7:無力なる存在

 ――一体何の用、ヴィオラ。

 初めて〈ナビゲーテル〉を起動した日、今と同じようにエウロパを睨んでいると、そのヘルプAIとして、ヴィオラはわたしの視界に勝手に乗り込んできた。

 ――あなたが「テレポート不可」の物体をしきりにテレポート対象に選択しようとしているから、心配になったんですよ。一体、どうしてこんなことを?

 イライラが募っていたから、思わず威嚇するように強い言葉を応酬してしまったんだろう。それが無理な話だと、本当は分かっていたはずなのに。

 ――月だけが昇る夜空を取り戻すために決まってるでしょ。あんたらに頼るつもりはない。わたし一人の力で、エウロパを消し去ってやる。

 それに対して、ヴィオラは頷くことも、笑うこともしなかった。荒唐無稽と思われただろうとは考えたが、彼女は表情にはそれを出さなかった。

 当時は、対人AIにプログラムされた優しさかとも思ったが、既に、ヴィオラは――ネイバーフッドはわたしにそんなことは期待していなかったんだ。

「まったく、笑っちゃう」

 体の中が熱くなり、声が震えた。

「あんたらはわたしをもてあそぶ気だったってこと? この間、この防潮堤で心中をぶちまけた時、あんたは、わたしの願いが叶う訳じゃないってことを知っていたってこと?」

「そうですよ」

 今度は少し柔らかな声色だった。それでも、体の中の熱は冷める気配はなかった。

「あんた、本当にいじわるな趣味してる」

「お言葉を返すようですが、『あなたは第二の〈ゼウス〉にはなれませんよ』と突きつける方がいじわるだと思いますよ」

「だったら、どうしてわたしなんかに声を? 上げて落とす――人を馬鹿にすることが趣味な訳?」

「思いあがらないでください!」

 ヴィオラが叫ぶと同時、打ち寄せた大波がまたもわたしたちを飲み込んだ。飛沫が、波音がわたしの感覚神経に洪水のように押し寄せる中、聴神経に直に届くヴィオラの叫びははっきりと聞こえた。

「あなたのことは評価してる! 確かに〈ゼウス〉や〈ガニメデ〉よりは下だ。ただ、一番でなければ評価できない訳じゃありません」

「わたしは〈ゼウス〉が量産できるまでの数合わせだと?」

 黒い感情がどこかから湧き出てきて、思わず卑屈な返答を返したくなった。

 ヴィオラは突然、怪我を負った小動物を見るような目をわたしに向けた。

「成程。ようやく分かりました。あなたは、小学校の同級生をそういう目で見ていたのですね」

「どういう意味」

「同じですよ。確かに、今の高校に通うあなたにしてみれば、小学校の同級生の多くはあなたには取るに足らない人に見えたかもしれない。それを理由に、あなたは言う訳だ。彼らは、無力で、無価値な存在だと」

 冷酷無比な断言にわたしは吠えた。

「そんなこと、一言も言ってない!」

「あなたが自分を無価値だと考えることはそれと同じなんですよ! あなたにとっての小学校の同級生は、〈ゼウス〉にとってのあなたと一緒。取るに足らない存在。あなたが十垓人束になっても勝てない相手と考えれば、その差はそれ以上なんです。

 私どもは、あなたのテレポート能力はもちろん、性格面でも高く評価していました。特に、その向上心と努力を長期間に渡り継続できる忍耐力は、〈ガニメデ〉のそれに比肩するでしょう。ですが、少々、その見方を変えなければいけないようです。あなたの向上心の裏にあったのは、無力な自分への忌避。無力になりたくなくて、無価値な存在になりたくなくて、その強迫観念から、力を求め続ける。力に縋ることに。そんな袋小路に自分を追い詰めてどうするおつもりですか。その袋小路の先に待っているのは破滅ですよ。

 申し訳ありませんが、前言撤回です。今のあなたに特待生待遇を与えることはできません。

 頭を冷やして、よくよく考えてください。あなたはどれだけ有能なのか、そしてどれだけ無能なのかを。それを認め、許せるようになって初めて、脇坂真弓さん――あなたは人間になれるのだから」

 舞い上がる飛沫がヴィオラを飲み込んで、水に溶けるように彼女は姿を消した。


 それから、わたしは訓練のために防潮堤に行くことも、心を落ち着かせるために高層ビルの屋上から下界を見下ろすことも億劫になっていた。

 空路には、見られる危険性や不法侵入や器物損壊で訴えられる可能性がいつも付きまとう。そんな中、テレポーターにとっての安全な空路の目印がネイバーフッド社の広告だった。どうやら、ネイバーフッド社は広告に関する契約で、テレポーターが通行のため、広告上に限り一時着陸することを認めることという条項が組み込んでいるらしい。その分、同社は相場以上の広告費を払っているようだが。これによって、おおよそ百メートル間隔――自身のテレポートが可能なテレポーターの九割がテレポート可能な距離――でネイバーフッド社の広告が設置されることで、ここ東京では空路インフラが十分に整えられていた。

 そしてそのどれにも、純白のスーツの黒人女性――ヴィオラが写っている。テレポーターたちはヴィオラを辿っていくことで「空路」を安全に形成できていたし、わたしもその例外ではなかった。

 でも、どんな空路にも必ずそこにはヴィオラがいる。目を反らすことは許されない。広告看板を経由する度に、彼女の視線が、防潮堤での出来事をフラッシュバックさせる。〈ナビゲーテル〉には広告看板の位置情報や視界の画像認識から適切な空路レコメンド機能も搭載されていたが、当然、使う気にもなれなかった。

 こうしてわたしは小学生以来の出不精な数日間を送り、「技術と社会」のレポートを片付けた後は自室で〈テラ〉おすすめのレクリエーションVRに入り浸っていた。


 二日後、〈テラ〉におすすめのVRコンテンツを訊くと、〈テラ〉が言った。

「忘れたの真弓。今日、エウロパ蝕だよ」

 わたしが待ち詫びていたはずの、正真正銘の月だけが昇る夜空。でも、心は嘘みたいに静かで、波紋一つ立たなかった。一緒にいくはずだったひかるとの約束はなくなった。月だけが昇る夜空を自らの手で取り戻すことは永劫に叶わなくなった。今更、仮初のそれを見たところで、わたしの感情を融かしてくれるとはとても思えなかった。

「真弓。ここ数日運動不足だし、体重一キロ増えてるよ」

「ちょっと〈テラ〉」

 うるさく喚くスピーカーに叱るも、スピーカーの淵に走る光は尚も暴れている。

「適度な外出をした方がメンタルにもいいよ。ずっと家に籠っていても、鬱々としてくるでしょ? 実際、まばたきの傾向、脳波パターン、語調分析、血流パターン――ありとあらゆるバイタルサインが、メンタルの不調を訴えてる」

「お願いだから〈テラ〉、黙ってて」

「真実から目を背けるつもり?」

「黙ってって言ってるのが聞こえないの!」

 思わず吠えてしまった。そしてその直後、唇を噛んだ。しまった。

 ドアに目を向けると、案の定、階段を昇る音が聞こえる。

「真弓、ノブリス・オブリージュを忘れたの?」

 そのセリフを言ったのは母でない――〈テラ〉だった。わたしは再びスピーカーをきつく睨む。

「だから――」

 今度はそこで言葉を切った。ドアをノックする音。

 返事より早くドアが開いた。母が部屋に入るより早く、わたしは左から三番目、壁面から二十三センチのところにかかっているハンガーと共に、自宅の屋根へとテレポートした。ウインドブレーカーを素早く羽織り、空になったハンガーを元の位置に戻すと、下方から母の叫び声が聞こえた。

「ちょっと真弓! 逃げないで戻りなさい!」

 その後も、母は叫び続けていて、とても自室に戻れる空気じゃなかった。玄関から、スニーカーを呼び寄せて履く。

「〈テラ〉、わたしのこと、わざと挑発したでしょ」

「レクリエーションを希望したのは真弓の方だよ。そこで、僕は真弓の心を最も鎮める方法として、外の空気を吸ってエウロパ蝕を見ることが最善と判断しただけだよ。でも、真弓、意固地になってるんだもん」

「負けたよ、〈テラ〉」わたしは後頭部をかいた。

「あんたの勝ち」


 わたしは〈ナビゲーテル〉を起動し、そのレコメンド空路をことごとく無視して進んだ。〈ナビゲーテル〉が導く空路の中継地点に必ずヴィオラがいるならば、それを無視すればヴィオラとのエンカウントはなくなる。一回くらい、不法空路を使ったっていいだろう。

 途中、オプティマイジーンの広告の上で一息つき、空を見上げた。雲一つない穏やかな夜だった。ネオンの海の遥か頭上で、二つの眩い光輝がすべての星々の光を掻き消していた。〈テラ〉が言った。

「エウロパ蝕まで、あと十五分だよ」

 わたしは再び、夜空へと駆け出した。

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