10:覚悟
何が協力だ。ネオンの海を一人で見下ろすことが趣味のわたしに、そんな資格などあるもんか。
「わたしに……」絞り出せる声はもう残っていなかった。
「大層な使命を背負わせないでよ……」
掠れた嘆声をヴィオラは受け止め、飲み込んだ。彼女は黙ったまま、わたしの次の言葉を待っていた。まだ絞り出せというのか。
「わたしはね」大きく息を吸う。
「ただ、平和に、仲良く、毎日を過ごせればそれでいい。一体何なの、テレポーターと非テレポーターって。一体いつ、誰が、その線引きをした訳? その線引きは本当にいるの? だからわたしはテレポーターでも、非テレポーターでもなく、一人の人間でありたい。そのためなら何だってする。息苦しい仮面だって被る。たとえこの秘密を墓まで抱えていったとしても、わたしという出来損ないの歯車が、人間として、社会の中できちんと回るのなら、それでもいい。現に、わたしは下手なりに、適応してるつもり」
「あなたの感じる息苦しさを、これから生まれる未来のテレポーターにも背負わせるという業と向き合っても、同じことを言えますか? それだけじゃありませんよ。確かに、今までのあなたは『仮面』とやらを被って生き抜いてこられたかもしれません。でも、大学に進学して、社会に出る――あなたが思い描いている未来のレールは、あなたが思っている以上にもっと、ずっと息苦しい。このままでは、あなたはいつか窒息死する。きついことを言うようですが、あなたの考えは、ただの甘えた子供の幻想に過ぎません」
「だったら独身を貫いて死ねば満足? 一人で生き抜く頭脳だってわたしにはある! それとも、クリスパーでテレポーター遺伝子を除去すれば許してくれる? この忌々しい遺伝子なんて、絶やすことに未練なんざ全くないっての! あんな夫婦を見てきたから、結婚願望からは小学校と共にとうに卒業した! 秘密を抱えて、加護に縋って、ねじくれたのはわたしの自己責任。勝手に一人で死なせてくれよ!」
「あなたはそんな人じゃありませんよ」
虚を突かれて、返答に窮した。それも束の間、腸が沸々と煮えくり返った。
「何を根拠に」
「勝手ながら、当社がMI以外に保有しているあなたについての情報を分析させていただきました。統計的には、あなたがそんな無慈悲で自分勝手な人間である可能性は棄却されました。きっと、使命を果たさずにはいられない――そういう人です、脇坂真弓という人間は」
「買いかぶり過ぎじゃないの。わたしはそんなできた人間じゃない。使命に燃えるなんて、ハッ、まさか」
「どうでしょうか」
ヴィオラは含み笑いを浮かべ、腕時計に目をやる仕草をして見せた。
「夜も遅いですし、今日のところは、これで失礼させていただきます。色好い返事が聞ける日を、楽しみにしています」
瞬きの合間に、彼女の姿は消えていた。
大きく息を吸う。長い潜水を終えた後のように、息があがっていた。
ベッドに座り込み、ヴィオラが消えた空間に目をやった。その向こうに乱雑にスピーカーが置きっぱなしなのが気になって、定位置に転移させた。ただ、どうにもうまくできた気がしなくて、わたしも定位置の前にテレポートする。見下ろすと、定位置を示す線から二ミリずれていた。投げつけたい衝動をこらえながら、今度は手で直した。
かすかに、階段を昇る足音が聞こえてはっとする。あれだけ声を張り上げたんだ。階下の母に聞こえないはずがない。
ノックもなくドアが開いた。
「真弓、どうしたの」
「何でもない」
わたしは目を伏せた。
「何でもなくない。今の怒鳴り声、真弓でしょ。……誰?」
わたしが押し黙っていると、母の足が一歩前に踏み出されるのが見えた。
「同級生と喧嘩でもした? まさか、約束を破った訳じゃないでしょうね」
母と幼い頃に交わした約束――テレポーターであることを、人に悟られてはならない。
わたしは肩をすくめてみせた。「まさか」
「ちょっと、来月のアメリカへの修学旅行のことで、班のメンバーと揉めただけ。大したことじゃない」
嘘は吐き慣れていたが、母の顔を見ると、険しい目つきはわたしの仮面の裏側を見据えているようだった。〈ソフィスト〉という諸刃の刃が握られていないわたしの手の中の空隙がわたしを不安にさせる。
「ノブリス・オブリージュを忘れた訳じゃないでしょうね。どんなに嫌なことがあっても、人に当たらない。責めない。憎まない。それが本当の強さだと、教えたはずだけど」
わたしは反射的に「娘」の仮面を被った。しおらしく俯きながら、ごめんなさいと声を絞り出す。息を止め、思考を止め、目を閉じて、すべての入力に謝罪という出力を返すだけの単調な機械になる。母は満足せず、呪詛の言葉を延々とわたしに浴びせかけた。その度に、わたしの脳内でスパークが弾ける。
やがて、そのスパークは脳髄を飛び出して、わたしの運動神経をひた走り、わたしの腕を動かした。母の声を掻っ切るように横に突き出された腕はクローゼットの扉の方に伸ばされる。左から七番目のハンガー。壁面からの距離六十四センチ。次の瞬間には、わたしの手はクローゼットの中の七番目のハンガーの取っ手を掴んでいた。パーカーをかけたものだ。
「真弓!」
母の怒声をひらりと躱すように体を半回転させながら、パーカーを羽織り、ハンガーを投げ捨てる。床に当たる直前に、元の場所にテレポート。
カーテンの隙間から覗く満月目掛け、わたしは夜空へと駆け出した。
鋭い秋の夜風がわたしの頬を切っていく。無慈悲なまでの冷たさが心地よかった。
「ねえ、〈テラ〉。ちょっと聞きたいんだけど」
夜の街を駆けながら、わたしは腕時計型端末に話しかけた。
「どうしたの、真弓」
彼の声が耳元で響く。
「ヴィオラが〈ソフィスト〉を搭載していた可能性は?」
「僕にはその判定はできないかな」
「それなら、〈ソフィスト〉の販売実績のデータは? なければ、ニュースでも、IRでもなんでもいい。〈ソフィスト〉の主戦場を教えて」
「でも、真弓、僕はその情報に関するアクセスをしちゃいけないって」
「いいから、やるの」
「ちょっと待ってね……〈ソフィスト〉は元々企業向けのプレゼン用AIが大本みたい。そこに聞き手の属性を考慮したアルゴリズムが付随していって、説得用に特化させたバージョンが〈ソフィスト〉として売られるようになったという経緯がある。商談にも有用みたいで、売り上げの九割が法人らしい」
「そう、ありがとう」
わたしは安心した。あれだけ感情を搔き乱す悪魔の話術は〈ソフィスト〉だけで十分だ。わたしは既に住宅街を抜けて、ビル群の上空を闊歩していた。
「でも、ヴィオラが言ったこと、嘘じゃないと思うよ」
空にテレポートした直後、〈テラ〉の思わぬ発言にわたしは着地に失敗しそうになった。受け見を取り損ね、雑居ビルの屋上に膝を打った。
「どの発言のこと?」
ぶつけた膝をさすりながら問いかける。
「真弓が無慈悲で自分勝手な人間じゃないってこと」
「勘弁してよ」
わたしの真下、ネイバーフッドの電子広告の中で、ヴィオラは満面の笑みを浮かべていた。彼女がわたしに囁くかのように広告内に文字が出現した。
――テレポーターと非テレポーターと、手を取り合える世界を、共につくって参りましょう。
ネオンの海から突き出す無数の高層ビルの一つ。その屋上にわたしは降り立った。鋭さを増した夜風がわたしの頬を切る。パーカーのフードを被り、わたしはその淵に腰かけた。足を投げ出して、ぷらぷらと揺らす。
色とりどりのネオンの海を見下ろすと、大潮がもたらす波が互いにぶつかり砕けあい、飛沫をまき散らすように、米粒のように小さな人々の群れが蠢き続けている。彼らはきっと自らの周りの世界に夢中で、見下ろされていることに気づきもしないのだろう。
神にでもなった気分だ。その高揚感が体を突き抜けるのと同時、その残滓から生まれ落ちた黒々とした塊が喉につかえる。誰が神だ。彼らとわたしの何が違う。その塊を飲み込んだ後も、しばらく胃はむかついていた。わたしは自ら望んで、下界を見下ろすことで心の安寧を図るようになったのではない。わたしをそうせしめるのは、忌々しい血のせいだ。呪いのせいだ。
わたしは頭を上げた。暗雲を退けて、空の中心で静かに微笑む円い光と相対する。太古の昔から、そしてわたしの生まれる数か月前まで、この星の夜を照らす唯一の存在だったもの。地球第一衛星、月だ。
今夜は彼女の独擅場だった。
わたしは誰にも頼らない。一人力を蓄えて、あの忌々しい凶星を元の場所へ帰してやる。そうすれば、仮面だって被らずに済む。ひかるとも一生付き合える。
月よ。夜空はあんただけのものだ。あんただけの夜空は、わたしが必ず取り戻す。
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