エウロパ蝕
1:漂流
アメリカから帰ってきて程無くして、修学旅行中に自律ドローンが撮影してくれた写真のデータが送られてきた。それらを見て、わたしは意外と表情が出る人間であるらしいことに気が付いた。
さすがにマンハッタンでは皆が塩らしい顔をしていたが、そこに至る以前のわたしはひかるが替えのブラだけ持ってくることを忘れてワシントンの自由時間でまず下着店を探さなければならなくなったことに腹を抱えていたり、ナイアガラでびしょびしょになった髪を振りまく中で解放感たっぷりの表情をしていたり、立ち寄った天然肉のハンバーガーのカロリーに愕然としていたり。掌の月を見せた写真は一枚もなかったけれど。
思わず、〈ビーザスター〉に修学旅行の写真という項目はあったかと〈テラ〉に訊きそうになった。まるで、必ず表情豊かな自分が写る魔法の鏡を覗き込んでいるかのような感覚。自分が自分でないかのような錯覚。
その言い知れぬ浮遊感は、学校でも続いた。修学旅行を終えた直後にあった、自習コンサルタントAIのディベロッパーが提供する模擬試験を受けたときも、試験中、気が付く度に意識が別のところをお散歩する有様だった。
プログラミングⅢで誰よりも課題のコーディングを早く終えたひかるのソースコードを誰かが見て、複雑な機械学習を実行するための
まるで、わたしの中の「視点」が漂流してしまったようだ。何かを感じる主体としてのわたし。あなたは、どこへ行ってしまったの。
――ごめん、うちから誘っておいてなんだけど、エウロパ蝕、一緒に見にいけなさそう。
だから、エウロパ蝕まで二週間と〈テラ〉がリマインドしてくれたその夜、ひかるからそう告げられたときも、わたしは笑っていた。笑っている脇坂真弓を、わたしは見ていた。
仕方ないよ、真夜中だもん。
内面で渦巻くありとあらゆる感情に蓋をするかのように、笑顔の仮面を被っていた。それを外から見ていた。
エウロパ蝕は深夜十二時頃に起こるとの情報だったが、玲奈さんが止めさせたという。その直接のきっかけとなったのは、昨日都内で起きたとある事件だった。
ここ東京では、犯罪行動を引き起こす神経構造の「治療」が刑罰の代替とした浸透したお陰で、今まで以上に治安都市の名を欲しいがままにしていた。だからわたしたち後エウロパ世代は夜出歩くことに対する恐怖感が薄く、実際に補導件数だけは微増傾向にあるらしい。
ただ、そうして油断していた都内在住の女子高生が暴漢に襲われ、頭部を殴られるという事件が起きた。幸い、命に別状はなかったとのらしいけれど、捕まった犯人曰く、「その女子高生テレポーター」に襲われると思ったそうだ。少なくともわたしがそうであるように、テレポーターであれば、夜の散歩は尚更怖いものではないだろう。つまり、夜道を怖がらずに歩いている若い女性は、それだけでテレポーターである確率が高まると考えたらしい。
実際にその被害者が本当にテレポーターであったかどうかは不明らしい。その真偽はともかく、夜道を女子高生二人で歩いて、テレポーターに間違われて襲われたらどうするの、と玲奈さんは激しい剣幕を見せたらしい。間違ってないよ、でも安心して、撃退できるから――そんな本心は死んでも言えない。
何でテレポーターに間違われるの、とひかるも応戦したらしいが、わたしの名前を出されると、さすがのひかるも返す言葉がなかったらしい。
玲奈さんは、脇坂家はきちんとしているとの評価を抱いている――体面つくりのうまい父のせいだ――ようで、そんな時間に二人で外出することを真弓ちゃんが了承したのではなく、ひかるが無理やり誘ったのだ、と結論付けたらしい。それはない、とひかるが否定しても、真弓ちゃんを危ない目に合わせる訳にいかないでしょ、と玲奈さんに返されたのが決め手となったらしい。家は放任主義だから大丈夫だよと玲奈さんに伝えてと、わたしはひかるに言ったものの、玲奈さんが考えを変えないあたり、やっぱり、玲奈さんは何よりもひかるが心配なのだ。
――真弓ちゃん。ひかると仲良くしてくれてありがとうね。あの子、ほら、ちょっと変わってるから。ここに入学して、真弓ちゃんみたいないい友達に巡り合えて、私、ほっとしてる。
ひかるの家に遊びに行って、ひかるがトイレで一旦席を離した時、玲奈さんは突然神妙な顔つきになってわたしにそう言った。
じゃあ、わたしの母は? ひかるが自宅に遊びに来た日のことも考えてしまう。母とひかるは既に何度も対面している。わたしがトイレで席を外したとき、母はひかるに何と言っただろうか。
考えたくもなかった。答えはきっと、〈ソフィスト〉ならあの悪魔的なメスで頭蓋を分解してほじくり出してくれることだろう。わたしですら、ひかるの飛びぬけて不均一な才能に劣等感を抱かせられることによってようやく、対等な関係を結べている有様。対等か否かで二分してしまうくらい、わたしは重症で救いようがない。わたしでこうなら、母はどうだ。あの人にとっての、正しく血を継いだ愛娘の友人は恐らく、その愛娘が社会的生活を送る社交力を鍛えるためのスパーリングの相手――よくてそんなとこだろう。
だから、依田家のことが羨ましかった。それはきっと、ひかるから休日に父母と家族三人で出かけたことの思い出話を聞いたことだけが理由じゃない。玲奈さんが、娘の友人をそう見てくれていることが、何よりも嬉しかったのだ。小学校時代、いい友達に巡り合えなかったことはわたしも一緒だ。なのに、玲奈さんのそれと同じ言葉を、あの母がひかるに言ったとは到底思えない。玲奈さんにとって最も大事な人は愛娘のひかるで、何もその地位を奪おうなんてふざけた野望は持ってない。ただ、その大事な人の友人を、彼女は丁重に扱ってくれる。それはきっと、そこまで簡単なことじゃない。わたしが、ひかるにとっての良き友人であるということを、彼女が認めてくれた紛れもない証拠なんだ。
けれども、その証明書には有効期限というものがある。わたしという設計図に刻まれたあるフレーズの存在に彼女が気付いてしまったとき。きっと、その時が潮時であるということをわたしは昔から勘付いていた。それは、今回の修学旅行で確固たるものになった。玲奈さんにとってのわたしは、大事な人を奪った仇の同族なのだから。
講演者の人も言っていたじゃないか。すべてのテレポーターが悪い訳じゃないことは承知してる。それでも憎くて憎くてたまらない。目の前にテレポーターがいて、自分の手に凶器が握られていたならば――。
玲奈さんはわたしを刺すだろうか。ひかるは花を手向けてくれるだろうか。
深い愛情と、根付く憎しみと。その混合薬を飲んで育ったひかるも、幼い頃はテレポーターに対する不信感を、あるいは嫌悪感を抱いていたことだろう。でも、どこかでそれが呪いであることに気が付いた。そして、その呪いを解く方法を模索していた。
ひかるは言った。テレポーターの見る世界を知りたいと。それがきっと、テレポーターを理解することに繋がると。呪いを解くことに繋がると。
わたしのすべきことは自ずと見えていた。非テレポーターの見る世界を知ること。彼らの視点で世界を体感すること。
そうすればきっと、縛り付けてくる加護の呪縛から、わたしは解き放たれる。わたしはそう信じていた。信じるしかなかった。
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