5:マンハッタン事変

 アメリカへの修学旅行を来週に控え、クラスメートたちは皆少しずつ浮足立っていた。ある生徒は「マンハッタン2017」を購入したと大きな声で自慢していた。在りし日の、活気で賑わうタイムズスクエア。ドローンの飛ばない広大な空の下に広がるセントラルパーク。ある者はそれに食いつき、ある者は私にも見せてと声のトーンを上げ、一方のわたしもそれを蚊帳の外から眺めつつも、思わず口元が綻びそうになる。

 次の日には、「マンハッタン2031」の五感VRを家族で買ったと自慢する生徒も現れた。五感VRは電磁波を脳に照射することで、擬似的に嗅覚、触覚をも感じさせ、本当にその場にいるかのような没入感を得られる次世代型モデルだ。ある者は来週行くんだから、わざわざ買わなくたっていいじゃない、と僻むように言ったが、羨みの目線までは隠しきれていない様子だった。

それを後押しするように、一部の授業カリキュラムも変更された。世界史の授業では、今回の目的地の一つであるニューヨークの旧マンハッタン地区と関わりの深い現代史をやることになったのだ。

 ただ、浮足立つ生徒とは違い、先生の声のトーンは重いものだった。

「今日は、皆さんが生まれるちょっと前、二〇一〇年代の話をします。テキストの一九六ページを出してください」

 ページ番号を端末に入力した者から、その表情を強張らせていった。

 その十年の後期、テレポーターたちによる犯罪に怒った過激派によって、〝異端者狩り〟と称した罪のない善良なテレポーター狩りが頻繁に起きてしまった街の一つがこのニューヨークだった。わたしの母のように、テレポーターというものはほとんどが微弱で、女性ばかり。〝異端者狩り〟はまさしく脅威だった。それを見かねて立ち上がったのが〈新人類同盟〉の前身となる団体だった。善良な罪の無いテレポーターを守ろう――それが力あるテレポーターによって結成された彼らの理念であったはずだが、〝異端者狩り〟の激化や、当時の大統領によるテレポーター排斥政策の強化により、それに反発する形で相互作用的に〈新人類同盟〉の前身団体も過激化していった。そこから分裂した下部団体はやがて独立し、彼らは自らを〝新人類〟と謳い、力ない旧人類の上に立つ者であると主張し、団体名も〈新人類同盟〉と呼称するようになった。〝異端者狩り〟を行っていた者と間違えて善良な市民を殺害してしまったという事件も起き、次第に社会は〈新人類同盟〉を、更にはすべてのテレポーターを敵視していった。警察も彼らを犯罪者として指名手配するに至った。やがては軍も動き、そして国家との、国連との抗争の果てに、〈新人類同盟〉は事件を起こした。

「それが、マンハッタン事変です」

 地盤ごとごっそり。まるでだるま落としのように、その上にあったマンハッタンの街並みはハドソン川に飲み込まれた。犠牲者は九十万人。テキストを見進めると、現在のマンハッタンの写真が載せられていた。海中に半分沈んだかつてのウォール街。そしてかつてマンハッタンを支えていたはずの、定規のように細長い地盤が――〈黒いモノリス〉が海から突き出ている。

前身団体を飲み込んだ〈新人類同盟〉はこうして全世界から危険視される最恐のテロリスト集団テロポーターとなったが、それから一年と経たずして、突如として〈新人類同盟〉は崩壊することになった。

 それを成し遂げたのは、誰かは分かっていない。ただ、できるのは、エウロパを召喚した、あの〈ゼウス〉くらいであろう。


 ――自由の女神が、血の涙を流している!

 二○一九年の十月某日、衝撃的な画像がSNS上で拡散した。

 水没したマンハッタンを望む自由の女神像の頭部をズームした写真で、彼女が赤黒い血の涙を流しているというものだった。よく見ると、被る冠の七つの突起に一人ずつ、人間が串刺しにされている。テキストにはその写真は掲載されていなかったが、モラルなきネットの荒海をサーフィンしていれば嫌でも目に留まる。隣の生徒のタブレットにちらりと目をやると、その画像が写っているのが見えた。モザイクがかかった様子はない。

 当初、テロポーターによる更なるテロと恐れられたが、被害者たる男性五名、女性二名が〈新人類同盟〉の幹部であるという不確定情報もすぐに広まり、世間は名もなき〈粛清者〉の登場に歓喜の声を上げた。実際に、その日を境に、〈新人類同盟〉のSNSアカウントの更新はぴたりと止み、活動の足音も聞こえなくなった。その後、相次いで世界各地のテロポーターは次々に粛清された。こうして、テレポーターによる悪事は嘘のように消え去り、そしてその翌年、二百数十回目の独立記念日、無数の涙が流れたニューヨークの街を、エウロパの光が照らすようになったのだ。そしてそれが、〈粛清者〉――改め〈ゼウス〉の最後の大仕事だった。

「何故、〈ゼウス〉はエウロパを召喚したのでしょう」

 説明が終わり、先生が問いかけた。

「皆さんで話し合ってみてください」

 近くの席の生徒同士で机を寄せ合ってのディスカッションの時間となった。わたしは思わず、掌の月を隠すように右の拳を握った。

 幸いなことに、テレポーターの優位性を示すため、なんて馬鹿げたことを言う輩はいなかった。ある生徒が言った。

「建物や人間の記憶は風化しても、エウロパの光が風化することはないからじゃない?」

別の生徒が言った。

「私たちみたいな後エウロパ世代の人間にも、悲劇があったことを実感して欲しかったんじゃない? お母さんが言ってたんだけど、百年前にあった第二次世界大戦が親の世代にとって歴史上の出来事でしかなくなったのと同じように、わたしたち後エウロパ世代はテレポーターと人間との争いの歴史もタブレットの中の出来事でしかなくなってる。でも、エウロパという巨大な証があれば、より身近な問題だと思えるから」

 わたしは納得したが、また別の生徒は難色を示していた。

「何か思うところ、ある?」

 わたしが訊くと、彼女は躊躇いがちに切り出した。

「エウロパは警告だと思う」

「人間に対する?」

 最初に意見を言った生徒が首を傾げた。彼女は首を横に振った。

「人間に対しても、テレポーターに対しても。異端者狩りをやめろ。力のない人間を傷つけるのをやめろ。エウロパが空に昇るようになってから、確かにいがみ合いは減ったけど、それってただ、どちらの側も〈ゼウス〉という圧倒的な〈粛清者〉による報復を恐れているだけだと思う。……真弓はどう思う?」

「わたしは――」

 言葉を紡ごうとして、手繰り寄せた綱の先には何もついていないのを見つけた。わたしにとってエウロパは――。

「先生!」

 そのとき、誰かの呻くような声が聞こえ、思わず振り返った。ひかるだった。

「気持ち悪いので、トイレ行ってきていいですか」

 先生は頷き、ひかるは教室を飛び出していった。先の休み時間にはそんな気配は微塵もなかったというのに、どうしたのだろう。

「では、そろそろ時間ですね。各自、考えを千字のレポートにまとめて、再来週の月曜までに出してください」

 授業が終わっても、休み時間を跨いでも、ひかるは戻らず、わたしは一人で昼食を食べなくてはいけなくなった。鞄は教室に置きっぱなしになっていたから、保健室で休んでいるものだと思い、最後の授業の前に保健室を訪れてみると、養護教諭曰く、もう帰ったとのことだった。どうやら、帰るときに鞄を持って帰ることも忘れてしまったらしい。教室に戻って鞄を見てみると、あのエッフェル塔のキーホルダーはまだ鞄についていた。ただ、裏面の名前シールは剥がされていた。

 その日は、放課後、修学旅行の班員で集まって、マンハッタンの自由時間時の行動計画を立てる予定だった。最後の授業が終わり、ひかるにメッセージを送ってみた。返事はすぐに来た。

 ――軽い食あたりかも。今は大丈夫。ごめんね、心配かけて。

 何か食べた、と訊くと昨日貝類を食べちゃって、と返信があった。行動計画決め、延期しようかと言うと、ひかるは任せるよ、と答えた。ただ、一か所だけどうしても行きたい場所があると彼女は書いていた。国際連合本部ビル跡地前にある犠牲者の慰霊碑だ。

 そのことを班員に告げると、皆快諾した。慰霊碑は幸い、遊覧艇の乗り場からすぐのところにある。遊覧艇による海中見学を軸に、わたしたちは行動計画を練り上げた。

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