第5話 北園冴子の場合 2

「滝沢です。司法書士と税理士をやっております」

 滝沢先生が物凄く心地良い低音を響かせて名乗った時、声フェチの私は軽くめまいを覚えた。

 先生は顔も端正だったし、山月の人とは思えないくらいおしゃれだった。

 仕立ての良い三つボタンスーツのスリーピースで、中のベストにも襟がついていた。

 靴も高そうだし、腕時計はブルガリと、一部も隙がない。多分、バッグも良いものを使っているのだろう。

 あまり表情が変わらないのも含め、男の人なのに「クール・ビューティ」という表現が頭に浮かんでしまう。

 起業の手続きを訊いてる時も、その声の響きにうっとりと聞き入ってしまう事が何度もあり、その度に我に返ってメモを取った。

 変な女だと思われただろうか?

 正直、顔も声もたたずまいも、物凄く好みだ。仕事も収入も申し分ない(多分!)。

 こっちに戻って来たら、イイ男には巡り合えないんだろうなと思っていた私の予想を思いっきり裏切ってくれた!

 おまけに司法書士だけだったら起業が終わったら会う機会もそんなに無いが、税理士として契約して貰えば、しょっちゅう連絡を取る事になる。

 私は舞い上がりそうだった。


 メールで送られてきた定款をコピーして、製本テープで綴じる。

 製本テープなんて存在も知らなかったが、滝沢先生に勧められて買ってきた。

「山月では一番大きい文房具屋さんにも売ってません。複数枚の契約書には必ず必要になるんで、私も前はネットで取り寄せてましたが、今は百均で買えますよ」

 便利な世の中になったものだ。


 定款を持って山月銀行の銀座支店へ向かう。

 黒谷には銀行が無い。金融機関は郵便局と農協と漁協だけだ。コンビニもない。

 ただ、農協と漁協のATMは、山月銀行のカードでお金を降ろす事だけは出来る。

 でも通帳への記帳や預け入れ、振込は出来ないので、ネットバンクの個人口座を作った。

 登記出来たらすぐにネットバンクの法人口座も作って、通販ではそれをメインにする予定だ。

 そうしないと、振込確認の為に、わざわざ記帳をしに山月に出ないといけなくなる。

 

「すみません、法人口座を作りたいんですが」

 受付の女性に告げると、法人用のブースに案内された。

 暗そうな眼をした黒縁メガネの男性が応対してくれるようだ。

「定款はお持ちですか?」

「はい、こちらになります」出来上がったばかりの定款を差し出す。

 暗そうな男性は、私の顔も見ずに書類を隅々まで確認している。

「それで、当行に口座を開いて戴いて、そこに資本金を入れるような感じですかね?」

「そうですね。その通帳を持って登記すると司法書士の先生がおっしゃってました」

「承知しました。ただ、まだ登記がお済みではないので、法人口座は開けません」

「え?」

「まだここに書いてある株式会社北斗は法人登記が済んでませんから、存在しない会社名義の口座は開けません」

 滝沢先生から教わった手順と違う!

 私は混乱して、一旦銀行の外に出て、先生に電話した。


 先生はすぐに駆けつけてくれた。

「北園さん、まずは詳しいお話を聞かせてください」

 私は銀行の人からの言葉をそのまま伝える。

「わかりました。私が交渉しましょう」

 こんな時だが、私はうっとりしてしまった。まるで王子様だ。

 そのまま法人ブースにいる暗そうな人を呼んで貰う。

「司法書士の滝沢と申します。法人口座が作れないとはどういう事ですか?」

「先ほどもその方に説明しました通り、まだ法人として登記されてませんから、存在しない会社名の名義で口座を開く訳にはまいりません」

「おかしくないですか? 会社を登記するには銀行に資本金を預けて、その通帳が無いと登記出来ませんよね? それだと永遠に会社は作れないって事になりませんか?」

 滝沢さんは冷静に話しているが、後ろで聴いている私にも分かるくらい邪悪なオーラを身にまとっている。

 銀行の人もかなり青ざめている。

「それに私は、貴行の別の支店で同じ事をやりましたが、普通に受理して戴いてますよ? 同じ銀行内で規則が違うのはマズくないですか?」

「た、ただいま確認を取ってみます! 少々お待ちを」

 暗そうな銀行の人は、残り少ない髪の毛を振り乱して奥に引っ込んだ。

 滝沢さんはにこやかに振り返って私に言った。

「北園さん、ご安心ください。私が責任持って口座は開設させますので」

 その笑顔は、心底恐ろしいものだった。

 が。私は仲の良い女友達みんなに言われるくらいのドMなのだ。

 心底恐ろしい笑顔に強烈に惹きつけられてしまった!

「あの鼻メガネが何かややこしい事を言うようでしたら、もっと上の人間に掛け合いますから」

 鼻メガネってのはあの暗い銀行の人の事だろうか?

 確かにパーティグッズの鼻メガネを掛けているようなルックスだけど。

「おまたせ致しました!」 鼻メガネさんが戻ってきた。

 鼻の頭に汗をかいて赤くなっているので、ますますパーティグッズっぽい。

「確かに滝沢先生のおっしゃる通り、中央通支店で登記前の法人口座を開いてるみたいです。ただ、そこから内規が変わりまして…」

「それはこちらには関係ありませんね」

 滝沢先生は先が二つに分かれた舌を出したような顔をしているに違いない。

「誠に申し訳ありませんが、決まってしまったものでして、私にはどうする事も出来ません」

 滝沢先生は無言で睨んだようだ。鼻メガネさんの顔が蒼白になっている。

「で、ですので、私の方からの提案なんですが、一度北園様の個人名義での通帳をお作りして、その通帳で法人登記申請して戴くというのは如何でしょうか?」

「その通帳はどうなりますか?」

「お名前を一度二本線で消して、訂正印を捺して会社名義に致します」

「そんな無礼な事をやるんですね。わかりました」

 滝沢先生の背後の邪悪なオーラが一段と増したような気がする。

 鼻メガネさんは、ダラダラと汗をかいている。

「じゃあ、まずはその手続きをお願いします。私はすぐに法務局に行って登記してきます」

「し、承知しました!」

 鼻メガネさんは椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がり、女性行員さんに「これ、至急で!」と指示を出している。

「北園さん、私はそのまま法務局に行ってきますがどうします?」

「私もご一緒させて戴いてよろしいですか?」ここは私も一蓮托生だ。

「では、一緒に参りましょう」


 先生の車は清潔感のある真っ白なアウディだった。ベンツやBMWじゃないところがまたおしゃれだ。私の中で、また一つ好感度が上がった。

「一旦会社に戻りますね。さっきの通帳をコピーして、登記申請書に添付します。印鑑証明はお持ちですか?」

「あ、はい。取って来ました」

「ありがとうございます。それじゃあ、必要書類を揃えて法務局に行きますかね」

 私としては、全ておまかせする以外に道は無い。


 法務局では滞りなく登記申請が認められた。これで会社は設立された事になる。

 なんだか感無量だ。

「北園さん、まだこれから市役所や税務署や年金事務所や労働基準監督署、ハローワークにも届出が必要ですからね」

 まだまだやる事はいっぱいあるようだ。ホント、滝沢先生がいてくれて良かった!

「じゃあ、山月銀行に戻りますね」

 個人名義通帳を法人名義に変えないといけないんだった。

 自分の名前に二本線を引かれるのは、正直あまり良い気分ではない。

 でも仕方ないんだろうな。


「会社設立してきましたので、通帳の名義変更をお願いします」

 滝沢先生は、一目散に鼻メガネさんのところへ向かい、通帳を叩きつけた。

「少々お待ちください!」鼻メガネさんは女子行員に再び指示を出す。

「お待たせしました!」

 通帳には「北園冴子」のところに二本線が引かれ、銀行の訂正印が捺されている。

 その下に「株式会社北斗」と書かれていた。

 なんだか、せっかく新しい会社が出来たのに、中古の通帳を掴まされたような気分だ。

「通帳お借りできますか?」

 滝沢先生に渡す。

 先生はしばらく眺めた後、いきなり通帳を引き裂いた!

 凄い力だ。鼻メガネさんもあっけに取られている。

「通帳が破損してしまったんで新しいのと取り換えて頂けますか?」

 滝沢先生は優しい口調で窓口の女性にそう言った。

 鼻メガネさんは顔面蒼白で歯の根がガチガチ言っている。

 先生は鼻メガネさんの耳元に優しくこう囁いた。

「貴方のやった事は、これくらい無礼な事ですよ」

 そして振り向いて満面の笑顔で私にこう言った。

「良かったですね、まっさらな通帳になりますよ」

 

 私はまたもやハートを射抜かれてしまった!

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