6:1.19

 そうしてアメリカの修学旅行がやってきて、視界の端に表示されたカロリーには仰天するばっかりだったが、時間は飛ぶように過ぎていった。雄大な自然に心打たれ、非VRの博物館見学に興奮しっぱなし。学校も班に一台自律ドローンをレンタルしてくれて、わたしたちにぴったりくっつく専属カメラマンとして、青春の一ページをしっかりと収めていてくれた。

 集団行動中は使わなかったが、わたしも撮影機材一式をこっそり鞄に詰めて持ってきていた。夜、他の人が寝静まった頃にでも抜け出して、ライトアップされた旧マンハッタンの空撮をしようという魂胆だった。〈ナビゲーテル〉を購入して初めての空撮だったので、〈ナビゲーテル〉のUIをカメラに同期させて、夜の旧マンハッタンを飛び交うテレポーターの爽快な旅路を広めようと計画していた。

 海外ということもあり、和室で皆で布団を被りながら夜通しで喋り明かすといった憧れを叶えることはできなかったが、移動のバスの中で他の班の話に耳を傾けると、こっそりどこかの部屋に集まって話し通していたところもあったらしい。死んだように眠っている一団や、昨晩の話の続きか、文化祭で知り合った男子とのあれこれを小声で話す一団がいた。彼の家で彼の妹に見られて気まずいのと相談する子もいた。どうか、その子が小学生でないことと、その現場が妹さんのベッドでないことをわたしは祈るばかりだった。

 話の続きは、担任の谷原先生のアナウンスでかき消された。

「あと十分で、ニューヨーク市に入ります」


 濁流のように人々は流れ、空を覆う異常発生した鳥の群れのように、数多のドローンが空を飛び交う。そんなニューヨークの街並みを移動するバスの中では、わたしたちは次の目的地に心躍らせる一般的な修学旅行生の塊だった。わたしも積極的にそうあろうとしていたが、ただ一つ、隣に座るひかるの表情が曇っているのだけが気がかりだった。

 ひかるの横顔に目を向けられなくて、わたしは窓の外を流れる街の光景を見ていた。やがてバスは旧マンハッタン地区へと通ずる新マンハッタン橋に差し掛かった。陽光に煌めくアッパー湾の向こうに、失われた自由に血の涙を流した女神が佇む。ただ、それよりも目に焼き付いたのは、空と海の溶け合う境界線を跨ぐように、その青いキャンバスに大きく口を開いた巨大な黒い空隙だった。それが遠くの海上で空へと斜めに突き出る一枚岩モノリスだと気づくのにしばらくかかった。

「皆さん。右手を見てください。海面から突き出るあの巨大岩が、かつてマンハッタン島で多くの人の生活を人知れず支えていた地盤にして、多くの人の命を奪った元凶――通称、〈黒いモノリス〉です」

 谷原先生が言った。気が付くと、全員がモノリスの斜塔に目が釘付けになっていた。

「〈新人類同盟〉がマンハッタンを沈没させるために、あの島の百メートルにも及ぶ地盤をあの位置に転移させたんです。海面上に突き出た板の高さは今でも三百メートルを超えます。ただ、崩落の危険性があるので、周辺海域への立ち入りは禁止されているみたいです」

 一人の生徒が訊いた。

「昔見た映像だと、直立していたはずだったと思うんですけど」

「徐々に傾いているんです。数年後には倒れ、沿岸部に津波を起こすと言われています。今、ニューヨーク州はその撤去プロジェクトの考案をしているそうです」

 バスの中がざわついた。あれを撤去? どうやって? 〈ゼウス〉に協力でも依頼するんじゃない? いや、〈ガニメデ〉でしょ。

 やがてバスは橋を渡り終え、わたしの視界を再び摩天楼の外壁が覆うようになった。ただ、その壁面は橋を渡る前のそれとは全く異なる様相を見せていた。壁面を縦横無尽に走るひび割れ。抜け落ちたガラス窓の向こうに佇む闇。思わず二度見すると、白波が壁面に砕けた。

 海だ。

 その廃ビルは海の中から突き出ていた。バスは間もなく停車した。下車した生徒たちは皆、目の前に広がる光景に言葉を失って立ち尽くしていた。海から突き出る無数の廃ビル群。風雨に飲まれ今にも崩れ海底へと落ちていってしまいそうな無数のビル群に白波がレクイエムを奏でている。ビル群の間を縫うように作られた海上遊歩道や水路を進むボートや遊覧艇がなければ、それはまさに人類文明の終焉の光景だった。わたしは反射的に、掌の月を隠すように、右の拳を握った。わたしの味方は、兄さんしかいない。

 先生に連れられ、私たちは海中通路に入った。床から壁まで一面ガラス張りのそこから、かつてマンハッタンと呼ばれたエリアの、海中の風景を見渡すことができた。思っていたより水は透き通っており、床越しに海底面が見える。透明度は五十メートル程あるだろうか、時が止まったかのような静寂の海の中で、無数のビルたちはゆっくりと死にゆく瞬間の顔をわたしたちに見せている。

 いったん海中道路から水上に戻り、歩みを進めると、海上に顔を出すビル群の全くない広大な水面がわたしたちを出迎えた。案内板に、旧市庁舎公園と記されていた。

 わたしたちはここで、当時の生存者からの講演を聞くことになっていた。出てきたのは、五十代と思しき白人女性だった。わたしは腕時計を口元に持っていき、〈テラ〉に同時通訳アプリ〈コンジャック〉を起動させた。

「日本ノ皆サン。初メマシテ」

 学習不十分な〈コンジャック〉が作り出した機械的な声色がわたしの内耳に響くと同時に、十分にシャットダウンできていない彼女の地の声による英語が混ざり、自己紹介はよく聞き取れなかった。

〈コンジャック〉が学習を進めると共に、わたしの内耳に届く日本語の声調はより自然になり、聴神経に取り付けた〈拡張耳AE〉が選択的に彼女の地の声をカットし始める。やがて、世界史でも習った内容と同じ、当時の時代背景の説明を終える頃には、彼女の英語は完全にわたしの聴神経でカットされ、本当に日本語で話していると錯覚する程になっていた。そして、彼女の話は、マンハッタン事変当日の出来事へと差し掛かった。

「二〇一九年一月一九日。わたしはブルックリン橋を渡る車にライドシェアさせてもらっていました。マンハッタン島を出ようとしていて、ひどい渋滞にはまっていた時のことです。突然、大きな地響きの音がして、大地が大きく揺れました。ドライバーの人が右手を指さして叫びました。ガバナーズ島の向こう、アッパー湾から直立に突き出る巨大な〈黒いモノリス〉が見えたのです。そう、マンハッタンの地盤です。でも、当時、そんなことが分かる訳がありません。私たちは呑気にその正体について話していました。ニューヨーク市民が進化させられるのでは、それとも、異星人に人類が滅ぼされる前兆かなど笑っていました。すると、自動車が突然、数十センチ程沈みこんだのです。タイヤがパンクしたかと思いました。ただ、窓の外を見ても景色の高さは変わりません。タイヤの不調ではなさそうです。怪訝に思っていると、もう一度、沈み込むような感覚に襲われました。今度は異変に気が付きました。微かに、車体が後部側に傾いているのです。私は思わず振り返りました。そしてバックウィンドウ越しに見えたのは、衝撃の光景でした。

 ビルの一本が、崩れ落ちていく様が見えました。それだけではありません。まるで海面が急上昇したかのように、沿岸部を波が飲み込んでいるのが見えました。ビルは崩れ、崩壊を免れても傾き、そして低地部分は荒波の中に沈んでいく。ブルックリン橋のマンハッタン側も、それに引きずられるように海に沈んでいこうとしていました。逃げないと。私はすぐに車を出ました。ドライバーと一緒に、マンハッタンの反対側へと駆け出しました。最初は車の合間を縫ってすいすいと進めたのですが、事態に気づいた他の車の人たちも皆避難しようとしたために、すぐに道路はドライバーを失った車と逃げ惑う人々で埋め尽くされ、私たちはすぐに身動きがとれなくなってしまったのです。

 やがて傾斜がきつくなり、自動車が滑り落ち始めました。その濁流に飲み込まれるように、道路上にいた人々は流され、海へと消えていきました。私はたまたま欄干寄りにいたために柱にしがみつくことができました。途中、誰かの腕が私の足を掴みました。でもその引っ張る力は強く、このままでは私も飲み込まれてしまいそうで、思わずもう片方の足で蹴りました。蹴った方向は見ていなかったから、正しいかは分からないけれども、きっとその人の顔を蹴ったのだと思います。その時聞こえたうめき声は、今でも私の耳の裏側にべっとりと張り付いています。辛うじて車の大波をかわし終えたとき、背後には誰も何も残っていはいませんでした。その後は柱を伝って移動し、無我夢中で対岸を目指しましたが、よく覚えていません。

 柔らかいベッドの上で目覚めたとき、長い悪夢から覚めたような気分でした。あれは現実じゃない。夢だ。そう自分に言い聞かせました。ただ、テレビの中継を見て、心臓が止まるかと思いました。ヘリからの中継で映るマンハッタン島は、海面から突き出るビルの林

のような姿に様変わりしていました。それがあの摩天楼の成れの果ての姿だと、どうして信じることができましょう。私がいたはずのブルックリン橋も半分以上が海に消えていました。夫も、娘もその日は家にいました――マンハッタン島にです! 私はテレビに食いつき、半狂乱になって彼らの名前を叫びました。

 通りかかったニューヨーク市警察NYPDの男性にも食い掛りました。『夫と娘を助けて』と。でも、彼は『任せて』とは言ってくれませんでした。憔悴しきった焦点の合わない目をしていたと思います。わたしは立て続けに叫びました。『あんたそれでも警官か』。今から思えば、私は彼に悪いことをしました。沈みゆくマンハッタンに警察が何をできましょう。被害者の中には警察官も多く含まれていたのです。

 やがて少し落ち着いて、見つからないスマートフォンの代わりに電話を借りようと看護師を呼ぼうとして、その病院の様子が尋常ではないことに気が付きました。私と同じように半狂乱になった人々。響き渡る慟哭。駆け回る看護師たち。あの日、マンハッタン近郊の病院はどこも同じような有様だったと聞いています。ただ、運よく借りられたスマートフォンから夫や娘たちへかけた電話は一向に繋がりませんした。結局、遺骨すら私の手元には帰ってきませんでした。

 犠牲者九十万人にも及ぶマンハッタン事変。私は、運よく生き延びることができました。でも、それが幸運なこととは思えませんでした。しばらく、フロリダの親戚のところにお世話になりましたが、毎晩のようにあの日の光景が悪夢となって私を苛みました。夫や娘が助けを求めながら溺れる夢を何度も見ました。何故、私だけが生き残ったんだろう。何故、神様は私を殺してくれなかったんだろう。私だけ生き延びてごめんなさいという罪悪感が私の心を支配しました。最初、沈みゆくマンハッタンを目撃した数少ない生存者としてメディアからのアプローチは数多くありましたが、私はそれを断り続けました。私を放っておいてくれ、と思っていたのです。私はただの臆病な死に損ない。奇跡の生還者なんて大それたものじゃない。私が浴びるべきは奇跡を褒めたたえるような賛辞じゃない。何故あなただけが生き延びたのかという礫――そう本気で思っていたのです。

 そして翌年、かの〈ゼウス〉によって、事変を起こした〈新人類同盟〉は滅び、エウロパが水平線から昇るようになって、ようやく平和が訪れるようになりました。事件から丁度二年が経過した頃には、国際連合本部ビル跡地前の海上に慰霊碑が建設され、私はそこを訪れました。そこで、同じような奇跡の生還者たちと対面しました。話している内に、同じような罪悪感に苛まれているのは自分だけではないことを知りました。そして、私の中に、まるで啓示のように、一つの考えが下りてきたのです。

 この事件を、風化させてはならない。既に、崩壊を免れたビルも波風によって、ゆっくりではありますが、崩落への道を突き進んでいました。この旧マンハッタン地区が完全な海原になるのは時間の問題です。そして、あなたたちのように、事変以降に生まれた人間たちが徐々に増えていく。彼らはマンハッタン事変を知らない。最早第二次世界大戦のことを語れる人がいなくなってしまったように、歴史の教科書に載っているような、過去の出来事の一つでいいのか、と思いました。私は、私が生き残った意味をようやく見つけることができたのです。

 過去を後世に刻むのです。そうやって、私たちの時代の過ちを二度と繰り返させはしないのです。実を言うと、私はテレポーターが憎くて憎くて溜まりません。もし目の前にテレポーターを名乗る人物がいて、私の手に凶器が握られていたならば、私は刃を突き出してしまうかもしれません。もちろん、すべてのテレポーターが悪人でないことを承知しております。だからこそ、私自身のこの考えを私は健全だとは思いません。皆さんには、このように負の感情に囚われた大人にはなって欲しくはないのです。一人の人間として、テレポーターに接してあげて欲しいと思っています。彼らを排斥しようとすれば、その先に平和な未来はありません。憎しみを断ち切り、許す――それこそ、あなたたちに課せられた使命なのです。私にはそれは到底無理な話ですが、その使命を後世に伝えるメッセンジャーとしての役割ならこなすことができます。その使命を、私はこの命尽きるまでやり遂げようと思っています。

 ただ、力は時として人を狂わせます。この事件は私たち非テレポーターへの教訓である以上に、テレポーターに対しての教訓だと思っています。自分には力がある。他人にはない、特別なものがある。その優越感も行き過ぎては、かつての優生学のような差別を助長しかねません。遺伝子編集という新たなる神の手はもう、私たちの手中にあるのですから。だから、もし、この話を聞いているあなたたちの中に、テレポーターがいたならば、どうかこれだけは覚えておいてください――」

〈テラ〉と呼びかけ、わたしは〈コンジャック〉を強制終了させた。〈AE〉は閉じたまま。すると、聞こえる音は波の音だけだった。他の生徒たちは皆、一言も喋らず、彼女の話に耳を傾けていた。

 程無くして、万雷の拍手が波音をかき消した。わたしは〈テラ〉に命じた。拍手の音もカットしてくれ、と。

 目も閉じると、あるのはかつての摩天楼を侵食する波の音だけだった。時折、風に乗って、終末へと崩れ落ちる世界の片隅で味わう孤独のように甘美な潮の匂いが鼻腔を突いた。

「――真弓」

 ひかるに呼びかけられて、わたしは目を開いた。既に講演者は退場しており、生徒たちも皆鞄をかけ、各々の目的地へと向かおうとしていた。しばしの自由探索時間だ。ひかると班員たちが、怪訝そうにわたしの顔を覗き込んでいた。反射的に、掌の月を隠すように右の拳を握った。

「大丈夫?」

 別の班員が訊いた。大丈夫と、はにかみの仮面を被ってみせた。


 わたしたちは行程通り、ロウアーマンハッタン遊覧艇乗り場へと向かった。わたしたちはここから国連本部ビル跡地前の乗り場まで乗船予定だった。

 遊覧艇は半潜水式で、船底からは海中の様子が見えるよう窓ガラスがはめ込まれていた。他のいくつかの班も同じく乗船していたが、女子高生らしい談話に盛り上がることはなかった。各々が、船内を静かに移動しながら窓から外に目を凝らし、かつての市庁舎や、NYPDと書かれた自動車の残骸が水底で静かに眠る様や、遺構の荒波に飲まれゆく様をまじまじと眺めていた。「マンハッタン2031」の五感VRを買ったと鼻を高くしていた生徒もいた。彼女は既に、五感でこのマンハッタンを体感していたはずだったが、水中の遺構を見る目に宿る色は他の生徒と何ら変わりはしない。彼女はそのVRのことを一言も話す素振りを見せなかった。

 出発から程無くして、船底の窓から海中を見ていると、ひかるがあるものに気が付いたようだった。わたしを小さく手招きしている。ひかるの脇に立って水底を見下ろすと、自動車が山積みになっているのが見えた。

「真弓、これってもしかして」

 わたしたちは駆け足で甲板に出た。ひかるが半分崩れ落ちた橋を指差す。それはまさに、今の講演で名前の出たあの橋だった。姿を隠していた海底火山が巻き散らす噴石に打ち付けられてような気がして、わたしも、ひかるも、それ以上言葉を紡げなかった。

 船内アナウンスが次の停船乗り場名を告げた。〈テラ〉が喚いた。

「次、国連本部ビル跡地前だって」

「分かってる。それくらい聞き取れるってば」

 わたしはすぐにひかるの元へ駆け寄り、次の停船場が目的地であることを伝えると、「真弓はいつからうちのAIアシスタントになったの」とひかるは笑った。

 下船してすぐ、国連本部ビル跡地前には海上に広場が建設されていた。その中央に一つ石塔が鎮座し、その周辺に幅一メートル程のホログラム碑が放射上に六枚並んでいる。その周囲を取り囲むように、ホログラムの花が咲き乱れていた。犠牲者九十万の事件の慰霊碑というのだから、もっと大がかりなものを予想していただけに、肩透かしを食らったような心持ちだった。それは他の班員も同じようで、わたしたちは互いに見合わせた。

 ただ、ひかるだけは違った。吸い込まれるように彼女の足は慰霊碑へと向かった。そしてホログラム碑の前に立ち、何かをぶつぶつと言い始めた。すると、ホログラム碑が明滅し始める。どうやら名前の記された頁を切り替えているようだ。

 やがて、ひかるの呟きが止まった。ホログラム碑の明滅も止まり、彼女はその碑の一部をなぞった。わたしたちは恐る恐る近づいて、ひかるがなぞった文字列を見た。ホセ・ロブレスにミサキ・ロブレスとある。ひかるがゆっくりと口を開いた。

「うちのね、母方の祖父母なんだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る