2:非テレポーターの世界

 ある日の帰り、最寄り駅から自宅までの一キロの道のりをテレポートせずに帰ることにしてみた。いつもなら、人気のない路地に入り込み、そこから空中に躍り出て、屋根伝いに空路を行くだけだ。日が沈んだ後は尚更だった。その日、上弦のエウロパは既に地平線の下に消え、満月に程近い月が夜の案内人になるはずだったが、生憎、分厚い雲に阻まれ、わたしは縋る手綱のない暗闇を進むような心持で夜道を歩き始めた。

 五分程歩くと、人通りの多い商店街も抜け、わたしは人気のない夜道を一人で歩く女子高生になった。それでも、脇坂真弓の体内に恐怖感も孤独感も広がる気配は全くない。

 わたしは道路沿いの家々を見た。普段、その屋根を中継地点に利用している家がどれか当ててみたかった。ただ、毎日のように屋根に降り立っているはずの家も、道路の視点からでは意外と当てるのは難しかった。平坦な屋根が特徴で、休憩地点にもよく使う家らしき一軒家を見つけた。近寄ってみると、金木犀の香りがした。玄関脇にその花が咲いていることに今日初めて気が付いた。庭には犬小屋があって、駐車場に止められたワゴン車にはライドシェア登録車の3DQRコードつきステッカー。表札にある文字を見て、わたしはこの家の人の苗字すら知らなかったことに気付かされた。

「真弓、ナビゲートしようか」

 きょろきょろしながら遅いペースで歩いているものだから、しびれを切らした〈テラ〉が耳元で囁いた。

 大丈夫と黙らせたところで、わたしは背後に気配を感じ取った。足音だ。振り返って姿を見る訳にもいかなかったが、早足に道を行っても、足音との距離は一向に遠くならなかった。

 逃げることは簡単だ。たとえその足音の主が暴漢だとして、わたしは立ち向かって打ち負かすこともできる。骨を砕くことも骨抜きにすることも、命を奪うことさえも。それに、わたしが自分の体を転移させられる以上、たとえ相手が強力なテレポーターだとしても逃げるのは難しくない。この夜空の中、瞬時に空高くに逃げれば、間違いなく相手はわたしを見失うことだろう。

 そう、わたしはテレポーター。MI値八十一。九十五パーセンタイル。絶対的な自負が、わたしの奥底に根付いた加護が、忍び寄る足音から守ってくれる。

 だからこそ、テレポート以外で打つ手はないか、と考えるだけの余裕はあった。走って逃げる? いや、負ける真似ばかりしてきたわたしは本気で走ったことがないし、そもそもローファは走るのに向いていない。小柄で非力なわたしの体躯じゃ、取っ組み合いで勝てるのは園児まで。近所に助けを求める? 大きな声で? わたしは首を横に振る。それでは自分の力で暴漢を撃退したことにならない。

 足音は尚も続く。そちらにも一定の注意を向けつつ、わたしは考える。テレポート以外に、わたしに何ができる。他にも考えを巡らせた、驚く程に、わたしは無策だった。

 衝撃がわたしを貫いた。テレポートがなければ、わたしは暴漢への対処の一つすらままならないじゃないか。

 ひかるとエウロパ蝕に行けなくなった理由を思い出した。満月と満エウロパのランデブーが真夜中に起こるからと玲奈さんが中止にさせた――当たり前じゃないか。それがきっと、普通の感覚だ。治安のいいここ東京だって、時に初犯人は現れる。脳神経治療のオーダーメイドによって再犯率を一パーセント未満に抑えられたところで、初犯に至る人の割合はここ十年では微減止まり。夜道を照らす月明かりが二個になったからといって犯罪がなくなる訳ではないし、まして女子高生の外見をしているなら狙われる確率は上がる。夜道を歩く女子高生というだけでテレポーターだと間違われるご時世だ。対処できないことは決して珍しくもなんともないこと――それが普通であって、それに気が付きもしなかった自分が恥ずかして、恐ろしかった。

 足音は尚も同じリズムを刻んでいる。その一方で、歩き慣れないわたしの息は徐々にあがっていた。十字路を通過する度、足音が曲がってくれることを願った。しかし、足音が消えることはなかった。

 ふと、足音のリズムが変わった。ステップを刻むように、軽やかに、ただ、距離を詰めているのは間違いなかった。心臓が脈打つのを感じた。足音のリズムに呼応するかのように、そのビートのテンポも速くなる。その脈動がわたしの意識を体の中に押しとどめ、わたしという体が、心が、ここに確かにあるのだと突きつける。学校で覚えた浮遊感はなかった。わたしは確かに、脇坂真弓の体の中にいた。心臓が高鳴り、肌を刺す風が冷たくて、加護のベールの中に逃げ隠れていた小さなわたしは確かに震えていた。

「すみません!」

 だから、優しそうな声が背後から投げかけられた時、わたしは面食らった。立ち止まるのか、無視すべきなのか迷って、思わずよろけそうになった。

「落としましたよ、これ」

 足音の主は振り返ったわたしの元に早足で駆け寄り、ハンカチを手渡した。人畜無害そうな顔立ちの三十代らしき男性だった。左手の薬指が煌めいていた。

「あ、ありがとうございます」

 どうも、と小さく彼は頭を下げて、そのまま次の十字路をわたしの家の方向とは曲がっていった。曲がってすぐの一軒家が彼の自宅らしい。ただいまとの声が聞こえた。おかえり、お父さんと女の子の元気な声が、わたしの頭の中の、危険を察知する野があるはずの空隙に反響した。

 わたしの頭頂部を照らす電灯の明かりが眩しかった。

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