第21話 10月9日 対東京ナイツオブラウンド戦 後編
プロ野球で使用される硬球の硬さを数値で表すのは、とても分かり辛くそれを言ったところでイメージはしにくい。
よく言われる表現ならば。
掌大の石が空気を突き破って飛んでくる。というやつか。
その威力は実際に見た時に、そうきっと見た者ならば解るだろう。
――これは、人を殺害しうる物なんだと。
周囲に飛び散った真っ赤なヘルメットの破片が血液を連想させるなと不吉な事を思いながら俺は、ベンチに控えていたメディカルトレーナーと、監督らコーチと共にベンチを飛び出していた。
仰向けになり、ピクリとも動かない枝崎にメディカルトレーナーは近づくと、直ぐに主審に担架を要求し、主審が小走りで奥の公式記録員の元へと向かう。
「枝崎、枝崎、聴こえるか? 」
監督の声に。
「ええ……聴こえます。俺……頭に、当たりました? 」
意識がある。会話も成立しているが、目の焦点が定まっていない。
そうしていると、奥から球場の医療担当とボールボーイが大急ぎで担架を運んでくる。
「失礼しますよ」
そう言うと、彼はペンライトを枝崎の目に当て。
「自分の名前は解りますか? 」「ここが何処か解りますか? 」
などと、一言二言枝崎に会話を交わしながら、黒い二つのブロックの様な枕で枝崎の頭を固定する。
その時、球場から「あーーーーー」と落胆した声と。
「引っ込みやがれーーー」と、怒号が響き渡った。
見ると、足利が顔を真っ白にしベンチに下がっている、まるでマウンドから降りた時に身長を無くしたのかと思う程その背中は小さかった。
頭部へ死球を与えた投手は、アマプロ問わず危険球として退場処分となる。
気付かなかったが、枝崎の処置中に主審が処分を下したようだ。
そして、間もなくボールボーイの少年がもう一人走ってきて「救急車が来ました‼ 」と伝える。
その言葉と同時に、最初のボールボーイと医療担当者が担架を持ち上げ「では、私が付き添います」とメディカルトレーナーが、傍につく。
「枝崎ーーーー」
担架で運ばれる時、球場内から拍手と声援が溢れた。
この光景は初めてではないが、相手側としても味方側の人間からしてもいつも複雑に思う。
「他人事の様に、思いやがって」「俺達を見世物として見やがって」と。
……いけないな。ファンにこんな事を思うなんて……俺も興奮して正気じゃない。
そして、ここで広島ベンチは少し考慮に入る。
「投手を代走で使うべきか? 」
監督が意見を尋ねる様に、ベンチにいるコーチ陣に言った。
「投手だとすると、次の回からは今ブルペンで調整している
「正直、2アウトだし序盤だけどこのチャンスをわざわざ逃すのは命取りになると思います。代走で兵藤か浦風をつこう手もあると思いますわ」
両者の意見はどちらにもこの勝負を決定づけてしまう側面がある。
「兵藤‼ 代走じゃ」
監督の声を聞いて、座っていた兵藤が立ち上がり「ハイ」と返事をすると、素早く自分のヘルメットを被る。
それに伴って監督が主審に手を挙げながら近づき、代走を告げる。
「広島安芸ウィード。選手の交代をお知らせします。
ファーストランナー、枝崎に代わりまして……兵藤。背番号……」
野手の少ない広島にとっては際どい判断だと思う。しかし選択の段階で時間を掛けてしまう事も出来ないのだ。
そうすれば、緊急登板となった東京の2番手投手に調整の時間を与えてしまう。
相手にとっても危険球は想定外の出来事。その出来た隙を突くのが、残ったチームの人間として酬いる事に繋がる。
しかし、次の瞬間逆に広島ベンチも、球場の観客も度肝を抜かれる事になった。
「東京ナイツオブラウンド……選手の交代をお知らせします。
先程、降板しました足利に代わりまして……
ピッチャー……姿野。背番号18」
「……す、が、た、の。
だとーーーーーー‼
や、奴は一昨日の神宮に先発したばっかじゃろうが‼ 」
小丸ヘッドの驚愕の声に続き、阿賀佐コーチの困惑した声がベンチに響く。
「しかも、128球の完投試合……正気の沙汰とは思えない」
「いや……」
二人を諌める様に、監督が口を挟む。
「英断じゃ。
この場面でこっちに得点が入りょうもんなら、完全にうちに流れが決まる。
勝負所で最も信頼出来る投手に任せる。
流石は、目下リーグ4連覇中の覇将、
トップが、まるで余裕を以てそのような事を言うものだから二人は苦虫を噛みしめた様に顔を隠した。
それは、ベンチの困惑の空気を消す。金言だ。
出る筈のない投手が登板する。しかも、それが相手の絶大的エースなら尚更こちらへの精神的な衝撃は大きいものだろう。
だが。
それは裏を返せば向こうもなりふり構わずにこちらに向かってきているという事だ。
リーグ4連覇の常勝球団が?
30年近く優勝をしていない、俺達を?
胸を張るべきだ。
園方さんは、監督は――そう言っているのだ。
恐らく、ブルペンでも肩はつくられていなかったろう、姿野がマウンドに姿を見せると球場が異様な雰囲気に包まれる。
マウンドでの練習球はたったの5球。
投手の肩をつくるには、余りに非常識な数字だろう。
だが。
違うんだな――常識とか、数字とか。
この日本で野球をやっている人間が何十万人といて。
その内のコンマ数%が毎年プロ野球選手になり。
そしてその中の50人から1軍レギュラーを勝ち取り。
彼らが12球団に別れて、1年を競いそして1番の投手となる。
云わば日本最強最高の投手。
その人間をそんな軽く重い言葉で括ってはいけない。
姿野が、放った練習球の音で静まり返り困惑していた球場が再び思い出したかのように騒々しくその息を吹き返す。
姿野は、初球いきなり153キロのストレートで、広島側の期待と東京側の不安を一気に消し去ってみせると、瞬く間に高木を空振り三振に切って取ってしまう。
マウンドを降りるその姿は貫禄という言葉が似つかわしい。
「広島安芸ウィード、選手の交代をお知らせします。
先程、代走で出場した兵藤に代わりまして……葛。背番号96」
葛
まず、プロ2年目でありながら彼は現在17歳。そう、彼の最終学歴は高校中退。理由あって退学した後に広島が4年ぶりに実施した入団テストを受講。
そこで若干14歳ながら彼は球団と研修生を経て育成契約を結んだ。
育成契約とはかつて練習生と呼ばれていた制度だ。
1チーム60人の支配下登録選手。という括りからはみ出た特殊な契約をした選手。それが彼らだ。
彼らは、球団と契約をしていながら、60人の支配下登録を3年以内に勝ち取らなければならない。そのアピール出来る場所も限られていて、出場できる公式試合は2軍のみ。その為球団によっては彼らを三軍選手と呼んでいる事も在る。
そもそもこの制度が出来た経歴がプロを目指す若者たちの窓口を広げるものであったが近年では、広島が俺にした様に大きな怪我をした選手の為に使われたりしている。
そう言った選手を除いて、この育成契約が出来てから10年。ここから支配下登録に昇りつめた選手は、12球団併せて年間約5人という。
その数はアマチュアからドラフトに掛かるよりも、遥かに少ないのだ。
事実、広島では俺の様に大怪我をしたレギュラー選手、海外ドミニカのアカデミーで頭角を見せた若手を除き、純粋に国内の若手選手で支配下登録を勝ち取った者は、この10年で。
葛、ただ一人である。
今季成績は、出場試合39試合、防御率1・97に加え10勝1敗6セーブ。最終戦を前に新人王をほぼ当確させている。主に中継ぎを任されながらも、谷間谷間で先発もこなす大車輪の活躍。間違いなく、未来の広島を支えるであろうその右腕。
ここ数試合は疲労が見られていたが、その心配は杞憂と帰す。
「ストライクバッターアウト‼ 」
今日の葛の球威は凄まじいものだった。
最高球速は自己最速タイの151キロに、キレのある高速スライダーとフォークを組み合わせた投球で次々に、東京の重量打線を捻じ伏せていく。
「スリーアウト、チェンジ‼ 」
しかし、東京も負けてはいない。
緊急登板に関わらず、姿野も鬼気迫るピッチング。
しかし、徐々にその差が現れてくる。
その差とは――。戦力の厚み。
東京は、チャンスの場面で次々に代打を送る事が可能。それに対し、広島はただでさえ野手の人数を絞っているのに、試合に出れない荷物の俺のせいでその数は更に薄くなる。
現在、ベンチに居る野手の控えは俺と浦風のみ。
鞍馬がブルペンで控え投手の球を受けている為、ここには居ない。
この中で代打で出れるとしたら浦風のみだ。
最後の捕手として、鞍馬は余程の事がなければ出場させられない。
しかし、葛が7回まで無失点で乗り切ってくれたおかげで、試合は波乱から一転硬度の高い投手戦へと変わった。
そうして迎えた終盤8回表。
「ストライク、バッターアウトーー‼ 」
東京の6番手投手、シリガスキーの前に広島下位打線は敢え無く三者凡退。
試合は3対3のまま、8回の裏東京の攻撃を迎える事になった。
「広島安芸ウィード、投手の交代をお知らせします。
葛に代わりまして、ピッチャー……ジェフ・
広島は、満を持して昨年までクローザーとしてチームを支えていたジェフを送り出した。
今季は前半に調子が上がらず、抑えの座をカスジャネーヨに譲る形になったが、しっかりと2軍で調整を重ね、夏以降は絶好調で8回のセットアッパーのポジションを勝ち取っている。
本当は9回に使いたかったところが本音だが、この回東京打線は2番から始まる好打順。ここは残っている最高の投手を当てる事が勝負勘というところだろう。
東京ナイツオブラウンドのスタメンは、昨年からまた大きく変わっている。
外国人助っ人を2人、FAで2選手補強。更にはメジャー帰りの選手を2人。
引き続きレギュラーを張っているのは、この2番打者で目下首位打者の謳歌だけだ。
今年は、主将の座を佐々波に明け渡して、より打撃が光る様になった。
左腕のジェフに対して、謳歌は右打席に入る。
彼は、球界に片手の指の数と以前話した事のある『
ジェフは、その長い腕を生かした横投げから球を放つ。
「ボール‼ 」
左打者にはあたかも背中から球が出現するその投法は、右打者には出所がハッキリと見えてしまう欠点を持つ。
「ボール‼ フォワ‼ 」
結局、ジェフは謳歌に四球を与えてしまった。
終盤にノーアウトで勝ち越しのランナーを出す。
それは、想像にも容易い圧力と緊張を選手達に与え、不安を観客に与える。
「タイム‼ 」堪らず――と言った感じでベンチから阿賀佐コーチが飛び出してマウンドに駆け寄るが、ジェフは掌を向けてそれを制す。
通常、コーチがタイムを掛けた時は、内野野手陣もマウンドに駆け寄るものだが、それすらない。
いや、正確には捕手を除いて、その素振りは見えた。しかし、肝心の捕手が向かわないのだ。
「計算の内の四球か」
監督の言葉に、小丸ヘッドが驚く様に聞き返す。
「す、ストレートの四球ですよ? 」
監督は、腕を組むと目を細めた。
「じゃけど、どの球もボール一個分の範囲で外した球じゃった。
恐らく、謳歌以外の打者じゃったら何度か振っとるかもしれんが。
謳歌とまともにぶつかるくらいなら四球は仕方ない。
そう、判断したんじゃろう」
しかし、小丸ヘッドは頭を抱える。
「し……しかし、終盤の先頭打者ですぞ……」
続く三番打者、
今季、米国メジャーリーグから帰国した陸王は、周囲に落ち目と言われながらも現在3割8厘、21本塁打と、結果を残している。
東京がそんな陸王に下した指示は。
「一塁‼ 」
――送りバントだった。
終盤の、ホームゲーム。それは、作戦的にも当然とも言えるものだ。1点を取っていれば、半回早くゲームを終える事が出来る。
逃げ切りの態勢をとれる。こうなるとホームゲームは強い。
だからこそ、向こうもここを勝負と見たのだ。能力の高いジェフが相手としても。
1アウトとなり、2塁に謳歌を置き。
四番に座るは、神月と並び昨年の暮れ――FA市場の目玉。とまで言われた選手。
北海道札幌ビアーズ不動の四番だった男。ザンビディス・
ここ一番で投手に与える威圧感は計り知れない。
しかし、ジェフと麻宮は冷静だった。
今回もジェフの球は麻宮の構えるミットに寸分狂いなく収まる。
そんなボール一個分程度の見極めが出来るとすればそれは日本では片手の指程の選手しか居ない。その一人が先の謳歌だった。
という事はつまり。
この対決はほぼ決まった決着を迎えるという事だ。
「ストライク、バッターアウトーーーー‼ 」
鳴り物の大きな音が、球場の空気を揺らす。
まるで、問題なくザンビディスを三振に切って落とすと、それを当然の様に喜びもせずジェフは受け取ったボールを投げ返し交換を要求した。
その落ち着き様はまるで大差で勝利している時の様なそれだ。
20年以上もこの世界に居ると、確信する事がある。
――この状態の投手からはまともに打つ事は出来ない。
そんなジェフを迎え撃つは東京ナイツオブラウンド五番打者。つい4年前までメジャーのチームで堂々と四番を張っていた最強の助っ人。
ウッディ・ライトイヤー。
ベンチから見ても解るその身体の厚み、腕の太さは我々日本選手では絶対に持ちえないものである。
今季成績は3割2分9厘、41本塁打。驚くべきはタイトル獲得は確実とされる。
155打点。まるで、彼の方が4番を打っているのではないかと言う様な成績だ。
本塁打王のザンビディスが一つ前に座っているのに、どういう仕組みが働けば、この様な成績が残せるのか。
正にランナーを背負って最も相手にしたくない打者だろう。
「監督、幸い1塁が空いています。ここは敬遠策をとりましょう。」
しかし、小丸ヘッドの言葉を聴いても監督は申告敬遠の意志を主審に見せない。
「ここはあの二人に任せると決めた。
勝負するも、避けるもあの二人の判断を尊重する」
小丸ヘッドは、何かを言いたそうに挙げた手を降ろす。
「心配しないでくれ、小丸さん。
もし、打たれても責任は監督のわしがとる」
監督……というか、どこの世界でも部下をまとめる云わば上司には何パターンか存在する。何から何まで指示を出すのも。
今の園方監督の様に、選手を信じて敢えて指示を出さないのも。
全てが監督の型なんだ。
そして、それが第三者に評価されるのは。
結果のみ。
初球――アウトコースをジェフのスライダーが切り裂く。
「ボール‼ 」今回もボール1個分外し、打者の様子を窺う。
そんな麻宮の策を見抜いてか、ウッディは捕手の方へ視線を向けて不敵に笑った。
流石は、世界を代表する強打者。誤魔化しは通用しないという訳だ。
されば、麻宮は今度は一転インコースに構える。これには二塁走者の謳歌が驚いた様な表情を見せた。
普通この場面で長打の可能性の高い内角を選択するのは悪手と言われるからだ。直ぐに、サインで打者のウッディにもそれは伝わった事だろう。
ウッディの大きな構えに更に多大過ぎる力が加わっていく。
以前までは打球と言うのは力ではなく如何にバットの芯で捉えるかで考えられていたが、現在はその考えは完全ではない。
ボールの反発力、いわゆる『跳ぶボール』『跳ばないボール』の展開。
これにより、海外メジャーでは特に顕著に……国内でも多く見られる様になったのが。
極端なアッパースイングでボールをバットで押し込むのではなく、反発させて飛ばす。所謂ゴルフスイング打法だ。
野球を子どもの時に教わった人間なら耳にタコが出来る程、素振りの時に言われた筈だ。
「ボールを叩き付ける様に、バットを振れ」と。
それが、覆ったのは先のボールの変化と、この数年で大きく進化したウエイトトレーニングの効率によるものが大きい。
ある、有名な日本人メジャーリーガーが言っていた「知能を使わなくても野球が出来る時代に入った」はこの事を皮肉したのかもしれないと俺は思う。
クイックモーションから、ジェフの直球が右打者のウッディの懐目掛けて放たれる。
この対角線の角度を利用した視覚的効果をクロスファイアと呼ぶ。
既に、スタンスに入っていたウッディの目には真直ぐ来ている筈のその直球が自分目掛けて超角度で曲がってきている様に見える筈だ。
本当に内角に来ると思っていなかったのか、身体が開くのが遅れている。
「打ち取れる‼ 」
思わず、口をついて出てしまったが。
相手は野球の頂点、メジャーリーガーの一級選手。
身体が開かなかった分、ウッディは怖ろしい速度のスイングでボールがバッターボックスに入った瞬間を迎え打った。
――何という引っ張り打ち‼
しかし、そんなバットの先の打球に飛距離が出る訳はない。
出る訳がないのが出てしまうのが、先の説明の通りだ。
この世界には、漫画や映画以外で実在にその常識外をやってのける人間が居るんだ。
ウッディの打球は、ドームの天井に達しそうな程高く昇る。
通常なら、あの位置の球を右打者が引っ張ると外野までは跳ばないのだが、その打球は当然の様に内野を越えていく。
「まさか」
小丸ヘッドが震える声を漏らすが。
「いや、宙で止まっとる。大丈夫。ジェフの勝ちじゃ」
監督が、見えない様に拳を握ってそう言った。
その通り――確かにその打球が外野まで跳ぶ事が常識外な事ではある、しかしそのままフェンスを越える様な事が起きてしまえば、それは超常現象だ。
しかし、ここで一つ。ある異変が球場を包んでいた。
それは、当然のもので。
だから誰も気付いていなかった。
「……泳着、追いかけ過ぎじゃないか? 」
ベンチの誰かがその言葉を言った瞬間だった。
「泳着‼ 前‼ 」
しかし、その声はグラウンドの彼らには全く届かない。
そう、この時球場に起きていた異変とは。
『音』だ。
優勝が決まる試合の、終盤勝ち越しのランナーがノーアウトで出て、得点圏まで向かったこの場面。
観客が到達する興奮状態は最高潮となる。
そして、球場は密閉されたドーム型。その熱狂の叫びを反響させ驚異的に増大させる。
そして、不幸だったのがウッディの昇がり過ぎた大飛球。よく天井付きのドーム型はフライが見えやすいというが、それはある段階までの話だ。
俺も外野手だったから……外野手だから理解る。
天井付近の飛球からは目が離せない。もし天井に当たり軌道が変われば落球に繋がるからだ。
天井付き球場で、天井に飛球が接触した場合のルールは球場によって異なる。
この、東京ナイツオブラウンドのフランチャイズ球場。グレートブリテンドームの場合は天井接触したボールがフェアゾーンに落ちればインプレーとなる。2アウトという事もあり、既に2塁走者の謳歌はホームインしている。落球すればもう2塁を周っているウッディもホームインするかもしれない。
絶対に落としてはならない球、だから目を切れない。
二人とも。
その衝撃的な光景に観客の絶叫と歓喜の歓声が異様なまでに木霊した。
そして、それを受けてグラウンドのナイン達と、ベンチにも混乱と動揺が走る。
倒れている二人の後方に白球が綺麗な線を宙に引き、地に落ちる。
この時広島側に幸いだったのが、真倉が近くでカバーに入っていた事だ。
素早くフォローを入れたおかげでウッディを三塁で止める。
「タイム‼ 」
誰が叫んだか、その言葉の後に選手も監督コーチも倒れている二人の元に駆け寄った。
「新河‼ 泳着‼ 聴こえるか⁉ 」
倒れていた選手は左翼手の泳着と、そして遊撃手の新河。2人とも先程の飛球を追いかけ、そして衝突した。
ボールから目を離せない状況と、そして互いの声も届かない程の球場内の大歓声。
必死のプレイから起きた事故。
泳着、新河両者、身動きが取れず。意識はあるが、痛みが酷い様でこちらの言葉に受け応えはない。
暫くしてまた球場の医療担当者がやってきて、2人は枝崎と同じ様に担架で運ばれていく。
「……遊撃手と外野手……」
浅海コーチが腕を組んで唸る。現在ベンチにいる控えは三人。
捕手の鞍馬、内野を守れる浦風。そして、選手登録と言う表記上、外野手として登録されている俺だ。
「雲母を左翼手に入れて、遊撃手に浦風。一塁手に鞍馬を入れる」
監督の言葉に、集まっていたコーチ達も一瞬驚いたが間もなく頷いた。
それしかない。全員が解っていた事だから。
「阿賀佐」
監督は続け様阿賀佐さんを呼ぶ。
「は、はい監督」
阿賀佐さんが近付く。
「ジェフに、一言声を掛けてやれ。この機に言うとかんと、このイニングもうマウンドに行っとるから無理じゃけな」
その言葉はつまり、この状況をジェフと麻宮に任せるという事。
普通、この様な予期せぬ事態によって失点した場合は投手の精神面を考慮して交代するのが常だが、今日のジェフの出来を見る限り、この危機を抑えれる投手は彼しか居ないという判断か。
阿賀佐コーチもそれには同感だった。直ぐに審判団が協議している隙を拭ってバッテリーの方へ向かう。
「おい……トモ」
そこを離れる俺に、監督が視線を向けないまま声を掛ける。
「どこに行く? 」
俺は、帽子を取ると後ろ頭を掻く。
「ちょっと、スイングを確認に」
監督は大きく溜息を吐くと、首を横に振る。
「なんで、嘘が言えんかの~」
しかし、俺はそのままベンチの方へと進む。そして、監督はその言葉きり俺を止めるでもなく――。
「どちらに行くんですか? 前町くん」
ベンチ裏の通路で、俺を引き留めるのはやはりと言うか、この人しかいないと思っていた。
「少し、集中したいだけですよ。金剛さんこそ今日非番じゃないですか? 」
金剛さんは、優しそうに微笑みながら返す。
「枝崎くんの件で、メディカルチームの応援要請がありまして……それに試合後には君と通院の予定だったしね。
それより、ごめんよ。また負傷者が出たと聞いたのでね」
それだけ言うと、足早に金剛さんは俺とすれ違った。
そのまま進んでいくと。
「前町くん‼ 」
彼の声に、俺は振り返る。
「諦めるんだ‼ 君には、僕の様な人生を……野球を嫌な思い出にしてほしくないんだ‼ 」
その表情はあまりに痛々しい。
俺は、右手だけ挙げるとそのまま真直ぐに彼の瞳を見る。それ以上は何も言わずに金剛さんはベンチの方へと向かう。
俺は、踵を返すとそのまま鏡張りの素振り部屋に入った。
愛用のバットをケースから出すと、そのまま鏡越しの自分と見つめ合い、同時にスイングをする。
「ぐぅ」古傷の右アキレスと膝の十字靭帯が異常を痛みで伝えてくる。それに伴い、スイングも歪なものとなった。
「おいおい、素振りも許しちゃくれねぇってか? 」
でかい独り言を呟くと、構えだけをとって目の前の自分に問う。
――諦めろってか?
だが、向こうの自分は憮然とした表情でこちらを睨み返し続けている。
少しの間、そうやっていた。
そして、俺は自分の中で何かの覚悟を決めると、その後は一振りもバットを振らずその部屋を後にする。
ベンチに戻ると、騒然とした雰囲気でむせ返っている。
「うてやぁ‼ 打ってくれぇ‼ 浦風~~‼ 」
打席には、先程守備交代で入った浦風が入っている様だ。
「あ、前町さん‼ どちらに行かれてたんですか? 」
その井土さんの声で、監督とその傍に居た金剛さんが同時にこちらを見る。
「ちょっと、トイレに。
ぶつかった2人の具合は? 」
井土さんは、ベンチ前列からこちらにくると。
「はい、2人とも大事には至ってはいないと、金剛さんから。
現在は、アイシングをして奥の医務室で休んでいます」
それを聞くと、俺はグラウンドの方へ顔を向け、スコアを見る。
「流石、ジェフ。あの後抑えたんですね」
それを聞いて、今度は阿賀佐さんが答えた。
「おう、牽制で三塁走者をとってくれたよ。のう、ジェフ‼ 」
ベンチの奥でドリンクを飲みながらジェフはこちらに手を振る。
「わぁあああ‼ 」
その直後に、歓声が木霊しベンチ最前列の選手達が騒いだ。
――が、間もなくそれは溜息に変わる。
1アウト、先頭打者の浦風は遊ゴロに倒れた。
「よし、打順は1番じゃ‼ 高木、頼んだで~~‼ 」
そんな野次が飛ぶ中、俺は井土さんに尋ねる。
「やはり、向こうの9回は上畑ですか。今日の調子はどうです? 」
井土さんは、素早くタブレットを操作する。
「凄いですね。ベテランながら、今季未だに球威も衰えず。
縦に曲がるカットボールと、キレのある高速スライダーと、シュート。
浦風を打ちとったのは、カットボールかと思われます」
「決め打ちしかなさそうですね」
俺の想いをそのまま口に出す様に麻宮が言った。
「俺まで回れば、逆転のランナーが出てる事になりますよね。
上畑さんと勝負できるなんて、去年までは考えた事も無かったなぁ。
子どもの頃、メジャーに行く前の上畑さんと前町さんの勝負、よく観てましたよ。
18球の勝負とか、見てて燃えました。あれって、最後フォークですか? 」
俺は、打ち取られた嫌な思い出に苦笑いした。
「ああ……あの先発の頃はスライダーとフォークで今の葛みたいにガンガン攻めてくる人だったな。メジャーのボールに合わなくてフォークを止めたんだっけか? 」
その言葉を聴いて、麻宮は口角を上げる。
「俺が仕損じたら、前町さん尻ぬぐい頼みます」
そんな事を言うもんだから、俺は一瞬躊躇した。
しかし、直ぐに作り笑いを浮かべ、麻宮の肩を叩く。
「お前に打てない球は、俺には打てん」
その時、球場に再び歓声が沸き起こる。
「よっしゃーーー」と、こちらのベンチも騒がしい。
高木がフルカウントから四球を選び、こちらにガッツポーズを向けて一塁に向かっている。
「真倉ーーー」
「打て打てごろう~~」
一層観客の声援が大きくなる中、真倉は初球からバントを決める。
一つ間違えば、一気にゲームセットになるこの瀬戸際で、それを難なく決める真倉の冷静さには感服する。しかし、ベンチに戻って来る時。
いつも、冷静なその真倉が。
「うおっしゃああああ‼ 」と叫んだのだ。
想像もできない緊張の中での、ギリギリだったのだ。
そして、その背水の場面を託されるは、三番木藤毅彦。
「……申告敬遠か」
園方監督が呟くと、ほぼ同時に一塁側ベンチから髪の色こそ初老だが、選手と遜色ない体躯を持った王島監督が、主審に申告敬遠のサインを出した。
今季如何に絶不調であろうと、昨年まで手痛い反撃を受けた木藤に対して勝負を避けるという考えは理解出来るし、何より木藤と言う男はこういう場面では何かを起こしそうな、相手にとっては不吉な存在にしか見えないだろう。
と、言ってもその後ろに控えるは四番。雲母美刀。正直最も頼りになる打者だ。木藤と勝負を避けられたのは、寧ろこちら側にとっては有利に事が運んだとも言え……?
俺が、その考えの途中で疑問を覚えたのは、続け様に王島監督がベンチから出てきて主審にサインを送ったからだ。
「……‼ 2者連続敬遠‼ 」
球場全体が困惑し、騒めく。
流石にこれには、打席に向かっていた雲母も呆気にとられた表情でこち他のベンチを見返すだけだ。
「麻宮なら抑える自信が有るという事か」
ベンチの誰かが言ったその言葉は、ネクストサークルに向かう麻宮に届いたのだろうか?
一つ解るのは、その時の彼の眼は正に猛炎に包まれていた事だ。
「いけーーー‼ 麻宮ーーーー‼ 」
9回表、1点差ながら満塁。2塁走者の木藤は俊足だ。シングルヒットでも逆転は間違いない。
しかし、それに対し東京の外野陣は前進守備を敷かず定位置に構えている。
それは麻宮を打ち取るという強い意志か。
この瞬間、間違いなく日本で最も注目されているのは彼らだ。
その一人の上畑が、素早くクイックモーションを取るとボールを放つ。
外角に突き刺さる直球。
見逃すは麻宮だが。
「ストライク‼ 」
その判定に一瞬驚いた様に麻宮は球審を見た。
枝崎の頭部死球からこの試合は警告試合に切り替わっている。その為次の死球はどこに当たろうと、両チーム即退場処分となる。だからではないだろうが、随分と広く外角を取る様になっているみたいだ。
……そして、ここで上畑が間を空ける。
今、麻宮の頭の中では2球目の予想が駆け巡っている筈だ。
そこで、わざとテンポを変えて……再びクイックモーションから、同じコースに球が放たれる。
麻宮が出かけたバットを止める。
ボールは、先程と同じコースを走ったがそこから急角度で変化し、神月のミットに納まる。と同時に、彼は一塁塁審にアピール。
主審も、それに委ねる形で手を前に指し出す。
……一塁塁審の手が真横に開かれた。バットが止まっていたと判断されたのだ。
これで、1ボール1ストライク。並行カウントは打者有利。
麻宮は、今一度集中力を高めて、上畑を睨みつけた。
三球目。その麻宮の気迫を迎え撃つ様に、上畑の直球が向かった場所は予想外だった。
「インコース‼ 」
小丸ヘッドが悲鳴の様に声を挙げる。
だが、大丈夫。俺には2球目の後に麻宮がバットを指2本分短く持ち替えていたのが見えていた。
それは、外角攻めがこの伏線だと読み切っていた事になる。
麻宮はインコースを読んでいた。
「ガキィン」
しかし、詰まらされた打球はフラフラとライト線へ昇がる。
完全に打ち取られた打球。
だが、それは左右の差はあれど、まるで先のウッディの打球にそっくりだ。
二塁手と右翼手が一目散に捕球態勢に入る。
幸いだったのが、もし外野が前進守備を敷いていたらこの飛球は捕球されていた事だ。
そして、飛球は誰のグラブにも収まる事無く、緑のグラウンドに落ちる。
「ファーーール‼ 」同時に、一塁塁審がジェスチャーを加えながら叫んだ。打球はファールグラウンドに落ちていた。
そんな時だが、俺はベンチを飛び出していた。
そして、驚いたのは俺とほぼ同時に監督も飛び出していた事。
全員が打球の行方を注目する中、俺と監督はある人物の異変に気付いたのだ。
それは、誰でもない。打席の麻宮だ。
麻宮は、先の打球の後、明らかに表情を歪め、そして一塁へ向かう事も出来ずに、その場に蹲った。異常が起きているのだ。
「麻宮‼ 主審、タイムじゃ‼ 」
監督と俺がベンチから飛び出てきた事で、コーチ達も慌てて麻宮の元へとやって来た。
「麻宮くん、見せて」
そう言って、金剛さんが麻宮の手を掴むと。
「うげぇえええ‼ 」と麻宮が悲鳴を挙げた。
「……‼ 手首をひどく痛めています……これ以上のプレーは無理です‼ 監督」
その言葉を聴いて、ここまでずっと表情を変えなかった園方さんが、初めて眉間に皺を深く刻んだ。
「……俺、代わりませんよ」
顔を真っ青にした麻宮がフラフラと立ち上がると、バットを持っていた主審にそれを受け取るように、手を伸ばした。
「何を言ってるんだ‼ その痛みかたは骨を痛めている‼ 神経に損傷が出たら、後遺症も残るんだぞ‼ 」
金剛さんが切羽詰まった怒号を放った。
だが、麻宮はその言葉を聴かない。
俺は、麻宮の背中を見て、あの日。心の中で彼に贈った言葉を思い返していた。
そして、主審から麻宮のバットを受け取った。
「麻宮、心配するな。
俺に……任せて休め」
周囲の皆が、口を開いたまま動きを止めた。
「な、何を言っているんだ?
ま、前町くん? 君こそ足の古傷でプレイどころでは……‼ 」
金剛さんの言葉に、麻宮が驚いた反応を見せた。
「問題ありません」
それだけ返すと、監督の眼を真直ぐ見つめる。
「監督、代打申請お願いします」
監督も言葉はなく、ただジッと俺を見つめる。
間もなく。
「代打、前町」と。
それだけ主審に伝えると、監督はベンチに戻っていった。
「監督⁉ 正気ですか⁉ 」追いかけながら、金剛さんは鬼気迫る表情を向けていた。
「金剛……お前、お前がこの場面で、前町と同じじゃったら……
止めれるか? 」
その言葉に、金剛さんは首を横に振るう。
「それで、取り返しがつかなくなる前に……止めるのが我々の使命でしょう……」
監督は帽子を脱ぐと、金剛さんに頭を下げた。
「監督――⁉ 」
金剛さんは流石に、その行動は理解出来ず戸惑うばかりだ。
「わしは、確かに選手達を預かる者として、これから間違った事をする。
じゃがな。金剛。
お前も含めて、わしはチームの皆を信じとる。
前町は壊れんよ。
あいつは、俺もお前の無念も、全部背負って『選手』として、今やるべき事をやろうとしている。
じゃから、信じよう。
あいつは壊れん。
怪我なんかに負けん」
監督の言葉に、金剛さんは暫く呆然とした後、首を横に振りながら俯いた。
「なんですか……
その根性論……
それに……
前町くんだけじゃなくて、園方さんだって、僕なんかとは違うじゃないですか。
大怪我をしても、何度も何度も再起して……
どれだけ、貴方の活躍に僕が勇気づけられたか……」
そこまで言うと、金剛さんはキッと顔を挙げた。
「前町くん‼ 」と俺を呼ぶと同時に、球審に「交代コールの前に、麻宮が治療で復帰できるか確認しますので、治療時間を設けて下さい」
と報告し、俺と麻宮を連れてベンチ奥の医務室に向かう。
「前町くん‼
足首と膝をテーピングでガチガチに固めるよ!
ズボン脱いで‼ 」言いながら金剛さんはガチャガチャと、棚を漁っている。
そして、ズボンを脱いだ俺に凄い勢いで向かって来たので、思わず身構えた。
「なぁ……訊いていいかい? 前町くん」
グイグイと包帯を締めながら、金剛さんは言った。
「な、何をです? 」俺は言いながらも下着姿で向き合っていてとても恥ずかしい。
「例えば、この代打が原因で……君の現役生活が終るとしても……
君は、後悔しないかい? 」
その目は、真剣なものだった。
社交辞令でその場を誤魔化そうかと、そんな思いが吹き飛ぶような。
「もし……」
金剛さんの眼が細く定まる。
「もし、これが原因で……俺、野球が出来なくなるのだとしたら……
後悔します。多分、一生」
それを聞くと、金剛さんは手を止めて呆れた様な顔を浮かべた。
「でも」
そう見られるのは解っていた。だからこの言葉には続きがある。
「俺は終わりませんよ。
このチャンスを掴んで、またチャンスバッターとして。
そして、あいつらと……
監督や、金剛さん、荒金コーチ達と広島30年ぶりの日本一を一緒に目指します。絶対‼ 」
それを言い終えるともう金剛さんから返答はなかった。
「……よし、思いっきりテーピングで固めたから、滅多な事では外れない。でも、裏を返せば膝と足首の関節を利用する事は出来ないから、その事は承知しておいてくれ」
俺は立ち上がると右足をトントンと地面につけてみる。驚く程に痛みが軽減している。
そのままズボンを履くと、急いでベンチへ向かう。
「ありがとうございました。金剛さん」
背中向きのまま、そう伝えると、俺は医務室のドアを開けた。
「監督、お待たせしました」
ベンチに行くと、監督の前に審判団が集まっている所だった。
「麻宮は、交代。
代打、前町」
監督がそう伝えると、審判団はぞろぞろと、重い足でダイヤモンドに駆けていく。
「広島安芸ウィード、選手の交代をお知らせします。
先程、怪我の治療で離れた麻宮に代わりまして……
前町、背番号1」
そのアナウンスと同時に、一塁アルプスから歓声が起きる。
そして、同時に三塁側から「あと、1球」コールが負けじと沸き起こった。
そう……今回の代打は、今までのそれとは違う。
代打は、交代した時その交代前の選手のカウントを引き継ぐ事がルールとなっている。
つまり、俺の状況は1ボール2ストライクの場面から。
もう、初球を見るとか、そんな事は出来ない。
絶体絶命。正にピンチだ。
そう思うと、俺は思わず笑いが込み上げてきた。
ピンチヒッターと言う言葉がある。
それは昔の野球は、交代の理念がなく、選手が急病や怪我でしか交代が出来なかった事に通ずるらしい。
要するに代打が出て来る時は、正にそのチームの危機的状況という事なのだ。
驚いた。
まさか、新たな年号に変わったこの時代に、そんな野球創成期の時の様な状況が巡るとは。
世界の音が消える。
目の前の男がゆっくりと動いていく。
もう、5秒にも満たない時間でこの結末は訪れる。
男の足がスタンスを広げて力みがうまれる。
そのタイミングで、俺も手に持っているバットに力を込めた。
読み合い等、この場面では最早何も糞も無い。
来た球を打ち返す。だからこそ、この場面では空振りが取れる落ちる球が絶対的に選択される。
1つ懸念があるとしたら、現在が満塁であるという事。しかも、1点を守り切れば勝利が決まる場面。球を後ろに反らそうものなら、一気にこちらに流れは向く。
だが――神月がそれを恐れるだろうか?
いや、神月はきっとそんな事想像もしない。己の技術力を軽視も過信もしない。
いつも通り、追い詰めた相手を切って落とすだけだろう。
遊び球はない。
そして、そのスローモーションの様な世界に音が宿り始める。
相手の手の先までハッキリと見える。
――挟んで……ない。
そして、放たれる初速。
――直球‼
そのボールの回転力と速さに俺の背中に電気が走った衝動を感じた。
俺の下半身、そして腰を伝ってその力が肩に繋がる。
と――同時にスイングの動作が始まる。
球筋は外角ストライクゾーンにベルトの高さ。
どうやら、俺に打席で落ち着く時間は与えないという意志らしい。
だが、神月のリードか、上畑さんのリードかは定かではないが甘過ぎるコースだ。
打ち損じる手はない。
その正に人生と言う時間の、本当に一瞬の一瞬。
それは、見えたという表現では多大過ぎる程の刹那の時間。
――縦に落ちるカットボールを……
毎回毎回、井土さんの情報には本当に助けられる。
そして、いつもそれを頭の片隅に残しておいて。
本当によかった。
「トモ、チャンスヒッターって呼び名知っとるか?
黄道の奴が、わしに対してそう言って来たんよ。
確かに、言われてみたら得点を入れる側の攻撃の時にピンチヒッターっておかしいよの?
何か、昔の野球のルールでな? 」
遠い昔の記憶が瞬きの奥に蘇る。
そして、次の瞬間。
俺は、バットを振り抜いた。
歓声も。ボールとバットの衝突音も聴こえない。
それ程までに高まった集中力は。
ただ――打球だけを目で追っていた。
「いけーーーーーーーーー‼ 」
その一言だけが余りにも大きかった。幾人もの人々がその言葉を叫んだのだ。だからこそ俺は正気に戻る。
――この打球は、入らない。
幾千幾万と打球を放った俺の勘が伝える。
なれば、やらねばならない事は――一つでも塁を進める事。
「ライトーーーーーーーー‼ 」
神月の叫びの中、俺は一塁へ向けて身体を動かした。
――⁉
その時――足首がガッチリと何かに掴まれる感覚を覚える。
おいおい、ここは夏の海か? はたまた河童の出る川かい?
そんな浮世離れした事が起きないなんて事は解るくらいは正気だぜ?
確信していた。先のスイングで俺の右足の古傷は今一度開いたのだ。
どれ程脳が指示を出しても、それを固辞する程のこの痛みは。
――あの時の……。
そこで、観客の「あ~~」という言葉と「走れーーーー! 」という怒号が球場を裂く程に木霊した。俺の打球がライトフェンスにぶつかったのだ。
満塁に埋まっていた走者は次々と本塁を目指しダイヤモンドを駆け巡る。
「――一塁‼ 一塁だ! 」
そんな中、俺の異変に気付いた神月がそう叫んだ。
そうだ。今既に本塁に向かっている木藤がベースを踏めば広島は逆転である2点目の権利を手にする。
しかし、俺が一塁到達していなければ、その結果は頭止めで撤回される権利なのだ。
「おああああああああ‼ 」
俺は、およそ野球では聴く事もない雄叫びを挙げると、動かない右足を宙に浮かせたまま左足でその身体を跳ばした。
勿論、100キロ近い体躯を左足だけでバランスをとるのは非常に困難で、両手をパタパタとバタフライ泳法の様に動かしバランスをとり、ケンケンの様な格好で一塁へ向かう。
――ああ……。
なんと、惨めな格好だろう。なんと無様な格好だろう。
これをプロ野球選手の姿と、夢見て今日も鍛錬する球児達よ。
見てくれ。この俺の姿を。
これこそが、プロ野球選手――前町智徳の一世一代の晴れ姿だ。
プロ野球を見ている人ならもう承知だろうが、大体外野を越えた打球でも15秒ほどで野手は追いつき、内野に送球される。
一塁への到達が大体6秒7秒と考えると、外野の頭を越してフェンスに直撃した俺の打球はどれ程鈍足な選手でも余裕をもって2塁に行ける当たりだ。
おいおい……冗談だろう。
まだ、一塁まで随分距離が有るというのに見ると外野が既に打球に追いついているじゃないか。
俺は歯を食いしばってケンケンの速度をあげた。
「パキペキ」と、左の膝がクリスピーな音を軽快に鳴らして、膝から抜けそうになる。
「中継~~~‼ 」
神月の叫び声で、外野が送球に入ったのが理解る。
そうなるともう、球の行方を見る余裕もない。
身を低く屈めると、バランスが崩れる事を承知で、俺は地面を強く蹴り上げた。
そのまま、倒れ込む様にベースへと突っ込む。
俺は泥だらけの顔を挙げて審判の方を見た。
「セーーーーフ‼ 」
そして、両手を広げるその動作が起きた瞬間。
「ドーーーーーーーーーーーーーーーー‼ 」
と、割れそうな歓声がまるで耳元で鳴っているのかと思う程大きく鳴り響く。
「バックホーーーーーーーーム‼ 」
そんな中、聴こえる異音に、一塁手は素早く反応し、持っていたボールを声の元に返球する。
全ての者達の視線が、一気にそちらに移ると、そこには交錯する選手が目に入る。
「アウトーーーーー‼ 」
一塁に返球された隙を突き、最後の走者だった雲母が本塁に突入し、憤死したのだ。
「トモ。ようやってくれた」
そう、涙声で言いながら一塁コーチャーの荒金さんが俺を引き起こしてくれる。
「ベンチに戻るぞ。ようやった。
絶対皆で、お前が取ってくれた1点守りきるけぇの……」
荒金さんの言葉に、こちらも胸が熱くなる。
熱くなるが……違うのだ。
「前町さん、しまっていきましょう‼ 」
ベンチに下がる俺と荒金さんの前に、木藤がそう言う。
「何言ようるんなら、木藤」
俺は、そこで荒金さんの肩から手をどかし。
二つグラブを持って来ていた木藤から。
見覚えのある使い古された外野用グラブを受け取った。
「おい……」
荒金さんが信じられないと言った感じで呟いた後。
「広島安芸ウィード……選手の交代、続けて守備の交代をお知らせします。
9番ジェフに代わりまして……ピッチャー
レフトを守っていた雲母がファーストに入ります。
ファーストを守っていた鞍馬がキャッチャーに入ります。
そして……先程代打の前町がそのままレフトの守備に入ります」
コールを聞きながら、電子掲示板を見つめたまま荒金さんは動きを止めた。
「外野まで行けますか? 俺の肩でよければ貸しますよ」
後ろからそう言ってくれたのは真倉だった。
「大丈夫じゃ、心配いらんで」
俺はそう言うと、ひょこひょこと先程よりは幾ばくかましなケンケンで遥か遠く。左翼手の舞台へと急いだ。
不思議と先程までの痛みが薄らいでいる様に感じる。
そう言えば断裂した時のリハビリで「痛みは身体が出しているSOSなんですよ。放っておくと身体は気付いてくれないと思って身を護る為に痛みを抑え始めるんです」と言っていた医者が居たな……あの頃はそんな話はいいから少しでも痛みを和らげてくれ。としか願っていなかったが……なるほど、これがその状態か。
左翼手の位置に着くと、一斉に外野と内野の歓声が挙がった。
「まえまち~~~」
「よう打ったぞ~~~」
拍手がまばらにその歓声に混じっている。
「お父さん‼ 」
そんな中、やけに通るそんな声があり、俺はその声の方向を向く。
しかし、幾百の赤色のユニフォームの観客から、その声の主は見つけられなかった。
5球の練習球の後、守備陣形のサインが鞍馬から送られ、三遊間、そして中堅手の真倉が俺の方であるレフト線に片寄る位置取りを行う。
俺のフォローと言う訳だが、その分反対側のライト線の守備が薄くなるのは言うまでもない。
ここも駆け引きだ。
守備の穴である俺を狙うか。
それとも、守備が手薄になっているライト線を狙うか。
そう考えていた時、東京の6番打者が初球から快音を鳴らした。
打球が飛んだ先は、守備が手薄になっていた一二塁線。素早く右翼手の木藤がフィールディングを見せて、走者を牽制。単打で押し止めた。
しかし、ノーアウトで同点のランナーを9回裏に出してしまった。
経験も少ない若手の昔には、大層重い重圧がその肩に圧し掛かっている事だろう。
「昔‼ 打たせろ‼ 」
そんな時、木藤が聴こえる筈もないマウンドに向かい叫んだ。
「俺の所に打たせろ‼ 」
それに続く様に、真倉が手を口に添えて叫ぶ。
ああ……。
俺の記憶が目の前の景色に重なっていく。
「勝丸さん、もちっとレフト寄って下さいよ。そこまでは俺、範囲です」
「マジか? お前、そんな範囲広いんならセンターやれや」
目頭が熱くなる。
「カキン」と小気味いい音の後、歓声と溜息が入り乱れる。
今度はレフト線を狙った打球が、シフトを敷いていた三塁手の正面に飛び、素早くカミィが二塁に送球。
そのままの流れで二塁高木が一塁に転送。
「アウト‼ 」
一塁塁審のその声で、一気に球場のボルテージが上がるのが解る。
「あっと、ひっとり‼
あっと、ひっとり‼ 」
今度は、広島陣営の「あと一人コール」しかし、迎えるのは8番神月。
こちらとしては今日最も痛い目に合わされた相手だ。
左打席に入り、尻を突き出すいつものフォーム。
その時の神月の目線で俺は直感する。
あいつは、左翼線に飛ばしてくる。
そして、それはイチかバチかとかそんな不確かなものではなく、最もヒットの可能性が高いという確証を得てのものだ。
確実に来る。
そう思った時。
脳裏に再び駆け巡る物が有った。
「前町さんが野球を始めた理由って何なんすか? 」
誰に言われた言葉だったろう?
ああ、そうか。去年くらいに木藤の奴に言われた言葉だ。
「トモ君、父ちゃんの真実の打撃を見せてやろう」
次に浮かぶのは笑う父親の懐かしい顔。
「では……では、どうして、君は戻ってこれたんだい? 」
それは……。
「カキィイイイイン」
と、打撃音の後、俺の身体は動き出した。
宙を漂いながら進み続けるそれを見つめながら。
悲鳴と歓声と怒号が入り乱れる音の波を。
酷く情けないケンケンで……
「お父さん‼ 」
「パパ‼ 」
その声が、確かに聴こえたその声が。
歩む力をくれるよ。
「智徳、お父さんね?
本当はあんたの見舞いに行った時にもう、お医者さんに余命を告げられてたの。
でも、あんたが怪我で大事な時期だからって。
お母さんに口止めしてね?
ね?
智徳。
だから。
もう、泣きなさんな。
泣く時間があるなら。
怪我を治して
もう一度、ファンの人の為に。
チームの為に。
そして、お父さんの為に。
戻りなさい。
貴方の居るべき場所へ」
……そうさ。
そうさ。
俺が、野球を始めた理由は……。
ぜぇぜぇと、無理な体勢の動きとぶり返す激痛で少しの距離でも息が切れる。
格好良かったんだよ。
あの時のとーちゃんの姿がさ。
だから。
だから。
「トモ、心配するな。
お前の父さんには、わしが向こうに行った時にちゃーんと伝えとくよ。
お前さんは怪我にも負けず……
立派なプロ野球選手だっての」
見上げるライトの明かりに様々な記憶の欠片が色づけられていく。
目指した理由は。
つけたかったんだ。
俺も――。
自分の子ども達の前で。
大好きな女の前で。
格好を。
格好いいとこを――見せたくて。
あの日のとうちゃんに負けないくらいの……。
俺の長年の勘が伝えてくる。
「ここが落下点だ」と。
眩いライトに、小さな影が見える。
徐々に近づいてくるそれを見つめながら。
俺は、小さく。
そして、強く思った。
野球を。
野球に出逢えて……本当に……よかった。
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