6:〈ナビゲーテル〉

 ある日の夜、わたしは家を抜け出して、東京湾の海岸沿いにある防潮堤に来ていた。

 エウロパが空に昇るようになって以来、地球で最も激変を迎えた自然現象は潮の変化だった。エウロパと月の引力の相互作用が潮汐のリズムにもたらした影響は、テレポーター、非テレポーター間であった抗争のように突発的で、予測不可能で時として津波のような大潮と化した。

 ヴェネツィアを襲い続けた大潮アックア・アルタ未完の防潮堤MOSEを遂に突き破り、水の都を水没の都へと変えた。モン・サン=ミシェルで名を馳せるサン・マロ湾はサン・マロと呼ばれるようになり、巡礼者が潮に飲まれて命を落とすことは二度となくなった。揚子江に押し寄せる海嘯は大河を遡り、内陸の田畑を飲み込んだ。そして、大洋に浮かぶ無数の島々が地図からその名を消し、オーストラリアの難民キャンプは避難民でごった返した。アカウミガメの営巣地は海に沈み、彼らはその六年後、大洋の反対側で新たな営巣地が見つかるまで、長きに渡り姿を消した。

 ここ東京湾でも、海抜0メートル地帯は壊滅的被害を被った。百万人を超える人々が避難を余儀なくされた。高さ三十メートルの巨大な防潮堤の山脈が湾を囲むように築かれることになって、ようやく東京は復興への舵を切ることができるようになった。

 わたしが降り立ったのは、四十三キロメートルにも及ぶ防潮堤のうち、新羽田空港を望めるエリアで、羽田潮力発電所の近くだった。防潮堤の尾根の両端には、不忍池の蛍のように妖しく明滅する赤色光のランプが等間隔に列をなしている。その群れの向こうから、微かに滝のように水が流れ落ちる音が聞こえていた。今の時間帯は干潮に向かっているようで、外海へと開かれた水門から、満潮時に溜めていた海水が流れ落ち、その運動エネルギーをネオンの海に還元しようとしていることだろう。

 無機質な尾根の上から、海に向かって目を向ける。そこは文明以後の夜空のように、漆黒の暗幕の上にはまばらに行き交う船の明かりだけが朧気に光る。振り返り、今度は内陸側に目を向ける。文明以前の夜空のように、眩い光のカーテンが大地にそっと横たわり、地平線まで続いている。かつて塩害で壊滅的な被害を被った東京の旧沿岸部にも、再びネオンの加護は届きつつあるようだ。

 対照的な二つの世界の狭間。暴発しても、物を海に落とすだけ。見られる心配も、誤って他人の体内に物をテレポートさせてしまう恐れもないここは訓練場所として持ってこいで、中学に入ってからは時折夜に忍び込んでいる。同時に、二つの世界の狭間のようなこの場所は空撮のし甲斐に満ち溢れているものの、その対比を一画面に収めるためには、わたしの持っている三十五ミリ広角レンズでは画角不足のようで、まだSNS上に投稿できるような納得のいく撮影はできていない。

〈テラ〉と心の中に呼びかける。カチューシャ型端末に搭載された脳波リーダーはわたしの脳波のパターン認識を行い、ノイズの中から呼びかけの意思表示を読み取り、ネットワークを介してAIアシスタント〈テラ〉にリンクする。

「おはよう、真弓」

〈AE〉から、〈テラ〉の無邪気な声が届く。

 現在時刻は、と考えると、「午後九時二十三分」と帰ってくる。そこまで超朝型人間になるつもりはないんだけど、と毒づくと、何事もなかったかのように〈テラ〉は言い返した。

「こんばんは、真弓」

「〈ナビゲーテル〉のインストールは終わってる?」

「ばっちりだよ」

 マコフスキーの法則によれば、テレポートの力を構成する四要素は「重量ウェイト」、「距離ディスタンス」、「精度アキュラシー」、そして先のテレポートからの時間の「間隔インターバル」だ。このWIDAの四要素はトレードオフの関係にあり、テレポート物体の「重量」を増やそうとすれば、別の三要素を犠牲にしなければならない。ただし、重量を同じだけ増やしても、他の要素をどれくらい犠牲にしなければならないかは大きな個人差がある。重量型テレポーターの場合は、距離や精度をあまり落とすことなく重い物体をテレポートさせられるし、わたしのような精度型テレポーターの場合は重量を上げようとすると一気にテレポート距離が落ちる。だから体重の増加が何よりの大敵なのだ。極度のやせ型を維持できるからこそ、わたしは「強力」なテレポーターの座にしがみついていられる。そして、これらの四要素がどれ程高いバランスでパフォーマンスを発揮できるかを示すスコア、すなわちテレポーターの総合力を数値化したものがMIだ。考案された十五年前の段階で平均的な力のテレポーターのMIを五十となるよう正規化しているが、ネイバーフッドの年次レポートによれば、MI平均値は毎年上昇を続け、昨年、ついに六十の大台を突破したという。

〈ナビゲーテル〉は脳波リーダー、コンタクトディスプレイ、〈AE〉、電磁波照射器などの複数のデバイスを連携させることで初めて機能するMDAマルチデバイスアプリの一つで、AIアシスタントの拡張機能という形式で販売されている。ネイバーフッド社のMIテストスコアを基に、暴発することなく安全にテレポートを行える条件を逐一モニターしてくれる。テレポート先の目標地点や目標物体を決めると(脳内で念じるだけでいい)、精度がプラマイ何センチかをAIアシスタントが〈AE〉経由で囁いてくれる、あるいは視界にモニターしてくれる。特定の物体を特定の位置に指定した精度で送るためには一体どれほど目標地点に近づかなければならないかという情報も教えてくれる。

 こういったことを、今までテレポーターたちは自らの経験に基づいてやってきていた。マコフスキーの法則が完成してからは、テストスコアをもとにある程度目途は立てられたし、有志が作ったアプリも多くあった。ただ、ノイズキャンセリングの難しい脳波リーダーを組み込んだMDA作成は一個人には難しく、AIアシスタントに情報を渡す手段として、発話や端末への入力などが用いられていた。しかし、それでは瞬時の判断サポートは到底できず、長く定着したものは一つもなかった。他にも、WIDAの四要素の測定を高精度で行うことの難しさも大きな障壁だった。目の前にある物体の重量をどうして見ただけで分かるというのか。

 しかし、ネイバーフッド社がIT大手と共同で開発した〈ナビゲーテル〉には、マコフスキーの法則を実践レベルで応用するため、これらの問題を解決すべく様々な先端技術が惜しみなく投入されていた。

 まず、テレポート対象物体の重量計測だ。それが人間であれば、画像認識によって個人を特定し、体重データの取得が可能であれば取得を、そうでなければ体格などの外面情報からプラマイ一パーセントの精度で体重を推定できる。(新時代のアイドルは体重をごまかせない)その後、衣類の重さもスマートウェアであれば、アクセスをかけると重量データは返ってくるし、旧来の非スマート衣服であっても、画像認識や電磁波照射器から放った各種電磁波の反射率測定による材質判定から、高い精度でメーカーと商品を特定することができるという。

 人間でなくともやることは同じ。市販の商品であればネットワーク経由で重量を取得し、そうでなければ電磁波による材質判定を行って重量を推定する。さらに、〈ナビゲーテル〉利用者の重量推定の結果とテレポート結果とを照らし合わせたものを統計処理することで、これらの重量推定アルゴリズムはこれからも日々進化していくという。

 続いて、距離も複数の機器を連携させて測定することができる。テレポートの目標地点は脳波リーダーで掴んだ概計をコンタクトディスプレイによる視線分析で補正し確固たるものとし、後はその地点との距離を、両眼のコンタクトディスプレイが受け取る視差、あるいは電磁波照射器搭載のレーザー距離計によって取得できる。

 精度については脳波リーダーによる読み取りを基軸に行う。ダイレクトに精度を脳波で指定することは難しいので、予め頻繁に使う精度と、それを意識した時の脳波パターンを学習させておくことで、必要に応じて高速で精度の指定ができる。後はダイヤルを回すことを脳内で意識することで、ノイズに振り回されることなく微調整が可能となっている。

 間隔も脳波リーダーとGPSによって読み取る。テレポーター実行時の特徴的な脳波パターンが検出された時刻、急激な場所転移が見られた時刻を逐次記録することで、マコフスキー方程式の変数に代入するテレポートの実行ログは得られるという仕組みだ。

 現在はまだ未対応だが、脳内へのナノマシンインプラントを行うことで、脳内の血流量と化学物質の濃度を随時モニターし、四大要素以外にテレポートのパフォーマンスに僅かに影響を与える要素についても、マコフスキー方程式に組み込むことも予定されているという。つまり、〈ナビゲーテル〉は単にテレポーターのリアルタイムサポートをするに留まらず、そのデータの集計、分析によるマコフスキー方程式そのものの改良を通して、テレポーターによって〈ナビゲーテル〉そのものも進化していくというインタラクティブなシステムとなっている。

 このマコフスキー方程式のチューニングは向こう二年以内の実装予定とのことだが、どうせナノマシンのインプラントは二十歳以上でないと認められていないのだから、わたしにはしばらく関係ない。

 こうして集められたデータを、個別にチューニングした自分だけのマコフスキー方程式に代入して得られる数値はすべてコンタクトディスプレイ、あるいは〈AE〉を経由して使用者に送られる。

 その間なんと三百ミリ秒。特定の条件で、どれくらいのパフォーマンスを発揮できるかを〈ナビゲーテル〉は事実上一瞬で教えてくれる――こうして、テレポーターのリアルタイムサポートAIの極致がようやく世に放たれた。

 ベータテストが行われたアメリカでのユーザー評価は上々で、暴発が激減し、安全なテレポートができると共に、能力の訓練にも役立つという声が多いとのことだった。

 ――〈ナビゲーテル〉を買いたいんだけど、これ、父さんには頼めなくって。

 一年前、わたしがそう言ったとき、母は渋い顔をした。六桁の大台に乗るこのアプリケーションは一介の高校生の手に出る額ではない。

「そんな得体の知れないもの、なくたって私はテレポーターになれたよ」

 テレポーター産業もまだ下火だった二〇二〇年代、テレポーター能力の効果的な訓練法についての知見も不十分で、わたしは力のすべてを母に教わっていた。暴発を防ぐ経験則。人目につかないための隠蔽テクニック。そして、テレポーターとしての矜持。しかし、小学校五年生のとき、わたしが自分自身のテレポートに成功したとき、その師弟関係は終わりを迎えた。テレポーターの八割は自分自身すらテレポートさせることができない。母もその例外ではなかった。わたしが自らの殻を破るためには、母に代わる新たな師が必要だった。だが、それは同時に鳥籠からの脱走をも意味する。母が快く了承するはずもなかった。

 とはいえ、この話をした十五のわたしは、頭を使うことを覚えていた。母を説得するために、わたしはAIアシスタントの月額制拡張機能〈ソフィスト〉を契約していた。母の会話を数か月に渡って〈テラ〉に学習させ、思考パターンや価値観を分析し、その人に最も響く殺し文句を提案する。それも、ただ会話文の一例を作成するのではなく、会話の最中に、会話を聞き取りながら、最適な返答を〈AE〉やらで教えてくれるリアルタイムインタラクティブアプリケーションだ。

 一年前のその日、わたしは〈テラ〉の言うままに、母の言葉を以て、母と対面することにした。

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