第20話 10月9日 対東京ナイツオブラウンド戦 前編

「桂坂。調子はどうな? 」

 ベンチ前で軽く汗を流している彼に声を掛けると。

「えぇっ! 」と、彼自身がそこまで? と思う程の驚きの表情を浮かべた。


「どうした? わしが声掛けちゃおかしいかの? 」

 我ながら少し、意地悪な言い方だな。


「い、いえ。投手に話し掛けて下さる事なんて、ありませんでしたので……

 あっ、し、失礼しました」

 俺は、微笑むと彼の左肩をぽんぽんと叩いた。


「麻宮、お前も来い」

 球を受けていた麻宮も呼ぶと。

「ええか?

 今日の試合は誰が何と言おうと、お前ら二人が作る試合じゃ。

 余計な力も入るかもじゃが外野の声は、気にするな。

 今の広島は、ぶち強ぇ。

 喩え――今年が駄目じゃっても、お前らは若い。またチャンスが必ず来る。

 だから、悔いだけは残さんようにしっかり楽しんでこい」


 二人は、ポカンと口を開いたままその話を聴いていた。

「はい! 勿論ですよ」

 先に答えたのは麻宮だった。

「よし」

 しかし、付き合いの長い桂坂は何か納得のいかない表情でこちらを見つめる。


「……駄目っすよ。

 優勝の瞬間には前町さんが、居てくれないと。

 誰が、チャンスの場面で俺の代わりに打席に立ってくれるんすか」

 桂坂は、それだけ言うと麻宮に指示を出して、離れさせる。


「前町さん」

 振りかぶりながら俺に桂坂は言った。


「優勝したら、頼みたい事があったんすよ」


「……なんだ? 」

 桂坂は、大きくスタンスを取りとても綺麗な上手投げでボールを放つ。

 ――間もなく、空気が揺れる小気味いい音が響いた。


「……優勝してから、言います。

 だから……

 もし、今日の試合で俺の代打で出た時は……

 打って下さいよ? 」

 桂坂と、話せてよかった。

 こいつとは、チームメイトで一番1軍で一緒に居た時間が多かったのに、投手と野手の隔たりで話す機会もなかった。


 試合は、その少し後。

 18時15分に開始した。


 広島のスタメンは、昨日の試合と打順も変わりない。

 対し、東京は先発マスクに神月を選択した。

 これは、こちらにとって想定通りの展開だ。

 今季、東京は広島戦に対し先発マスクは全て神月を当ててきている。

 結果は14勝9敗1分。単純計算で今日の試合を除いて既に貯金を5つ作られている事になる。これは、明らかに神月にこちらの弱点を突かれていると言っていい結果だ。

 そんな、神月だが。

 本当にこれは珍しい事なのだが、試合前にこちらのベンチに挨拶に来た。

 世話になった監督やコーチに、シーズン締めくくりの挨拶かと思っていたが、どうやら俺に用があったらしい。


「前町さん。

 あの時は、相談にのって頂きありがとうございました」

 突然、そう礼を言われて思わず視線が宙を泳いだ。

 そこで、脳裏に浮かんだのは思い出したくない、神月の嫌に艶っぽい半裸の記憶だ。


「ああ……、いや大した事は助言してやれんかったろう」

 そう言ったのは、謙遜ではない。


「いえ、前町さんだけです。

 行くなでもない。

 お前が選べと、こちらに返す訳でもない。

 真剣に私の話を聴いて、私の意向を尊重してくれた。

 忘れません。

 そして、前町さんに相談して。

 私、後悔なく……いえ、やっぱり毎日どこかで少し広島への未練を感じています。

 でも……。

 今日の試合。監督から最後まで行くと言われています。

 待ちに待った前町さんとの対決……。

 全力で、行きます。

 全力で、広島を。前町さんに勝って。

 私、優勝します! 」

 それを聞くと、俺は思わずうんうんと頷いて笑ってしまった。

 縁とは不思議なもので、ここまで神月がマスクを被った試合で俺が出場する事は無かったのだ。

 そして今日も……。


「おい、その喋り方の方がよっぽど男らしゅうてええぞ神月。

 こっちも、おっさんの全力みせたるわ‼ 」

 それを言うと、神月は満足した様に向こうのベンチへと戻っていった。


 神月の言っていた相談とは、あの年の暮れ、家族と温泉旅行に行った時の件だ。

 あの時、木藤が朝陽を連れて離れていった時。


 神月から「代理人からFA宣言を薦められた」と相談を受けていた。

 神月は、現代ではそう珍しい事も無いが児童養護施設の出身だ。

 母親が若くして神月を産んで、父親とは結婚もせずに別れたらしい。

 だが、神月は母親を憎んだりしなかったそうだ。

 何故なら、彼の母親は毎年毎年、神月に野球用具をそのなけなしの生活費で買って与えてくれていたらしい。

 神月は、その道具で必死に野球を練習し。

 壊れたら、それを何度も何度も修理して。

 そうして、泥と汗と血に塗れながらプロ野球選手の高みへ昇りつめた。


 その母親が、この度結婚する事になったそうだ。

 子どもはいるが初婚の母親と、相手は小さな町商店を経営する気のよさそうな中年男性を見て。

 神月は、きっとそこで初めて野球と金を切り離せたのだと語った。


 だからこそ、次は自分の為に野球をしたいと。


 一度も経験した事のない優勝を一刻も早く経験したい。


 それが、野球人。神月葵の、一寸の淀みも無い野球への欲望だった。


 俺は、結果的に神月の東京移籍を後押しした様な形になってしまったのかもしれない。

 しかし、果たして広島に留まったとして、神月は優勝を経験出来たのだろうか?

 FAというのは、選手にとってその後の人生を左右する大きな問題だ。


 だからこそ、俺もどこかで漂っていた迷いが消えた。

 神月のあの顔を見て、ハッキリと。



「くそっ! 」

 その俺の意識を戻す様に木藤の悔しそうな声がベンチに響いた。

 初回、広島は足利に三者凡退に抑えられる。

 いつも、飄々としている木藤が明らかに苛立ちを見せながらベンチに戻ってくるのはあまり良くない兆候と言えるだろう。

 野手陣が守備に付き、空いたベンチで井土さんの近くに俺は移動した。

「木藤への配球、見せてもらえますか? 」

 井土さんは、視線をマウンドから外さずにスコアブックをこちらにスッと寄せてくれた。


 ……初球が、インコース真ん中、チェンジアップ。空振り。

 2球目が、お手本の様にアウトコースへストレート、見逃してこれで2ストライク。

 3球目に、インハイストレート。ボールになっているが恐らくこれが効いたな。

 4球目、アウトローボール球のチェンジアップを打って、二ゴロ。


 多分、受ける捕手が神月でなければ、3球目のストレートはボールと言えど木藤にとって特に問題の無い絶好球だったろう。少なくとも見逃す事は無い。

 だからこそ、4球目に神月はチェンジアップを選択し、見事に木藤を打ち取った。


 あの苛つき具合から言っても、木藤は精神面で東京バッテリーに圧されている。

 さて、ではどうすればその呪縛から木藤を救える?


 そうこう考えていると、スタメンがベンチに戻って来た。

「えっ⁉ 」驚き慌てて井土さんの方へ向く。


「……三者三振ですよ。

 今日の桂坂くん。今季一じゃないですか?

 球速も自己最速の153キロを連発してますし。

 何より、伝家の宝刀のバックドアがよく走ってますよ」

 その結果に疑問を抱いたのは俺だけではない。


 投手コーチの阿賀佐さんと、監督が慌ただしく何かを話し阿賀佐さんがそのまま桂坂に何かを伝える。桂坂は右手を挙げると、一言二言返して、ベンチ裏へ消えた。


 ……桂坂は確かに本格派並の直球を持っているがその実本来のスタイルは三振を奪いに行くものではなく、相手に打たせて打ち取るそれだ。

 何故ならば、そこに『先発 桂坂塁』の致命的な弱点が露見する。


 そして、2回表。

 足利は、危なげなく雲母を投ゴロに打ち取ると、続く打者。

 間違いなく、現在広島で最も警戒すべき打者。麻宮を迎える。

 麻宮は右打席に入ると、ゆっくりとバットを地から引き抜き、天でその先を突く様にしてから、構えに入る。

 ……ベンチから見ていても、かなり型が固まったのがハッキリと解る。

 それは、もう既に俺の手から離れ、完全に麻宮のモノになっている事を示している。


 だが、今季麻宮が覚醒したのはその型を手にした事だけが理由ではない。


「カキィン」と間もなく空気を裂く烈音が響いた。

「おっしゃーーーーー」と、ベンチのメンバーが一気に立ち上がり、球場の鳴り物が激しく鳴りだす。

 麻宮は、足利の直球を見事に捉え外野の頭を越すツーベースヒットを放った。

 1アウトながら、スコアリングポジションにランナーが出る。


 先の話に戻そう。

 麻宮が、ここまで打撃を向上させた要因は。

 彼が捕手というポジションだったというのが、俺は大きかったんじゃないかと思う。


 捕手は、以前にも話した様な気がするが、野球という競技で最も頭。つまりは知能を駆使しなければいけない。

 これも以前に話したと思う。

 柔軟な思考を持つ捕手の配球は、俺程度では相手にもならないと。

 正直、佐々波や神月とそう言った腹の探り合いをすれば、俺は足元にも及ばない。

 だが、同じ土俵の麻宮なら?


 恐らく、俺の考えている以上に相手の読みを深く読み取る。

 それが、この結果なんじゃないだろうか?


 そんな事を考えていると、ベンチからメンバーが勢いよく飛び出す。

「ん? 」俺の言葉に、隣に居た井土さんが「惜しかったですね足利は本当にいい投手になりましたね。スコアリングにランナーを置いても、落ち着いて打者を捌いた」

 まるで、説明してくれたみたいで助かる。感謝するよ井土さん。


 直後、ベンチにまで響く、ミットの音。

 電光掲示板のスクリーンに154の数字が映り、球場が騒然とした。

 しかし、その盛り上がりとは裏腹に阿賀佐コーチは監督と小丸ヘッドと慌ただしく何かを離すと、ブルペンに繋がる内線を手に取った。


「カキン」と鈍い音がすると、間もなくグラウンドの面々がベンチに戻って来た。


 俺の隣にドスッと腰掛ける桂坂は夥しい汗を浮かべている。

 椅子に置いてあったビタミンドリンクを乱暴に取ると、それをガブガブ飲みだす。

 

 そう……『先発 桂坂塁』の致命的な弱点とは。

 ――持久力不足。1軍の試合では80球を目途に交代する。完投能力のない先発投手。

 その華々しいプロ野球成績とは裏腹に、完封を除くと完投した試合は皆無。


 先発投手として、それは果たしてどうなのかと思う者も居るだろうから、先にことわっておく、桂坂は致命的とも言える弱点を持ち、それでもこの日本プロ野球を代表する先発投手だという事を。

 この世に全てを持つ者など居ない。

 そして、それを望んでも得る事が出来ない者も居る。

 それを踏まえた上で。

 桂坂塁はマウンドに立つ。広島安芸ウィードというプロ野球チームのエースとして。


 ドリンクを飲むと、彼はそのままヘルメットを取りに監督の前を横切った。

 その時の監督と小丸ヘッドの目は、明らかに打席よりも桂坂の様子に注がれている。

 足取りは重く、肩で息をしている。

 序盤でこの状態は異例だ。

 シーズンの1試合ならば、これは止めるべき。

 しかし、繰り返す事になるが今日の試合は、リーグ優勝を決める1試合。

 そこで、チームのエースが背水の覚悟とも言える全力で臨んでいる。

 止めれる筈がない。


 その気迫に報いるには、先取点。

 それも、もうあまり猶予はないだろう。

 恐らくあの球威は、3イニング目にはもう出ない。

 それどころか、ひょっとして。

 ひょっとしたら、桂坂。お前……。

 もう、限界を。


 間もなく、桂坂がヘルメットを外しながらベンチに戻り、そのままダグアウトの裏へ足早に消える。

 小丸ヘッドが1番の高木に待球の指示が出すと、そのまま阿賀佐コーチが桂坂の後に続いて行った。

 桂坂が、どこまで保つかで試合の流れは大きく変わる。

 広島としては、その展開に備えてCSに先発予定の投手までベンチに置いている程だ。

 それは、想定の範囲内の事だしだからこそ、明らかにペース配分が違う桂坂を止める事もしなかった。

 それこそ、1イニング1投手の一人三殺というシーズン中では考えられない継投も考慮している事だろう。

 しかし、実力実績から控えの投手も含めて桂坂がうちで一番なのは間違いない。

 最低でも5回。監督達はそう考えていた事だろう。だから、先のイニングで慌ててブルペンを用意させたのだ。


「カァン」と、その嫌な空気を切り裂く音が聴こえる。

 高木が2アウトフルカウントから、上手く足利の直球を捉えた。


「しゃっ! 」

 そう、気合を入れてネクストゾーンに向かう木藤に俺は駆け足で近付く。

「木藤」

 ベンチを抜けた所での声に、少し驚いた様に振り向く木藤に俺は言った。


「もし、お前が神月と読み合いをしようと思ってるなら、止めとけ。絶対に勝てんけぇ。

 思い出せや――去年の温泉の時も、お前は神月はおろか、凪にまでトランプで負けようたろ? 」

 木藤は、それを聞いて戸惑う様に眉毛を揺らし叫んだ。

「マジすか⁉ じゃあ、俺どうすりゃええんですか⁉ 」

 それなんだよ。木藤。

 去年までのお前なら、そんな返事は。

 いや、そもそも俺のこの言葉すら出てこない筈なんだよ。


「木藤。お前、去年まで何を考えて打席に立ちょうた? 」

 木藤は、それを聞いて再び眉毛を動かし首を捻った。


「思い出せんよ。

 思い出せるわけがない。

 お前はな、木藤。

 打席で、考えるなんて事はしてなかったんだよ。

 ただ、勘。

 一流打者が打席に立つ事で自然に身に着いた勘。

 それだけでお前は、名立たる名投手を打ち砕いてたんだよ。

 それが、何だ?

 4番を任される様になって、お前は考えるようになった。

 それが、足枷になってるって事にいい加減気付け。

 それは現在のお前には、必要がないもんだ」

 木藤はまるで下らない手品を見て驚いている子どもみたいな顔を向ける。


「いいな、木藤。

 そう言う真似は、俺くらいじじいになってからやれ」


 最後の言葉を嚥下すると「ハイ‼ 」と、これまた子どもの様な返事を返す。

 子どもと言えば、うちの子ども達も今日は妻と観に来ていると昨日メールが届いていたな。と思い出した。

 ベンチに引っ込む際に、三塁ベンチの方へ首を動かすが……まぁ、見つかる訳ないわな。


「ボールフォワ‼ 」

 真倉が四球で繋げる。何となくだが高木が打った時から木藤に回る予感がしていたんだ。


 今日の試合――広島の攻撃でカギになるのは、間違いなくこの木藤の打席だ。

 何故か?

 簡単な事。

 4番雲母、得点圏打率3割5分8厘。

 5番麻宮、得点圏打率3割7分1厘。

 明らかに、得点に繋がる二人が後ろに控えているからだ。


 しかし、逆を言うならばこれは。

 木藤に対し、相手は勝負をしなければならないという事実に繋がる。

 だからこそ、本当は3番は一番調子のいい選手が立つのが理想ではある。現在の広島なら麻宮か。

 しかし、監督が――いや、例え俺が監督であっても。

 多分、そこには木藤を置くと。

 そんな事を考えていたから。

 

「カキィイイイイイン」

 肝心な瞬間を見逃すのだ。


 その音と同時に、ベンチの前列の若手達と、コーチが憤怒した様に騒ぎ出す。

 球場内の鳴り物もけたたましい程に響き渡る。


「まわれえええええええ‼ 」

 若手の声で、ようやっと状況が解る。

「二つ‼ いや、三つ‼ 」

 木藤の結果は、走者一掃のタイムリーツーベース。


 この天王山の一戦。まず、先制をしたのは広島。最も打ってほしかった者の打撃で大きな2点が入る。


 そして、チャンスは続く。

 四番、雲母美刀。

 その喧騒の中、気付くと横に桂坂が戻ってきていた。

 呼吸はもう落ち着いているが、顔色が優れない。


「流石の木藤ですね」

 声を掛けられて思わず「ん? 」と聞き返してしまった。

「ああ、今日の足利から打てる奴は限られてるだろうな」

 その俺の言葉を聴いて桂坂は「ふー」と大きく息を吐いた。


「今日の俺と、足利だったら前町さんならどっちと勝負したいですか? 」

 その質問の意味を尋ねようとした時。

「わぁああああ」と、歓声が挙がり、やがて風船の様にそれは萎んでいく。

 雲母の打球は外野フライだったようだ。足早にナインがベンチを飛び出す。


「桂坂‼ 」

 離れていった彼が俺の言葉で振り返る。

「今日のお前からは、どうやっても俺じゃ打てねーぞ‼ 」

 それを聞くと、彼は満足そうにグラブを叩いた。


 3回の表。

 それは物理的にも論理的にも証明する事は難しい事である。

 良く言う『オカルト』とかそういったものに近しいんだと思う。

『ピンチの後にチャンスあり』

 夏休みに高校野球を1日見ていれば、必ずこのワードが1回は出て来る事だろう。

 一応、攻撃時の興奮や緊張状態から解かれた事から自然に油断状態になるからだとか無理矢理理由付けしてる人もいたけど。

 言葉では説明できないが、それは確かに存在するんだ。


 桂坂が、3回の表1アウトも取れず、マウンドを降りたのはそれから20分後の事だった。

 先頭打者の7番打者を野手サードの失策で出してしまったのは仕方ない。

 その次――8番打者神月。ここで桂坂に歪みが起こった。


 恐らく、この桂坂の状況は神月には手に取る様に分かったのだろう。

 だからこそ――神月は相手チームのメンバーとして。

 桂坂の敵として。

 最も、効果的かつ単純な方法で桂坂を破壊した。


 神月が用いた作戦は、何という事はない。

 バントの構えを用いたり、執拗に球をカットし桂坂をひたすらに疲弊させたのだ。


 こうくるなら、対処は簡単だった。

 普段の桂坂の投球に戻せばよかったのだ。

 神月は解っていた筈だ。何故なら、誰よりも桂坂の弱点を知っていたのだから。そもそもこの省エネ投法も2軍時代に二人で研究したものらしい。

 そこに気付けなかった麻宮を責めるべきではない。

 いや、桂坂もそれをんだ上で。

 現在の相棒である麻宮のリードを信じて投げ込んだのだ。それで神月を抑えれると。


 救いは、二番手投手の竹村照吉たけむらてるきちが0アウト満塁から、無失点に切り上げてくれた事だろう。

 しかし、その前に桂坂は逆転を許しスコアは3対2と動く。


 正直、いきなりリードを消されビバインドにされたのは痛いが竹村のおかげで、むしろこちらの流れを掴んだ形になった。


 そして、この回こちらの先頭打者は再び麻宮。

 そういえば、桂坂と神月と同じ様に麻宮と足利も昨季2軍でバッテリーを組んでいる筈だ。

 ひょっとして、麻宮だけが気付いている足利のクセの様なものを知っているのではないだろうか?


「カァン」一瞬歓声が「わっ」と挙がるが、直ぐに静かになる。

 麻宮の第二打席は、遊フライ。


 ベンチへ戻るその際に、次打者のカミィに一言二言何か声を掛けている。


「麻宮、カミィに何を話した? 」

 戻って来た麻宮に、俺は素直に尋ねてみた。


「え? あ、ああ。いえ、大したことじゃないです。

 ただ、初球はストライクに来ると思いますって――それだけです」

 その理由を続けて尋ねようとした直後。


「わぁあああああーーーーーーーーーーー」

 と、再び球場が割れる様な歓声に撃たれる。


「流石、カミィですね。

 足利の直球をあそこまで飛ばすなんて」

 麻宮は、冷静にそう言うと彼を迎える為ベンチの最前列へ向かう。

 麻宮の助言を受け助っ人外国人のカミィのソロホームランで、3対3早くも試合は振出しに戻った。


「なんで、初球がストライクに来ると思ったんだ? 」

 どうしてもそこが疑問だった俺は、麻宮の隣に移動してグラウンドを周るカミィを見つめながら尋ねる。


「ああ……いや、神月さんだったらどう攻めるかな? って思ったんですよ。

 それで、今日の全員の第一打席を見ると……

 打率の高い高木や雲母さんには、基本ボール球から入ってボール先行なのに対して。

 木藤さんやカミィと言ったホームランバッターには、ガンガンストライク先行で来てたんで

 まあ、足利の直球と制球なら実際早い段階の勝負が強いのは解るんですけどね。

 さて、これでまた神月さんがどう配球してくるか……ですね」

 そう言いながらも、麻宮は自信に満ち溢れた表情をしている。


「じゃあ、次の泳着も初球はストライクか? 」

 しかし、麻宮は目を細めて睨む様に相手バッテリーを見つめた。

「もしそうなら大分楽なんですが……」

 次の瞬間、俺も麻宮も驚く光景が浮かんだ。


「ストライックーー‼ 」

 配球は、確かに麻宮の読み通り初球ストライク。驚くべきはその球の軌道だ。

「随分変化の大きいカーブ? いや、球速的にスライダーか?

 あんな球、今季も投げた事ないだろ‼ 」

 阿賀佐さんが、狼狽しながら井土さんに近付くが、井土さんも困惑した様に首を横に振るった。


「多分メジャーで言われてるスパイクカーブに近いものですね。

 なるほど、確かに足利にはもってこいの球だ」


「スパイクカーブ……パワーカーブか」

 俺の言葉に、麻宮は頷く。

「正直、チェンジアップと、ツーシームだけじゃ足利も高が知れますからね。

 でも、こんな球があるのに、シーズン終了間際まで見せなかったとなると、何か理由がありますね。まさかCSに温存してたなんて、そんな余裕を持っている訳ではなかろうし……」

 麻宮は、そこまで言って何かを思いついた様に顔を挙げた。

「まさか……」


 その視線は、マウンドと打席の泳着に注がれる。

 カウントは、1B2S。

 大きなワインドアップを取る足利に麻宮は視線を外さない。ジッと一か所を見つめる様に。

「そう言う事か‼ 」

 そして、ボールが放たれる瞬間、ハッとした様にそう叫んだ。


 そして、放たれた球はとても緩くミットへ向かう。

 ベンチから見れば棒球にも見えるが、どうやら打席の泳着もそう判断したらしい。

 鋭いスイングがそのボールを捉えようとした瞬間。


 まるでボールは意志を持っているかのように、大きくバットから逃げる様に軌道を変えた。


「ストライックバッターアウト‼ 」

 大振りをした泳着は大きくバランスを崩し転倒。


「さっきのパワーカーブは、今の球の失投だったんですよ。

 あいつが本当に投げようとしていた球は今のカーブ。

 ナックルカーブです。

 確認で握りをここから視ましたので間違いありません。

 ここまで投げてなかったのは、先程承知の通り、まだ未完成で恐らく自由に球速を抑えきれないんでしょう。

 しかし、厄介なものです。ある意味、2種類カーブがあるみたいなもんですから。それに、あれと直球を組み合わされてましてやゾーンを出し入れされたら……」


「そうなると、決め打ちしかないな。

 幸い点差はない。

 なんとしても、先取点を取るしかない」

 俺の言葉に、麻宮も頷く。


 しかし、それは同時に神月葵との読み合いになる事を示している。俺も麻宮も1点を争う展開になるだろうと予想していた。


 だが、この展開はこれより誰も予測してなかった方向へ進む。


 まず、8番打者新河の打席。

「ボール‼ ボールフォア」

 コーナーに直球を突く慎重なリードを上手く見た新河がベテランの味を見せて出塁すると、園方監督が動く。

「代打‼ 枝崎‼ 」


 そのコールで、球場に歓声が響き渡る。

 ここが正に、この試合の序盤の見せ場だというのだ。


 枝崎は麻宮が正捕手をとってから、主に1番手の代打で起用される事が多くなった。

 そして代打でも、その打撃は衰えず。

 結果、規定打席には到達出来てはいないが2割9分の高打率をマークし長打の警戒も必要な好打者として認識されている。

 加えて、対峙する足利との今季対戦成績は8打数6安打1本塁打。当たりに当たっている。

 このケースなら、充分歩かされる可能性も考慮しなければならないが申告敬遠は無かった。未だ一概に勝負と判断するのは早計だが。可能性としては大きくなった筈だ。


 まず、初球――。

 ベンチからは待球の指示。

 それを読み取っていたかのように、甘めのコースに直球が入る。


 続く2球目、今度はインコースに直球。

 しかし、これは枝崎が待っていた。

 背筋が凍る様な打球が、痛烈な音を響かせて飛ぶ。

 しかし――僅かにレフト線へ切れファール。


 2球で追い込まれたのは、非常に枝崎にとっては痛い。

 ここで、足利が今日の試合初めての仕草を見せる。

「首を振った。

 多分神月さんは、アウトコースにチェンジアップかカーブを要求しましたね。

 でも、足利は意地でも直球で枝崎さんを仕留めたいみたいですね」

 それは、この試合を任された足利の意地と言っていいだろう。


 3球目、足利の球は再びインコースに直球。

 これに面食らったのは枝崎だった。


 何とかと言った感じで食らい付きカットに成功した。

 恐らく枝崎も一球外角に来ると思っていたのだろう。カットしおわった後、タイムを掛けて大きく深呼吸を行う。


「プレイ‼ 」

 審判の掛け声でもう一度枝崎は、大きくバットを構える。

 神月がサインを出すが、足利は今一度それを拒否する。


 やがて、頷くと。

 神月はずい、と枝崎の方へ寄る。


 あくまで、インコースで捻じ伏せる気だ。


 そして、大きく振りかぶる。


 しかし、三球続くならば枝崎もプロの1軍打者。対策は当然講じられる。

 足利のスタンスを見ると、一気に身体を開かせオープンスタンスに切り替える。

 完全なるインコース対策。


 それでも、捻じ伏せようと足利の肩に大きな力が加わる。


 身体を早くに開くと、内角に食い込む球を強く引っ張る事が容易になる。近年オープンスタンスの打者が増えたのはこれが利点として挙げられるからだ。

 しかし、この打法で明らかに増えたものが他に有る。


 それは、身体を早く開く事によるその姿勢が影響する。

 球が手元までくる時に身体が閉じたままであると、背中を向けるのが容易なのだむしろ、オープンスタンスはその構え故、背が向けれない。球を横で迎えるのと、正面で迎えるのをイメージすれば解りやすいと思う。


 そう……オープンスタンスが普及した事により、増えたそれとは。


 頭部死球だ。


 けたたましく響いていた球場内の音が――静寂で塗り替えられる。


「枝崎ーーー‼ 」

 バッターボックスで倒れている彼の名を監督が叫んだのは間もなくの事であった。

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