8:〈ゼウス〉の試練
最初、〈ナビゲーテル〉の購入を母にお願いしたとき、わたしの心中には少なからず興味本位でという気持ちがあった。有志が作成したテレポーターサポートアプリはいくつか利用してみたことがあったが、どれも実用に足る代物ではなくて幻滅するばかり。ネイバーフッド社も今までそのようなアプリケーションをリリースしておらず、わたしは少なからずネイバーフッドがテレポーターに見限られるのを怯えていると思っていたくらいだった。開発には着手しているとの情報は前々から出ていたが、一年前、遂に一年後のリリースが決定したとき、わたしの心中は期待半分、冷やかし半分だった。
だが、状況が変わったのは一か月前。既に先行予約を終えていたわたしのもとに「彼女」が現れて、そして言った。
――ノブリス・オブリージュという言葉を知っていますか。
あろうことか、「彼女」はわたしの力を社会のために役立てないかと誘ってきたのだ。昔に比べれば、直接命を狙われることは少なくなったかもしれない。とはいえ、サンパウロで反テレポーター派の犯罪を裁いたために襲われた裁判官も結局命を落としたし、わたしの身近なところにも、テレポーターに反感を持っているような素振りを見せる人もいる。
だから、「人間」の仮面を外すことなど考えられなかった。わたしは仮面を被ったまま生きて、仮面を被ったまま死んでいく。それがたとえ息苦しかったとしても。後代のテレポーターが同じ息苦しさを味わうことになったとしても。
それに、わたしだってこの現状に甘んじているばかりじゃない。訓練を欠かした週はない。時には母の言いつけを破りながらも、わたしは自分の力を高めることだけにすべてを注いできた。すべては、月だけが昇る夜空を取り戻すため。仮面を被らずに済む世界を掴み取るため。
今や、この〈ナビゲーテル〉は茶化すための玩具ではなくなっていた。わたしという、脇坂真弓という一人のテレポーターの塩基配列の限界を引き出すための媒介。わたしの行く先を導く
弾いた針が行く先を指し示すように、コンタクトディスプレイに同期した〈ナビゲーテル〉が、まるでVRゲームのような洗練されたUIを視界に表示させてくれる。MI値。
目の前にあるテトラポットの破片を見やる。海岸で拾ったものだ。それがテレポート対象であると念じ、目線を強く送ると、〈ナビゲーテル〉はそれをテレポート対象と認識し、その輪郭を覆うように赤いラインが視界に出現した。検索を始めたのかと思ったのもつかの間、そのテトラポットの完璧な姿の縮小版が視界の端に出現する。セーブコースト社製64t型。そして視界中央、その物体と重なる位置に重量四十二キロと表示されていた。
わたしのMIは八十一とかなり高い部類にあったが、女性テレポーターに典型的な精度重視型のテレポーターで、数百メートルの長距離テレポートや数十回の連続使用にも耐えられるものの、重量への感度が著しく高い。少しでも重い物をテレポートさせようとすると途端に他の三要素を削らざるを得ない。テレポート可能重量の限界はおおおよ五十キロだし、自分自身のテレポートでさえも、食後か否かでパフォーマンスは大きく変わる始末。
テレポート対象を決めた後は、今度はテレポート先を決定する。視線を遠く、赤いランプの列の合間に向けると、視界の中に天気予報の予報円のように誤差範囲を現す赤い半透明の球体が出現する。脇には誤差範囲三十センチと記載されている。ヘルプメッセージを呼び出すと、九十五パーセントの確率で、わたしはこの物体をその球体内に転移できるそうだ。
頭の中で設置した目標テレポート先を手前に移すと、誤差範囲を現す球体は一気に小さくなり、逆に遠ざけるとどんどん精度が荒くなり、百四十メートルを超えたあたりで、球体は爆発し、テレポート不可、という文字が大きく視界に現れた。
わたしは再び、テレポート先までの距離を近づけるよう念じ、球体の半径がプラマイ1メートルになったところ、ここからの距離百三メートルで固定する。
意を決し、テレポートを実行する。目の前にあったテトラポッドの破片は消えていた。すぐには視認できなかったが、〈ナビゲーテル〉の画像認識とレーザー距離計がテレポートされたテトラポッドを補足した。遥か遠く、肉眼では闇に飲まれて見えない位置にあるそれを〈ナビゲーテル〉は見つけ出し、その輪郭を、闇夜に浮かぶ紅蛍のように、赤く染め上げる。
視界の端に表示される。誤差マイナス四十三度方向に三十六センチメートル。上々だった。
それから、わたしは〈ナビゲーテル〉の提言がどこまで正しいかを試したくなった。誤差範囲内に収まるのかを、条件を変えては試し続けた。当然、「
ふとわたしは思い当たった。〈ナビゲーテル〉はわたしが確実にテレポートできる範疇だけを攻めているのだと。それなら、高度な分析AIなんていらない。ただ、能力の上限を低く見積もればいいじゃないか。
ただ、十三回目のテレポートで、遂に破片は球体の僅か外側に転移された。わたしは〈テラ〉に訊いた。
「九十五パーセントを十二回連続で引き当てる確率は?」
「五十四.0パーセント」
思った程高くはなかった。癪だったので、〈ナビゲーテル〉の予測精度の粗さが統計的に有意であることを証明してやろうと、データの収集を〈テラ〉に命じた。ただ、〈テラ〉は冷静に答えた。
「真弓のテレポート持続力じゃ、限界の限界までやっても、今日だけで必要なサンプル数を集めることはできないよ。それに、僕にインストールされている基本統計パッケージじゃ、〈ナビゲーテル〉のサーバーにある業務用の統計処理AIに到底太刀打ちできない」
「分かったよ」
わたしは口をとがらせて、数十メートル離れたところに打ち捨てたテトラポッドのところにテレポートした。
〈ナビゲーテル〉標準搭載の機能の一つに、一部のテレポーターだけが使える応用テレポート「位相破壊」の補助機能がある。今度はそれを試す番だ。
テレポートとは物体の、座標Aから座標Bへの写像だ。そして通常のテレポートは物体の位相を完全に保持した状態で行われる。つまり、テレポートされた生物はその生理機能を問題なく発現させることができ、精密機械でさえも故障なく動作する。しかし、自分の限界を超えたテレポートや不適切な座標設定を行うと、その写像が上手くいかず、テレポートは暴発し、対象物体に機能不全を引き起こすことがある。生物なら死に、機械なら壊れる。
そしていつだって、理学的な現象は工学屋によって応用される。マコフスキー方程式やMIのプロトタイプ発案者である故マコフスキー教授は晩年、反テレポーター派による暗殺前夜まで位相破壊の応用を研究していた。
そうして、高度なテレポーター向けの技がいくつも開発された。
その一つが位相破壊〈断裂〉。転移元の座標Aを意図的に誤認することによって、対象物体をテレポートと同時に真っ二つに切り裂く。未熟なテレポーターがよくやる暴発の一つだが、適切に座標の誤認を行えたなら、この暴れ馬を手なずけることができる。その手綱を握れるのは、ノールックテレポートの使い手のみ。対象物体から目を反らしながら、適切に適切な座標設定をできるテレポーターだからこそ、適切に不適切な座標設定もできる。
この技は〈ゼウス〉こと〈粛清者〉の得意技とされている。エウロパの転移や〈新人類同盟〉の幹部たちの〝串刺し〟の印象が強い〈粛清者〉だが、その者の〝粛清〟の跡地には必ずといっていい程、一刀両断された鉄骨や壁面、廃車、そして死体があった。高度なテレポーター同士の戦いは奇襲一発勝負。〈粛清者〉は周辺環境ごと、危険なテレポーターを一閃していた。
不完全な位相破壊〈断裂〉であれば、このわたしも小さい頃から頻繁に世話になっていた。たとえば、移動教室の際に自分の机の中に忘れたままにした教科書を召喚しようとした時。机の引き出しの底面からの距離を測り間違えて、転移元の座標を誤認した。足元に呼び寄せた教科書は後半のページがごっそりと抜け落ちていた。いじめられた仕返しに、悪ガキのタブレットを真っ二つにしたこともあった。
しかし、これを制御して自分の意図通りにできたと実感した試しは一度もなかった。所詮は暴発の悪用止まり。いつだって、〈断裂〉した物体の断面は、〈ゼウス〉のように一刀両断とはいかず、切れ味の悪い鉈で叩き割った後のようにぐちゃぐちゃだった。
高校生になり、ノールックテレポートの精度が上がってからは、それなりに手なずけるようになったとはいえ、まだ断面は研磨された石のようにはならない。しかし、〈ナビゲーテル〉のデモ映像には、わたしと同程度のノールックテレポート使いが、岩を綺麗に一刀両断する場面があった。その力がわたしのものになるのだと思うと、胸が躍った。わたしはまた一歩、〈ゼウス〉に近づくことができる。〈ゼウス〉の置き土産を消し去り、月だけが昇る夜空を取り戻すことができる。
わたしは目の前にあるテトラポッドの破片に目を落とした。脳波を介して〈ナビゲーテル〉に命じる。
補助シークエンス起動。――位相破壊〈断裂〉。
わたしの目の前にテトラポッドの破片は二つあった。
恐る恐る近寄り、その断面に指を這わす。高圧水流で切断し、研磨剤をかけた後のような滑らかさに、思わず鳥肌が立った。
完全な位相破壊〈断裂〉を、わたしがやり遂げた。
その事実に武者震いが止まらなかった。水平線に浮かぶ、下弦のエウロパの光も眩しいとは思わなかった。
数分前。
補助シークエンスを実行すると、視界のUIカラーが赤色から青色へと様変わりした。
〈ナビゲーテル〉は対象物体のテトラポッドを認識し、断面設定を求めてきた。視線インタフェースと脳波ダイヤルで適当に断面を設定すると、〈ナビゲーテル〉はその断面を生み出すための適切な誤認座標を演算する。
演算結果の提示には一秒とかからなかった。すぐに、コンタクトディスプレイが不透明度百パーセントの靄を視界の中心に出現させ、テトラポッドを隠した。何をやろうとしているのか、わたしは直感した。擬似的なノールックテレポート環境の生成だ。それならば、ノールックテレポートができないテレポーターであっても、位相破壊〈断裂〉が使えるようになる。〈断裂〉は最早ノールックテレポーターの専売特許ではなくなる。しかし、それを不安には思わなかった。他のテレポーターたちが階段を一段昇るのであれば、わたしは更にもう二段昇れば済むこと。それだけだ。
勘は的中した。靄の上に上書きするように、テトラポッドの青い三次元輪郭が視界に出現する。その輪郭の座標は、靄の向こうにある本物の破片のそれとはわずかに異なって見えた。
その仮構テトラポッドを、同じ座標にテレポートせよ、と〈ナビゲーテル〉は指示を出した。わたしはその通りに行った。
やがて靄が晴れる。わたしの目の前には、真っ二つになったテトラポッドが転がっていた。
そこからのわたしは水を得た魚のように、高鳴る鼓動のままに自分の力を試し続けた。やがてテトラポッドは粉々になり、視界には〝オーバーヒート〟の警告文。
「真弓、無理しないで」
〈テラ〉が心配そうな声で囁いた。〈ナビゲーテル〉の処理に〈テラ〉は関与していない。〝オーバーヒート〟状態を感知したとは思えないから、恐らくわたしの心拍数の異常を検知したのだろう。
「無理しないで、なんて無理を言わないで」
「僕に、真弓が倒れたって救急に通報させるつもり?」
無邪気な少年の柔らかで切実な声が、凝り固まった筋肉の内部にテレポートされる。わたしの張り詰めた頬の筋肉は緩んだ。
「でも、まだ足りないの」
わたしは足元に散らばる破片を見下ろした。さいころのように滑らかで平坦な断面を持った石片が転がっている。再び顔を上げて、水平線に浮かぶ下弦のエウロパを睨んだ。
〈ナビゲーテル〉が画像認識で対象を認識し、視界の端にその名を表示させる。
まだだ。まだ。
わたしの力はあの凶星には届かない。でも、いつの日かわたしはあの星を元いた場所へ戻してみせる。あれは〈ゼウス〉がわたしに課した試練。十
「精が出ますね。脇坂真弓さん」
背後からの声――と〈AE〉が認識させた――がわたしの背中をなぞる。
振り返った先には、雪のように白く輝くスーツに身を包んだ黒人女性の姿があった。
「
わたしの毒づきを「それは失礼」をひらりと躱す。
「ですが、今日の私は〈ナビゲーテル〉標準搭載のヘルプアシスタントAIとしてあなたの前に現れています」
呆れて物も言えなかった。〈ナビゲーテル〉は監視アプリか。わたしのテレポートログも、脳波ログも、すべてこの女に見られていた? 皮膚の裏側を舐めまわされたかのような悪寒が走った。
わたしは仏頂面の仮面を被り、吐き捨ててやった。
「一体何の用、ヴィオラ」
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