5:加護あるいは呪詛

 ――あなたにはね、兄がいたの。

 母がそう告白したのは、いつのことだっただろう。その記憶と結びついているのはルイボスティーの香りだから、父がヨハネスブルクに頻繁に出張に行っていた二〇二八年あたり、わたしがまだ八歳だった頃。

 当時のわたしは未熟なテレポート能力の持ち主で、蟻の巣に花火を突っ込んだり、蛍の光の色を変えたり、道に転がるコウモリの死体をいじったりすることに何ら抵抗のない純粋な残酷さを持つ少女だった。その少女がヒトと蟻とを同列視しないよう、母に訓練をしてもらう傍ら、テレポーターとしての矜持を叩き込まれていた。

 兄はわたしよりも三つ年上で、彼のX染色体上は母曰く、「特別製」だった。わたしが三つになるかどうかの頃、兄は体調を崩した。特別製の遺伝子が男性にだけもたらす試練だ。その試練も佳境に差し掛かった頃、それまで耐えていた兄もとうとう息が途切れた。能力が暴発し、近くにいたわたしの掌に重なる位置に、床に転がっていたビー玉が転移されてしまったらしい。兄はそのまま息を引き取り、ビー玉の摘出を終えたわたしの右掌には円形の痣が残った。母は言う。

 ――それはね、海が生きた証なのよ。

 偶然か必然か、わたしに能力の発現の兆候が見られたのは、それからすぐのことであったという。


 わたしが鳥籠の中で大人しくしていることを母が望むのは、わたしに流れる血の中に兄を見出しているからだ。

 特別な存在だと言われて育ったわたしは、今から思えば鼻もちならない少女だった。運動会での楽しみは、玉入れで友達が玉を投げ入れようとして、外すのを見ることだ。わたしなら、入れようと思った次の瞬間には、過程をすっ飛ばして、入ったという結果だけを後に残すことができる。そんなことは造作もない。なのに、友達は皆、必死こいて汗を流しながら何度も何度も外し続ける。もちろん、多くの人が見ている前で力を使うのはもっての他だし、わたしも努力して努力して失敗する様を再現しようと試みた。結局、負けて、一個も入れなかったわたしはクラスメイトになじられた。一応、しゅんとした仮面を被ってみせるも、その裏で、わたしは笑みがこぼれ落ちそうなのを必死にこらえていた。

 虹色蛍の作成に躍起になったり、今のご時世には珍しく紙の本を好んだり、下校中にコウモリを追っかけたりと、わたしの趣味は夜空に浮かぶエウロパのように周囲の目を引いた。そして華奢で背が低くて、物静かで、言い返すことをあまりしない。その上、正確無比なテレポートと高難度のノールックテレポート――対象を見ずに行うテレポート――を早い段階で習得していたわたしは、文具や持ち物といった物の配置に過度に拘る傾向にあった。ノールックテレポートを成功させるためには、脳内の配置イメージと実物の配置が完全に一致していなければならない。ミリ単位のずれも成否に大きく影響する。だから、ペンが固定されるタイプの筆箱なら開けずともそれを手に握ることができるし、ランドセル内の教科書の並び順を決めておけば、移動教室先で必要な教科書を教室に忘れたことに気が付いても問題ない。理科の移動教室の際、一度だけわたしは必要な教科書を教室に忘れてしまったことがある。机の中に入れた教科書をリストアップし、対象の教科書が下から何番目か思い出す。六番目。底面からの合計距離は――二十七ミリ。こうして、数十メートル離れた教室内に置かれたランドセルの中から、ピンポイントで必要な教科書を足元に転移させることができた。

 ただ、その配置に拘る姿勢はきっと神経質な印象を与えたことだろう。悪ガキの目にとまるのは必然だったし、その上失敗の物まねは彼らにいじめの口実を与えていた。鉛筆の配置をいじられたり、ノートに落書きされたり、タブレットのバッテリーを抜かれたりは日常茶飯事。

 掌の月もからかいの的だった。その上、右手の中指の運動神経を破損していたわたしは箸を握るときも、ペンを手に取るときも、中指だけをピンと張った状態だっただけに「中指立てんなよ」と恐れられた。十歳になって神経再建手術を受けることができたものの、箸やペンを正しく持てるようになるのは小学校も卒業する頃だった。だからわたしはいつの間にか、右手だけ甲を上にする癖がついていた。

 それでも、わたしがそんな状況を変えようとしなかったのは、母がくれた魔法の言葉がわたしを守ってくれたからだ。自分は彼らに絶対に負けるはずがないという「加護」は、すべての受難を跳ね除ける。

 低学年の頃は、授業やテスト中にいじめっ子の鉛筆を見つかるはずもない場所――たとえば壁の中――に隠したり、タブレットの中にシャー芯を転移させてショートさせたり、あまりに腹立たしい時はタブレットを真っ二つにしてやったりといった仕返しをしたものだが、高学年になって、少なくとも「大人」になったと当時思っていた時には、わたしは一切の仕返しをしなくなっていた。やり返すまでもない。彼ら弱者は、自らこそ強者と己を鼓舞することでしか自尊心を保てないんだ。真の強者は自らの力を誇示しようとしない。わたしは誇示をしないことで、自らの強さを誇示していた。加護故に、わたしは無敵だった。何を言われても、何をされても、心は微塵も傷を負わない。やがて、彼らはわたしへの興味を失い、関わらなくなる。その時が訪れる度、わたしは自らこそが強者であることを知った。

 そんなわたしに、仲の良い友達はいるはずもなかった。だから一番の苦痛は、誕生日だった。外資系のコンサルティングファームに勤める父は世界のあちこちを飛び回っており、家にはほとんどいなかった。そのせいか、どこの国の流儀か知らないが、誕生日パーティなるものをする文化の持ち主のようで、センスのない誕生日プレゼントの代わりにその写真を要求してくるのだ。今年はやらないと言った暁には、友達の作り方やら人の誘い方やら日常生活で使える心理学やらの本の電子書籍版がわたしのアカウントに大量にプレゼントされた。けれども、彼の中にある「女の子はピンクが好き」というイメージに反して、わたしが一番好きな色は紺色であるし、わたしは書籍に関してだけは、紙派という古風なこだわりを持ち続けている。あれで娘の家庭教師を篭絡させる程に女性を口説くのが上手い、というのが信じられない。ともかく、彼の与える餌には釣られるふりをしておくのが一番だと学習していたわたしは、例年とあるサービスにお世話になっていた。

 パーティ画像・映像作成代行サービス〈ビーザスター〉だ。登場人物及び舞台となる場所の映像、そしてストーリーのプロットを送ることで(プロットの外注もオプションで可能だったはずだ)、さもそこで自分が主役のパーティが催されているかのような写真や、ホームビデオ風の映像、SNS向けの短時間動画、果ては追体験型の五感VRコンテンツに至るまで、様々な形のコンテンツをAIが自動作成してくれるという代物だ。わたしは毎年、父がその前年にくれたピンク色のけばけばしいガラクタを売って得た二束三文のお金に小遣いを付け足して(この点が最高に癪だった)、そのサービスを利用していた。当然、安価なホームビデオ風の映像だ。作られた映像の中でわたしは気のおけない架空の友人たちに囲まれて笑っている。父がくれた誕生日プレゼント(翌年の〈ビーザスター〉利用料に充填予定)を、わたしは嬉しそうに抱え、友人たちに自慢している。羨ましがる友人。父のセンスを褒める友人。笑顔が飛び交う、幸せに満ち溢れた光景。楽し気に響くハッピーバースデイ。その映像を、吐き気と戦いながら確認して、父に送ったものだった。ハッピーバースデイはわたしの一番嫌いな曲になった。

 わたしは自分自身を事実上の母子家庭の子と認識し、父は年に一回やってくる自然災害のようなものと思っていた。そんなものだから、わたしの関心事は母をどうしたら喜ばせられるか、だけになっていた。父は何も知らない。あなたの妻と娘がテレポーターであることさえも。だから、すべてはわたしと母の間で完結していた。だから、母の喜ぶ顔を見たさに、わたしはますます情動と思考とを切り離すようになった。ただ、一つだけ、わたしの心を揺さぶり、安寧の地盤を根底から揺るがすものがあった。わたしが小学校五年生のとき、いじめっ子に突き飛ばされて膝を擦りむいたときのことだ。

 わたしはやり返さなかった。立ち上がると、泣くことも、起こることもせず、真顔で、犯人の眼をまっすぐと見やる。そして言った。

「脇坂真弓は伊藤くんに押されて怪我をしました、って担任の先生と君のお母さんに言おうか。脇坂真弓はやめてやめてと叫んだけれど、伊藤くんはそんな声を無視して怪我をさせた。そうやって喚き散らかしてやろうか」

 痛みなど気にならなかった。むしろ大人っぽい対応をしている自分に酔ってすらいた。これこそ、相応しい態度だ、と本気で錯誤していた。実際、彼は人間ではないようなものを見るような目つきでわたしを見た。その時にはもう、わたしは彼への興味をなくしていた。どうせ、彼がわたしを以後怖がることは目に見えていたし――実際そうだった――大人の対応ができたね、と母は褒めてくれるに違いないと胸を膨らませて、鼻歌を歌いながら一人、下校した。赤く滲む膝小僧は名誉の負傷であり、同時に勲章でもあった。

 チャイムを鳴らし、ドアを開け、ただいまと声を張る。それを包み込むような優しくて、暖かなおかえり、の声。ただ、その母の笑顔は、彼女の目がわたしの膝小僧に向いた瞬間、跡形もなく消し飛んだ。

「真弓、どうしたの、その怪我」

 興奮のあまり、母の表情にも、そしてきっとその声が震えていたことにもわたしは気づいていないはずだった。わたしは嬉々として説明した。そして自慢げに言った。

「怪我をさせられても、平然とできたんだよ!」

 母の返答は平手打ちだった。

「何を言ってるの、真弓! 大切な血を流すなんて一体何を考えてる訳? この血の中には海も、あなたの兄もいるの。兄を殺すつもりなの?」

 それから、母は哀れな子を悼む目を、わたしの患部に向け続けた。そしてそこから流れ出る血を丁寧にふき取りながら、わたしの膝に向かって話しかける。

「痛かったでしょ、海。もう大丈夫、大丈夫だからね」

 彼女は、最後までわたしの目を見なかった。

 わたしを守るはずの大いなる加護が、わたしの頬を穿ったその日。わたしの中に築かれていた加護への絶対的信頼に、微かにひびが入った音がした。

 それから時を経て、「加護」が、わたしを守る呪文が、わたし自身にかけられた呪詛であると気づいたときにはもう遅かった。既に、わたしの居場所はネオンの海から突き出た高層ビルの屋上だけになっていた。足を投げ出して、蟻のような人々を見下ろすときが心の中にしじまが訪れる時。彼らとつるむ気にもならず、かといってその巣に花火を突っ込む気にもならず、学校の授業も退屈で、小学校生活最後の一年間、わたしはほとんど学校にいっていなかった。三色蛍に覚えた興奮もどこかに置いてきてしまった。絶滅寸前だったコウモリもとうとう絶滅し、夕刻にそれを追っかけたり、道端でその死骸を拾ったりすることもなくなっていた。当時は自分自身のテレポートができるようになって間もない頃で、母の言いつけを破っては外の世界をまさしく飛んでばかりだった。ただ、それでも中学受験で都内の女子高に受かったのは、見かねた母がどこかから連れてきてくれた家庭教師のお陰だった。松村さんは、わたしが最も感謝の念を抱いている人物だ。残念なことに、彼女の方から連絡を絶ってしまったから、もう会うことは叶わない願いだろう。ただ、願わくば、わたしは彼女にお礼のプレゼントでも送ってあげたい。わたしが今、辛うじてこうやって学生をやっていけているのは、忘れかけていた科学への興味を彼女が思い出させてくれたからだ。そして、彼女が後に及ぶことになる愚行が、わたしの目を完全に覚まさせてくれたからだ。

 プレゼントには何がいいだろう。必ず陽性という結果が出るドッキリ用妊娠検査薬なんていいかもしれない。実在するか調べようと思ったが、あまりにも不謹慎で、その時ばかりは自分の性格の悪さを心から反省しようと思った。

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