本グリップの上に持ちかえる。


 ――大丈夫。落ち着いている。相手の汗が落ちるその粒すらハッキリと見えている。


 野球というのは俺にとって生活の糧で同時に仕事であるが、それ以前に団体スポーツだ。それぞれ役割を個々の選手がこなし――その上でチームが勝利する。それが俺達プロ野球選手が求める最高の結果。皆がそこを目指して試合を進めていく。

 ――事が理想だ。

 現実的には後述よりも前述の方が、どうしても頭を過る。


 イメージの果てに見えるのは、自分の生活、そして家族の顔。


 プロ野球選手っつっても、やってるのは所詮一人の社会人の男。

 失敗が怖い。


 プロ野球選手という選ばれた者しか入れない舞台で注目を浴びる事による興奮状態。自分が一番活躍したいという欲求でグラウンドは溢れ返っている中でもそれは、冷たい氷の様に胸に突き刺さっている。


 その状況で、ここまで俺が冷静でいられるのは何故かって?


 ……。

 あんなぁ……その為の『代打専門』だろ?


 先に宣言しておく。

 俺はこの一球を見逃す。更に付け足しておこう。

 ボール球と確信して見逃す。

 あ?

 無論、可能性としてボールの方が高い事も解っているよ?


 ……だからなぁ、それが解っていても出来ない。って言っただろ?


 ボール球が来るだろう。それが解っていても。

 それは、確実な事じゃあない。

 失投が来るかもしれない。

 或いは敢えてゾーンを突く配球を選ぶかもしれない。

 不確かなその情報は、他でもない。

 敵である相手からしかもたらされないんだぜ?


 これ程、信用出来ない事は無いだろ?

 そしてもしそれが来た時。


 打者にとっての最大の失敗『見逃し三振』が結果となる。


 ……なぁ、この見逃し三振だけど俺は打者の結果で最も良くない事だって言ったよな?

 あれなんだけど、半分正解で半分不正解なんだ。


 打者側にとって最悪の結果はな?

『代打選手の見逃し三振』だ。

 スタメンの選手であれば、数試合に1度くらいならそれは目を瞑られるが……。

 代打にとって見逃し三振は許されない大失態だ。

 何故ならば見逃し三振には攻撃側チームに一縷のうま味もない。


 同じ三振でも、空振り三振は積極的に結果を求めた姿勢。というものが評価されるというのもあり、自分に対しての首脳陣からの悪いイメージも軽減される。


 ズバリ言うと、そういう仕来りの様なモノがこの場面の様なケースで『もう空振り三振でいいや』という逃げ道を作ってしまっているのだ。

 そして、厄介な事にそれで本当に振り逃げやパスボールと言った結果が出てしまう事があるから、野球も人生も一筋縄ではいかない。間違った選択肢など無いという事だ。


 低いリスクと少ない損益――これは、損切という言葉に近い行動だと思う。圧倒的不利なこの場面。プロならば空振り三振を選択すべきだとも共感出来る。


 熱く語る気はない。それを前置きとして言わせてもらう。

 俺はその考えを共感は出来るが、己で実行する事は拒否する。

 多くを語る気もない。だから一言にしよう。もう時間も無さそうだからな。


 ――プロ野球選手の前に、俺は野球人だ。ただの1打席、いや1球も。投手に譲る気なんてないんだよ。


 やがて、奴からその球が投じられる。


 投じられたこのタイミングではもう、スイングの初動作に入っても間に合わない。振れば、捕手のミットにボールが入った後に、俺のバットが空を切り裂くだけだ。

 この瞬間で俺が迎える結果は『見逃し』か『空振り三振』のどちらかを選択出来る。


 そして、重要なのはその放たれた球が行く軌道。

 プロ野球選手の動体視力は、一般人のそれを遥かに凌駕するてのは知ってるか? まぁ、あれも大袈裟に言ってるもんだとは思うよ。単純に慣れなんだと思うぜ? 後は恐怖感の有無か。


 まぁ、そんな感じで俺が捉えたその球はよ。

 まあぁ……外角のゾーンに向かって飛んできてた訳だな。

 そのまま真直ぐ来ちまったら、俺は見逃し三振。ひょっとしたら明日は2軍のベンチかもしれないな。

 だけどな、それを選んだのも俺だ。そうなっちまったらそれを受け入れるさ。


 だけどよ。

 ……おっと、悪かったな言い忘れてたよ。


 俺は、この『代打専門』って役割を5年務めてるんだよ。

 この程度の修羅場で読みはハズさない。


「バァン‼ 」

 球がミットに納まった瞬間。一瞬の静けさが世界を撫でる。


「ボーーーーーール‼ 」

 主審がその世界を起こす様に、上空にそう叫んだ。途端、球場の観客のボルテージのギアが最大まで跳ね上がる。

 外角のゾーンギリギリを目指した球は、ベースの手前からまるでブレーキがかかった様に、下方へ軌道を変えた。

 スライダーだ。相変わらずいい曲がりしてやがる。バットを奴の方へ向けて一度微笑んでやると、向こうはバツが悪そうに帽子でその目を隠して、背を向けた。


 ああ――理解わかるぜ。多分、お前が相手だったらこの勝負、ここで俺が敗けていただろうな。


 野球を知ってる人間なら意味が伝わると思うが。

 投手と打者の勝負は見ての通り、フィジカルなものでしかない。

 若く、力のある選手ならそれである程度成績を残せるが――それは長くは続かない。身体的能力は20代半ばをピークに徐々に落ちていき、30になる頃には全盛期の様にはいかないのだ。たった10年も全盛期を維持できないのがプロスポーツ選手の世界だ。

 だからこそ――経験という知恵と技術でそれを補わなければいけない。

 それが、今俺が行っているこの配球の読み。予測だ。


 そして、その読み合いの相手は目の前の男ではない。


 俺は、スタンスに入りながら横目でその相手を見る。


 名古屋ホエールシャークス、二番手捕手。毛利。

 同期でプロ入りしたが高卒の俺と違いこいつは大卒で入団した為、歳は四つも上だ。現役捕手最年長の生きた化石。

 そして、人間ってのは同じ位置に長く居続けると固定観念から抜け出せなくなるもんだ。特にこの男の配球リードはそれが顕著に表れる。

 俺がこの5球目がボールだと確信したのはここだ。毛利はボールカウントが余っている時には絶対に勝負はしない。俗にいう『ベテランらしい堅実なリード』と言うヤツだが。

 勘違いしないでほしいのは別に俺は、それを否定している訳では無いって事だ。堅実なリードというのはつまり、様々なケースに対して根拠を持って行われている事であって、それはシステマチックになった現代野球で必要不可欠な条件だと思っている。


 ただ――。

 それは、同じタイプの相手には最悪の相性だ。

 俺の様なとうの昔にフィジカルのピークを過ぎたロートルが一番困るのは、相手に力で捻じ伏せられる事。勿論対策がない訳ではないが今の様に精神的有利を獲れるか? と言われればNOと言わざるを得まい。

 もし――先程の5球目を毛利が狩間に好きに投げさせていれば、俺は見逃し三振を阻止する事しか出来なく、今こんなに余裕を持って打席に立っていない筈だ。


 そして迎えるはフルカウントからの第6球。このカウントから定石ではストライクゾーンにストレートはまず来ない。打者が狙いを定めている可能性が最も高い球だからだ。

 フォークが有ればほぼフォークが決定するが、狩間の持ち球にフォークはない。


 そして投手の心理としては、ここで緩い変化球であるカーブとスライダーは投げたくないだろう。彼としては例え待たれていたとしても、速い球。そして、最も自信のあるストレートで勝負がしたい筈だ。

 しかし、先までの配球を考慮に入れると。恐らく毛利はリードを譲らない。

 更に、もし見逃され四球となったとしても、投手と捕手ではそれに対しての価値観が違う。

 絶対に四球は出したくない投手狩間と「打たれるくらいなら四球を出していい」と考える捕手毛利

 ――ズバリ毛利の要求は……5球目と同じ。アウトローにストライクからボールになるスライダーだ。


 アウトローに来たら見逃し。そしてそれ以外ならカットで空振りを凌ぐ。


 ……随分間合いが長くなったな。狩間は何度も何度も頬を膨らませ、大きな呼吸を行っている。

 それを見て俺は、思わず笑いが込み上げそうになるのを必死で耐えた。

 これは――毛利の指示だ。

 そう――捕手とのサイン交換が上手くいってない演技をしろという指示。


 毎季毎季、よくやるぜ。配球ほど固定観念に蝕まれるものもなかろうに。


 これで、決まりだ。

 6球目は外角のスライダー。一応狩間のコントロールミスに備えてスライダーのタイミングでカットを頭に入れておく。


 やがて、球場を揺らす程の歓声が止まる。


 と、言っても実際に騒がしい応援が無くなった訳じゃない。


 俺と――奴との世界になったんだ。

 この状態をプロスポーツの世界で『聖域ゾーン』に入ったと言われる。


 ――そんな、大層なもんかね。

 ただ、俺達の集中力と自尊心が高ぶって空間把握能力を高めているだけの事だと思うがね。


 ほら、見える。

 セットポジションでゆっくり足を挙げて……

 肘が開く時の目線までな。


 このタイミングでこちらも身体に力を入れる。見逃すにしても力を抜いたままなんて雑把な所作まねは見逃されない。


 丁寧に――全力で。


 俺は、この球を見逃すのさ。


 白線が、黒色の砂地からこちらに向かってくる。

 まるで、さっきと同じ光景だ。

 やるな、狩間。今日の出来でも勝負所では、しっかりと決めてくる。

 俺も次は力で捻じ伏せに来るお前と、真っ向勝負がしたい。


「バァアアン」

 審判のコールが始まる前に俺はバットを脇に戻し、一塁方向へ向かいながら手袋を外す。


「ボール‼ ボールフォア‼ 」

 審判がそれに慌てた様にコールすると、歓声が一気に至る所で弾け始めた。


 こちらに駆け寄ってくるボールボーイのバイトの少年にバットと肘当てを渡すと、笑顔を向けて監督がベンチから出てくる。


「広島瀬戸内ウィード……代走をお知らせします。ファーストランナー、前町に代わりましてランナー、兵藤ひょうどう。背番号65……」


 そのアナウンスを聞きながら俺の代わりに名を呼ばれた若手のそいつの肩を叩いて、舞台から降りる。


 ベンチに戻る俺を、チームメイトが温かく迎えてくれる。

 それに一つずつ応えると、指定という訳ではないが、いつも俺が座る奥の列の端へ腰掛けて、傍のビタミンドリンクを手に取った。たった5分そこら立っていただけだが飲み物を口にした瞬間、全身から汗が噴き出すのが分かる。


 今日の俺の仕事結果は四球。

 複雑そうなあんたの表情には申し訳ないが……ハッキリ言うぞ。この結果は成功だ。

 確かに今回俺の成績、端的に言うと打率は上がらない。要するに目に見える結果は残らないってやつか。


 俺達代打専門の仕事は、最低限の仕事をこなす事だ。

 そりゃ、野球の花形はここぞってとこのホームランだろうな。

 ところで、代打のみの日本記録ホームラン数って知ってるか?


 7本だ。年間通してな。

 因みに通算だと27本。これは日本記録であって世界記録でもある。

 ついでに言っておくと昨年うちのチームの代打ホームラン数は、4本。


 ――打ったのは、全て俺だ。

 少ないって? これでも代打専門になって年間数では最多だったんだぜ?

 代打だけの選手だと、年間ホームラン0なんてのも珍しくない。


 何故か?

 それは代打に対してそもそもホームランを求められていないからだ。


 先に言った通り、俺達の仕事は最低限の仕事がチームにとって最高の結果に繋がる事が多い。

 そんな中、自分の大きな結果を求めて強振しようものなら、間違いなく打率は落ちる。

 代打でホームラン3本の1割打者とホームラン0本の2割8分打者なら、間違いなく勝負所で後者を監督は選ぶ。

 ホームランが必要な場面ってのは、ヒットでもどうにかする事が出来るが、その逆はない。

 そしてヒットが必要な場面なら、どう考えても打率の高い方が使われるのが必至だ。


 プロ野球の世界は競争社会。俺がいくら過去に実績を持って、そして5年間この役割をこなしているからと言って結果が出せなければより結果を出せる奴に取って代わられる。


 ――そして、この代打専門という席は俺にとって最後の住処だ。奪われた時。野球人としての俺の最期となる。


 話が少しそれたな。

 今回の四球というのは、確かに打率は上がらない。でもな?

 下がる事も無い。つまり、次回もチームの為に代打で使ってもらえる可能性が維持できたって事。


 そして、得点のランナーをチームには与えられる。

 だから、成功なんだ。


 ほら、見てな。


「カァン」と小気味いい音が響く。

 俺の後の1番打者が送りバントを決めて、2番打者が外野フライでしっかり進めて。

 3番で未来明快な若手の星、木藤きとうが見事に勝ち越しのタイムリーを放った。


 そして、その表の守備では守護神の中野なかのがしっかりと〆てチームは勝ち星を刻んだ。


 球場の興奮が冷めやらぬ中、ホームベース近くに『お立ち台』が組み立てられ、眩いカメラのフラッシュが焚かれた。


「今日のヒーローを紹介します‼ 今日のヒーローは……見事八回の裏に決勝タイムリーツーベースを打たれた……木藤選手です‼ 」


 そんな明るい声が響く中、俺はゆっくりとバットをケースに入れて静かにベンチの裏へと戻るのだ。




 今日は、美味い酒にありつけそうだ。

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